2009
06.10

「日本文学特論Ⅱ」(日芸大学院講座)坂本綾乃(連載7)

ドストエフスキー関係, 日本文学特論Ⅱ

「日本文学特論Ⅱ」(日芸大学院講座)坂本綾乃(連載7)
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内田魯庵訳『罪と罰』

「日本文学特論Ⅱ」(日芸大学院講座)坂本綾乃(連載7)
「マルメラードフの告白」について
坂本綾乃



「日本文学特論Ⅱ」(日芸大学院講座)坂本綾乃(連載7)
「マルメラードフの告白」について
坂本綾乃

 ラスコーリニコフが酒場で出会った酔っ払いマルメラードフ。『罪と罰』を読んで早々に読者はこの男を目にする。彼に対して哀れみや、軽蔑、など様々な思いをこの男に対して抱くだろう。私もそうだった。しかし初めて『罪と罰』を読破してから4年が経った今、改めて読み返してみた。マルメラードフに対して抱く感情は変わらぬものと思っていたが、「どうしようもない男」ではあるものの、哀れみや軽蔑を通り越してなぜか、彼をとても愛しい男、どうしようもなく愛すべき存在であるように感じたのだ。
 
 Ⅰ、マルメラードフと言う男
 ラスコーリニコフが踏み入れた酒場で、出会ったマルメラードフ。ラスコーリニコフが彼に対して受けた印象は「まるで、一面識も無い相手なのに、一目見るなり、まだ言葉もかわさぬ先から、なにかこうふいに関心をそそられてしまう人間がいる」といったものに近かったとある。そういった経験を私もしたことがあるが、そういった人と出会ったときは、周りにどれほど多くの人がいたとしてもその相手を無意識にロックオンしてしまうのだ。実際に話してみても、そういった第一印象は長い間つきまとう。第一章の最後に「彼も、何か、落ちつかぬふうにみえた」とあるように、ラスコーリニコフも直感的にマルメラードフに対して同属の匂いを嗅ぎ取ったのだ。
 マルメラードフの容姿については、細かく書かれている。ただの酔っ払いに過ぎないであろう男をここまで細かく描写することで、マルメラードフの存在を視覚的にもよりはっきりと認識することが出来る。しじゅう酒びたりのためにむくんだ顔の色、はれぼったい瞼の間にのぞく小さくも妙に熱を帯びた赤い目。眼差しには、勝ち誇った輝きさえも見え、同時に狂気じみたものもちらつく。ここに注目するならば、マルメラードフは性質の悪い酔っ払いだ。居酒屋でくだを巻くおっさんをなんとなく思い浮かべてしまう。しかし、みょうちきりんな服装にのぞく紳士のたしなみらしきものによってマルメラードフがギリギリのラインを保っているようにも感じる。いくらラスコーリニコフが「何かの新しい変化が彼のうちに生じ、むしょうに人恋しさがつのってきた」と言ってもマルメラードフのような酔っ払いに惹かれたのは、やはりラスコーリニコフが何かを求めていたことにも繋がるだろう。
 
Ⅱ、悲しみと酒
マルメラードフを酔っ払いとして登場させたドストエフスキーの意図は、訳注にもあるようにロシアのことわざ、「眠っている男と酔っ払いは、神の意思のまま」「酒の中に真理あり」などによるだろう。
確かに、酒を飲むと人は変わる。中には変わらない人も稀にいるが、大概の人が酒に飲まれる。「酒は飲んでも呑まれるな」とは上手くいったものだ。私も酒が好きで気付いたら朝8時になっていたなんてこともあるが、私はマルメラードフのようにはなっていないはずだ。なぜなら周りの一緒に飲む仲間がマルメラードフ化することで、話好きの私が口を挟ませてもらえない。飲めば飲むほどに、人は様々なことを語りだす。聞いていないことまでも、「聞いて、聞いて」と話し出すのだ。毎日のように酒に浸っていない人間ですらそうなってしまうのだから、マルメラードフはなおさらだろう。彼はいわば常に酔っ払っている状態なのだ。
「眠っている男と酔っ払いは、神の意思のまま」つまり正気ではない状態だと言った意味だが、マルメラードフが、正気でない状態でいることによってラスコーリニコフとの対比が生きてくる。ラスコーリニコフがなるかもしれない、未来の自分がそこにいるのだ。しかしラスコーリニコフは、マルメラードフのように酒に逃げて自分を失うことは、彼が持つその高すぎるプライドゆえに出来ない。自分のもしかしたらの未来の姿が目の前に現れたなら、その存在にどんどん引き込まれていくだろう。
マルメラードフが「私が酒を飲むのは、この酒のなかに苦しみを、共感を見出そうためなんです…私はね、つねの倍も苦しみたいからこそ、飲むんですよ!」と傍から見れば酒に逃げているような彼も、逃げると言うよりは何かを見出すために酒を浴びていると言うのだ。マルメラードフの行為はあまりにもマゾヒズムにとんでいる。酒は飲むことで気持ちが高ぶって、気持ちがよくなってくる。しかし度を越すと間違いなく体は何らかの異変をきたしてしまう。マルメラードフも顔が浮腫むなど明らかな変調をきたしながらも、酒をやめられないと言うよりやめない。体を痛めながらもたどり着きたいのは、その原因とも言える酒のなかにあるというのだから始末におえない。
マルメラードフの行動は彼自身だけでなく、妻や娘たちにも被害が及ぶ。もちろん彼もそのことをよくわかっていて、嘆く。娘のソーニャが体を初めて売ってきたその時、彼は寝ていたという。しかも酔って寝ていて、挙句そのままソーニャが帰って来てからの一部始終を見ている。酔っているといいながら、自分の目でしっかりと娘が体を売ってきた事実を見ている。マルメラードフはあまりにも弱い。そんな彼に対してソーニャの存在はある種の強さを感じてしまう。マルメラードフが再就職してもほんの僅かなときをおいて、またしても酒に逃げてしまった後で酒代をせびりに来た彼をソーニャは、黙ってマルメラードフの顔を見ただけだとある。誰のせいで、自分が体を売らなければならないのかと、マルメラードフをなじってもおかしく無いはずなのに、なじることなく黙って見るきりのソーニャはやはり強い。
マルメラードフは自分で「哀れか」と聞きながらも、「哀れまれる理由なんかない、十字架にはりつけにされるのが相応で、哀れまれる柄じゃない」という。彼を哀れに思ったのはやはり初めて読んだ時だけだった。マタイや、ヨハネの福音書の一節を用いながら、自分のことを語るマルメラードフはあまりにも痛々しく、遠い。だが、酔っ払いながら、心身共にボロボロになりながらも、語る姿は私にとってどこか愛おしい存在である。
Ⅲ、マルメラードフとラスコーリニコフ
『罪と罰』においてラスコーリニコフはもちろんのこと、マルメラードフも作品を語るに当たってその存在を無視することはできない。大学2年時のレポートを見てみると、ラスコーリニコフとマルメラードフの関係は鏡のようだと書いていた。ラスコーリニコフが鏡の前に立っていたとするとその鏡に映っているのが、マルメラードフと考えていたが、変わった。彼らは鏡ではないと今言い切れる。
確かに互いが自分のことを話していて、どことなく胸のうちに抱えているものは同じように取れるが、実際二人が見ているものは自分でしかない。作品のなかでラスコーリニコフがマルメラードフにどことなく似たように、それこそ先にも書いたように、あるかもしれない自分の未来をそこに見ることができるが、マルメラードフから見たラスコーリニコフは、決して自分と交わることはない。なぜなら未来には進めても過去には戻ることはできない。多少自分の過去の姿とかぶることがあるかも知れないが、だからと言って時間はやはり戻すことはできない。鏡のようだと考えるならば、未来や過去を見れるような特殊な鏡でない限り、鏡の外と中に互いに映りあう姿は、同じであるべきだ。鏡を見れば分かるが、映った姿は左右反対で本物とは微妙に違う。その歪みが鏡の持つ特性だとするのならば、ラスコーリニコフとマルメラードフを鏡のようだと例えるには歪みが生じすぎている。鏡像ではなく、二人が見ているものは互いに作り出した虚像と言った方がしっくり来る。
ラスコーリニコフが、マルメラードフに対して同属の匂いを嗅ぎ取ったと書いたが、逆も言える。
マルメラードフは確かに酔っ払いで、酒場の連中に笑われるような存在だが、だれかれ構わずに熱弁をふるっているわけではないだろう。「身分も教養も低くて話し相手にもならない連中を見るときのような、一種傲慢な軽蔑の色がうかがえた」とあるように、マルメラードフもラスコーリニコフと沿うように、少なからず高慢さがあることがわかる。だからこそ、酒場に足を踏み入れたラスコーリニコフは、自分が測る眼鏡にかなったと分かるや否や、話しかけたに違いない。
 
 自分の身の上を語る酔っ払いのマルメラードフ。しかし彼は私にとってただの酔っ払いではない、ラスコーリニコフと同様に何かを持った存在であるのだ。
何度読み返しても作品は変わることは無い。しかし読み返せば読み返すほどにその作品に呑まれていく。マルメラードフの告白のシーンは4年を経て考え方が大きく変わった。『罪と罰』に呑まれるうちにいつか変わるかもしれないが、今の所私がマルメラードフに抱く感情は「愛おしい」だ。

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