ドストエフスキー関係 清水正ゼミ(「文芸研究Ⅰ」)

清水ゼミ課題・プリヘーリヤの手紙を読んで

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清水ゼミ課題・プリヘーリヤの手紙を読んで
を八本紹介します。
細井麻奈美
プリヘーリヤはひどい母親なのか?

石田智美
幸福

荒井 萌美
プリヘーリヤの手紙を読んで

中野 沙羅
Ballastに見えて無駄でない母の手紙

市野瀬久美
プリヘーリヤの手紙と悲しみ

沢辺 遥奈
プリヘーリヤ・ラスコーリニコヴァ
綴る息子への愛と脳裏をかすめる顔

 内山 果歩
ルージンとプリヘーリヤについての考察

駒沢百美
母子の愛憎模様


細井麻奈美
プリヘーリヤはひどい母親なのか?

 「気持ち悪い」「過保護」「重い」……。プリヘーリヤの手紙についてのゼミ生の感想は、だいだいこんな感じだった。わたしは親から期待されたり、愛情で束縛されたりした経験がないせいか、ゼミ生のみんなの意見に共感はしていなかった。「まぁそうなんだろうな」と、一般論から推測していただけだ。
 この課題のためにプリヘーリヤの手紙を何度か読みかえしてみて、年下の同級生の感覚からますます遠のいてしまった。いつのまにかわたしは、母親側に立って、プリヘーリヤの手紙を読むようになっていた。この人にはもう子どもしかいないんだよなぁ。ラスコーリニコフの重苦しい心理状態より、プリヘーリヤのほうにつよく共感していた。
ダンナさんがいなくて、貧乏だけど、どうにか生きている。そんな毎日なら、ふたりの子どもに喜びを見いだそうとしてしまうのは当然じゃないか。少なくともわたしだったら、まちがいなくそうなる。わたしはそんなふうに、プリヘーリヤと自分を重ねあわせ、味方していた。「母親になった未来の自分」というより、「今現在の行きづまった自分」と同一視して、「気持ちはわかる!」と言いたくなっていた。
人は生活に余裕があってはじめて、仕事をたのしんだり、自分の生き方を模索したり、趣味を広げたりできるものだ。なんとか生きている、というだけの状態ならば、もっと本能的ななにか(たとえば子どもの結婚や、孫の誕生など)に、救いを求めてしまうものではないだろうか。いつ終わるかわからない、苦しい日々のただ中にいると、そこから一瞬でも抜け出せるような強い刺激を欲してしまう。そういう経験はだれにでもあるはずだ。
息子の活躍を耳にすれば、疲れもふっとぶだろう。自分の人生に、意味を与えられた気にもなるだろう。娘の結婚には、ひと仕事終えた解放感を得られるだろう。未来にすがりつくことのなにが悪いのだろう。ドゥーニャの結婚を肯定し、ラスコーリニコフにどうにかお金を送ろうとするのは、「母親として」というより、「人間として」、あたりまえの本能だ。暗い洞窟を手探りですすんでいれば、壁に穴を開けて一筋の光に照らされたいとがむしゃらにもなるものだ。
 それはドゥーニャにとっても同様だ。ドゥーニャがルージンとの結婚を決めたのは、兄の学費や仕事のためだけではない。女性に母性的な神聖さを抱いているようなところのあるラスコーリニコフは、『ぼくはきみの犠牲なんかほしくないよ』と苦しむが、女にとって結婚は、愛や尊敬がなくても、そんなにけがらわしいものではないような気がする。
 わたしがドゥーニャの立場にいたら、やはり結婚してしまうだろう。まだラズミーヒンに出会っていないからだ。特定の相手がいないとき、結婚の話がころがりこめば、「まぁそれも人生かな」「長く暮らせば愛せるようになるだろう」と、わたしだったら受け入れてしまう。結婚、という未知の世界をたのしみにしてしまうかもしれない。
聡明なドゥーニャには、結婚生活がどういうものかくらい予想がついただろう。だがドゥーニャは、それよりも今すぐ、兄の笑顔を見たかったし、三人で会いたかった。スヴィドリガイロフとの一件もあり、あまりにつらかったから、そんな欲求が勝ってしまったのではないだろうか。ラスコーリニコフが思いこんでいるように、兄の一生のために「自分の一生」を棒に振ったのではなく、「一時的な変化」がほしかっただけではないだろうか。あとはまた、耐えればいいだけの話なのだから。耐えることに慣れてしまったドゥーニャは、そうやって自分で自分を納得させてしまったのではないだろうか。
プリヘーリヤにもドゥーニャにも、自分で自分をだまそうとしているようなところがある。プリヘーリヤは、ルージンのことを生理的には受け入れていない。本人が自覚しているかいないかはわからないが、手紙のなかで、ルージンの欠点を必死で隠そうとしている。ラスコーリニコフに悪印象を与えないためでもあるのだろうが、自分でも見て見ぬふりをしているのだろう。『偉ぶった感じ』を受けながら、『第一印象でそう見えただけかもしれません』と都合よくとらえなおし、『いくらか無遠慮に思え』ながら、『一本気すぎるためかもしれません』と擁護している。『きっとそうなのだと思います』、直後のセリフは、そう思いたいというプリヘーリヤの願望だ。
 プリヘーリヤが長い長い手紙をしたためたのは、ラスコーリニコフを溺愛するあまり、というわけではなく、自分を保つためだったように思われる。ドゥーニャのことを『天使のようだ』と四度も書いたり、ラスコーリニコフに『いとしいロージャ』『私のロージャ』とくりかえしたのは、きっと自分の精神の安定のためだ。そのために、少し身勝手になってしまっただけだ。
 わたしははじめ、ラスコーリニコフが手紙を読んで涙を流したのは、母親の愛と妹の犠牲にふれたからだと思っていた。しかしそのあとを読んでみると、ラスコーリニコフはプリヘーリヤとドゥーニャのふるまいに腹を立て、ルージンには憎悪すらしていた。ラスコーリニコフは、部屋を飛び出す。『そんなことはさせない、させない、させるものか!』『そうさせないために、おまえは何をするんだ?』「是が非でも何かをしなければならないときだった」……。身勝手な手紙により、身勝手な行動へと駆り立てられることになったのだ。
この親子三人は、それぞれに相手のことを思っているように見えるが、結局は自分が一時的にしろ苦しみから解放される道をえらんでいるだけだ。だがこの三人の、家族を思う気持ちに、偽りがあるとは思わない。本来なら、愛と絆でむすばれていただろう。貧困が人を身勝手にし、プリヘーリヤを「ひどいお母さん」に、ドゥーニャを「天使のような子」にしたてあげてしまったのだ。経済的にゆとりがあったら、プリヘーリヤは案外、かしこくて懐の深い、いいお母さんだったのではないだろうか。
石田智美
幸福

プリヘーリアからの手紙を読み、思ったことは、気持ちが悪いだ。まず、書き出しからいただけない。「なつかしい私のロージャ」……重い。その後に続く、二ヶ月の不通状態による不眠の話も重い。これは母から息子への愛に見せかけた、栄光への執着だ。「私達の希望の星」というくだりに至っては寒気すらする。そして、手紙とふたりきりになりたがったロジオンも、気味が悪い。手紙を読み終わったとき、生クリームを食べ過ぎた時と同じ気分を味わった。
 しかし、私はプリヘーリアが嫌いではない。むしろ、今までの登場人物の中で一番好きだ。手紙の文面から伝わってくる、「大丈夫、私はすべて納得済みよ」という、無理を承知で自分を騙している感じが好きだ。
 彼女は、もはやプリヘーリア個人としての生は放棄し、いとしいロージャの母として生きている。自分が母親がそうのようであったら耐えられないが、他人の母親なら、エンターテインメントとなる。異常なまでの愛、と形容されるものは見ていて無条件に滑稽だからだ。いつ、プリヘーリアが息子との温度差に気が付くか、が楽しみだ。手紙を読み終えたロジオンの反応を見るに、プレッシャーを一方的に与え続ける母と息子の関係は、だいぶ歪みが生じている。ロジオンに拒絶、あるいはそれに近いことをされたら、プリヘーリアはどうなってしまうだろうか。
 実際、ロジオンはのちに殺人を犯す。露見するしないに関わらず、彼女の悲願である家の復興は完全に道を閉ざすだろう。そうなって、プリヘーリアがロジオンに変化せずに愛を捧げ続ける、とはとても思えない。プリヘーリアが愛しているのは、ロジオン自体ではなく、ラスコリーニコフ家に栄誉を齎してくれる人間だからだ。
 さて、話を手紙に戻そう。手紙の内容は、ほとんどが妹、ドゥーニャのことだ。家庭教師先での苦労に始まり、結婚に至るまでが押し付けがましく記されている。まるで、「私もドゥーニャもこんなに苦労したの。当然、ロージャはそれに見合うだけの名誉を手に入れてくれるでしょう」と言っているようだ。
 素晴らしい、と思う。プリヘーリアではなく、ドストエフスキーが。他人に期待を持つ、名誉を欲する人間は、期待の対象に苦労を語ることが多々ある。それが、ひしひしと伝わってくる。今まで、ロジオンやマルメラードフは、自業自得のように感じられ、共感できなかったが、プリヘーリアには共感できる。私が、苦労を対価に、相手に過剰な期待を抱いたことがあるからだろう。私の場合も、プリヘーリア同様、苦労を語るタイミングを誤り、相手に過重な負担しか与えられなかったが。
 あたらさま過ぎるのだ。どうやら、ロジオンは繊細ではあるが、真面目な人間のようなので、そこをくすぐるように苦労を伝えれば上手くいったのかもしれない。こちらから見返りを求めるのではなく、ロジオンが自発的に、プリヘーリアたちの苦労に対して結果を出さなければ、と思うように仕向けるべきだった。しかし、プリヘーリアは、息子を愛してると思い込むことで、自分自身の平静を保っているようなので、そのような計算は不可能だろう。そこまで、打算的になってしまえば、プリヘーリアにとって、ロジオンもドゥーニャもただの道具になってしまう。それは、二人の子どもを育ててきた情が許可しない。
 プリヘーリアは、家の復興への執着と子どもへの純粋な情で揺れているのだ。子ども(ロジオン)で夢を見ることこそが、子どもへの愛である、と思い込めきれていないようだ。思い込めていれば、少なくとも今より幸せでいられるように思う。
 この思い込みの障害になっているのは、純粋な子どもへの情(あるいは良心とも言い換えられる)以外には、ドゥーニャの存在だろう。仮に、ロジオンがラスコリーニコフ家を復興させたとしよう。プリヘーリアは悲願が果たせる。ロジオンは、復興させたというからには彼自身が何か地位を手に入れてるだろう。だが、ドゥーニャは?たしかに、家が復興すれば、暮らし向きが良くなるだろう。それは、ドゥーニャのしてきた苦労に見合うことだろうか。
 私は、思えない。プリヘーリアもそう思っているのだろう。手紙で、必死にドゥーニャを褒めている。現在が幸せである、と言い張っている。ロジオンに宛てたはずの手紙が、プリヘーリア自身に宛てたように見える。少し、プリヘーリアが可哀想になった。
 というのは、プリヘーリアに同情的すぎる見方かもしれない。私が、ドゥーニャであったなら、間違いなく、プリヘーリアもロジオンも憎悪してる。また、ロジオンであったら、プリヘーリアを嫌い、ドゥーニャを少し、不気味に思っただろう。私は、自己犠牲に甘んじている妹を好きになれる自信が無い。マンガ版「罪と罰」の喜乃のように、ドゥーニャも自己犠牲をそうとは認識していないのだろうか。そうであるなら、ドゥーニャはすでに幸福なのかもしれない。
荒井 萌美
プリヘーリヤの手紙を読んで

手紙のくだりを読み始めたときは、なんて良い家族なんだろう、と思いました。妹であるドゥーニャの苦労話は、それだけで十分に彼女の性格の良さを伝えています。兄のために一生懸命に働く姿や、つらいことが起きても母親に心配をさせてはいけないと(もしかしたら母親を通して兄に伝わってしまうことを恐れたのかもしれません)文句の一つも言わず、言い寄ってくる主人に対しても誠実に断っているところが本当に健気に思えました。母親も、なんとか息子に勉強させてやりたいと年金までもを担保にしてお金をつくり、息子の心配ばかりしている様が仲の良い家族だと感じさせました。そして、ドゥーニャに結婚の話が持ち上がったという件をよんだ私は、この家族が報われた!と思い、嬉しく感じました。しかし、その喜びは直ぐに私の頭の中では疑問符つきのものへと変わってしまいました。婚約者について説明する母親の口ぶりがだんだんと怪しくなっていったのです。気難しい、傲慢、一目見て何か変に思えるかもしれない、虚栄心が強い、教育の良い方ではない、そして、特別の愛情はない。こうした言葉の間に誉め言葉と取られるような表現は入るものの、一生懸命にフォローしているようにしか聞こえないのです。あまり良い人ではないけれど、息子に嫌われては困る、この縁談に反対されては困る、といったような話ぶりです。妻だけが夫を恩人と思ってほしい、だなんて傲慢も良いところです。言葉のあやにしろ、こんな考えの男性と自分の可愛い妹が結婚させられてしまうのでは当然兄であるラスコールにコフは反対したくなるでしょう。そして、母親も少なからずその言葉に苛立や不信感を覚えたはずです。しかしドゥーニャはきちんと婚約者をかばっています。こんな言葉を投げかけられても、ムキになることなく、冷静に物事を見ているドゥーニャは出来た人間です。しかし、その見据えている物事というのが、主観的なものではなく、自分が今どうしたら兄の利益になるのだろうかということです。自分が愛した人と結婚したいなどという欲は一切もたず、家族のためにいつも行動しているようです。この縁談を了解した理由も、たとえ手紙に詳しく書かれていなくとも、妹をよくしっているラスコールニコフならきっとすぐに分かってしまうのでしょう。縁談を持ちかけた人物は法律家ではありませんか。そして、ラスコールニコフは法学科に通っています。兄の将来を見据えてこの相手を選んでいることは、手紙にしっかりと書いてありました。この婚約者のところに勤める兄を想像して嬉しそうにしている、だなんて。自分はこの人と結婚して、こんな生活をして、こんな贅沢をするんだ。普通の花嫁ならこんな妄想に思いを巡らせるものではないのでしょうか。ところがドゥ-ニャは兄がの将来が安泰だ、などということを考えて幸せそうにしているようすです。母親も同様に喜んでいるところをみると、ラスコールニコフがこの家庭でどれだけ愛されているかが伺えます。最初に読んだときは、母親の愛情に何処か不気味さすら感じました。ですが、こうしてもう一度読み返してみると確かに異常な愛情が向けられているようにもとれますが、女手一つで大事に育ててきた優秀な息子が一人暮らしをして、遠い地方の大学に通っているなら、こうなってしまうのも仕方がない、と思えるようになりました。過度な期待が実の息子を苦しめている、などという配慮にいたらないことも、仕方がないのではないでしょうか。プリヘーリヤ自身、余裕がないのですから。由緒あるラスコールニコフ家を立て直すには息子の代でなんとか持ち直さなければいけないというプレッシャーが、同じように母親のプリヘーリヤにもかけられていたのです。しかし決してこれは母親のあり方を認めたわけではありません。確かに、旦那を亡くしてしまったプリヘーリヤはこれまでに大変な苦労をしてきたのでしょうし、なんとかして息子や娘に良い想いをしてほしいと必死になっていることは決して悪いことではありません。母親として当然の気持ちなのだと思います。ですが、そこでもう少し冷静になることさえできれば、娘にこんな身売りのような結婚を選択させることもなく、ラスコールニコフに過度なプレッシャーを与えることもなく、平穏に暮らせたのではないでしょうか。ラスコールニコフがどういう敬意で大学に通いはじめたかは分かりませんが、もし母親が少しでも強要していたのなら、少々気の毒に思えます。また、ラスコールニコフ自身も、母親の愛情を窮屈に感じることなく、純粋に受け取ることができたのなら随分違ったのではないでしょうか。愛情表現というのはとても難しいことのようです。
中野 沙羅
Ballastに見えて無駄でない母の手紙

先週のエンターティメント文学論で多岐師がballastについて述べていた。Ballastとは、価値のないものやガラクタという意味である。はっきり言ってballastとしか思えない作品が高く評価され、現在多くの人に知れ渡っているという。
私がこの手紙を読んだ時、「こりゃ、ballastや」と思った。
ラスコーリニコフ青年が毎日鬱々と過ごしていると、突然手紙が訪れる。しかも、自分の母親から。興奮して接吻して読んでみると、内容は自分のために犠牲になって結婚する妹の話がつらつらと綴られていた。読み終えたあとの彼の顔は顔面蒼白。通り過ぎる人々には酔っ払いに間違えられる始末だ。
母親はまず、手紙の中の本題を五ページ目にしてようやく簡潔に述べている。それまでの経緯は、その本題に触れるのを嫌がっているような書き方である。どうして簡潔に書けなかったのか。オブラートに包んで、息子にワンクッション置いて伝えようとする母親の愛を私は感じだ。
さて、なぜドゥーネチカ自身が手紙を書かなかったのだろう。普通、自分自身の結婚のことならば彼女が描くべきではないだろうか。「ただ私に、おまえに話すことが山のようにたまっているから、いまはとてもペンを手にする気になれない」のが理由らしい。だが、母親はこのように数ページにも渡る手紙を書いている。結婚するのは母親ではないから、このように大量の手紙が書けるのだろうか。たぶん、彼女は母親の様に自分の結婚を都合よく説明する文章を書けなかったからだと私は考察する。どうしても、いらいらしてしまい、自分の感情を押し殺して結婚することに本音では抵抗を感じているのだから、仕方があるまい。この手紙を読んでいて、その様なドゥーネチカの想いがひしひしと伝わってきた。
だが、ドストエフスキーよ、と私は問いたい。どうしてここまで長文の手紙を掲載する必要があったのかと。確かに、作品というものは出来あがってしまえばその文章のパーツはなくてはならないものになってしまうが、これはあまりにも長すぎるだろう。飽き飽きとしてしまったよ! 
しかし、飽き飽きとはするが何度読んでも腑に落ちないものがある。これは何なのだろうか。いくらレポートを書きすすめても、すっきりとした答えが、この手紙の中から私は読みとれない。
手紙とは、本来メッセージを伝える、つまり書いている人の想いを伝えるものだ。確かに、母親の主張らしきものは伝わってきた。だが、作者の意図が私にはさっぱり伝わってこないのだ。どうしたことだろう!
前回のレポートでも、私は清水師とまるっきり正反対の読み方をした。ゼミを聴いて、家に帰り、師の考えに沿ったレポートを書こうと思って、やめた。なぜなら、考えを聴く前の自分は永久に帰ってこないからだ。講義を聴く前の自分は悪い意味でのballastではないと思いたい。
無駄に見えるこの手紙も、なければ作品自体が変わってしまうに違いないというのは確かだ。作者の意図は、私には読めないのだけれど、それだけは確信してみる。
市野瀬久美
プリヘーリヤの手紙と悲しみ

プリヘーリヤは善良な母親である。それは、この手紙を一回読めば誰でも分かることだ。むしろ、ここまで「良い母親」の見本のような人間は珍しいと思う。がしかし、私は彼女に対し、またこの手紙に対し、その優しさとは裏腹の奇妙な不自然さを覚えてしまった。その思いは、手紙を最後まで読んでも完全に消え去ることは無かった。
何故そう思ったのか、それにはいくつかのポイントがある。一つとしては、彼女が自分の息子(ラスコーリニコフ)と娘(ドゥーニャ)にありったけの賛辞を述べ、わざとらしく(本人にそこまでの意図はないのかもしれないが)甘い態度を取っている点が挙げられる。便りを寄こさず、ほんの少しの仕送りもしてこないような息子に対して「お前はこの世のすべて」と言ったり、娘のことを「あの子は天使です」と何度も表現するのは、ちょっとどころか大分行き過ぎではないだろうか。でも、これに関しては「彼女は心の底から子供たちのことを愛しているのだ。」と断言されてしまえば、納得できなくも無い。が、そこだけではない。彼女は娘の結婚相手(ピョートル・ペトローヴィッチ氏)に対して、僅かな
がらとも不信感を抱いている感がある。それは文章の至るところから読み取ることができるが、そのような心理状態は結婚間近の娘を持つ母親、つまり姑となる身としてはむしろ普通の心境だろうし、それを責める気はない。問題なのは、彼女がその思いからどうにか目を逸らそうと必死な点だ。文中から挙げるとすれば「ただ少し気むずかしく、高慢らしい所はありますけれど、これはちょっと見てそう思われただけかもしれません。」とか、「人間の見かけはまことに当てにならないもので、たとえばあの人はわたしなどにも、最初はなんとなくとげとげしい感じがしました。けれどそれはつまり、あの人があまり生一本すぎるからでしょう。いえ、きっとそうに違いありません。」などが、プリヘーリヤの気持
ちがとても分かりやすく出ている部分だ。何とか自分を「あの人はいい人なんだ。これぐらいの小さな欠点など、気にしてはいけないし、気にすべきことではない。」と思い込ませようと必死なのが、あまりにも見え見えである。プリヘーリヤの場合は、娘の旦那となる人を好きになろうという、単なる前向きな母親というわけでもなさそうだ。
一体なぜ彼女がこうまで自分を欺くのか、最初は到底理解することができなかった。だからこそ冒頭で述べた通り、私はこの手紙、そしてこの母親に対して「奇妙な不自然さ」を感じたのだ。でも、もう一度じっくりと読み直してみたところ、私なりではあるがやっと理解することができた。つまり、こうやって自分を納得させるのは、全てはラスコーリニコフのため、そして家族の今後の暮らしの安泰を願うためなのだろう。ドゥーニャとペトローヴィッチ氏は、互いの利害が一致して結婚するのであって、相思相愛で結ばれるわけではない。政略結婚となんら変わらないのだ。歳若い娘にとって、それはなんて残酷なことだろう。ドゥーニャにだって、理想の結婚相手像というものはあるに違いない。けれど、誰もこの結婚を止めることなどできない。むしろ、父親がいないこの家庭において、安定した収入を得、平和な暮らしを望むには、結婚をする以外に道などないのだろう。だからこそ、プリヘーリヤも自分の不満を封じ込めようと必死なのだ。
この手紙を書いている時のプリヘーリヤの心境、結婚を前にしたドゥーニャの心境、そしてこの手紙を読んだ時のラスコーリニコフの心境を想像すると、とても悲しい気持ちになる。この一家はぼろを纏い、ほんの少しの食事すらできないマルメラードフ一家よりかはましな暮らしをしているかもしれないが、実態はなんら変わらない。身売りをして家族を助けるソーニャと、望まない結婚をして家族を助けるドゥーニャは、まったく同じ境遇と言っても過言ではない。それを知ったときのラスコーリニコフは、一体どんな気持ちだったのだろう。
ゼミの中では、マルメラードフの告白こそがラスコーリニコフに殺人を決意させるきっかけになった、と考える人も多かったようだが、私はこの手紙こそ決意を固めさせるきっかけとなったのではないかと思う。この二つの家族は、社会の規範に負けたのだ。そしてラスコーリニコフは、そんな狭い枠組みを壊したかったのではないだろうか。そう考えると、ラスコーリニコフはかわいそうな人間だ。そしてその母親のプリヘーリヤも、とてもかわいそうである。全ての登場人物の悲しみが、この短い場面に詰まっているような気がした。
プリヘーリヤ・ラスコーリニコヴァ
綴る息子への愛と脳裏をかすめる顔
沢辺 遥奈

プリヘーリヤの手紙を読み終えて、ふっと溜め息をつく。18ページにもわたるその長い手紙を一気に読み終えた私はすっかり疲れてしまったようであった。使いすぎた目を休ませるために目を閉じれば、瞼の裏側の暗闇に浮ぶ顔。それは落合氏(双葉社出版漫画『罪と罰』著者)が描いた主人公の母親であった。父が死んだ時に母が主人公の肩を掴んで「立派になるのよ」言った時の真顔のようで切羽詰ったような、そして脅迫じみ狂ったような顔が頭から拭えない。おそらく黒いであろう髪に東洋人らしい顔…ラスコーリニコフの母・プリヘーヤの顔ではないにしろ、鮮烈な印象を私に焼き付けて残り、手紙に重なった。
手紙の内容はラスコーリニコフの妹・ドゥーネチカ(ドゥーニャ)が憂い目を受けてから結婚に至るまでの経緯とその結婚相手・ルージンについて、次いでそのルージンの助力によって間もなくじきじき会う事ができるということ、そして手紙の最初と最後には息子への愛情がありありと書き記してあった。私が注目するのは長々と語られるドゥーニャの話でもルージンの話でもない、この最初と最後だ。
「…わたしがどのようにお前を愛しているのかは、お前もご承知のはずです。お前は家の一人息子、私にとってもドゥーニャにとっても、お前はこの世のすべてです、杖とも柱とも頼むほどです。…」「…ところがお前は、大事なロージャ、お前はわたしのすべてです――わたしたちの希望の全部です。お前さえ幸福でいてくれれば、わたしたちもやはり幸福です。…」
以前のゼミの授業で清水教授はこうおっしゃった。ラスコーリニコフの母はいわゆる教育ママで息子に過剰なまでの期待をしていた。更に言えば、これは母を殺したかった青年の物語である、と。ならば、再び登場するが落合氏の漫画に登場する男(ちなみに第四巻のカバー表紙に描かれている)が主人公の性質を決定付けたように、この手紙に記された言葉こそが、今まで「言われた」「諭された」ものとして記憶と感覚にしか残らなかった不確かで曖昧な動機が、手紙に「書かれた」ものとして形に残る確かな動機にしたのではないか、と私の中で推測する。まぁ、語弊が生まれるといけないので追記として言葉を挟むが、この動機は母殺しという観点からの話であって、実際行った高利貸しの老婆殺しの動機とは違う。あくまでも殺しの動機は「非凡人は凡人の法律や道徳を踏み越えてもいい」という論理に基づいての凶行だったことを、ここに明記しておこう。
少し戻りまして、手紙の最初と最後の部分について私の感想を述べますと「嗚呼、これは紛れもなく愛だ。海よりも深く山よりも高い親の愛なのでしょう。しかしこれは同時に脅迫でもあった。子に対する重過ぎる、愛ゆえの枷のようなものであった。それのなんと哀しいことか。」まぁ、こんなもんだ。何だか仰々しいと思うかもしれないが、そこは感情的に言ったということで勘弁願いたい。ただ、こう言ってしまうと親が子供に期待することが悪いように思えてしまうが、逆に期待されないのも虚しいものなのだ。確かに過剰な期待は精神を削ぎストレスを生むことがある。だが親に期待されないということは、時折ぽっかりと心に穴を開けるような感覚を呼び起こすのだ。思い出してみれば、子供の頃は親に褒められたい一心でテストを頑張った時期があったのではなかろうか。そして親がちゃんと褒めてくれる。しかし高校生、大学生となっては無反応。結構精神的に堪えたりしないだろうか、いや、堪えるだろう。…ようは何事も匙加減が大切ということだ。
題名には「綴る息子への愛」と銘打ったが、愛と書かれたその下にひっそりと、しかしながら確かに「脅迫」の文字が個人的に含まれていたりもする。そしてそれに続く「脳裏をかすめる顔」は冒頭で書いた落合氏の描く主人公の母親だ。十九世紀の貧困に喘ぐロシア人の容貌など想像もつかないが、どんなに髪の色や顔立ち、服の種類が変わろうとも、顔にできる影と脅迫じみた風貌だけはイメージとして譲れない。そんなことを考えながら、この文章を結ぶとする。
 内山 果歩
ルージンとプリヘーリヤについての考察

             
 今回は、プリヘーリヤの手紙について考察する。と言ったはいいが、どうしたものか。最初に読んだときどう感想を書こうか、悩んだ。今も悩んでいる。とりあえず、気になったところを上げていこうと思う。
 まず、全体を読んでみて気になったのは『百姓馬車』だ。この場面で百姓馬車は二回出てくる。
一つ目の場面は、ドゥーネチカが住み込み先であった、スヴィドリガイロフの家から追い出されるときだ。その場面で、こう書いてある。「ドゥーニャは、百姓といっしょに覆いもない荷馬車に揺られて、十七露里からの道を帰ってこなければならなかったのです。」これは、百姓馬車がどれほど酷いものか、また、それで十七露里の道のりを行くことが、どれだけ大変な辛いことなのかを表していると思う。
二つ目の場面は、プリヘーリヤとドゥーネチカが、ルージンとドゥーネチカの結婚の為に、ペテルブルグにくるときの道のりを記した場面だ。ここには、こう書いてある。「鉄道までは町からせいぜい九十露里ほどですし、万一の場合にと思って、知り合いの馬車引きの百姓さんとももう話をつけておきました。」
最初に『百姓馬車』が出てきた場面では、十七露里で「帰ってこなければならなかった。」と記しているのに対し、次の場面では、「せいぜい九十露里」と記している。
マルファ・ペトローヴナはドゥーネチカに対し、仕打ち的な行為として、追い出すときに『百姓馬車』を使った。
それに対し、ルージンは婚約者が自分との結婚の為に、それも自分の希望で急いで結婚する為にくるのに、この扱いだ。
つまり、このふたつの『百姓馬車』の場面の関係は、前者が百姓馬車というものの酷さを表し、後者のルージンの酷さを際立たせているのだと思う。
では、ルージンとはどのような人物なのか。彼は、『わが国の最新世代の思想』を持った、学問のない人間である。その、『わが国の最新世代の思想』とは、マルメラードフの告白で出てきた、「レベジャートニコフさんは新思想の信奉者でしてね、同情などというものは、今日では学問上でさえ禁じられておる、現に、経済学とやらの盛んなイギリスではそうなっておるって、せんだって説明してくれましたよ。」のくだりとリンクするだろう。また、「夫が妻に負い目を感ずるようなことがあってはならないし、それよりは、妻が夫を自分の恩人と見ているほうがずっとよい」という考えも『わが国の最新世代の思想』の人々の、中心的な考えのひとつであると思われる、弱者対強者の力関係に基づくものだと思う。
つまり、このルージンという男は、極端なほどにこの時代の『強者』を、それも『学問のない強者』を表していると思う。そして、この人物の極端な利己的な感じや冷酷さが、ラスコーリニコフの『対新思想派思想』を強めたと思う。
もうひとつ、この場面で気になる点がある。それは母親だ。
彼女は、もしかしたらあまり学のない人間なのかも知れない。その証拠に、手紙の最後のサインが『プリヘーリヤ・ラスコーリニコワ』となっている。これが、印刷や訳のミスでなく本当にそう書いてあったのなら、私はそう思う。そうすれば、私としてはこの母親のラスコーリニコフへの配慮のない、一方的すぎる期待がある程度納得できる。彼女は、賢くないのだ。普通なら、ルージンについてあのような書き方をしないと思う。あそこまで余計なことを書いておいて、『たいそう立派な方にちがいありません』とは記さないだろう。無理やりなフォローが見え見えである。逆に、それが余計にルージンの人柄を強調している。そう考えると、プリヘーリヤは学問のない人間なのだ。そして、自身が学のない人間だからこそ、一層にラスコーリニコフへ異常なほどの期待を表すのだろう。
ルージンとプリヘーリヤに対しては、もう少し考察した方が、面白くなりそうだと思った。
以上が、今回私がプリヘーリヤの手紙を読んで、思ったことである
駒沢百美
母子の愛憎模様

初めてこの手紙を読んだときから嫌悪感を感じていた。それは何度読み返しても変わらない。もしもプリヘーリヤがの自分の母親だったら、私は発狂してしまうに違いない。いや、発狂だけに留まらず、もしかしたらラスコーリニコフのように……。
何がそこまで気持ち悪いのかというと、息子・ラスコーリニコフのことは何でも知っていると思い込んでいるところである。「わたしがどのようにお前を愛しているかは、お前もご承知のはずです。」「わたしはお前の気性も心もよく知り抜いています。」「多分お前はわたしに対しても、ドゥーニャに対しても、不服はない事と思います。」普通の人間が聞いたら吐き気のするような言葉だ。誰かに自分の性格を決めつけられるというのは本当に気分の悪いものである。しかも、それが自分の思っている「自分」と大きなズレがある場合、その不快感は計り知れないものとなる。ラスコーリニコフはどうだろう?立派な人間になれとプレッシャーをかけられ、それは無理矢理つくった仕送り金として彼の手元に現れ、大事な妹の安否もろくに伝えてもらえず、挙げ句の果てには自分が納得するだろうと見込んで勝手に妹が結婚してしまった。(しかも自分の学費のためという素敵なおまけつき)不快どころの騒ぎではない。母親という獣が、彼を内側から痛めつけている。いくら叫んでもわめいても、その獣の攻撃は止まらないだろう。そして結果的に、どうしようもない彼の苦しみが彼を殺人鬼に変えてしまったのである。母親がけしかけたと言っても過言ではないだろう。
特に妹の結婚は大きなショックを与えたに違いない。お互いが愛し合って結ばれたのなら、事後報告でも彼はそこまで不服に思わなかっただろう。しかし、金ばかり有り余っている四十五の中年と、可愛い妹が自分の学費のために結婚するなんて(しかも当の自分には何の相談もなしに)、どれだけ辛いだろうか。手紙を読み終わるまで彼はずっと泣いていたようだが、恐らくこの件についての辺りで一番号泣したのではないかと思う。こう考えると、プリヘーリヤは何と勝手な母親なのだろうとつくづく思う。結婚を先延ばししたくなかったから相談しなかった?しかもお前は納得すると思った?ふざけるな!とキーボードに両手を叩き付けたくなってしまう。結局あの女は自分の息子のことをわかっちゃいない。思い込みの激しい典型的な教育ママだ。更に、彼女は娘のドゥーニャのことも理解していないのだ。
プリヘーリヤはドゥーニャのことを大いに褒めているけれど、ドゥーニャはそんなに良い子ではないと思う。一生懸命良い子を演じていただけのように思う。奉公先でいじめられても、我慢しなければお金を稼ぐことができない。兄へ仕送りしてやることができない。結婚も同じだ。どこの馬の骨とも知れない中年と結婚なんて嫌に決まっている。だけど、嫁がないと兄への援助ができない。彼女が結婚の件で涙を流す描写はないが、人知れず枕を濡らしたことも一度や二度じゃないだろう。我慢の嫁入りだったに違いない。「何で兄のためにここまでしなくちゃならないの」というのが彼女の本音だろう。年頃のようだから、好きなこともしたいだろうし、ボーイフレンドだって欲しいに違いない。そういう青春を全部我慢して兄のために働かされている。プリヘーリヤという分からず屋の母親によって。プリヘーリヤが直接ドゥーニャに「働け」と言う描写はないけども、彼女はドゥーニャに無言の威圧を続けていたに違いない。おめおめと泣く母の姿を見れば、ドゥーニャは「もっと頑張らねば」という気持ちになるだろう。そこでドゥーニャがプリヘーリヤを見放せば、どういった事態になるか容易に想像できるだろう。ドゥーニャも本当は逃げ出したいけど、自由になりたいけど、母の存在によって良い子にならざるを得ないのである。しかしプリヘーリヤはそれに気がついていない。ドゥーニャは心の底から家族を想ってくれていると信じている。本当に馬鹿な母親だ。
こういう類の母親は現代にも、いや、現代にこそ、あちらこちらで子供の自慢話ばかりをしている。子供の苦しみなんて分かろうともせず、ただ自分の見栄のために。彼女たちに言いたいのは、もっと子供のを話を聞け、ということだ。良いことも悪いことも、まずは話を聞いて、そして親自身も隠し事はしない。プリヘーリヤがこういう向き合い方をしていれば、ラスコーリニコフも血に手を染めなくてよかったかもしれない。

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