チェーホフ『退屈な話』を読む(2)… 【老教授の名前はニコライ・ステパーノヴィチ】

清水正のチェーホフ論

チェーホフ『退屈な話』を読む(2)
『悪霊』との関連において
『退屈な話』は「ロシアにニコライ・ステパーノヴィチ某という三等官で帯勲者の名誉教授がいる」ではじまる。『退屈な話』はこの老教授の手記という体裁をとっている。彼は「このわが輩の名前たるや、なかなかポピュラアである。ロシアではおよそ読み書きの心得のあるすべての人にあまねく知れわたっているのは勿論、外国では多くの教壇で、かの高名なる、かの尊敬すべきという形容詞づきで引合いに出されている」と書いている。
さて、ニコライ・ステパーノヴィチという名前がポピュラアであるのかどうかについては詳らかにしないが、わたしなどはこの名前からすぐにドストエフスキーの『悪霊』を思い出した。『悪霊』の登場人物の中にステパン・トロフィーモヴィチ・ヴェルホヴェーンスキーなる元大学助教授がいる。彼はヨーロッパに留学し、学問を収めてロシアに帰国し、しばらく大学に勤務しているが、さる論文が問題になって大学を辞めなければならなくなる。このステパンを自分の息子の家庭教師として迎え入れたのが広大な領地を有する女地主ヴァルヴァーラである。息子の名前はニコライである。十歳のニコライ少年はステパンによってホモセクシュアルな関係を結ばれ、それ以来〈人類永遠のかの聖なる憂愁〉を感ずるようになる。やがてニコライはペテルブルクの大学に入り、卒業後は軍隊に所属する。親元を離れたニコライは決闘沙汰をおこしたり、情婦を何人も抱えるような淫蕩三昧な生活を送り、虚無のただなかに沈んでいる。ニコライは弟子筋にあたる青年たちに思想的な影響を与える。キリーロフには人神思想(神が存在するのであればすべては神の意志によって成立している、もし神が存在しないのであればすべては自分の意志によって決定する)を、シャートフには国民神信仰(神が存在するかどうかは分からないが、ロシアの神は信ずる)を、そしてステパンの子供として設定されたピョートルには革命思想をといった具合にである。ところが当のニコライはすでに何ものをも信じてはいない。彼は自分が何も信じていないということすら信じていない虚無に陥っている。彼は沈黙し続ける全能の神に成り代わるという実験を自らに課し、マトリョーナという十二歳の少女を凌辱して自殺に追い込んだりする。この虚無の権化のような男の名前が、『退屈な話』の老教授と同じニコライであるということは興味深い。しかも老教授の父称がステパーノヴィチであるということは、彼の父の名前がステパンということになる。つまり老教授ニコライ・ステパーノヴィチの〈父親〉は『悪霊』のステパン・トロフィーモヴィチ・ヴェルホヴェーンスキーであったという可能性もなきにしもあらずということになる。
チェーホフはドストエフスキーの作品をどのように読んでいたのか。チェーホフに纏まったドストエフスキー論はない。が、『六号室』や『黒衣の僧』などを読むと、チェーホフがドストエフスキーの影響を受けていた可能性は高い。この『退屈な話』も、ドストエフスキーとは違ったやり方で、知識人の〈空虚〉と〈退屈〉を真っ正面からとりあげている。
『悪霊』のステパン氏はヨーロッバ最新の学問を学んでロシアに帰還したにもかかわらず、弟子たちに生きるべき指針を示すことができなかった。また彼は自分が進むべき途も分からなかった。彼に指示を与えたのはロシアの無知な百姓である。否、正確に言えば作者が百姓に託して彼に進むべき途を示している。ここで詳しく語ることはしないが、それは〈キリストのいるところ〉(スパーソフ)である。作者はステパン氏を古代異教徒的、汎神論的な神の信奉者からキリスト者への途を示していた。が、彼は〈キリスト〉の一歩手前の場所(ウスチェヴォ村)で息を引き取り、再びヴァルヴァーラの手によって彼女の領地スクヴァレーシニキと連れ戻されることになった。
ステパン氏は学問の庇護者であるヴァルヴァーラの厚い援助のもとに、スクヴァレーシニキに二十年ものあいだとどまって、当地の若者を集めては夜な夜なアテナイの饗宴を主催し、ソクラテスばりの弁舌を振るっていた。ロシア、ロシアの神、ロシアの検閲制度をめぐって、ステパン氏の熱弁はとどまるところを知らなかった。しかし彼はロシア語すら満足に話すことも書くこともできず、弟子たちに伝えるべき確固たる理念を持っていたわけでもなかった。彼の内面は実は空虚である。彼の饒舌はそのことを証明している。彼の〈息子〉ピョートルの内面も〈空虚〉、弟子のニコライ・スタヴローギンの内面も〈空虚〉である。〈空虚〉のステパン氏が、〈空虚〉の息子や〈空虚〉の弟子を産み落としたのだと言っても過言ではない。

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