ドストエフスキー関係 清水正ゼミ(「文芸研究Ⅰ」)

『罪と罰』の「マルメラードフの告白」について(清水ゼミ課題②)

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『罪と罰』の「マルメラードフの告白」について

清水ゼミ課題②のレポート六本を紹介します。
細井麻奈美
「鏡にうつったふたり」(マルメラードフの告白について

柳沼優作
マルメラードフについて

駒沢百美
悲劇の主人公になりたかった男

中野 沙羅
私はマルメラードフをひたすら批判する 

市野瀬
マルメラードフの告白について

内山果歩
マルメラードフの意味


細井麻奈美
「鏡にうつったふたり」(マルメラードフの告白について)

 マルメラードフの告白は、ラスコーリニコフが「あれ」を決意するのを助けるためのシーンだと思っていたが、読みかえすうちに、それだけではないと感じてきた。
 以前読んだときには、マルメラードフは「社会的弱者」で、「貧乏のせいで苦しんでいる哀れな人」の代表例として登場しているのだと思った。マルメラードフの家族もそうだ。長々と語られるのは、一家族の話ではなく、当時のロシアの縮図。無職で酒におぼれる男、ヒステリックな妻、売春婦の娘、ひもじい子どもたち。マルメラードフとの会話は、ラスコーリニコフがどうして「あれ」を正当化するようになったのかの裏付けのためで、マルメラードフは、ラスコーリニコフが「やっぱりやらなくてはならない」と決意するきっかけとなる人。そんなふうに記憶していた。
 マルメラードフの登場シーンから読みかえしてみて、印象が変わった。ラスコーリニコフは人恋しかった。そこで安酒場に入り、「一目見るなり、関心をそそられてしまう人間」に出会った。それがマルメラードフだ。マルメラードフもだれかに話を聞いてもらいたかったのだろう。ラスコーリニコフを見込み、話し相手になってほしいと頼んでいる。相思相愛ではないか。これが男と女なら、運命的な出会いのシーンだ。つまりラスコーリニコフがたまたまマルメラードフのグチを耳にして、一方的に憐れんだり嫌気がさしたりしていたわけではなく、二人は対等に出会い、合意の上で話していたのだ。
 それではどうして私のなかで、「マルメラードフ=きっかけ」というだけの印象で残っていたのだろうとくわしく読んでいったら、安酒場からマルメラードフの部屋までのシーンで、ラスコーリニコフがほとんど発言していないことに気づいた。マルメラードフのセリフが最長七ページちかくつづくのに対し、ラスコーリニコフのセリフは四回のみ、しかもすべて、一行以内におさまっている。それも積極的な発言ではなく、質問にこたえているだけだ。
 初対面でふたりともお互いに興味をもったわりには、ふたりの距離はいっこうに縮まらない。それはそうだろう。ふたりとも、自分のことしか考えていないのだから。マルメラードフは家族の話や自分のダメっぷりを話し、ラスコーリニコフはそれを自分に都合よくあてはめて聞いている。マルメラードフ本人のことは、最初のひとことから嫌悪してしまっている。
 それではラスコーリニコフは、マルメラードフが自分で何度もくりかえすように、彼のことを「豚」だと感じたのだろうか。セリフがないばかりか、マルメラードフの部屋を出るまでラスコーリニコフの心情はほとんど語られないので、推測するしかない。
ラスコーリニコフはマルメラードフに、どんな感情も抱いていないのではないだろうか。生理的な嫌悪感はあるかもしれないが、前述したとおり、ラスコーリニコフは自分のことしか考えていない。「カチェリーナのトランクの鍵を盗みだして俸給の残りを持ちだした」、という話には、未来の老婆殺しの一部を見ただろうし、「あなたにはできますかな」「勇気をお持ちですかな」という問いかけには、「あれ」を見透かされたようでドキリとしただろう。そんなふうに想像すると、べとべとのテーブルは殺害現場の血のようにさえ思えてくる。ラスコーリニコフはその章の最後で、「人間って卑劣なやつは、何にでもなれっこになるんだ!」と言っている。髪を引っぱられることにもなれっこになるし、売春婦の仕事にもなれっこになる。ならば殺人者にもなれっこになると考えたのだろう。
 ラスコーリニコフがマルメラードフの話をいちいち自分にあてはめてとらえたのは、自意識過剰な性格のためだけではなく、意外にもふたりに共通点が多いためではないだろうか。私にはふたりとも、「かまってもらいたがり屋」のように見える。マルメラードフが「苦しみたいからこそ飲む」のは、彼がヘンタイだからではなく、彼なりの自己顕示欲のあらわれのような気がする。だから奥さんに髪を引っぱられるのが、マルメラードフにとっては「快楽」なのではないだろうか。ピアスや刺青にハマる若者みたいに、痛みで自分を確認している感じがする。
 ラスコーリニコフにも、そういうところはある。本人は自覚していないだろうが(精神的にそれどころじゃない)、ボロボロのかっこうで、食べるものも食べず、酔っ払いのようにふらふら歩いている。しかしラスコーリニコフがラズミーヒンやナスターシヤに心配され、うるさいくらい面倒を見てもらっているのに対し、マルメラードフは酒場では茶々を入れられるし、家でもカチェリーナに引きずりまわされているところを野次馬にげらげら笑われている。ふたりには共通点があるが、対人的な立場はまるで逆なのだ。ラスコーリニコフは愛され、マルメラードフは笑われる。だからラスコーリニコフは無意識に、「自分はやる側なんだ」という思いを強くしてしまったのかもしれない。
 マルメラードフとのやりとりを読み返してみて、ふたりに友情のようなものまで感じてしまった。ラスコーリニコフとマルメラードフは、鏡にうつった像のようだ。友人として登場するラズミーヒンよりも、ふたりにはつよいつながりがあるのだ。
柳沼優作
マルメラードフについて

嫌悪、呆れを経て僕がマルメラードフに対して抱いた感情は哀れみだった。ただ一言、哀れみといっても、それは憐憫と軽蔑の混じった何とも複雑なものである。彼は官吏、言い換えれば公務員であり、僕から見れば当時のロシアでも安定した職業だったのではないかと思う。事実、彼が職に就いている時期、彼の家族、娘のソーネチカ、後妻のカチェリーナとその三人のいたって平和な暮らしをしていたと言えるだろう。しかし、それはマルメラードフが定員改正で失職したことにより大きく崩れてしまった。そこから彼とその家族の転落人生が始まる訳なのである。気の強い女房からはごみ扱い、子にも食べさせてやる事が出来ず、娘が体を売って日々を凌ぐ生活。この状況がもし自分の身に降りかかって来たらと想象すると正直、首を吊りたくなるような内容である。此処までならマルメラードフは世相に翻弄された悲劇の人であり、まだ涙を誘う事が出来たのかもしれない。見るに耐えなかったのはこの先だった。失職中にあれほど虐げられてきたマルメラードフが職に復帰できる話を棒に振った上、あろうことか家族にとって大事な金を持ち逃げしたのである。この件を読んだ時、僕には何故彼がこんな事をしたのか不思議で仕方なかった。ただ単純に彼が怠け者だった、しっかりしていなかったと言ってしまえばそれで終わりかもしれない。しかしマルメラードフの前に転がり込んだ家族再生の又と無いチャンス、それを溝に捨てる真似をした理由としてはどうしても僕は納得することができなかったのだ。マルメラードフは自分の家族を嫌ってはいない。むしろ病的なまでに愛している。それにも関わらず、彼は自らの手で家族全体を悪い方向へと持っていったのである。マルメラードフが家族を養っていくのが嫌になった訳でもなければ、これからの仕事に不安を感じたという描写も無い。全く何の脈絡も無く彼は、この行動をとったのだ。マルメラードフがこの後に語った、自分を哀れんでくれという言葉もそのことには触れておらず、考える材料にはならない。そうなれば、あまり好きではないが個人で解釈して推測するしかないだろう。あまり好きではないというのは、僕の全てに対する創作物に対する見方であり、創作物というものは言うなれば作者の考えと読者を繋ぐ物である。しかし、作者にとっては一文にたくさんの意味を込めたつもりでも、読者からしてみれば、その一文からはっきりと掴めないものを想像するしかなく、人によっては作者にとって全く見当はずれな想像をすることもある。作者が何処かで本当のことを語らなければ、それはずっと読者の頭の中で想像のままで居続けるしかないのだ。その想像が人同士の交流を通じて知れ渡っていくうちに、勝手に一人歩きして、もしかしたらたいした意味の無いかもしれない本当の事に取って代わって踏ん反り返っている事を思うと、まるで犬にライオンの鬣を付けて、これはライオンだと言っているように感じてしまうのである。要は大して重要で無いことを持ち上げて、大層な物に仕立て上げてしまう事を考えると、僕は創作物に対して過剰な深読みや裏読みをすることが、とても馬鹿馬鹿しく思えてしまうのである。話が反れてしまったが、マルメラードフはもしかすると、失職中の生活が続く間に何か新しい事をする為の気力を完全に失ってしまったのではないのだろうか。見方を変えてみればマルメラードフが職を失っていた時でも相当苦しい状態ながらカチェリーナとソーネチカの女性二人分の稼ぎで生活は出来ていたのだ。マルメラードフはカチェリーナの衣服を売った事を仄めかしていたが、そのほとんどが酒代に消えていった様なので勘定にはいれないが、その事実だけでもマルメラードフが働かなくなるには充分な理由だったのではないか。更にマルメラードフは大事な娘であるソーネチカが最初に体を売りに行った日、酔って寝ていたという言い訳を見て見ぬ振りをし、その後のカチェリーナとソーネチカとの間の出来事も無視していた。このことから彼は家族を愛してはいるが、現状をなんとかする気は全くなくしてしまっていたのではないのだろうか。彼が唱えた「神さまは万人を裁いて、万人を許される」という考えもやる気が起きなくなった彼が今の状況から抜け出す事を諦めているからこそ生まれたものなのではないか。もしそうなのであれば彼は結局は現実逃避の為にわざわざ家族から逃げ出して、挙句の果てには娘にたかってまで酒を飲んでいたと言う事になる。その所為でマルメラードフの家にあるなけなしの金すら無くなってしまったことを思うと、もはや彼はどうしようもないクズ人間だと言い切ってもいいのではないか。確かにマルメラードフはかつてはまともな人間だったが、それも此処まで落ちると哀れでもあるが、ある意味滑稽にも見える。それでも彼が悲惨な状況にいる事は変わりなく、少なくとも僕はマルメラードフのような人間にはなりたくない。
駒沢百美
悲劇の主人公になりたかった男

最初に言ってしまおう。私はマルメラードフに同情する気などミジンコの足先ほどもない。だが、それは彼が小説のなかの存在であり私とは何の繋がりもないからなのであって、もしも自分の父親だとしたら、私は一生懸命彼に尽くすだろうと思う。ああいう性根の父親を支えるのは、娘の義務のひとつであるからだ。
リストラされて酒におぼれ、娘は自分を犠牲にしてまでお金を稼いでいるのに、何の努力もせず、自分は悲劇の主人公だ、とでも言いたげに身の上話を酒場でおおっぴらに話す。確かにマルメラードフは最低な男であるし、最初に読んだときは私もほとほと呆れてしまった。しかし、彼は全てにおいて悪気があるわけじゃない。仕事をしないのも、大事なときに酔っ払って寝ているのも、家族に迷惑をかけたいからじゃない。単に自分が可愛いのだ。どんな時にも一番に自分のことを考え、自分を守ろうとする。
彼は病的なまでに家族を愛する人物として描かれているが、ただ自分を守るためには家族を愛しているのだ。カチェリーナをやたらと褒め称えたり、彼女の言動をフォローしたり、靴下を飲んだりすることで、家族への感謝と彼女らの崇高さを示し己の愚かさを見せ付ける。そう、他の誰かに指摘されるよりも早く。他人に「この愚か者」などと責められて傷つくのが恐いために、自ら積極的に己を卑下する。「わしが世間並みの夫といわれますかい?」「わしのようなこんな人間を、誰か気の毒に思ってくれる人がありますかね?」彼は何度も何度も自分を守るためのシールドを張っている。
だからといって、彼は家族のために頑張ろうとか立ち直ろうというような努力は一切していない。それどころか、自分を哀れんで酒に溺れる毎日。かなりの矛盾を感じるが、やはりこれも家族に迷惑をかけようとか仕事が面倒くさいとか、そういう悪い意識があってやっているのではない。彼はこういう性根なのだ。自分が可愛い上に自分に甘い。嫌なことがあるとすぐに酒に助けを求める。誰かに同情を求める。家族に申し訳ないとは思っていても、どうしてもやめられない。誰かが彼に諭したとしても、馬の耳に念仏だろう。さて、ここで娘のソーニャの話をしよう。彼女はだらしのない父親に悪態こそついていたようだが、大いに反抗するような描写は出てこない。それどころか、ソーニャは父が稼がない分を補うかのように自分の身体を売って生活費を稼いでいる。嫌々ながらのことではあろうが、それでも一生懸命家族を支えている。これには、先ほど述べたマルメラードフの性根が関係してくる。家族よりも自分を愛しく思う父。だが、彼は決して悪気があってやるわけではない。そういう性格だから仕方ないのだ。ソーニャはそのことを充分わかっているために必要以上に反抗したりせず、寧ろ「私が父を支えなければ」という思いで毎日見知らぬ男に抱かれているのだと思う。先ほど、ソーニャのなかでは、「家族」のために仕事をするという意識より、「父」のために仕事をするという意識のほうが強いのではないか。
冒頭でも延べた通り、私がもしもソーニャの立場だったら、やっぱり同じように黙って父のために働くと思う。ああいう性根の父を見捨てるのは、娘として失格だ。親子である以上、お互いを理解し弱点や欠点を補い合いながら生きていかねばならない。といっても、今回の場合ソーニャが一方的にマルメラードフを支えているのだが……。
ここまでマルメラードフを散々に扱き下ろしたが、実を言えば私自身が彼とよく似ているのだ。だからこそ同情する気になれないのだが。私もよく必要以上に自分を卑下する。それも、マルメラードフと同じように誰かに指摘される前に。理由も彼と同じ、傷つくのが恐いからである。一見謙虚に見えて、実は自分のことしか考えていない甘えん坊。それが私と彼の共通点だ。だから、この長々とした身の上話を読んでいると、まるで自分が喋っているかのような変な錯覚に陥った。きっと、私と同じようにマルメラードフと共通点のある人間はたくさんいるだろう。現代に通ずる人間心理を100年以上も前に描き出すとは、さすがドストエフスキーである。
マルメラードフは一体どんな最期を迎えるのだろう。落合版「罪と罰」でマルメラードフに成り代わった飴屋は主人公の自殺を止めようとしてあっけなく命を落としたが、本家のマルメラードフも同じように一瞬で死んでしまうのだろうか。そしてその時、誰が彼に同情するのだろうか。
中野 沙羅
私はマルメラードフをひたすら批判する 
 
           
 マルメラードフは典型的に自堕落な人間だ。彼は官吏を退職してからは、酒に溺れて家族に迷惑をかけっぱなしある。酒に依存する彼は、酒をまるで命の水であるかのように扱い手放すという選択肢を知らない。そして、高みにいた人間が如何にして堕ちてゆくのか、という過程を生々しく数十ページにかけて書き表している。ドストエフスキーの文章は全てがカッコ内のセリフだというのに、全くと言って無駄のないものであり、かつ残酷である。
 先日から阿部公房著「壁」を読み始めた。その冒頭に石川淳が面白い解説を記している。
それは、眼の前に壁が出来た時無暗に頭をぶつけるのではなく、そこで曲がればよいと最初に説いたのはドストエフスキー氏であるというものだった。ここでマルメラードフの前に壁があるとしよう。すると、彼は何度も同じことを繰り返して壁にぶつかり続ける愚者であろう。彼の頭の中には壁の前で曲がる、という選択肢は存在しないからだ。つまり、メビウスのリングのような始まりと終わりがない道の上で、彼は出口を探して、いや何のために歩き始めたのかも分からず彷徨っているのである。
 そんな彼を支える周りの人間も、どうしても堕落せずにはいられなくなる。
 前回の感想で私は殺人には反対するということを述べたが、このような人間は居なくなってもいいと思う。世の中に必要ないと思うし、生まれてきたこと自体がとても理解できない。もし神がいたならば、どうしてこのような人間をうんでしまったのか。
 私は、自分は堕落していないと思っている。しかし、最近はどうだ? 未成年にもかかわらず、酒を飲む。いや、未成年という概念に縛られていること自体がおかしいと思う。好きなものを好きなように飲んで何が悪いのだ。周りに迷惑さえかけなければ、私は何をしてもいいと内心思ってさえいるのだが、それは他の人から見たらどのように見られるのだろうか。迷惑をかけているマルメラードフ、彼は害悪そのものだ。生きている、生きていないに価値があるならば、彼はないに等しいだろう。
 ではなぜ彼は、自らを辱めるという堕落した行為を行うのか? それは自分がいつぞやかは高みで飛ぶことに慣れ切っていた鳥だったという自覚があるからだ。恥、は一種の人間が人間らしくあるための防壁である。その恥(理性と置き換えてもここでは相違ないだろう)がなくなったとき、人間は一種の堕落した生き物と化するのだ。
 私は彼のセリフの部分を読んで、実に不快な気分になったし、なぜこのような部分を清水師が課題として出すのかはっきりいって理解できなかった。だが、今こうやって書いていううちに分かったことがひとつだけある。
それは、この部分は読者に対して一定の感情を抱かせてしまう、ということだ。
 誰しも、彼の様にはなりたいとは思うまい。
誰しも、今自分のいる位置よりも堕落したいとは思わない、むしろ上がっていきたい。しかし、そこには気力が必要であるし、そのうえ行動する努力を伴わなくてはならない。そのようにして考えると、皆が皆彼に対して抱くのは「不快感」そのものではないかと思う。
ドストエフスキーはこのセリフ(随分長いのだが)を通して、一体何を伝えたかったのか。どうしてこのように、セリフ一筋でひたすら伝えようとしたのか。
 そもそも、彼は他人にどのようにみられたいのか。よく見られたくはないのか、どうしてそんな自堕落なまねをするのか。
 私には理解できない。
 だがしかし、「罪と罰」にはこの一節なしには成り立たない気もするのだ。
 私がこの作品を読み終わる頃、少しは考えが変わっているかもしれない。
市野瀬
マルメラードフの告白について

マルメラードフは、私には理解できない部分を多く持つ不思議な男である。告白の場面を読んで、それを深く感じた。まず、どこが不思議なのか、それを書く前にこの男の素性を大まかに整理しておこうと思う。マルメラードフは、いわゆる駄目人間の模範のような男である。彼は以前まで官吏という、現代でいうところの国家公務員のような安定した職業に就いていた。その頃のマルメラードフは至って真面目な普通の役人であったが、定員改正のために失職(今で言うリストラにあったわけだ)してからというものの、酒に溺れ家庭を省みないようになってしまう。もちろん、本来は一家の大黒柱であるはずのマルメラードフがこの調子なのだから、家計は火の車だ。そこで、娘のソーニャが自らの身体を売り、生活費を稼ぐことになるのだが、本来父親ならば(父親だからこそ余計に)激怒し、「そんな仕事をするような、不埒な娘に育てた覚えはない!」とかなんとか言って、娘の頬を一発張り飛ばしでもしそうなものだが、この男は違う。娘がそうやって身体を売って稼いだなけなしのお金(しかも、これは本来生活費に当てるためのお金だ)を、自らの酒代に根こそぎつぎ込んでしまうのだ。
もし自分の夫がこのような男だったら、一体どうすればいいのだろうか。私は、カテリーナのように寛大な態度を取ることなどできないだろうと思う。確かに、カテリーナはマルメラードフのことを殴ったり蹴ったり、髪の毛を引っ張って引き摺ったりとやりたい放題だ。が、病を患い、ひどい時には喀血までするような状態なのに、治療費を出してやるどころか有り金を全て使い果たすマルメラードフの行為に比べたら、カテリーナのやっていることはまだ可愛いものである。むしろ、これぐらいの報いを受けさせてやって当然なのではないか、とも思える。
と、ここまでマルメラードフがいかに最低な人間なのかを書いてきたが、最初に述べた通り、この男にはそれだけではない不思議な部分があるのだ。例えば、現代では酒に溺れ家族に暴力をふるうといったパターンが多く見られ、マルメラードフも一歩間違えばこのパターンに嵌ってもおかしくないだけの素質を持っている。にも関わらず、この男は決して家族に暴力をふるったりなどしない。またなぜ酒に溺れるのかについて、彼は告白の中で「わしが酒を飲むのは、つまり酔いの中に憐憫と感傷を求めるためなんで・・・」と言う。一見するとその場しのぎの屁理屈のようだが、これは彼の本心なのだ。つまり、彼は自分の浅ましさ・醜さをよく理解した上で自分の行為を心から恥じ、このような報いを受けるべきであると考えているのだ。けれど、その悲しみを受け止めることからは逃げたいから、酒に溺れ、苦しい現実から目を背ける。ここが、私が彼を「不思議」だと形容した一番の理由だ。彼の中には相反するものが共存している。自分が嫌いで自分の行いも嫌いで、でもこの現状にも飽き飽きしている。売春婦をする娘に感謝をしつつも、そんな娘の行いが恥ずかしくてしょうがない。妻に申し訳ないと思い、妻の暴力を受け入れているにも関わらず、そんな妻のことが怖くて仕方が無い。そしてこんなどん詰まりの現状をどうにかして変えたいという気持ちは持っているのに、酒を飲み、酔うことでそれから逃げようとする。彼の中は矛盾だらけだ。それがこの告白に如実に表れている。こんなどうしようもなくて実に不可思議な男だが、見捨てることができないのは、彼が正に人間の弱さそのものを体現しているからだ。だからこそ、読者(私も含め)は彼に、自分の中に存在する弱い部分をと同じ部分を見出し、共感するのだ。本当にどうしようもないくせに、なんとも小憎たらしい奴だ、と思う。
内山果歩
マルメラードフの意味

         
 マルメラードフの告白は、彼の言葉のなかに『洗うがごとき赤貧となると、こいつはもう悪徳なんですな。』とあるように、今後のラスコーリニコフを暗示していると思う。そして、多くの点でこの二人は似通っていると思う。しかし、大きな点でこの二人の悪徳は異なっていると思う。
 では、マルメラードフの悪徳とは何か。そして、それは誰に向けられたものなのか。
 マルメラードフの場合の悪徳は『苦しみで苦しみを洗うこと』だろう。そして、それは他人ではなく、自分自身に向けられた悪徳であると思う。しかし、自分自身に向けられた悪徳だからといって、自分のみを苦しめるものではない。彼の場合は、他者(殊に家族)を苦しめ、その自分が苦しめたという事実によって苦しむのだ。苦しむことによって救われるのだろう。語弊があるかも知れないが、私は人を傷つけてしまった時に、面と向って相手に怒られたり貶されたりした方が、自分のなかにある罪悪感が楽になる。それと同じ心理だろうと思う。マルメラードフがカチェリーナに、髪をつかんで引きずりまわされる時に『これも私には快楽なんですよ!苦しみじゃなくて、か・い・ら・くなんだ、』と言ったのも、そういうことだと思う。彼にとって苦しむことは、一種の贖罪の儀式のようなものなのだと思う。そうしなければ、家族に苦しい生活を強いていることや自尊心が傷つけられていることに耐えられないのだろう。
 また、エピソードとしても今後のラスコーリニコフを暗示するものがある。
 一つ目は、金貸しとの関係だ。この場合は、マルメラードフ+カチェリーナとラスコーリニコフといった方が良いかもしれない。富のあるもの(強者)と貧困により餓えるもの(弱者)の関係だ。『無礼なまねは許さない。だから、レベジャートニコフさんの無作法もそのままじゃおけなかった。』とマルメラードフはカチェリーナのことを言っている。教養や知性、思慮分別のある人間が弱者となり、無作法者が強者となる。ここで、ラスコーリニコフのアリョーナ・イワーノヴナとの関係や馬の夢と重なる。ここで、ラスコーリニコフは嫌悪感と正義感を抱くが、マルメラードフは諦めと憤りを感じる。
 二つ目は、ソーニャの存在だ。ソーニャはカチェリーナに『家族のために働け』と言われ、自分を犠牲にして家族を守ろうとする。まるで、ドゥーニャのようだ。もっと言うなれば、カチェリーナはプリへーリヤのようだ。ここで、ラスコーリニコフは自尊心と現状との葛藤と姉に対する罪悪感と嫌悪感、母親に対する嫌悪感と不信感を抱く。一方、マルメラードフは罪悪感と無力な自分に対する悲しみを抱いているように思う。
 三つ目は、周りの期待の仕方だ。ラスコーリニコフは母親から、異常なまでの期待感を抱かれている。それは、どう考えても母親の理想を勝手にラスコーリニコフに貼り付けて、美化したようにしか思えない。マルメラードフもまた、官吏に復帰した時にカチェリーナから、理想化して美化された期待を抱かれる。これに対して、ラスコーリニコフは嫌悪感を、マルメラードフは諦めを抱く。
 この二人は、共に知的で思慮分別を持っているにも関わらず、自尊心を保ちたいがために負の深みにはまっていく。しかし、同じような人間、同じようなエピソード、同じような境遇にありながら、全てにおいて結果が大きな相違をもつ。私は、それを凄く面白く感じた。
 また、各エピソードに対する感情の違いも面白い。マルメラードフは、自分に対して多くの負の感情を抱く。悲しみ、諦め、自責の念などだ。一方、ラスコーリニコフは外のモノに対して多くの感情を抱く。怒り、嫌悪感などだ。これは、人生経験の違いだろうか。そう思うと、やはりマルメラードフは年をとり、所帯を持っているだけあるのかもしれないと思う。
 そして、もうひとつこの場面で気になったことがある。それは、マルメラードフのセリフに聖書の言葉が多く引用されていることだ。これは、この後に起こるラスコーリニコフによる『人による人に対する裁き』との対比のように思える。マルメラードフの人生には神が存在し、それが一種の摂理的なものになっている。それに対して、ラスコーリニコフは自分が中心に立ち、それが一番の法となっているように思う。
 この場面は、宗教を中心とする保守的な考えの人間と、人間・社会を中心とする先進的な人間の対比にもなっている面白い場面だと思う。

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