2009
05.20

落合尚之版『罪と罰』第四巻を読む(坂本綾乃)④

日本文学特論Ⅱ, 落合尚之版『罪と罰』について

「日本文学特論Ⅱ」(日芸大学院講座)坂本綾乃(連載④)
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落合尚之版『罪と罰』第四巻を読む(坂本綾乃)④

落合尚之版『罪と罰』を読む④ 「闇」
坂本綾乃
 


落合尚之版『罪と罰』を読む④ 「闇」
坂本綾乃
三巻で弥勒が意識を失くしてから、舞台は一年前へと移る。
弥勒の「計画」があまりにもインパクトがあったからか、大学でのシーンはなぜか「ああ、弥勒も大学に通っていたんだな」と不思議な気になった。家庭教師のアルバイトも上手くいかず、生活に困っていた弥勒に舞いこんだインターンの誘い。弥勒を誘った人物こそ、一巻からその存在が気になっているものの、彼が何者であるかは分からず、その口元の不気味な笑みだけが印象にあった、首藤魁だった。
 インターン先でも自ら居場所を消していく弥勒はやはり孤立していく。「典型的な受験エリート、コミュニケーション能力に難あり…社会で通用しない」といった言葉が社員たちから出てくる。対して弥勒は「この場限りの行きずりの関係だ、目をつぶって、鼻をつまんで、我慢してやり過ごせばいい」と殻にこもる。
どんなに屈辱でも必要とあれば引っ込められるプライドでなければ持っている意味はないと思う。だんだんと弥勒に対して苛立ちがつのってきた。現実に弥勒のような男子が身近にいたら、とりあえず正座してればいい。横に立って鼻で笑ってやる。
弥勒が仕事よりも重点を置いていたのが、新人賞の締め切りだった。在学中にデビューすることで、母が望む道とは違うが立派な人間になることができ、また賞金も手に入る。とにかく、何よりも執筆し完成させることが重要だったのだ。ここで言う母が望む道とは、弥勒の父と同じ教育者で、しかも立派な教育者になることだ。家庭教師の件を含め、正直な感想を言えば弥勒は教育者には向かない。むしろ教育者になってはいけないと私は思う。自分の能力を過信する弥勒は他人に興味がない。他人と言うより人間に興味がないのだろう。だからこそ、真正面から向き合うことで生徒との関係が成り立つ教育者にはやはりなれないと思うのだ。
執筆する場所を求めてあけた扉が、首藤に繋がっているなんて弥勒自身想像できなかっただろう。たった一年前の出来事。だが、首藤魁と出会ったことで、弥勒が何かを得たのは間違いない。その欲望に忠実な生き方、誰からも咎められないアウトローな存在の首藤に弥勒は、嫌悪感を抱きながらも本能的に抗いきれない魅力を彼に感じていたようだ。
外回りと称して連れて行かれたPUBで弥勒は初めて社会の闇に触れる。だが、その闇に触れることを怖れて彼は逃げ出してしまう。そんな弥勒に対して首藤は「外に出て世界に触れてみろ」と言うのだ。弥勒が書く文章は格調高く文学的、だが中身は空っぽだと告げ、どんどん弥勒の心に土足で踏み込んでくる。「人間に興味のない人間が人間を書くことなんてできない」と、それは後に作品が佳作として賞をとった時の選評にも書かれている。弥勒はただ、自分とばかり向き合ってきたのだ。どんなに、大学やインターン先で周りの人間を愚劣だと見下しても、首藤の前ではただ丸裸の子どものようになってしまう弥勒、彼は本当の自分に向き合うことが出来ていないのだ。
いままで、立派な人間だったと言われてきた弥勒の父親の死の謎もここで明かされてくる。家族も知らない本当の父の顔。知っているのは母でもなく、一緒に薬を飲んだ女学生だと言うこと。立派な人間が立派でない死に方をしたこと。まだ幼かった弥勒にとってそれは言葉でもなく周りの空気から感じ取ったものだった。立派な父がすべてを捨てて破滅に飛び込ませたそこに何を見たのか知りたくなった弥勒は、行動に出る。だが、その行動は姉によって遮られてしまう。弥勒にとって何よりも大切な姉、嘉乃の存在は聖女のようだ。何もかも穢れを知らず、自分のために犠牲を払う姉の存在。
迫る〈闇〉(谷部長)から姉を救い、弥勒に知らせたのは姉の叫びではなく首藤だった。首藤によって知ることができた、自分の中に住む闇の存在。「殺意」と言う名の人間に対する興味、この「殺意」と向き合うことが出来ていたのならば、弥勒が書いた作品は変わったのかもしれない。
 半年後に弥勒の携帯にかかってきた非通知の着信は、ほかならぬ首藤からのものだった。電話越しの存在感は圧倒的だった。草食獣が、掟をくつがえして肉食獣になり、自ら王国を打ち立てると言う。「この世は地獄だ、人間の欲が地獄を招く、これは世界の必然だ、欲望は生の本能そのものだから…猥雑で残酷なものだから世界は美しい」と、そこから目を背ける弥勒に対して疑問を投げつける。「欲望を肯定しろ、地獄こそが楽園だ、それがこの世界だ、目を背けるな」この言葉を首藤は残して電話を切った。弥勒の前に広がるのは、先が霞んだ吹雪の世界。
長い夢から目を覚ますと季節は真逆の、蝉が鳴くあの夏。次なる鍵を握るのは飴屋とその妻だろう…。

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