2009
05.15

寺山修司と付き合えるか否か(五十嵐綾野)

寺山修司・関係

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寺山修司の諸相
五十嵐綾野さんの寺山修司論(連載①)
寺山修司と付き合えるか否か
五十嵐綾野さんの寺山修司論(連載②)
 寺山修司『家出のすすめ』と引きこもり


 寺山修司と付き合えるか否か
五十嵐 綾野
寺山修司に告白されたらどうするか。熱烈にアタックされたらどうするか。はっきり言って嫌だ。絶対それは受け入れられない。想像すらできないことだ。しかし、真剣に考えてみると案外付き合ってもいいのではないかと思うようになった。なぜなら、怪人二十面相のような人である。気になる。私は好奇心が人一倍強いのだ。
偶然なのかそういう趣味なのか、私が好きなミュージシャンと俳優が青森県出身だった。もちろん、太宰治も好きだ。だから、いつの日か私が青森県出身の恋人を連れてくるのでは、と両親は危ぶんでいる。今までに親しくなった人の中で青森県出身の人はいない。これから出てくるのだろうか。寺山修司、太宰治(本名・津島修治)に続く第三のシュウジが。
あの寺山が私の恋人になる。面白そうではないか。ちなみに、あの顔は別に好みではない。非常に興味があるのは、あの独特の訛りのある喋り方で、どうやって口説くのだろうということだ。
よく「標準語より訛りの方が親しみがある。」と言う人がいるが私はそうは思わない。何を言っているのかわからないから逆に緊張する。だからこそ真面目に聞いて言葉を吟味しようとする。なんでもないと思っている言葉が急に特別に感じてくるのだ。そういう意味では、標準語を話す人に比べて身近に感じるかもしれない。
 そもそも、寺山は文句を言いながらも万年「母恋し」だ。おそらく、男性はみなそうなのかもしれないが、寺山の母親は別格である。
作品に出てくる女性達を見てみると、初恋の夏美、トルコ嬢の桃ちゃん、酒場のふみ子といったようにいまいちパッとしない。『寺山修司少女詩集』という作品も夢見る少女という感じのロマンチックなものが多い。何か女性に対して物凄い幻想を抱いているかのようである。
 寺山が自ら好みの女性について語っている時もある。「要通りを西女通りと読む人がいい」、「妹のような人」、「モデルのような人には妙にサディスティックになる」などが挙げられる。
 どうしてもこういう人でなければダメだ、ということはなさそうである。比較的、丸顔でタヌキ顔が好きという説も聞いたことがある。確かに、結婚した九條さんはそのタイプだろう。
 今、寺山が生きて活躍していたら、私は劇団天井桟敷のメンバーになりたいと思う。あるいは、あの時代に生きていたら家出してでも天井桟敷の扉を叩くだろう。しかし、なんだか寂しい気持ちになる。やはり寺山がいないからだ。ふと手が止まる。これは、好きな人の側にいたいというあの感情と同じではないか。
寺山の活動していた時代の空気を吸うことはできない。寺山に限らず生きているうちに会いたかったと思う人はよくいる。会ったからといってどうするわけでもない。自分の目で直接見て感じることがいかに大切か。関わったことがある人に対して、ズルイズルイと地団駄踏みたくなる。やきもちの一つでも焼いた方が研究していて楽しいこともあるのだ。
 
 寺山修司『家出のすすめ』と引きこもり 
                                五十嵐 綾野
かつて、寺山修司の著書『家出のすすめ』(昭和四十七年・角川文庫)を読んで実際に家出をした人がいるらしい。当時、家出人の鞄には、『家出のすすめ』か寺山の詩集が入っていたという話も聞いたことがある。現実味がない話だが、大学の文化祭などで積極的に「家出のすすめ」を説いていた彼の行動から見るとただの噂ではないだろう。
家出という言葉は刺激的である。特に地方の若者たちにとっては、故郷を出て都会へ出る要因になったことは言うまででもない。この著書は「家出のすすめ」「悪徳のすすめ」「反俗のすすめ」「自立のすすめ」という4章から成り立っている。どれも書いてあることは極端であり、屁理屈と言葉遊びで固められているところもある。そもそも家出は憧れるものではない。現実を見るべきだ。ところが寺山は、現実を見るなら、家出をしろとアジってくるのである。
 現代では家出よりも、家出の反語とも受け取れる引きこもりが社会現象になっている。夢を持って飛び出すのではなく、夢を持てない若者が家に閉じこもるようになってしまった。しかし、完全に他者との関係を絶っているのではない。インターネットという細い糸で自分と同じ状況の人と繋がり安心する。
たとえ、家出をしたいと思っても、夢より現実が勝る。家を捨てるには相当の覚悟と決意が必要だ。リスクが大きすぎるという理由が一番かもしれないが、そこまで苦労をしてまでやりたくはないというのが正直な気持ちであろうか。何か起こしてから考えるという勇気があるわけでもない。
私の中で家出というと、ある日突然いなくなるという、どちらかというと蒸発に近いイメージだ。もちろん書置きはなしである。書置きをするのは、「どうぞ私を探してください。」と遠回しに甘えを言っているようで非常に良くない。
家出と聞いて思い浮かべるものとして、例をあげると『ドラえもん』に出てくるのび太君である。この少年は、0点を取れば家出、ママに叱られて家出、ジャイアンに苛められて家出というようにやたらと家出をしたがる。玄関から威勢よく家出をするのではなくいつも窓から、ママに知られない様にこっそりタケコプターで飛び出していくことも見逃せない。側にはドラえもんという最強のパートナーがいることから、完璧な家出とは言えない。ちょっと出て腹の虫が治まればすぐ帰る。このスタイルは現代のプチ家出に似ている。
何から逃げたいのか、というのが問題なのである。親から逃げたいのか、自分から逃げたいのか、社会から逃げたいのか。それによって、逃げ込む場所は変わってくる。「家」そのものを壊せとは言っていない。この辺りをはき違えてはならない。とはいっても、すでに壊れ始めてしまった「家」でどう自分自身を作り上げるかということも今後の課題である。
寺山のいう家出とは象徴としての家出であり、母性や母なるものからの精神的な自立である。寺山は逃げ続けた人に見える。作品において母殺しをして、過去を虚構で塗り固めた。母親を超えると言いつつも、結局は母親の懐にいるという自分は何なのかという悲しみに始終苦しんでいた。
「一日一回は怒りなさい」と寺山は言う。もちろんキレることではない。感情の起伏がないということは、刺激が足りないのである。将来に明確なヴィジョンが持てないのなら、この一文を暗記することから、始めてみてもいいのではないだろうか。
「あなたたちは、何もわかっちゃいないんだ、全く、何も目標も計画もさだまっていないからこそ、家出という行動を媒介として目標をさだめ、計画を組み立てなければならないのであり、幸福な家庭であるからこそ、それを超克しなければならないのです。」
『家出のすすめ』より

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