2009
05.14

落合尚之版『罪と罰』について(マンガ論受講者)

マンガ論, 落合尚之版『罪と罰』について

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落合尚之版『罪と罰』について(マンガ論受講者)
のレポート二本を紹介します。
落合尚之「罪と罰 A Falsified Romance」 を読んで                      文芸学科1年  長田有理
落合尚之版『罪と罰』について
         文芸学科 1年 太細友香里


落合尚之「罪と罰 A Falsified Romance」 を読んで
       文芸学科1年  長田有理

今回、課題を出されて、ドストエスキーの原作「罪と罰」を1度も読んだことがなく、あらすじも全くわからなかった私は、ウィキペディアで「罪と罰」を調べました。
頭脳明晰ではあるが貧しい元大学生ラスコーリニコフが、「一つの微細な罪悪は百の善行に償われる」「選ばれた非凡人は、新たな世の中の成長のためなら、社会道徳を踏み外す権利を持つ」という独自の犯罪理論をもとに、金貸しの強欲狡猾な老婆を殺害し、奪った金で世の中のために善行をしようと企てるも、殺害の現場に偶然居合わせたその妹まで殺害してしまう。この思いがけぬ殺人に、ラスコーリニコフの罪の意識が増長し、発狂していく。しかし、ラスコーリニコフよりも惨憺たる生活を送る娼婦ソーニャの家族のためにつくす徹底された自己犠牲の生き方に心をうたれ、最後には自首する。人間回復への強烈な願望を訴えたヒューマニズムが描かれた小説である。
一般には、正当化された殺人、貧困に喘ぐ民衆、有神論と無神論の対決などの普遍的かつ哲学的なテーマを扱い、現実と理想との乖離や論理の矛盾・崩壊などを描いた(すなわち、当時広まった社会主義思想への批判でもある)思想小説の類に属するとされる。 一方で、老婆殺しの事件を追及する予審判事ポルフィーリィに追いつめられたラスコーリニコフが鬼気迫る勢いで反論する、彼との三度に渡る論戦はさながら推理小説であり、翻訳を手がけた江川卓は『刑事コロンボ』や『古畑任三郎』のような倒叙ミステリーの様相を呈していると語っている
「伝説の英雄のような人類の指導者となるべき選ばれし者は、より大局的な正義を為すためならば、既存の法や規範をも超越する資格を持つ」という独自の理論を持つ青年・ラスコーリニコフは、経済的困窮から志半ばにして法学の道を断念し、荒んだ日々を送っていた。彼は、偶然、阿漕な高利貸しの老婆・アリョーナの話を耳にして以来、もし、自らに、その資格があるのならば、「選ばれし者」として正義の鉄槌を下すべきではないかとの思索を巡らし始め、ある日、遂に、アリョーナの殺害に及ぶ。しかし、予定外に遭遇したアリョーナの妹・リザヴェータをも巻き添えにしてしまい、その後の彼を待っていたのは、想像を絶する苦悩と葛藤の日々、そして、老姉妹殺害犯を追う敏腕予審判事・ポルフィーリィとの間で繰り広げられる壮絶な心理戦・頭脳戦であった。
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
この文章を読めば、原作に関して何の知識もない自分でも、先生も5巻の帯に書かれているように、「罪と罰 A Falsified Romance」が、ドフトエスキーの「罪と罰」の“再構築漫画”であることは明らかにわかりました。
作者が、小説としてではなく、漫画として、なおかつ現代日本を舞台として、「罪と罰」のストーリーを描いていることから、漫画の与える影響力の大きさや親しみやすさを利用して、原作を広めたいという気持ちが伝わりました。
今回は、先生の授業と同じように、自分なりに漫画の分析と、再構築をしていきたいと思います。
まず登場人物はこのように設定されています。
・ラスコーリニコフ→裁弥勒
・アリョーナ→馬場光
・リザヴェータ→島津理沙
・ソーニャ→園山英知香
他にも、検事の五位蔵人がラスコーリニコフを追い詰める予審判事のポルフィーリィ、エチカの夫の飴屋菊夫がソーニャの父、マルメラードフであることなども予想できます。
また、本編には関わりがないかもしれませんが、ラスコーリニコフのフルネームのイニシャル(Р.Р.Р.)を上下反転させると666となる、とされることなどから、「3つの6」で「みろく」という名前にしたことなども読み取れます。もう一つ、4巻で黄が言うように、弥勒とは「弥勒菩薩」と同じ名前であり、弥勒菩薩は、釈迦の次にブッダになることを約束され、人々を救済する存在であるとされています。つまり、2巻のバス停で弥勒がヒカルを殺す計画を頭に思い浮かべる場面で、「あの女が死ねばその多くが救われる……」という言葉があります。その後にあるリスクが「殺人を犯した重圧」と「悟りを開くための修行」という違いはあれ、弥勒が人を救う存在であることがわかります。
次に漫画を見る上で、重要になる表紙に注目します。
黒と、カラフルな色の2色使いが非常にインパクトを与えます。それに比べて、裏表紙は2巻を除いて、多様な色を使い、リアルな描写が見られます。また、表紙が1人のイラストであるのに対し、裏表紙は2人、そして、描かれた人物が、次の段階へ進むきっかけとなった場面が描かれています。内容を読まなければその場面がどんな意味を持つかはわからない。これから読む人に興味を与え、読み終わった人に重要性を納得させるカバーになっていると思います。
1巻から読んでいくと、「〇〇と●●」というタイトルが8話、「☆☆の★」もしくは単語だけのタイトルが1話書かれているのがわかります。私が一番引きつけられたのは、第1話の「馬と鉄棒」です。弥勒が見る夢で、馬が鉄棒で殺されることを示していることは明確ですが、その中に込められた意味を分析してみました。
まず、「馬」とは人間に使われる動物、また草食動物です。4巻で首藤が語る、食物連鎖やヒエラルキーが当てはまります。また、自然が命じる使命として、それは正当化されています。「鉄棒」は人間が生んだ強固な物体、また、武器でもあります。人間を守る一方で、なにかを殺める道具にもなりえるものです。
そして、それは弥勒が犯した殺人にもあてはめられます。馬はリサとヒカル、人間は弥勒です。鉄は形を変えて、刃物になり、弥勒は草食動物を糧として食らう肉食動物になります。夢の中で、それを見ているのは、首藤。首藤は自分を買った女を殺し、弥勒よりも先に肉食動物になっていました。また、調べてみると、
首藤の名前の「魁」という言葉は
1、かしら。頭領。首領。
2、他に先んじること。また、そのもの。さきがけ。
という意味があり、弥勒に先駆けて肉食動物になったこと、海外へ逃げ、王国を作ろうと言っていることなど、首藤は、この名前の意味そのものの人間であることがわかります。
1巻で気になるのは、1話の時間軸が2話よりも前であることです。そして、1話の描写は2巻の12話で再び描かれます。これは、主人公にとって、その中に出てくるもの、姉、首藤、馬(弱い人間)を殺すことが、大きな存在であることがわかります。
そして、ヒカルに初めて出会うファーストフード店で、リサがノルマをこなせと命令される場面。弥勒の顔がアップになり、4コマ割りで、だんだんと弥勒の顔に、暗く、濃い影が、かかっていきます。時が経っていくにつれて、ヒカルに芽生える殺意、計画が生まれていく過程を、影が表していると思います。また、弥勒が思いふけっている橋は、5巻で飴屋菊夫が死んでしまう橋によく似ています。橋でなにかを思うと、人の死に繋がっている。渡ると、死後の世界へ行ってしまう三途の川のように、橋=死への道、といったようなイメージを彷彿とさせます。
弥勒が家に帰ると、場面は管理人の家に移ります。ちゃぶ台に丸いお盆、先生が「チーコ」の時に説明してくださった、平和の象徴である「輪」が描かれています。明るく整理された部屋は、暗く、ゴミが散乱する弥勒の部屋と対比されて、とても印象的でした。
また、弥勒がヒカルたちの商売を調べようと決心する場面。「崇高な目的の達成が流された血をあがなうだろう」というセリフ。それを誇らしげに言うのは白人で、戦地で犠牲になっているのは黒人。傍観している日本人。ここでも、いまだに世界に蔓延する、人種によるヒエラルキーが表れています。
さらに読み進めていくと、女子高生のいじめ、援助交際や妊娠、また、相手の大人(ここでは弥勒の父)がそれによって社会的地位を失ってしまうこと、エチカがレイプされる場面などが描かれています。
近年、世間で話題になっている、携帯小説の影響か、そういった題材がすごく安っぽいものに見えてしまいました。
しかし実際に、現代日本で起きている問題であるのはわかりますし、原作の娼婦や高利貸しを、身近なもので描くには、もってこいの題材だとも思います。
話は戻って、リサが弥勒の説得を受け、ホテルの前でヒカルと対面する場面。
その次の話の表紙が、タロットカードのような描き方だと思いました。ヒカルとリサが並び、2人の前にはドクロ。ドクロとは世界共通で死を意味する物です。2人の後ろには丸。これは、後々も出てくる、弥勒を見守る太陽や月を表しています。つまり、この時点で2人の死は暗示されていた、とわかります。
2巻に入り、弥勒は殺人の計画を進めていく。ここでは、なんのミスもなく、まるで決められた小説のストーリーのように全てすんなりと事が運びます。
しかし、月に照らされる弥勒には影が。準備を進め、疲れ、眠る夢の中にも影が。決して表面的なものには現れない影が描かれています。
これは、計画を果たした後に、立て続けに気づく穴や、ミス、また、これからいつまでも弥勒が背負い続けることになる、「殺人」という罪の重み、暗さを表していると思います。
そして再び19話の表紙はカードのようになります。まるで聖母マリアとキリストのようなイラスト。女はリサにとてもよく似ていて、子供を非常に愛しているような表情を浮かべています。しかし、子供の手には斧。リサが殺されることを示した表紙ですが、女は微笑んでいます。そして、リサも、死んでなお、微笑んでいます。リサは幸せだった。弥勒の目的の達成は、少なからず、リサを救ったのだと思います。
しかしそのリスクは大きく、弥勒を苦しめていきます。誰ともわかり合えないという気持ちは見開きで、弥勒以外は世界の色が反転したように描かれ、その気持ちがどれほど大きいものかインパクトを与えています。
罪を咎められる恐怖におびえ、幻覚を見る。世の中の全てが敵に見える。
しかし、金を投函し、逃げて、意地でも無実でいようとする姿は、弥勒が人間的になっていくことを表していると思います。
その後は、首藤のことや、自分がなんのために、計画を遂行していくかを思い出していきます。先ほども書いたように、首藤の名前は、かしら。頭領。首領。
他に先んじること。また、そのもの。さきがけ。という意味があります。
この作品で描かれる夢は、無意識で、心の奥底を表していると言えます。
無意識に首藤を思い出した夢は、弥勒が、首藤のような生き方に憧れ、彼を自分の首領だと思っているのだと思います。
弥勒は眠り続けて、首藤との出会いを振り返ります。
首藤との付き合いは、かなり短いものに思えますが、1巻丸ごと、エピソードが描かれていることから、首藤が弥勒に与えた影響が、どれほどのものかを表しています。
また5巻に登場するエチカは、弥勒の姉と同じような「自己犠牲」の人生を歩んでいる人物です。
かつての同級生が弥勒と仲直りしたいという場面や、飴屋菊夫が、エチカを愛してくれという場面を、弥勒は勝手なことと馬鹿にしていますが、誰にもわかってもらえない自分を嘆きながらも、本当の姿を知って、同じことが言えるのか、と問いかける姿は、自分の本当の姿を知っても、離れないでいてくれる人が欲しい、と求めているように見えます。
弥勒は、全巻を通して、自分を愛し、守ってくれる姉を愛していると思います。
そんな姉と同じような犠牲の道を進むエチカ。
彼女と今後どういった関係を気づいていくのか。警察は弥勒を逮捕するためにどんな証拠をつかんでいくのか。“再構築漫画”は原作と同じ終わりを迎えるのか。今後もこの漫画から目が離せません。
落合尚之版『罪と罰』について
 文芸学科 1年 太細友香里
先ず、この物語を読んで感じた全体の雰囲気としては、“現在の日本における、表の光には当たらない、裏の世界の話”というものでした。
元のドストエフスキーが描いた罪と罰では、主人公ラスコルニコフに殺されるのは借金取りの老婦でしたが、(私はドストエフスキーの罪と罰を読んだことがないので、概略のみ、父親から聞きました)この漫画のなかに描かれているものは現代の日本社会であり、『売春』をテーマとしている部分が、物語の生々しさを明確に表していました。
主人公である弥勒の歪んでいく思考を不気味に思いながらも、『光を殺しても誰も悲しまない・むしろ多くの女子高生たちが助かるのだから、これは必要な犠牲である』という言い回しに共感を持ってしまうところもあります。シビアなテーマを扱いつつも、物語の魅力に引き込まれてしまうのは、こうした『正義と悪の狭間』という微妙な立場にある弥勒がある意味で人間らしく、人の心を覗きたがる人間の性質をうまく利用したストーリーであるように思います。
まず、このシリーズを通しての表紙のデザインについて言及すると、表紙の人物はほぼ単色で描かれており、背景は真っ黒。肌色などの“人間らしい”色を使わずに人物を描くことで、この物語の狂気的な部分が象徴されているように思います。背景が黒一色なのも、この物語の描く、裏の世界のどす黒さを表しているように感じました。
 第一巻の始まりで、扉から覗かせた弥勒の表情は、今後の物語の不気味さを強調するように暗い。髪の毛は整えられずボサボサで、目の下には隈ができていて、清水先生が『チーコ』で解説した男性のようにその表情や顔立ちを解析すれば、弥勒が自分の身なりに気を配らない様子を表しています。その数ページ後、見開きで弥勒の住む一室が描かれていますが、このコマによってさらに弥勒が普段から見かけや清潔さを気にかけない様子が見て取れます。私が思うに、このコマでは弥勒が自暴自棄になり自分をどうでもいいと思っている気持ちが表れているようです。また、部屋の様子にある食べ物の容器の様子から、弥勒がお金に困っていることも見て取れます。さらに、カーテンが閉まっていて部屋に日光が指さず、薄暗くなっている状態からみても、弥勒が他人を拒絶し、自分の殻に閉じこもっている様子もわかります。
次に、これも第一巻、前半のほうで、少し時間軸が飛んで弥勒が、この物語のメインである『計画』について触れる場面があります。そこで弥勒の見た夢である馬が殺される夢……最初に読んだ時はあまり意味がわからず、ただ読み流していましたが、何冊か読み進んでからもう一度見返してみると、いろいろと読み解けるものがありました。
後々の立場や物語を参照して、この夢にでてくるものと人物を対比するならば、やはり馬に暴力を働いて殺す主人は女子高生たちの弱みを握り、体を売らせて金を貪るヒカルであり、傷つけられながらも反抗しない馬は、売春させられる女子高生たち―――その代表であるリサであると思って間違いないでしょう。そして馬に一緒に暴力を働くのは、後ろ盾をしていたヤクザ……または金を払って行為をする客の男たちとしてもいいかもしれません。遠巻きにその様子を眺めていた人々は、いじめや売春を黙認する人間たち(ファーストフード店にいた男性二人組のような人たち)であると考えるのが妥当でしょう。
そして注目する所は、夢の最後に幼い弥勒の父親として出てきた首藤です。この時点では、私たち読者には彼の人物像も弥勒との関係もわからず、謎のままに終わってしまいます。しかし4巻で弥勒の過去に触れると、首藤の存在が弥勒の思考に大きく関わっていることがわかりました。所々のシーンで弥勒のなかに響いていた謎の言葉も、首藤のものであったこともその時に初めてわかります。
首藤の言葉は弥勒の意識に深く刻まれ、殺人計画を押し進める活力にもなっています。
つまり、弥勒にとって首藤という男の存在は、子供の成長に大きな影響をあたえる【父親】のような存在であることを表しているのです。人を殺したとされる首藤の影響力で、弥勒も殺人に手を染めることになる……首藤の人生や人格に沿うように歪んだ思考を持って行く弥勒の様子が、この夢の場面で暗示されているように思えてなりません。
第2巻の13話、リサと弥勒が会ってヒカルが取引する日にちが判明した時、弥勒の視点から帰っていくリサが大きく描かれ、上部分が少し黒色がかっています。落合尚之はこの物語のなかで、黒塗りで様々な効果的表現をしていますが、ここでは塗りつぶしている部分はありません。このシーンでは、一度諦めて晴れかけた弥勒のどす黒い感情がじわじわと復活していく状況を上手く表しているようです。そのあと、しばらく弥勒の表情か描かれないで、タイトル画面のコマで、同じように黒みがかった恐ろしい表情の弥勒が描かれています。これも弥勒のなかで黒い感情が復活したことを意味しています。そしてその場面で左目だけが白く描かれているのは、欲望や狂気に駆られた野獣のような視線を印象的に描き出しているのだろうと感じました。
第2巻、リサの部屋でヒカルが弥勒に殺された後、リサが殺人の現場を発見してしまった時、ヒカルの遺体は弥勒やリサと違って、黒く塗りつぶされて表現されていました。ただ血の海に沈んで染まった、とも考えられますが、狙いとしては、生きている人間と死んだ人間の世界の違いを表しているのでしょう。生者と死者の決して交わらない世界が、この色合いの違いで表現されています。事実、3巻はじめで殺されたリサの顔の部分も黒く塗りつぶされています。
第3巻の殺害の後、弥勒が服を着替えるシーンがあります。そこにある鏡に映った弥勒の虚ろな顔が映った1ページ分のコマがありました。あのコマがなぜ本人の直接の顔ではなく鏡に映った顔なのかと疑問に思いましたが、弥勒が初めて殺人鬼としての自分を認識した演出のためだと思います。あのページをめくると弥勒の顔が目に飛び込むようになっており、弥勒と同じような感覚であの虚ろな顔を目にするようになっています。弥勒と読者の目線がリンクして、物語にさらに臨場感がでていました。弥勒の心理状態がとてもよく分かる演出になっていました。
3巻の24話、弥勒が盗まれた自転車を取りに警察にいったシーン。そして第5巻42話の車で同級生・矢住と明美との会話シーンでは、弥勒以外の世界全てが黒く塗ってあり、弥勒が浮き出して見える、同じような構図のコマがあります。この2コマは、どちらも弥勒が他の人間たちと相容れない様子を描いていますが、私にはこの2コマの黒い部分がそれぞれ意味することは微妙に違うように思います。
3巻の方の黒は、先に述べたように、弥勒と他の人間たちが交わらず、相容れず、別の世界に住んでいるかのように思える弥勒の孤独感や孤立感を表しています。それは5巻でも同じなのですが、こちらのほうには弥勒の言い知れない罪悪感も共に表しているようです。3巻では弥勒の表情が見えないようになっていますが、5巻では弥勒の力ない表情が見えるようになっています。これも、3巻から5巻までの弥勒の心理的な変化を表しているのでしょう。
4巻はすべてが弥勒の過去編で構成されています。このタイミングで何故過去が分かるようになっているのかは図りかねますが、この過去編を読んだことで、私の弥勒への印象はガラリと変わりました。
それまでは何時も暗い表情で、顔も恐ろしげに描かれており、狂気と罪の意識に駆られていく不気味な印象がほとんどでしたが、過去編では隈などの黒い部分が抜けて、全体的に不気味さが抜けた大学生になっています。言動も筋が通っていたり、常人的な正義感をもっていたりと、かなり私たちに身近な青年であった様子が描かれていました。このように弥勒が一般的であった部分を映し出すことで読者にさらに弥勒への親近感を与える狙いがあったのではと思います。そしてその過去に出てくる首藤は、これからの(つまり現在の)弥勒を象徴する存在になっています。光の当たるところで孤独に高みを目指す弥勒と、日の当たらない闇に生きる首藤が対照的に表現され、弥勒が気絶している中で光と闇の合間をさまよっている様子が見てとれます。その証拠に144ページで首藤は黒く表現されており、明るい弥勒と対照的になっています。そして上記で述べた第2巻の13話のコマの演出のように首藤の目だけが明るく表現されているのも、現在の弥勒が首藤に近づいているのを表しているように思います。2巻13話の弥勒はこのときの首藤ほど真っ黒ではありませんが、それはまだ弥勒が首藤のように闇になりきれていないことを示しているのではないでしょうか。
5巻で出てくる飴屋やエチカのエピソードは一体何を表しているのでしょうか。今の時点では私にはよく分かりません。しかし境遇がリサなどに少し似ていたり、弥勒がエチカに知的好奇心を持ったり、飴屋を父親に重ねたりしているので、これからエチカが弥勒に深く関わっていくのだろうと予想することができます。
そして最後に物語全体を通して、重要な場面───物語が動く場面に、必ずと言って良いほど蝉の鳴き声が入ります(過去編ではありませんが)。私が思うに、蝉は脱皮した後、ほんの一週間しか生きることが出来ません。いまだこの物語は途中で、最終的にどうなるのかはわかりませんが、おそらく蝉の短い生涯にかけて、弥勒の計画が上手く行かずに、終わってしまうことを表しているのではないでしょうか。物語の展開時に常に蝉の鳴き声が入ることで読者にそのシーン、そのコマが重要なものであることを認識させる役割も持ち、未来にあるこの計画の結末を暗示している。なんでもない蝉の鳴き声が恐ろしく感じてしまう、素晴らしい演出であると思います。
この、再構築された『罪と罰』が小説ではなく、漫画として表現されたことで、実際に存在するであろう社会の暗闇が生生しく感じられます。文章だけではなかなか表しきれない社会のどす黒さや不気味さが『絵』という媒体を通して私たち読者の脳に直接刻まれます。女である私には少々きつい話題ではありながらも、先をはやく読みたくなる演出や、弥勒の心内を細かく描く描写にとても心惹かれました。
弥勒の行動に不信感を感じながらもヒカルやヤクザたちの行動に嫌悪を感じて弥勒の行動に共感を抱いたり、社会の理不尽さに不満を抱いたり……表現が直に伝わってくることで、漫画の中の物語が自分のなかに浸透されて、世の中を見る目が変わってしまったような気がします。漫画だからこそ、こうした立体感や存在感が現れ、怖いもの見たさに心奪われるのでしょう。
今回この漫画を読んで、普通では目に入らない、知ってはいても目を背けていたようなことに少しだけ触れることができました。趣向とは違った漫画を読むことができて、結果的には良かったと思います。こうした機会がなければこのような漫画はこれから先ずっと読まなかったと思います。
そして、今回初めて自分で『漫画を論理的に読み解く』ということを意識して読むことができて、とても貴重な経験になりました。このレポートではただ単発に論を書くだけで、論と論につながりを持たせることがあまり出来ませんでしたが、普段はただ演出として読み流してしまうような1コマや1シーンも、論理的な視点で眺めてみると、沢山の要素が隠されていることが理解できます。私の述べた論が、どれくらいの人に理解してもらえるのかは分からないですが、自分で考えて自分で論じることができたので、私はいくつもある視点のうちの、ひとつの『論理的視点』であると認識してもらえれば満足です。
漫画を描くにも一環した論が存在する。私が漫画を描くことになったら、その時はこのことを思い出して漫画を描くことができたらいいと思います。

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