2009
05.13

落合版マンガ『罪と罰』感想(第四回)

清水正ゼミ(「文芸研究Ⅰ」), 落合尚之版『罪と罰』について

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落合版マンガ『罪と罰』感想(第四回)
清水ゼミの学生諸君のレポート六篇を紹介します。
市野瀬久美  落合版マンガ『罪と罰』について
茂泉 龍  非日常に与えられる罪 
駒沢百美  裁弥勒という男
西川和那  裁弥勒という人間について
中野 沙羅  文学漫画としての「罪と罰」を読んで
内山 果歩  落合版『罪と罰』について


市野瀬久美
落合版マンガ『罪と罰』について

私がこの『罪と罰』の漫画版を読んで、個人的に一番感じたことは、「原作よりもいくらか、主人公に
共感でき、だからこそ身に迫る悲しさやつらさがある。」という点だった。原作を読んだ時は、まず、
いくら生活が苦しく心身共に疲れ果て、この先の未来に希望が見出せないからと言って、そこからなぜ
殺人を行う方向にいってしまうのか全く理解できないという、最初の一歩目から踏み出すことができな
いような心境に陥ってしまった。それから、散々悩んで綿密な計画を立てたはずなのに、いざ実行の段
となると、何度も致命的とも言えるミスを犯し、挙句の果てに目的の物を持ち出すことが出来なかった
ばかりか、殺さなくても良い人間まで殺してしまい、無事逃走できたとはいえ、ドア一枚隔てて第一発
見者と対面してしまうという、行動の端々に滲み出る稚拙さに腹が立った。というよりかは、呆れ果て
たという方が正しいかもしれない。断っておくが、私は「もっとちゃんと計画通り、円滑に殺せ」と言
いたいわけではない。そのような事態になってしまうのは、色々と考えるのを好むラスコーリニコフな
ら予想できたであろうことであり、それなら最初から妄想の範囲で留めておけばよかったのにと思った
のだ。その為、「なぜ、主人公はこんなにも傲慢で独りよがりな上に抜けているのだろうか。」という
、嫌悪感にも似た考えが絶えず付いて回ることとなった。
しかし、漫画を読んだ時には、そのような考えを抱くことはほとんどと言ってもいいほど無かった。そ
れどころか、主人公に対する同情さえ湧き上がってきた。漫画版でも主人公(この場合、裁弥勒)は犯
行の細かな場面で様々なミスを犯すが、それはあまり気にならないばかりか、「このような状況ならそ
うなっても仕方ない」と思えたほどだ。それほど、漫画では同情心を煽るような点が、より多いように
感じられた。
「何故、私はそのように思うのか?」というのを自分なりに色々と考えてみた結果、この漫画版『罪と
罰』において、登場人物により感情移入しやすいよう、舞台を現代へと移す・負の要素(殺人動機・犯
行の描写・主人公のネガティブな心理)を、より一層理解しやすい形へと変換する(例えば様々な問題
を、援交・女子高生・ニート・いじめ・売春などの、私たちの身の回りで起こることに置き換える)な
どの、様々な工夫が凝らされているからではないだろうか、という結論に達した。だからこそ、通常で
はありえない、殺人者に対する同情心のようなものが生まれたのだろう。もし私が裁弥勒の立場だった
ら一体どのような行動を取ったか考えてみると、「自分はこのようなことはしない」と、一概に否定す
ることができない恐ろしいものがある。だからこそ、小説を読んだ時の苦しみとはまた違った苦しみを
味わい、読み進めていくのがとてもつらかった。
だが、同情でき、光を殺したことによって多くの人間が救われたとしても、やはり無用な殺人まで犯し
てしまっている点などを考慮すれば、弥勒のしたことは決して許される行為ではないだろう。矛盾して
いるかもしれないが、そこは小説と漫画、両方共に思った感想だ。
他には、そのような様々な設定の改変を施すことによって、原作とは異なった方向へ進み、漫画は漫画
で一つの話として成立しつつあるように思った。がしかし、『罪と罰』という作品の独特の雰囲気を壊
すことなく、要点はしっかりと押さえ話を構築させているのはとてもすごいことだと思う。逆に言えば
、『罪と罰』という作品のパラレル的存在だと思えば、また違った楽しみ方があるとも言える。が、こ
の作者の他にもすごいところは、例えば弥勒(ラスコーリニコフ)には一種独特の高慢ちきな面がある
が、その部分を失わせず、なおかつより親しみを込めやすいキャラクターにするという、一見相反すよ
うに見えることをちゃんと実現させるという、とても難しいことをやってのけている点である。ここが
一番、漫画という媒体は関係無く、この作者を一表現者としてすごいと感じた部分だ。
また、卓越した画力が、犯行の瞬間の臨場感や、人間の感情描写をより鮮明なものにしているとも感じ
た。弥勒が二人の女子高生を殺すシーンなど、実際に自分がその場に居合わせ、閉め切った部屋の暑さ
や、鉈を振るう時の音を体感しているようにも感じられる。この作者でなければ、ここまでのものに仕
上げることは不可能だったのではないだろうか。
いささか高評価しすぎな感も否めないが、それだけ感心し、また感動したのは事実だ。以上が、私の感
想である。
茂泉 龍
「非日常に与えられる罪」 

 このマンガ「罪と罰」1~5巻までを読んで私は3巻の島津里沙が主人公ミロクによって殺された瞬間。彼女の頭にナタが刺さった状態のシーンが頭から離れなかった。
 この感想文を書くにあたり、ゼミの仲間数人とこのマンガの大まかな印象や自分ならこの5冊のマンガのどの部分に焦点を当てたいか、などを話し合った。すると、たまたま集まった人がそうだっただけかもしれないが、私以外はみんなミロクの殺人後のこと(例えば首藤のことなど)が印象強く、その部分について書きたいと言っていた。まず私はなぜあんなにもリアルに、悪く言えばグロテスクともいえる里沙の死んだ瞬間の顔を描けたのかがとにかく印象に残っていたのに、みんなはそうではなく、ミロクの殺人後のことに意識が向いている、ということに驚いた。
 あのシーンは物語の流れとして自分の中に残ったというよりは、あの顔、あの絵の力だと今は思えるといえば思える。でもあんな絵を描いて読者に意識を集中させたということは作者もこのシーンを見て欲しい。考えて欲しいということだと思う。私の中でのあのシーンの位置づけは、ミロクがヒカル殺人を計画し実行、そして予想外の里沙の登場。人を殺したこと、その計画の乱れ(=里沙の登場)という事実からの、ほとんどの人は一生知ることの無い程の極限状態が招いた「もう一つの殺人」だ。そして私は、そこから3巻半ばのミロクが自分のずさんな殺人計画や行動に嘆き、驚き、浮かんだ「理性が俺を見放したのか!?  これは何かの罪なのか!?」という言葉までに特に重しを置いて文を綴っていこうと思う。
 ではまず、罪とはなんなのか。「罪」と辞書で引いてみると(1)道徳・法律・宗教の教えなどに背く行い。(2)犯罪に対しての刑罰。(3)正しくない行いをした責任。(旺文社監修国語辞典より)とある。(1)は一番わかりやすく納得もしやすい内容だろう。(2)は「有罪」「無罪」の”罪”のことだろうか。とにかく、私がここで強調したい意味合いは(3)だ。(3)の「正しくない行い」とはなんだろうか。コンビニエンスストアからシーチキンのおにぎりを万引きすることだろうか?     だがこの万引きの背景に、訳あって飢えで苦しんでいる人々がいて、その人々に与えるためだったという理由があれば、この行いを「正しい」と判断する人も少なからずいるだろう。
人間がこの「正しい」と「正しくない」の判断に葛藤する様こそが、1巻後半から2巻にかけてのミロクに描かれていたように思う。ミロクは初め興味本位ともいえる感覚でヒカルに近づき、「最近はこんな女がいるのか。」程度の気持ちから深く調べ始め、内情知れば知るほど「ヒカルは腐っている。害虫だ。殺してもいい存在だ。」という考えにいたる。「殺してもいい」とまで普通の人はいかないかもしれないが、このミロクの感情の推移は実に人間的で私も共感できた。だが、ミロクは計画を練り、実行した。そして、致命的ミスをしたわけでもないのに焦り、その後信じられない行動をとった。なんとか自宅に着いたのに殺した時に使用した道具や衣類の血を洗わずに寝てしまったことなどだ。これは単に疲れていたからだろうか?疲れももちろんあっただろうが、私は非日常によって与えられた罪だと考える。ここにおける“非日常”とは正に犯罪のことであるのだが、細かくいうと、「犯罪をした!という自分自身の自覚」だ。ミロクは致命的なミスは犯していない。では誰に、何に、追い詰められていたのか。それはミロク自身の”人を殺した”という自覚ではないか。いくら「害虫」といってもミロクはヒカルのことを結局は”人”と捉えていた。もしくは生で見た死体や血、ヒカルの死に顔を見ることで無理矢理にヒカルを”人”と認識せざるを得なくなったのではないだろうか。それによって芽生えた”人を殺した”という自覚がミロクを非日常へ誘い、焦らせ、結局は殺人後の軽率な行動に繋がっていったのだ。だが、この非日常によって与えられた罪で忘れてはならないのが“里沙の死”だ。既に非日常を彷徨い、罪を受けていたミロクの元に「里沙の登場」という最大の非日常が訪れる。既に非日常にいたミロクの唯一の支えともいえる”まだ誰にもバレていない”という唯一予定通りだったことが壊されたのである。非日常の空間において最後の支えを失ったミロクは、支えを取り戻すためか、または、ただ里沙の「私のために殺したんでしょ」というミロクからすれば的外れな言葉に呆れてか里沙をも殺す。どんな動機であれ“里沙の死”も非日常がミロクに与えた罪であるといえよう。なので、ヒカルを殺したという非日常が里沙を殺すという非日常に繋がっていったのだ。
 元を辿ってみればこの非日常から非日常への連鎖は小さな規模から始まってはいるものの、“ヒカルという危険な人間を知った”という非日常から発展しているとも考えられる。ただミロクには思いとどまるチャンスの時にいつも、思いとどまるべきではないのではないかと考えさせられる要因や出来事(ヒカルが大金を所持している日をたまたま里沙から聞いてしまう、等)があり、更にミロクは家族と離ればなれで、人付き合いも上手くないため、ミロクのことを非日常から日常へ連れ戻してくれる存在がいなかったのだ。だから、そのような存在がミロクにあり、ミロクがもしその人物を受け入れてさえいればこの非日常の連鎖はどこかで止められていたかもしれない。
 ミロクが殺人をし、「理性が俺を見放したのか!?  これは何かの罪なのか!?」と思うまでにはいくつもの要因や非日常が不幸にも絶妙に絡み合っていたのだ。こう考えた私にとって、ミロクは人より少し陰気で、真面目なだけに非日常という見えない存在にまんまと動かされてしまった不運な青年だと推察する。
駒沢百美
裁弥勒という男

裁 弥勒―まず私は、主人公のこの名前に衝撃を覚えた。「弥勒」という、口に出すのも畏れ多い名前を現代に生きる大学生に用い、更にはそれを「裁」いてしまおうというのだから恐ろしい。そんな洒落た名前の主人公の心理にスポットを当ててみたいと思う。
弥勒は非常に自尊心の高い男である。自尊心の塊といっても過言ではないだろう。故に、自分が間違っている、弱い、と感じることが許せない。何でもかんでも正当化する。ヒカル殺しの件でいえば、「害虫だから殺しても構わない」「見帰りとして貰う金は自分のためには遣わない」と、必死に自分に言い聞かせ、殺人を正当化しようとしている。こんな風に葛藤している時点で弥勒は真の善人ではないし、ただの弱虫なのである。本当は、殺人という大きな形で爆発させたい何かが彼のなかにあって、ただそれだけのためにヒカルを殺したに過ぎない。しかし、弥勒自身のプライドがそれを許さない。俺は世間を騒がす殺人犯のように自分勝手な理由で「アレ」を決行したくない。しかし、爆発させずにはいられない何かがある。長年、弥勒を苦しめ続けてきた―母親の存在だ。
「お父さんのように立派になりなさい」何度も弥勒の回想中に登場する母親の言葉。きっと、弥勒の心の中に焼き鏝のように押し付けられた、強くて苦しい言葉なのだろう。弥勒は母親の期待に沿うように頑張ってきたようだが、すっかり母親に洗脳されていたかといえば、そうではないだろう。ずっと何処かで母親に疑問を持ち、自分に大きなプレッシャーを与えるその存在を憎く思ったに違いない。しかし、その気持ちを母親にぶつけるほどの勇気が弥勒にはない。弱虫な彼のなかに、年月とともに蓄積していく思い。そしてそれは、殺人という形でされたしたわけだが、起爆剤はヒカルでもなければリサでもない。インターンシップで出会う首藤魁だ。
首藤はあらゆる言葉を弥勒に向ける。まるで弥勒のなかに溜まった思いをわかりきっているかのように。いつか、恐ろしい形としてそれが発散されるのを予知しているかのように……。首藤の言葉ひとつひとつが弥勒にとって起爆剤だったのである。証拠に、弥勒は随所で首藤のことを思い出したり、夢に見たりしている。もしかすると、ずっと昔から弥勒は首藤のような存在を欲していたのかもしれない。自分のなかに溜まったものを爆発させるきっかけ、背中を押してくれる誰か。そういった存在がいなければ、弥勒は殺人を決行できなかっただろう。「欲望を肯定しろ」首藤のこの言葉は特に、弥勒が欲していたものだろう。
首藤というきっかけ、ヒカルという爆発の材料を手にした弥勒は殺人犯になってしまい、事件後も自身のプライドと戦ったり、周りとの関係について悩むわけだが、飴屋菊夫との出会いによって、心境に何かの変化が生じているようだ。初めに読んだときは、「この男の身の上話が後々どういった意味を持つのだろう」と疑問に思ったし、今も消化しきれていない。しかし、飴屋の死後、散々拒否してきた矢住の誘いにのって飲み会へと足を向けたということから、何か弥勒への影響があったのは間違いない。しかも、「世話を焼きたいというなら利用させてもらう」という、今までの弥勒が嫌っていた「他人を頼る」ことを肯定するようなモノローグ。飴屋に全てを捧げたエチカのような存在を欲しているのだろうか。正直、まだよくわからないが、これから先弥勒が一体どのような形で周りを利用するのか興味のあるところである。
弥勒の心理を中心に感想を述べてきて分かったことは、あらゆる人物が彼に多大な影響を与えているということだ。彼が本当の孤独な青年だったら、殺人は決行できなかったように思う。そして、弥勒を取り巻く人々は皆、心に闇を抱えている。一見、いい人のように見えても、決してそんなことはないのだ。一番わかりやすいところで挙げれば、弥勒の姉だ。表面上は弟のために頑張るいい姉のように見えるが、彼女は弥勒を恨んでいるのではないかと思う。弥勒が母のプレッシャーを溜め込んだように、姉も「なぜ私が弟のために犠牲にならなくてはいけないのか」という思いを溜め込んでいるように思う。
自身も周りも闇に捕らわれている裁弥勒。闇の世界で、これからどういった相互関係を築き、自分と戦い、どうような結末を迎えるのだろうか。もしかすると、彼は「弥勒」を「裁」くのではなく、「弥勒」に「裁」かれてしまう存在になるのかもしれない。
西川和那
裁弥勒という人間について

私はこの「罪と罰」の漫画版を読んで、主人公、裁弥勒に関して思うことが一つあった。
それは、なんと普通の人間なのだろう、ということだ。確かに、彼の頭の中にある計画は尋常なものではないと思う。それでも私は、裁弥勒を「普通の人間」だと考えた。
この漫画版「罪と罰」は、舞台を現代日本に移している。しかし私はいかにもこれが原作であるかのような錯覚さえ覚えた。清水先生は「現代日本に舞台を変えても話が成立する」、とおっしゃっていたが、まさか本当に話が成立してしまうとは思いもしなかった。
原作は、今よりもずっと昔に書かれたドストエフスキーの「罪と罰」であるが、これをいくらか設定を変えて現代日本に当てはめてもしっくりくる、という感覚を味わった。漫画版と原作では内容、舞台、その他様々に異なっているのにも関わらず、本筋では全く同じなのだという奇妙な感覚だった。初めは三冊もある原作を読むことに多少抵抗があったが、この漫画版を読んでからはそういった抵抗は零に近くなった。
 自分自身が裁弥勒に近いかと問われれば九割方違う。私は彼の思考と似た点はなきにしもあらず、と考えているが、少なくとも本質的には異なっていると感じた。自分の性格上、彼のように大学を放ることもしないだろうし、これからも適度に妥協して生きていけるだろう。
ただ、彼が思考する様子は至って一般人と変わりない、と私は思う。何が決定的に異なるかと言えば、恐らくその計画を無意識下において本当に実行してしまったことだろう。しかし私は彼が計画を実行してしまってもなお、まだ普通の人間だと感じていた。
 何故かと聞かれれば、私は「計画を無意識下で実行してしまい、なおかつ計画には無関係な人間を殺したこと」と答える。彼は一般人から逸れて、計画した殺人と意図しない殺人を犯してしまったが、その前後の行動において彼が「普通の人間」であると強く感じた。
 姉の言葉に怒りを覚える、探偵じみた行動をする、警察に捕まらないように逃げる......上げればキリがないほどに、彼はそこら辺にいる人間と変わりがない。殺人を犯した人間の思考は異常だ、とよく言われるが、それを鑑みてもやはり彼は何処にでもいるような一般的な人物なのだ。
 だから私は漫画版「罪と罰」には、感情移入することなく読んだ。普段から漫画だろうが小説だろうが、あまり登場人物に感情移入することなく読んでしまうのだが、登場人物には一切感情移入をしないで、随分と客観的に読んでいたように思う。
 裁弥勒はあまりにも自分自身を理解していないのだ。自分なら殺しが赦される、という思考の以前に、自分ならその計画を実行出来る、出来ないと考えすぎている点で「普通の人間」だと私は思った。実行当日に関しても、彼女、リサの所為で予定が狂ったのではなく、彼にその計画を実行するだけの力がなかったに違いない。あの場でリサを計画に引き込めるほどの冷静さがあれば良かったのだ。
 これから後、彼がどうなるにしても、始まりは間違いなく「普通の人間」だ。つまり彼に起こっていることが全て、自分に降りかかるとも限らない。もちろん漫画の中での話なので実際に起こるかと言えば果てしなく疑問だが、それでも似たようなことが起きる確率は決して低くはないとは言えない。
 好奇心旺盛で、自己中心。姉思いだが、精神や肉体はデリケート。五巻までの裁弥勒について簡潔に人物紹介を纏めるならば、私は恐らくこのように書くだろう。これだけを見れば、至って普通の人間に見えてくると思う。
 五巻の最後の方では、段々と彼は逸脱してきているように思う。しかし裏を返せば、自分が始末し忘れた計画の残骸に追い詰められているようにしか見えない。開き直りではなく、ただ単に追い詰められている自分に見て見ぬふりをしている、とも思える。まだ原作を完全に読み切った訳ではないため、正直此処まで彼について語るのもどうかとは思う。それでも、今現在の印象としては私はこれを崩すことが出来ないでいる。
 私は一つ、登場人物に共通点があると感じた。ヒカル殺しを「あたしのため」と言い切ったリサ、エチカを犯した飴屋、犯されても飴屋を愛していたエチカ。彼らは皆、「自己中心」なのだと思う。
 しかし、それでも首藤だけは異なっていると感じた。首藤もまた、「自己中心」だと思うが、彼は恐らく、裁弥勒の対極にいると言っても過言ではないだろう。彼は完璧に計画を実行して魅せた。あえて魅せた、と言いたくなるほどにその行動は鮮やかで、賞賛に値するものだろう。計画を実行するかどうか迷走した彼にとって、首藤は届かない位置にいる。
選ばれた人間だったにもかかわらず、自ら全てを勝ち取った首藤に彼が追いつくことが出来るのかどうか、これから先の展開を原作共々楽しみにしている。
中野 沙羅
文学漫画としての「罪と罰」を読んで
            
ようやく五巻まで読了した私は、筆者の挑戦しようとしている「文学漫画」を描こうとする必死さを感じた。巨匠ドストエフスキーの大作「罪と罰」を書くにあたって、どのような経緯で漫画化することになったのかは分からない。しかし、漫画化が決定した時、筆者には極度の緊張とプレッシャーを感じていたに違いない。その理由はいくつかあげられるが、大きな理由の一つに作品の読みこまれ方があげられると思う。何百年と原作は読みこまれており、固定の研究家(清水師も然り)やファンも居る中で漫画化をするというのは、外部から批判が殺到したろうと思う。実は私は小説を漫画化することに実はいささか抵抗感を持っている。紙の上からだからこそ、表現することのできる人間の感情や、ありとあらゆるものの情景があると思っているからだ。しかし、落合師はそれら全てを理解した上で、独自の世界観の中に「落合版罪と罰」を作り上げてしまった。しかも、我々が住む日本(たぶん、東京だと思うが正確な位置は描かれてはいない)を舞台にして。
私はこの感想文で最初に主人公にスポットを当てて書いてみようと思う。
まず原作の主人公ラスコーリニコフは漫画版では裁弥勒という一人の優秀な大学生として描かれている。私はまず、その名前に注目したいと思う。明らかに後から意味を持たせてつけられた名前だ。弥勒、とはつまり神様でそれによる裁、というのだから「神による裁き」という意味に相違ないと思う。自己の所業つまり殺人、を神による裁きと正当化する主人公はどこにでもいる大学生だ。私たちとそう大して変わらない青年だ。嘘偽りを嫌い、社会に迎合しきれない若者だ。現代日本では、若者の一時の衝動による殺人というケースは珍しいものではなくすでに、ありふれたものとして報道されている。「あんなことをするような人に見えなかった」というインタビューの声が飛び交い、犯人の卒業写真や昔の作文がネットに公開される。動機も明白ではなく「感情的になった」とあやふやなものが多い。この作品内でも主人公の殺人を犯す動機は明白に書かれていないと思う。主人公がヒカルを死んで当然の人間だとみなす理由が軽薄であると思う。原作の主人公は老婆に借金をしているという状況を前提に殺人を犯している。対して、漫画内では主人公とヒカルの接点はマクドナルドでの一件以外に挙げられない。そこから、悩みぬいて「死んでいい人間である」と定義して殺人をするには幾分話が飛躍しているように思えないだろうか。だが、そこに落合師が描きたかった世界があると思う。つまり、我々は誰しも殺人を犯す可能性がある、ということだ。それはまさに主人公の書いた小説題名「収穫者の資格」の様に我々にも主人公の様に「殺人者の資格」があるのだ。
日本も数年前は「殺人者の資格」を正当化して戦争していた事は拭い暮れない事実だ。ドイツのヒットラー将軍の様な人種差別的殺戮を行うのではなく、「お上のために」と理由づけして同じように人を殺していた。している行為は同じなのに、国境を超えると動機が変わってしまう。数年後、日本は「衝動的」に殺人をする世の中になってしまった。
殺人者の心理や周囲の環境が描かれる「罪と罰」は嫌というほど生々しく人間描写が描かれる。清水師の授業で言っていた「現実よりも現実味をおびている」作品だと思う。漫画版では眼をそむけたくなるシーンも沢山描かれており、馬の死ぬ場面なども主人公の心理状態をうまく表現しているように思える。
次に、エチカについて。自分の教師に犯された上にその時のビデオを流出された彼女であるが、どうしてここまで体を張って尽くすことが出来るのだろうか。漫画内で、彼女は子供たちのためだと言っているがそれだけの理由で自分の身体を売り物に出来るだろうか。相手を幸せにするためならば、自分がいくら苦しんでも構わない、自分が相手の役に立っているという事実だけが自分の喜びなのだという自己犠牲の精神を感じた。それは、宗教性を感じさせる人間愛だと思う。他人のためにつくす、それは時には重い愛情ではあるけれども彼女の場合は諦めの念と行き場のない教師への想いが混ざっている。それは、五巻の終わりで死んだ飴屋に彼女が抱きつく所から連想される。その姿を私は美しいと思った。主人公はこの姿を見てどのように思うだろうか。汚れた手で掴み取った未来には、果たして自分の望んだ世界が広がっていたのだろうか。
これから六巻も発売され、また新しい登場人物が出て来て主人公や周りの人間の描写もより一層複雑になっていくに違いない。同時に、原作を読み漫画版の比較を行うことで一層「罪と罰」やドストエフスキーに対する見解を広めていけたらいいと思う。

内山 果歩
落合版『罪と罰』について

             
 私はドフトエフスキーが書いた原作よりも先に、落合尚之の描いた漫画版『罪と罰』を読んだ。第一印象はこうだ。
 内容が生々しく、人間の本質を描いているのに、主人公がその内容設定に見合わない。
 因みに、これは一巻~三巻を読んでの感想だ。私はリアリティーを感じることが出来ず、四・五巻を読むのが嫌だった。
 しかし、四・五巻を読んでみると印象が変わった。私は四・五巻を読んで初めて主人公を人間と認識出来るようになった。
 では、何故前半を読んで私が主人公に違和感を持ったのか。それは、主人公が自尊心と自尊心で固められた彼の中で絶対な正義感しか持っていないように思えたからだ。彼の中に納得して読んでいける程の、賢さと完璧に対する拘りを見ることが出来なかった。彼ほどの自尊心があれば、完璧を求めるが故にもう少し賢くあると思う。特に、ミーコとの密会について光に尋ねる場面には違和感を持った。もっと観察力と理解力があってもおかしくない。光の警戒心の強さや賢さ、ヤクザとの繋がりを考えれば、普通はあのような訊ね方はしないだろう。つまり、私の中で彼は中途半端すぎてリアルに感じられなかったのだ。
 しかし、四・五巻を読んでやっと主人公を人間と見なすことが出来た。私は、彼は現在の生活になって今のような、人との関わりを持たなくなったものと思っていた。しかし、実は違ったのだ。父親の死から少しずつ歪んできたのだ。それによって、長い年月をかけ典型的な『勉強は出来るが、社会性かない人間』となった。そんな彼が犯罪者の心理を持っても、それは完全に自分が中心となる。その為、彼が周りを理解するには至らなかったのだろう。そう考えると、先述のミーコの件についても納得が出来る。要するに、他人を理解することが出来ないのだろう。
 五巻まで読んでみて、私は以上のように思い、考えた。そして、ここで疑問が出てくる。五巻まで読んで、やっと違和感が消え、合点がいくような状況でいいのだろうか……。私は、もう少しこまめに、何となく主人公のそのような人間性を匂わせ、合点をさせた方がいいと思う。
 次に私が気になったのは、脇役の描き方だ。リサは上手く描けていると思うが、その他はみんなイマイチに感じる。
特に光についてはそう思った。光の家の描写を入れるのならば、もう少しその光の家庭環境を話に絡ませても良いと思う。光の孤独感や寂しさを、もう少し丁寧に表すべきだと思う。今のままでは、ただの悪人という感じでしかなく、光がリサに対して抱いた感情を、もっと光という人間に溶け込ませるべきだ。
もうひとつ気になったことは、原作の内容を無理やり使おうとしている感じがしたことだ。馬を人々が殺す夢が、どうしても時代設定から浮いている感じで違和感がある。現代の設定の中では、馬=弱者という構図がきれいには結び付けることが出来ないと思う。あの馬の夢は、馬と人間と生活が密接に関わり合い、馬が人に仕える弱者であるという時代の設定でこそ意味があるのだと思う。最初に読んだ時には、頭で言いたいことを理解することは、ある程度は出来たが、上手く話に馴染ませて考えることがやり難く、辛かった。余談ではあるが、私としては、馬の夢をもっと現代的なのに置き換えて、母の手紙の部分をお姉さんの電話ではなく、お母さんからの知らせであって欲しかった。これからの、漫画の進み方にもよるが。
四巻でも少し気になった場所がある。主人公の父親に対する考え方だ。大学生にもなる人間が、果たして父親のあの死に方を知り、人に対する興味で死んだなどと思うだろうか。彼は、母親が父親のことを「お父さんは立派な人間だ。」と言ったのを、聞いた時の父親の顔を覚えているのに。大学生にもなれば、父親が何故その時困った顔をしたのか、他の女の人に逃げたのかを理解することが出来る筈だ。いくら、勉強が出来るだけで人の気持ちを理解していないと言っても、この父親の葛藤や自分自身に対する不信感、その結果求めたものを理解出来ないのは不自然すぎる。そんな人間が、頭の良い大学に入れる筈がないと思う。少なくとも、本を読んでいて登場人物の心情を理解することも出来ないだろうから、国語の点数だって悪い筈だ。そんな人間が作家になろうとは、まず思わないだろう。
最後に、主人公がいろいろな愛を持った人々と関わる中で、どのように変化するのか、特にエチカとの出会いがどのように絡まっていくのかが気になる。
この漫画は、何度も読み返して読み込んで、初めて少し面白さが感じられた。

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