2009
05.07

落合尚之版マンガ『罪と罰』の感想 (第一回)

清水正ゼミ(「文芸研究Ⅰ」), 落合尚之版『罪と罰』について

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落合尚之版マンガ『罪と罰』の感想 
平成21年度・清水ゼミの課題レポートは落合版『罪と罰』の
一巻~五巻までを読んだ感想。
次々にゼミ生のレポートが届けられている。
第一回は細井麻奈美さんのレポートを紹介する。
「実感」としての『罪と罰』


「実感」としての『罪と罰』
細井麻奈美
 金貸し、官吏、黄色い鑑札……。小説『罪と罰』には聞きなれない用語が頻出する。辞書や注釈でしらべても、ぼんやりとした知識が得られるだけで、実感がわかない。「たぶんこういうことだろうな」とあいまいなまま読みすすめてしまったので、小説の『罪と罰』では、その世界に入りこむことができなかった。最後まで、壁一枚へだてているもどかしさがあった。
「マルメラードフってもともとダメ人間なの? それとも時代の犠牲者なの?」「老婆アリョーナの金貸しは悪いことなの? それとも当時のロシアでは必要だったの?」「ソーニャってそんなに穢れてるの?」などなど。いくつもの疑問が壁のむこうにおきざりにされてしまった。そして最大のなぞが、主人公ラスコーリニコフの心理。わかったような気になるのはかんたんだ。「一つの微細な罪悪は百の善行に償われる」という有名な論理であらわしてしまえば一行ですむ。しかし実感としては、やはりよくわからないというのが正直なところだった。
マンガ版『罪と罰』を読んでみて、おどろいた。小説版のガイドブックのように過信してしまっては危険かもしれないが、「現代でいうとこういうことだよ」と解説してもらったようで、原作では間遠に感じられた『罪と罰』の世界がぐんと近づいた。古い本の香りに酔っているような、せのびした陶酔感がないかわりに、身近でリアルな事件として体験できた。
ラスコーリニコフをモデルとした裁弥勒は、「いるいる、こういうひと」というタイプの、自意識過剰のひきこもりだ。目の下にくまのある美形な青年は、わたしの思い描いていたラスコーリニコフのイメージどおりだった。一方、アリョーナにあたるのが、馬場ヒカル。こっちはまったく予想外だった。まさか、女子高生なんて! だが違和感はなかった。むしろ顔つきがわたしの想像の老婆にそっくりだとさえ感じていた。
ページをめくるうちに、妹ドゥーニャが姉よしのになっていたり、老婆の妹のリザヴェータがヒカルの妹分リサになっていたりという「設定」のちがいを知り、作者のねらいに気づいた。登場人物のおかれた状況、罪の意識、殺害シーンの臨場感さえをも、現代に再現すること。おそらく作者は、そこに重点をおいているのだ。
だからわたしは、マンガ版の『罪と罰』を大胆な脚色だとは感じなかった。サブタイトルの『Falsified Romance(改ざんされたロマンス)』は、「手塚治虫の『罪と罰』みたいなものだと思って読むとえらい目にあいますよー」という警告というか予防線、もしくは世界の名作に手を出すことへの自虐的な謙遜の意味合いがつよい気がする。落合版の『罪と罰』は、「リメイク」や「アレンジ」ではなく「変換」なのだ。十九世紀のロシアを、落合尚之という媒体が、現代の日本に変換している。
 たとえばラスコーリニコフが「金貸し」の老婆に抱いた感情を想像するのはむずかしいが、「援助交際」の女子高生への感情だったらわたしのなかにもある。テレビや新聞でなんども目にしていることだから、こころにたまっている。マンガ『罪と罰』は、現代日本に生きるわたしたちのこころに、原作と対応した部分を見つけだし、似た感情を立ち上がらせる。「こんなヤツ、いなくなったほうがいい」「社会悪だ」「お金も奪える」。実感として、『罪と罰』を味わえるのだ。
 また、「官吏」ではなく「教師」として登場する飴屋菊夫が、生徒である未成年のエチカをレイプするエピソードにも、見事に感情を奔出させられる。昼ドラやケータイ小説の氾濫する現代では、原作のような「アルコール中毒の無職のおやじ&売春の娘」にはシラけてしまう。わたしたちはまず、飴屋に「最低」「クズ」と怒りを感じなければならない。そのあとで飴屋と結婚したエチカに、「この娘、すごい……!」と圧倒させられる必要がある。そうでなければ、エチカは聖女になりえないのだ。落合版のマンガは、無宗教で無神論者の多い日本人にも、『罪と罰』を追体験させることに成功している。
 設定に忠実であることより再現性を重んじた落合版の『罪と罰』を、わたしはおおむねたのしんで読んだが、異議をとなえたい箇所もある。それは「ほっておいてもじきに死んでしまう婆さん」を殺すのと、「若くてぴちぴちした」女子高生 (いずれも原作の安料理屋の学生の発言から引用)を殺すのとでは、ちがうのではないか、ということだ。有名な両親にほったらかしにされているらしいヒカルは、ある意味では、社会的に救われねばならない存在ともいえる。ラスコーリニコフだったら、そんな彼女を殺しただろうか。
 また、ヒカルに人間味がなさすぎる。弥勒の視点で描かれている物語だろうから、ヒカルのゆがんだ悪人顔には説明がつくが、十代の女の子であれはあまりにもひどい。ディズニー映画の悪役みたいにモンスター化されている。「殺されるキャラクター=ばけもの」というハリウッド映画的な構図が、わたしは好きではない。すくなくとも原作のアリョーナは、人間として描かれていた。
不満はのこるが、時代と国のちがいという壁がとりはらわれたことで、はじめて『罪と罰』を「実感」できたことが、落合版のマンガを読んでの収穫だったことはまちがいない。

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