2008
12.11

村田沙耶香の「ギンイロノウタ」を読む

清水正が推薦する本

%E3%82%AE%E3%83%B3.jpg
航空公園駅・芳林堂書店
「ギンイロノウタ」が妙に面白い。昨日から批評して三十枚ほど書き上げた。
宮沢賢治の童話やドストエフスキーの『罪と罰』のイメージと重なる場面もあり
興味深い。女性を主人公にした現代版『罪と罰』としても読める。
現実の世界は白、黒、灰色のモノトーンのキョムテキセカイ
主人公の有里は、幼いころからひたすら銀色の扉を開け
あちら側の世界へと参入する願望を抱き続けている。
文房具屋でぐうぜん手に入れた銀のステッキを魔法の杖代わりに
窓ひとつない子供部屋の押し入れの暗闇の中に寝そべり、天井に張り付けた男の十数個の目玉
を見つめながら自慰行為にふける
初潮への過剰な期待も、自分を最大限安く売ろうとする試みも
アルバイトして社会性を身につけようとするけなげな努力もすべて失敗する。
引っ込み思案で臆病で、妄想の世界で殺人を繰り返す有里が望んでいたものは
銀の扉を開けて虹色の向こう側の世界へと参入していくことであった。
母殺し、父殺し、母胎回帰などのテーマを見え隠れさせながら物語はすすみゆく。
女性には生理感覚的にも共感できる場面が多くあるだろう。
ク゜ロテスクで気持ち悪いと感じられる光景が、瞬時に浄化されるのは、この小説がファンタジーの
要素を多分に含んでいるからでもあろう。
こちら側の世界に何の希望も抱けずに生きているわかものにとってこの小説は支持されるだろう。
(清水正=日芸教授・批評家)
私の「ギンイロノウタ」の批評は〈続きを読む〉をクリックしてお読みください。


村田沙耶香「ギンイロノウタ」を読む
清水 正
 村田沙耶香の「ギンイロノウタ」を漢字表記すると「銀色の詩」となるのだろうか。このタイトルからしていろいろな連想を誘う。〈銀〉〈色〉〈詩〉のどれか一つを強調すれば、それだけでイメージが膨らむ。
 主人公は〈私〉で名前は〈有里〉である。小説は「私が“化け物”だとして」で始まる。有里は臆病で愚鈍で陰気な子供で、父と母と三人「くすんだ白いマンション」に住んでいる。
 この小説に出てくる色彩は〈白〉〈灰〉〈黒〉である。ある日、有里は文房具屋で細長い銀色の棒を買う。それは学校の先生が黒板を指す指示棒であるが、有里はこの棒を〈魔法のステッキ〉にする。有里は色鉛筆の黒色を抜き取って、その場所に銀色のステッキをそっと忍ばせる。
 有里は子供部屋の襖に向かって「銀色の扉さん、銀色の扉さん。お願いします。私を……黒い部屋へ連れて行ってください」と頼む。有里は子供部屋の押入れの闇の中で、ステッキを回し、その銀色の光沢に目を凝らす。
 有里は背広を着た男性の写真から十数個の目玉をハサミで切りだし、それらを押入れの天井に張りつける。有里は押入れの中に寝そべり、目玉を見上げる。この目玉からピンクの赤い舌がでてきて、涎がたれ、降り注いでくる気がする。目玉は明らかに男性性器の隠喩であり、有里は暗闇の押し入れの中で、この〈目玉〉を使って自慰行為をする。銀色のステッキは有里がエクスタシーを感じるための魔法の道具と化している。
 
小学四年生になった有里は、学校で生理の講義を受け、生理用品の試供品と冊子をもらってくる。冊子には「レバーのような真っ黒な塊が出て不安です」といった質問も載っている。
 どぎつい表現がいたるところにちりばめられているが、ふしぎにグロテスクな感じは受けない。有里が生存している世界はモノトーンの世界で、対他者関係の磁場において彼女はいつも陰気なはじかれ者として、まるで影絵のようなモノとして存在している。
 
小学六年の三学期になって、有里は初潮を経験する。しかしそれは期待はずれのもので、腹部の痛みも身体のだるさもなかった。有里は「価値がないなら私は安さで勝負するしかない」「私は誰よりも私を安く売るんだ。そして誰よりも喜ばれて見せるんだ」と誓う。中学二年の二学期、そのチャンスは訪れた。
 安売りの相手は茶髪の先輩。前の夜、有里は銀色の扉を開き、目玉の下で寝そべって、足を締め上げ、膣に刺激を与え続ける。読者は有里の自慰行動を生々しく目撃する。当日、有里は両腿を固く閉じてしまい、性交に失敗、先輩に罵られ、尻を蹴られ外に放り出される。
帰り、有里は公衆便所の便座に腰掛け、銀のステッキで身体を浄化させる。有里の体は銀のステッキの魔法で殺菌され、烈しく足を組んで締め上げエクスタシーに達する。家に戻った有里は、押入れの天井に張りつけてあった目玉を乱雑に引き剥がす。この部屋が二度と銀色になることはない。引き剥がされた目玉はゴミ袋に入れられ、始末される。
 中学三年になった有里は、担任の赤津義彦に目をかけられる。赤津は典型的な善意を押しつけるタイプの熱血教師で、引っ込み思案な有里に皆の前で発表の機会を作る。赤津は「いつも何をしているんだ?」と質問する。有里は「考え事です」と応える。
 この応えは、ドストエフスキーの『罪と罰』の読者なら自明なことで、主人公ラスコーリニコフが女中のナスターシヤの質問に応えたセリフである。つまり、村田沙耶香は十分に『罪と罰』を意識してこの作品を仕立てたということを、ここでばらしている。
熱血漢赤津の発する言葉は有里にとって何の意味も持たない。「赤津の言葉がさらさらと降り積もる。赤津の喉から流れ出る音にそれ以上の意味はなく、私の内蔵をどこも引っかくことはできない」。毎日、帰りの時間にもうけられた有里の五分間の即席スピーチに、有里は徹底して沈黙で応える。
 「赤津の説教も、クラスメイトの不快を露にする声も、私には届かなかった。学校には透明の砂が天井までしきつめられ、それに埋もれた私たちの間に、言語は行き交わない。ただ、砂の中で、全ての穴が塞がれているだけなのだ」すべての言葉が無意味を端的に語った場面である。
 赤津には、言葉がすでに破綻しきっている現実を認識することも感じることもできない。だんまりを決め込む有里に赤津は「俺はお前が憎くてやってるんじゃないんだぞ。俺はお前のためを思って言ってるんだからな。前にもお前みたいな奴がいて、そいつは今ではすごく俺に感謝してるんだ。大丈夫、お前もそうなれるからな」と言って、有里の肩をたたいてくる。
 その拍子にバランスを崩した有里のポケットからステッキが転がり落ちる。赤津はそのティッシュペーパーで包まれた白いステッキを拾い上げ、ペーパーを取り除き、ステッキの先を掴んで、中の細い棒を引きずり出す。有里はなぜその棒を持っていたのか、説明できない。有里はそのステッキで幼稚園の頃からずっと自慰行為に耽っていたが、それはさすがに言えなかった。
 アラームが鳴り、みんなが一斉に帰りだす。男の子の手に握られていたステッキは放り投げられ、転がっていく。有里はステッキを置き去りにして走りだす。
 有里は家に駆け込み、部屋に逃げ込む。押入れから縄跳びを取り出し、それを首に巻いて強く締める。紐を天井にぶらさげ、完全に自分を密封してしまわなくてはと思うが、「自分でやりました」と書かなくてはと思い、ノートを出して書こうとすると、どういうわけか自分の意志に反して「殺」という字を書いてしまう。自殺に失敗した有里は、その夜、布団の中で暗闇を見つづける。
 5月31日から書きはじめたノートには赤津殺しの呪言が刻まれ続ける。6月30日のノートにはバットで殴りつけ、倒れたら、完全に死ぬように前からナイフで刺す、というように赤津殺しの計画は具体性を増し、それに比例して自分を塞ぎたいという自殺衝動は蒸発していく。
 卒業式の日、赤津は「これからもがんばるんだぞ」と有里に泣きながら抱擁してくる。有里は自殺もせず、赤津を殺さずにも済んだことにほっとする。有里は校舎を振り返り、灰色の街と一体化した、灰色の校舎を眺め、もう二度とここに来ることはないと思う。
 有里はお嬢様学校の高校に入学、コンビニでアルバイトを始めることにする。バイトには誓約書に親のサインが必要だが、食事時に母は反対し言い争いになる。父は「うるさいな。お前らは」と一喝する。母は箸を乱暴に置き、紙が千切れそうなくらい強くポールペンの先を押しつけてサインすると、「すぐに後悔するからね」と吐き捨て、台所で激しい音をたてて洗い物をはじめる。
 有里は母に近づき、冷蔵庫のドアを蹴飛ばす。母は脅えた顔で有里を見る。この時から有里と母の立場は逆転する。言わば、有里が母親殺しに成功した瞬間である。
 が、バイト先での有里はドジの連続、はじめは優しかった副店長もさじを投げる。バイトの後、有里はかならずノートに「殺」の文字を書く。「だんだんと殺すまでより殺してからの光景を書く分量のほうが多くなっていた」という叙述がある。ここにも『罪と罰』の影響が見られる。
 6月1日のノートには「バットで殴る。そのとき、手には対象が潰れた手ごたえある。私はバットを振り上げて、さらに2、3度、打ちつける」とある。バットを斧に置き換えれば、まさにラスコーリニコフの老婆アリョーナ殺しの場面と重なる。違うのは赤津を殺す動機と殺した後の感覚である。有里にはラスコーリニコフの言う「非凡人は良心に照らして血を流すことが許されている」などという犯罪理論もなければ、「一つの犯罪は百の善行によって贖われる」などという考えもない。
 有里には赤津に対する執拗で烈しい殺意と、具体的な殺しのイメージが持続している。バットで殴り殺した後も、仰向けにひっくり返して、ナイフを何度も突き刺す。流れ出た血がいっぱいに溜まり、広がり、有里の下半身をあたたかく濡らす。そのイメージで有里は自慰の感覚に襲われ、文字を書いている間、ずっと絶頂感を覚えている。殺しの具体的なイメージを記すことで有里は自慰行為以上のエクスタシーを感じる。
 「殺害の光景」は具体性を増していくが、やがて赤津という固有名詞が書かれることはなくなっていく。すでに有里の中で、赤津殺しは全うされてしまったのかもしれない。
 
 七月に入ったある日、有里はバイト先で中学時代の武本という女の子にいきなり声をかけられ、赤津が三ヵ月前に交通事故で死んでいたことを知らされる。有里は、死んでいた赤津をイメージの中で殺し続けていたことになる。
 
 有里は家に帰るとパソコンで「殺人」と検索し、快楽殺人事件の犯人には静的快楽が伴うという記事を読み、ほっとする。「やっぱり違う。本当に殺してしまうような人は、やっぱり昔からどこか違うんだ、異常なのだ」有里が自分を異常とおもっていないところが面白い。有里は「銀色の扉が私を呼んでいる」と思い、「ノートの間にしっかりと収まっていたはずの世界が、いつのまにか、外へ溶け出してい」くを感じながら、深呼吸を繰り返す。
 翌日、有里は学校へ行くため駅へ向かう坂を降りている。
 「遠くから子供の声がした気がして、私は立ち止まった。蝉の声が貧相な街路樹から不釣合いに降り注ぐ。この貧弱な枝のどこにそんなにびっしりと隠れているのか、と見上げても虫はどこにも見当たらず、これは自分の耳鳴りなのかもしれなかった」
 この叙述を読んで、わたしの脳裡に、今批評している落合尚之のマンガ『罪と罰』の一場面が鮮烈に蘇る。公園のベンチに仰向けに寝そべっているミロクに蝉の声が覆いかぶさっている。まさに、『罪と罰』は暑い夏の日の出来事(殺人事件)を扱っている。いつの間にかわたしの中で、有里の妄想がラスコーリニコフのそれと重なっていく。
 ラスコーリニコフは現実に二人の女を殺してしまった。有里の妄想もラスコーリニコフに劣らぬリアリティをもって迫ってくる。はたして有里は人を殺せるのか。実際に人を殺すことのできる殺人者を異常と決めつけた有里は、しかしその日の夜、ノートの間にしっかりと収まっていたはずの世界が、外の世界へと溶けだしていく感覚を強く感じはじめる。
 夏の蝉の声は限りなく無音に近い、しかし同時に挑発的な悪魔の声でもある。有里は「銀色の扉を開けたい」「扉を開けたい」という強い衝動に駆られながら、制服のボタンを引きちぎって地面になげつけ、手が生き物になって服の胸元を這いまわり、スカートの裾を握りしめ、鞄から教科書を取り出し、表紙を目茶苦茶に破く。有里の手は勃起し、生き物になった手には、もっと強烈な刺激を食べさせなくてはならない。
 有里は家に引きこもり、ひたすら銀色の扉を開きたくなる欲望に駆られる。コンビニで買ったゼリーを力をこめて握る。「弾力で抵抗していたゼリーが手のひらの中で破裂し、押しつぶされていく。透けた桃色のゼリーが指と指の隙間からはみ出している」そのとき有里は「これは自分の歌なのだ」と思う。「私は心臓を演奏するのだ。この手で、肉体を、体温を、演奏するのだ。私はゼリーを手で味わうように、握りつぶしては開くという行為の中に沈みこんでいった」と。
 いったい有里は何を思い、何を願っているのか。コンビニで買い求めたゼリーは、自分の誕生の秘密を託された存在のようにも思える。子宮の中の胎児、それは誕生を間近に控えた有里そのものであったように思う。有里は有里自身の手で、それを破裂させ、押しつぶした。生まれて来たことを呪う者、呪い続ける者の秘儀のように、有里はゼリーを「少しずつ力をこめて」握り、そして破裂させる。
 これが有里の〈歌〉だとすれば、有里は自分の死を誰よりも願っている存在ということになる。が、この秘儀にはもう一つの切実な願いが託されている。
 有里は「私は心臓を演奏するのだ」と言う。これはどういうことか。有里は自らの死を願っているだけではなく、死からの蘇生を願っている存在でもある。有里の秘儀は二重の意味を託されている。
 望まれなかった誕生、それは父の余りにも冷たい態度と、母の異常に神経質な、不断に何かに怯えているようなヒステリー状態を思いおこせば誰にでも理解できる。有里の両親が愛し合っている仲でないことは十分に理解できる。有里は、ごく自然な形での親の愛を注がれたことのない子供であり、遺伝子レベルでも親の血を引き継いでいる。
 父は書斎に引きこもり、母は神経質に自己保身に生きており、内心の憤懣は、有里言うところのアカオになって解消をはかっている。犠牲者は一人っ子の有里であり、そして母自身なのである。否、結婚し、子供を授かりながら、未だに内的引きこもり状態を続けている、名ばかりの父もまた実は苦しんでいる。有里だけが、生まれてきてすいません、と思っているのではない家族なのである。
 この白と黒と灰色のモノトーンの支配するニュータウンを舞台とした三人家族の小説は、しかし二十一世紀日本を象徴しているところに切実な問題を提起している。有里は母を殺し、父を殺し、そして自分を殺すことで〈銀の扉〉を開き、虹色の世界へと参入することができるのだろうか。
 この有里の願いのうちには、世界全体を滅亡へと導く呪言か潜んでいる。こういった点に、宮崎駿の「天空の城ラピュタ」におけるパズーとシータの世界破滅の願望と重なるところがある。
 
 はたして有里は、〈殺〉をノートの次元から現実の世界へと移しきることができるのか。ドストエフスキーは、十九世紀ロシアの首都ペテルブルクに生きる一人の元学生を主人公にして、それを見事に描き切った。二十一世紀の小説家村田沙耶香は、主人公を引き籠りがちの女の子に設定し、ドストエフスキーが『罪と罰』で試みたと同じような実験を試みようとしている。まさにこれは作者に限らず、ドストエフスキーを読みつづけてきた者にとっても、ハラハラドキドキの実験的試みなのである。
 
 有里が用意したのは斧ではなく、ナイフである。「ナイフの中に銀色の光の筋が見える」と作者は書く。改行して「私はパールちゃんの魔法などより、はるかにすぐれた力を手に入れたのだ」と書く。作者は有里に乗り移ったかのように本気になっている。
 ラスコーリニコフの非凡人思想よりも、もしかしたらこのパールちゃんよりはるかにすぐれた〈魔法〉の方が麻酔度がきついかもしれない。今の世の中、思う通りにならないすべての人間がパールちゃんの魔法を必要とし、それよりはるかにすぐれた力を備えた〈銀色のステッキ〉を求めているだろう。
 有里は、この灰色の世界に自ら求めず誕生してきたすべての人間を代表して〈銀のステッキ〉の魔法を駆使しようとしている。引きこもりの、臆病で陰気な、〈黒い部屋〉で自慰行為にふけるしかない有里は、まさに現代のヒロインなのだ。有里こそは、この世界が灰色でしかないことを体感的に確信している少女であり、その意味で有里は全身全霊をもって、この世界の破滅を願う救世主なのである。
 今日の新聞、テレビ、雑誌ジャーナリズの光(表向き、きれいごと)の世界ではなく、闇の世界において有里は正真正銘のヒロインとなるだろう。有里が願っているのは、まさに〈有里〉である。〈里〉は彼女の故郷、生まれて来る前の至福の故郷、この地上の世界のどこにも存在することのできないユートピアなのである。
 有里は、彼女一人が母体回帰すればいいと思っているような引きこもりではない。有里の魔法は有里個人を超えて、現代に生きる者(生きていると思っている死者)を道ずれにしていく力を備えている。
 
 有里は公園で、主婦たちが強盗殺人事件の犯人を「化け物ね」という言葉を耳にする。有里はそれを聞いて微笑み、「そんなものよりずっと完成された化け物が側に座っているとも知らずに、何て無防備なのだろう。彼女達の子供の中に、私が銀色の扉を見つけるかもしれないのに」と思う。
 家に帰った有里はテレビで強盗殺人のニュースを見て「死体はかなり残酷な状態で発見されたらしいが、私とは根本的に違うと思った。皮膚の外側の世界であれこれやっている者と私とでは、まったく質が異なるのだ。殺人という意識があるうちは「人間」の範囲に留まっているようにしか見えない。彼らの殺害活動はとても人間味溢れるとは思うが、それだけだ。私には私にしか開くことができない扉があるのだ」と思う。
 なるほど、有里の殺人は、主婦たちが話題にしていた強盗殺人とは質が違うし、ラスコーリニコフの犯罪とも質が違う。ラスコーリニコフの殺人は有里に言わせれば〈皮膚の外側の世界〉での事件であり、とても〈人間味溢れる〉事件なのである。
 「私は改めて思った。やはりこの感覚は私だけのものだ。誰もが理解不能の化け物だと私を罵るだろう。そのことを誇らしく思った。私は死体を演奏し、音楽を奏でる。私はもう人間ではないのだ」有里は冷静に自分が〈凡庸な殺人者〉とは違うのだと思う。有里が信じているのは感覚だけであり、いかなる理論も正義も、悪をすら信じていない。
 この確信だけで有里は、ラスコーリニコフを超えていると思ったことだろう。ラスコーリニコフに見られた躊躇、自己の犯罪の正当化の理論などまさに糞食らえである。尤も、有里は自分を〈完成された化け物〉の範疇に入れたという点においては、自分を非凡人の範疇に入る者と錯覚したラスコーリニコフの傲慢を引き継いでいるとも言える。
 
 有里は〈自分の歌〉を誰にも邪魔されずに遂行しようと思う。時は夏の〈今日〉、ラスコーリニコフの人生を狂わせた酷暑の夏である。
 有里は右手に黒いビニール製の手提げを持っている。有里は早朝から人けのない路地で標的を待ち伏せている。有里は思う「普通の殺人者なら標的の身体にナイフを刺せばそれでいいのだろうが、私は違うのだ。動きの止まった標的の身体の中に、銀色の扉を見つけ、それを開かなくてはならない。そしてその扉の向こうへ踏み出さなくてはならないのだから」と。
 ラスコーリニコフも、わたしの批評の中では同じようなことを呟く。俺は老婆アリョーナ殺しが目的だったのではない。その第一の〈踏み越え〉をきっかけにして、最終的にはこちら側の世界からあちら側の世界へと踏み越えていくことを目標にしていたのだ、と。
 当時の革命機運を配慮すれば、ラスコーリニコフはこちら側の世界で〈皇帝殺し〉を謀る革命家を超えて、有里の言葉で言えば〈銀の扉〉を開けて、あちら側の世界、つまり神の世界へと参入することが目標だったということになる。
 
 蝉の声が聞こえはじめる。有里が標的に選んだのは、真剣に地図を見ている〈黒いスーツ姿の、上着までしっかりと着込んだ若い女〉である。有里は女に近づき、張りのある快活な声で話しかけ、地図を取って、女が探している〈大学生向きの説明会〉の場所を案内すると申し出る。
 通りの右手に有里が通っていた中学校が見え、時計を見ると八時過ぎだった。ラスコーリニコフもまた殺人の標的にした老婆アリョーナのアパートにたどり着くまでに、何度か時間を意識する。こういった書き方にも『罪と罰』の影響が見える。有里は速度をあげて中学校を通り過ぎようとする。
 女は「こんなに、大通りから離れていないはずなんですけど……あの?」と大声をハッスル。有里は震えるため息をつき、苛立ち、内蔵が熱を持ち、いきなり地図を地面に投げつけ、女があわてて拾おうとする地図を踏みつけ、拾い上げて二つに引き裂き、それを丸めて中学校のフェンスの中に投げ込む。女は校門を押し開け、地図を広い、中へと入っていく。
 有里は「扉を開きたい……歌いたい、産声を歌いたい」と思いながら手提げの中をまさぐる。そこには確かに銀色の感触があり、指先が刃とこすれ、鋭い痛みを感じる。有里は高揚し、体液が滴る手でしっかりと柄を握り締める。有里は足をもつれさせながら、速度をあげて女に近づく。有里は鞄の中のナイフを掴んで、息を荒げ、校舎へ踏み込む。よろけて、職員玄関前の廊下にある棚にぶつかる。ガラス製の戸が大きな音を出して揺れ、女は振り返る。
 有里は瞬間、動きを止め、ガラスの中を見つめる。驚いて、有里に近づいた女は「わかったよ、先生には言いつけないから……ああ、もう、こんな時間。急がないと……あなた、大丈夫?」と言い、気味悪そうに有里を見て急いで立ち去る。
 ガラス戸棚の中に、銀色の真っ直ぐな光が見える。有里はその〈光〉を握り締め、その場を離れ、オフィス街を駆け抜ける。路地の中にある古い灰色の建物の下にある駐車場まで来て、有里は左手を開く。そこには誇りでくすんだステッキがあった。有里はステッキを地面に投げつける。
 銀色のキャップが有里を見ている。「それはあの頃とまったく変わらない、目と鼻と口のないステッキの顔だった」有里は一瞬、その顔に頬をすりよせたくなり、思わず身を乗り出しかける、とその拍子に手提げが揺れ、中でごそりとナイフが蠢く音がする。〈銀のステッキ〉に身を沿わせるか、それともナイフか……。
 「銀色の扉を開かなくては」有里は呪文のように唱えながら、鞄からナイフを取り出すと、ステッキに突き立てる。有里は〈目鼻のないステッキの顔〉に勢いよくナイフを振り下ろす。ナイフをステッキの首元に差し込んで、中から金属棒を引きずり出し、何度もナイフを当て続ける。ステッキは折れ曲がり、目鼻のない顔がとれ、中から小さな螺子のようなもう一つの顔が露になる。
 有里は突然仮面をとって、素顔を現したステッキに怯んで、後ずさる。有里は怒鳴り声を思い切り嘔吐して、ステッキに浴びせ掛けようとするが、喉から声は出ない。
  ステッキが、その無音で、私の脳を握り締めていくのがわかった。私はうずくまった。頭をかかえた私
 の耳から音が消えていき、無音という歌は、私の脳を演奏し続けた。
  私は、音のなくなった頭をあげて薄く目を開いた。
  そこには、まさに、私がそうだった筈の、完成された化け物そのものが横たわってい
 た。
 この小説の最終場面は隠喩と謎に満ちている。
 〈目鼻のないステッキの顔〉は〈父〉を超えて〈神〉の隠喩の次元まで達しているようにも思える。ステッキは折れ曲がり、〈顔〉がとれてしまったというのであるから、この時点で有里は〈父殺し〉〈神殺し〉に成功したということになる。
 それにしても〈仮面〉をとって〈素顔〉を現したということは何を意味しているのだろうか。どうして、有里は〈素顔〉になったステッキに怒鳴り声を嘔吐できなかたのか。なぜ、有里は、ステッキの無音で脳を握り締められたのであろうか。
 「無音という歌は、私の脳を演奏し続けた」というのは比喩的表現としてはあり得るが、現実には起き得ない。有里が望んでいたことは「銀色の扉を開けて……歌いたい」ということであったが、彼女がナイフでステッキの顔を弾いて手に入れたのは〈無音という歌〉でしかなかった。これは有里の願望の徹底的な挫折を意味しているのか。それともここから新たな展開が生まれてくるのか。
 有里が薄く目を開くと、そこには〈完成された化け物そのもの〉が横たわっていたとある。いったい、〈完成された化け物〉とは何を指しているのか。
  小さな顔には横線が何本も刻み込まれ、身体のどこよりも透き通った銀色に反射している。そこから のびていく身体は、光の筋を内包したまま大きく折れ曲がっている。
  私は、小さいころ赤い枠の鏡にしていたように、両手をその神聖な化け物へ向かって延ばそうとし  た。その手は透明な水で濡れていた。ステッキは、その身体のどこかをまっすぐに指しているようだっ た。
  私はステッキの示す場所を探そうとコンクリートの上に両手を這わせた。ステッキは無音で歌い続  け、その声はどんどん大きさを増し、私の内部で膨張し続けた。
  コンクリートの上をまさぐっていた右手が自分の身体に触れたとき、ステッキが指しているのはここだ とわかった。服の隙間から銀色の光が溢れていたからだ。
  黒いTシャツをたくしあげると、私のあばらの浮き出た未熟な胴体は銀色に輝いていた。
  銀に光る身体に手のひらをあてがい取っ手を発見すると、私は強くそれを握り締めた。
  ステッキが頷いた気がした。私は力をこめて取っ手を回した。その瞬間、視界が色彩の渦に飲み込 まれ、音のない世界に、はっきりと、扉を開く音が響いた。
 有里のナイフによって顔を弾かれた銀のステッキはその〈素顔〉を現す。この〈素顔〉の何に有里は怯えたのか。考えられるのは、その小さな螺子のような〈素顔〉が有里自身の顔だったということであろう。〈父〉でもあり〈神〉でもある〈銀のステッキ〉の素顔が実は有里自身であったということは、ひとつの謎ときとしては面白いが、なぜここまで抽象的、暗示的に書かなければならないのかという点に関しては疑問が残る。
 わたしは最初、「ギンイロノウタ」を漢字表記すれば「銀色の詩」になるのではないかと思っていたが、村田沙耶香は「歌いたい」という表現をしているので、作者の側からすれば「銀色の歌」になるのかもしれない。いずれにせよ、ここに引用した最終場面は一遍の散文詩を読んでいるような気分になる。
 
  「ステッキは無音で歌い続け、その声がどんどん大きさを増し」と書かれても、〈無音〉と〈声〉ははじめから矛盾しているから、論理的に理解しようとする読者はこういった表現についていくことはできない。「服の隙間から銀色の光が溢れていた」「未熟な胴体は銀色に輝いていた」といった表現も、比喩的表現としては理解できるが、そのまま理解することはできない。
 理解できた振りをして、実は私の体も銀色に輝いているのです、などと茶化すことはいくらでもできるが、そんなことを敢えて今更したい気にもならない。こういった最終場面をすんなり理解しようと思えば、この作品は現実に材をとったメルヘンであり、一種の大人向けの童話であるのだ、というあたりに落ちつくだろう。
 
 銀のステッキは、有里がそれを文房具屋で購入した時から、自慰行為の道具であった。有里を束の間エクスタシーに誘う〈魔法の杖〉でもあり、同時にそれは、有里に温かい言葉ひとつかけることもなかった〈父〉、沈黙し続ける〈神〉の隠喩としても存在していた。
 この銀のステッキは、中学生の時に担任の赤津に発見され、有里はそれを放置したまま卒業し、それと久しぶりに再会したのは「自分が凡庸な殺人者とは違うこと」を証明しようとして、黒いスーツ姿の女を標的にした、蝉が鳴く夏の日の〈今日〉であった。有里は標的の女を殺すことはできなかった。つまり有里は〈凡庸な殺人者〉にもなれなかった。
 有里にできたことは、銀のステッキにナイフを当て続け、折り曲げ、目と鼻のない顔を弾き飛ばしたことだけであった。この最後の決定的な挫折を、有里は〈魔法〉を使って乗り越えようとしたのであろうか。それではこの〈魔法〉の正体は何なのか。自分の身体が銀色に輝くということは何を意味しているのか。
 
 〈完成された化け物〉〈神聖な化け物〉とは、〈銀のステッキ〉(自慰行為の道具、父、神〉を殺した有里自身が新たな絶対的な存在(神)へと超越(変身)したということを意味するのであろうか。
 未熟な胴体が銀色に輝くという、つまり現実の世界で何度も何度もドジを繰り返し、挫折し続けて、高校生になっても成熟しない女が、〈魔法の杖〉を破壊することで、色彩渦巻く新たな世界への参入をはかるという、今再びの魔法を自分自身へとかけたということであろうか。
 有里の魔法にそのままかけられるのも読者の自由、有里のさらなる妄想と見るのも読者の自由である。現実は、この世界は、有里にとって白と黒と灰色に満ちている。それを何ら希望のない絶望の世界と見れば〈虚無〉の直中に佇んで、生きた振りをし続けて死んでいくほかはない。
 有里は、この世界に望まれずに誕生した、臆病で陰気な、いつも暗闇を凝視しているような子供であったが、その暗闇を凝視し続けることで〈銀色の扉〉を開き、歌うという願いだけは最後の最後まで放棄しなかった。
 自分の未熟な胴体が銀色に輝かなければ、すなわち人間としての身体性を完璧に脱皮しなければ、ということは自ら死ななければ有里は銀色の扉を開くことはできなかった、ということである。その痛ましい逆説を全うしたことだけは確かだ。
 現実の虚無と絶望がキョムとゼツボウとなり、銀色の歌はギンイロノウタとならざるを得ない、そんな現実をわたしたちはイキテイル。この小説はそういう意味で確かにゲンジツヲアザヤカニウツシダシタショウセツと言える。


コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。