2008
06.11

『清水正・ドストエフスキー論全集第二巻』の栞

『清水正・ドストエフスキー論全集第二巻』の栞

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清水正・ドストエフスキー論全集 第2巻
停止した分裂者の覚書
   ドストエフスキー体験  
 
 栞 二〇〇八年五月三○日
 強烈な武器、「ドストエフスキー体験」……横尾和博/1
 「全集」とアイデンティティ……此経啓助/3
 清水正のカリスマ……下原康子/6
清水正もカラマーゾフだ……塩原淳一朗/7
 ドストエフスキーと西鶴―清水正のコンテクストにそって……浅沼 璞/10
 爆発で誕生する清水批評……下原敏彦/14
D文学研究会
我孫子市本町3-5-20


  強烈な武器、「ドストエフスキー体験」
横 尾 和 博  
 本稿を書くために、昔読んだ清水氏の『停止した分裂者の覚書―ドストエフスキー体験―』を本棚から取り出し読み直す。改めて驚いた。この本が豊島書房より出版されたのは、一九七一年九月。一九四九年生まれの清水氏は当時二十二歳だった。この若さで一冊の本になるくらいの原稿を書きためていたとは。いかにドストエフスキー体験が強烈だったかがわかるであろう。
 話はそれるが版元の豊島書房は私の住む赤羽にあり、赤羽台団地に向かう小さな坂の途中にあった。司修が「赤羽モンマルトル」と呼んだ丘の途中である。だから私もこの本に因縁を感じる。
 さてこの本は六本の批評文で構成されており、「罪と罰」「白痴」「悪霊」「カラマーゾフの兄弟」「未成年」「不条理の世界―カミュかドストエフスキーか―」とタイトルがそれぞれ名付けられている。「あとがき」には、五つのそれぞれの作品批評論が一九六八年から六九年の脱稿、「不条理の世界」は七○年の脱稿と記されている。なんと清水氏十九歳から二十一歳にかけての作品である。前記の五大作については、『ドストエフスキー体験』として出版されている。
 当時は学生や若者を中心とする反体制運動が盛んで、氏の通っていた日大芸術学部も学園紛争のまっただ中であった。当時の氏を知るよしもないが、想像するに、全共闘派とは無縁に、ただひたすらドストエフスキーを読んでいたのだろう。そうでなければ、こんな恐るべき本が出版されるわけがない。しかし全共闘派ではない清水氏にも当時の学園紛争や時代の影響は避けがたく、その航跡は言葉として残っている。たとえば「強固なバリケードを築け!」との言葉。もちろんバリケードは比喩である。また「一般的広範囲にわたって現代の青年群像に眼を向けるならば、そこには、まさに一口で言えぬ混沌とした青年の世界が存在している。過激的な政治活動に参加する者、それに対する非政治的青年、極度の無関心、瘋癲、ハプニング族など、今日の青年の生きる道は八方塞がりの出口なしの観がある」と、当時の青年たちの様子や社会状況が映し出されている。バリケード、瘋癲、ハプニング族などは死語である。過激な政治活動と非政治的・無関心層の青年の対置もいまや考えられない対立項である。言葉は死んでも思想は生きる。
 清水氏はこのような混沌とした情況の中でひたすらドストエフスキーを読み、感じ、それを「ドストエフスキー体験」として発表してきた。カミュ、サルトル、太宰、三島ではなく、ただひたすらドストエフスキーだ。これが清水氏の一生を貫く武器となった。
 全共闘派は七○年以降、連合赤軍による武装闘争と同志へのリンチ殺人事件を引き起こし、無差別テロへと走り、政治党派間の内ゲバへと暗い道のりを辿ることになる。国家権力に追い詰められた果て、とはいえ無惨な結末を辿る。また八九年の東西ドイツを隔てていたベルリンの壁の崩壊や、九一年のソ連壊滅など思想とイデオロギーの時代は終焉を告げた。これによりマルクスの一九四八年の『共産党宣言』やフーリエらによる「空想的社会主義」の時代が、百五十年かけて終焉を迎えたことになる。しかしマルクスと同時代を生きた、ロシアの作家の文学や箴言は未だに滅びない。なぜだろうか。
 その結論は数多い清水氏の著作の中にある。人間は誤りを犯す。思想やイデオロギーも人間が生み出した産物であるから間違いを生む。文学はもともと正義や非正義、善悪の基準のスケールからはずれたところに独自の物差しを持っている。だから文学は誤りだらけである。誤りという衣服を纏い、文学は大手を振って街中を闊歩する。
 本全集の刊行は清水氏の思考の軌跡をたどることができ、ドストエフスキー体験を武器にした氏の歩みを知ることができる。
 清水氏は一貫して、ドストエフスキーを観念でとらえる脆弱さを指摘している。それはマルクスを観念としてとらえた過去の亡霊たちを、「体験的」に見ているからに相違ない。
 なんとも恐るべき人である。
(文芸評論家、放送作家)                             

  「全集」とアイデンティティ


此 経 啓 助 
 
 
 清水正氏が個人全集を出す。慶賀の至りである。ついては栞に何か感想を寄せてくれないか、という友情あふれる言葉まで頂戴した。そこで、氏のドストエフスキー論について、思いついたことを記してみたい。
 周知のように、清水氏は学生時代からドストエフスキーを熱く語る批評家で、在学中に『ドストエフスキー体験』(清山書房・一九七○年一月刊)という批評集を出している。私は当時、清水氏が現代に至るまで長く勤めることになった日本大学芸術学部文芸学科の特別研究生で、学科事務の雑用に追いまわされていた。もちろん、学生の文学論の挑発に乗るくらいの余裕はあったので、清水氏とドストエフスキーの作品をめぐって論じ合ったこともある。しかし、氏は私の浅薄な作品評をさっさと見限って、この処女批評集に収められている「カラマーゾフの兄弟」論の原稿一五○枚を私に手渡した。「先輩、しっかり読めよ」ということだったが、私は「ジャーナリズム論」の講師だった岡本博先生(故人)のゼミ雑誌「出入り自由」創刊号(一九七○年二月刊)から連載できるように段取りして、しっかり読んだことにした。批評集とゼミ雑誌が相前後して出版されたことから推測して、私がはじめて清水氏の作品に接したのは六九年頃だったのだろう。今もって私は氏の読者として最低だが、本の見返しに「此経啓助様 清水正」と青インクで丁寧に記された『ドストエフスキー体験』を大切にしている。
 さて、私はこの機会に改めて『ドストエフスキー体験』を読んでみたが、「十七の時に「地下生活者の手記」を読んでから三年、その間私はドストエフスキーの作品だけを読んできたといっても過言ではない」(「あとがき」)という熱を帯びた自信に裏づけられた体験告白に、老いてますますたじろぐ。
 「日常的な余りにも日常的な生活の中で、異常と悪を志向する観念的情熱家よ! おまえはラスコーリニコフの狂気と錯乱と行為を模倣する事さえできまい」(「罪と罰」)
 この「おまえ」は「「罪と罰」という小説が、我々青年に与える感動と恐怖は強烈である」の著者・読者をふくめた「我々青年」を指しているのだが、清水氏は著者と読者の分裂を決して許さない。氏は続けてこういう。
 「私にとってドストエフスキーの作品は文学そのものであり、芸術そのものであり、人生そのものなのである。客観的に、ある程度の距離を置いて読書しようとする者には、彼の作品は拘ってこないであろう」
 青年だった私にとって、ドストエフスキーの作品は「人生そのもの」でなく、人生の予行演習だった。清水氏もしばしば引用しているように、十八歳のドストエフスキーが兄ミハイルに宛てた手紙のこの言葉は、未知の人生に踏み出そうとする青年にとって感動的で、私には進軍ラッパのように響いた。
 「人間は神秘です。それは解きあてなければならないものです。もし生涯それを解きつづけたなら、時を空費したとは言えません。僕はこの神秘と取り組んでいます」
 私にとって人生は未知な人間の姿をとって現れた。とくに乞食、狂人、酔っ払い、好色漢、乱暴者、身障者、犯罪者などは、神秘というより恐怖だった。彼らもまた自分と同じ人間ならば、心のうちに思想といえないまでも人生に対する何ほどかの思いを抱いているに違いあるまい。それがすぐ解けないまでも、異形な外見に負けることのないように、せめて彼らから視線をそらすまい。それが私の未知な人生に踏み出すための心構えだったから、ドストエフスキーの作品群はちょっと過激だったが、最良の教科書だった。登場人物たちのようなドラマチックな人生はありえようはずがなかったが、人生で出会うさまざまな人間たちと臆することなく対峙できる気がした。
 反対に清水氏は、自らいうように、ドストエフスキーの文学空間を「人生そのもの」と考えており、当時読んでいたポール・ヴァレリーが描くところのテキストに住み着いた「テスト氏」になぞらえるようでもあった。モーリス・ブランショは『文学空間』(現代思潮社・粟津則雄ほか訳・一九六二年刊)において、作品のもつ「本質的孤独」について語っている箇所で、ヴァレリーを批評してこういう。
 「この世という散り散りの全体が、作品という唯一の全体の持つ厳密さから、彼の注意を外らせるのだが、彼は既に、愛想よく、それから外れるがままになっていたのだ」
 「作品  芸術作品、文学作品  は完結しておらず、未完結でもない。作品は存在している。作品が語るのは、もっぱらそのこと、つまり、それが存在しているということであり、  それ以上の何ごとでもない」
 「作品を書くとか読むとかして、作品に依存して生きる者は、存在(エートル)するという語しか表現せぬものの持つ孤独に属する」
 あれから三五年以上たった今日、清水氏が相変わらず熱くドストエフスキーを論じている姿を目の当たりにするとき、氏の存在の意味について真剣に問う必要があろう。少し見方を変えてみよう。
 アイデンティティという心理学用語がある。一般に「主体性」「自我意識」「存在証明」などの意味で使われる。この用語の生みの親であるE・H・エリクソンは、『青年ルター』や『ガンディーの真理』などの著書を通して、自己が他者や社会と共通の心理基盤に立つことから、さらに「全人類的同一性」にまで語の意味を拡げている。とくに後者の本で、エリクソンはガンディーの「非暴力」の思想が歴史上でその「真理の力」を発揮することによって、「全人類的同一性」を獲得していった過程を解き明かしている。多くの青年は「この世という散り散りの全体」の中で、自己が他者や社会と共通の心理基盤に立つことを願って、未知な人生に一歩を踏み出す。一方、清水氏は「作品という唯一の全体」の中で、ドストエフスキーの真理という「全人類的同一性」の獲得を願って、人生の一歩を踏み出した。氏の最低の読者である私には、氏が青年期あるいは中年期にどのようなアイデンティティの危機に見舞われたか定かにできないが、今日、危機を乗り越えて全集を発刊するに至った。
 清水氏は『ウラ読みドストエフスキー』(清流出版・二○○六年刊)の第二章「ドストエフスキー社会主義批判への予言」で、『悪霊』の登場人物ピョートルの「悪魔性」を解き明かすことを通して、ロシアの社会主義革命の一大ペテン性を詳述している。氏はこう述べている。
 「スターリンが権力の座に座るために、そして権力の座に居座り続けるために、いったい何人の政敵や反対者を毒殺、処刑、流刑に処したかを振り返ってみるなら、ピョートルの悪魔性は、かなり現実味をおびて浮きあがってくるはずである」
 氏は処女批評集でもピョートルについてふれており、「彼には神というものがない。又求めようともしない。強いて言えば、共産主義思想が彼の神である。その未来の社会を実現する為には、いかなる事にも恐れを抱かない」(「悪霊」)と述べている。氏は最初からすべてお見通しであったというだろう。そうかも知れない。しかし、氏が全集の発刊に踏み切ったということは、思想のお見通しよりも作品の存在の語りに耳を傾けてほしいということだろう。私はそう思いたい。
(宗教考現学者・日大芸術学部教授)  
 
 清水正のカリスマ

下 原 康 子 
 
 
「ドストエーフスキイの会」発足は一九六九年三月のことだが、その翌年一九七○年六月の第九回例会で当時日大芸術学部の学生だった清水さんの「『罪と罰』と私」という発表があった。私は同じ年の十二月から参加するようになったので残念ながらその発表は聞いていない。
 『場 ドストエーフスキイの会の記録Ⅰ』にそのときの報告要旨が「ドストエフスキーに関する勝手気ままな饒舌」と題されて残っている。それを読むと、むやみやたらの驚愕マーク、めまぐるしい肯定と否定、エスカレートする饒舌、独断と居直り、歯止めのかからない挑発、まるで急性期の感染症患者が高熱にうかされてうわごとを叫んでいるかのようだ。活字でさえそう感じるくらいだから実際はすごかったに違いない。しかしながらさすがドストエフスキー読みの聴衆、報告後は熱いバトルが繰り広げられたらしい。近藤承神子さんが秀逸な印象記を書かれているが、この一見でたらめとも見える青年を「その心は正統派、当たり前の真っ白け」と見抜いているところがすごい。
 その伝説的な発表の余韻やうわさからだろうか、その後お会いする機会はなかったはずなのに、長身痩躯・長髪・黒いマントという風貌(かなり想像が入っている)の清水さんが私の記憶に刻まれた。恐れをいだきながらも遠く憧れる存在であった。
 初めて面と向かってお会いしたのは小山田チカエさんのアトリエだった。どういう集まりだったのか、そこに清水さんが学生さん二人とみえていた。沼野さん、庄司さんご夫婦もおられた。なぜか私の弟夫婦や従妹まで同席していた。そのときの清水さんも近寄りがたい雰囲気で言葉を交わすことはなかった。
 その後、清水さんは日大芸術学部の先生になられた。なんだか腑に落ちない一方で「さすが日芸だなあ」とも思った。そのずっと後で下原敏彦を非常勤講師に招いていただいたときは、腑に落ちないどころか仰天であったが、ここに至ってはっきりと「さすが日芸」を再確信した次第であった。
 再会した清水さんは短髪で丸顔、ジーンズの似合うかっこいい教授だった。人懐っこい笑顔をちょっぴり意外に感じながらも、話してみると昔とちっとも変わらない、相変わらずの熱い疾風そのままの人であることが即座に判明した。ドストエフスキー熱は長い年月を経てもみじんも冷めるどころかますます燃え盛っていた。
 自覚があるなしに関わらず、清水熱に感染した学生たちに幸あれ。
(ドストエーフスキイの会・会員)
 
 清水正もカラマーゾフだ
塩原 淳一朗  
 
 私はこれまで読んだドストエフスキーの小説のなかで『カラマーゾフの兄弟』が一番気に入っているし、好きだ。多分それはエンタテイメント作品としての面白みが強いからだと思う。人物はみな魅力的だし行動は想像を超えていて、先の読めないサスペンスになっている。最も興味をそそられるドミートリィをはじめとして登場人物に愛情のような感覚すら起こった。ドストエフスキーの小説と聞いて多くの人が持つイメージは、「長くて難しい」がほとんどだと思うし私もそう思っていた。しかし『カラマーゾフの兄弟』は広く認知されているように世界的な文学であると同時に、第一級のエンタテイメント作品である。ドストエフスキーの世界への最初の入り口としても楽しめると思う。
 ドミートリィがグルーシェニカを追ってモークロエに向けてトロイカで飛ばす場面。自分はこのまま地獄へ向かうのだろうと感じつつ、神よりも心の女王グルーシェニカを選び、自らの人生をかけて青白い闇の中を疾走する場面は、今までに味わった小説、映画、音楽、マンガなど私のすべての芸術的体験のなかで最も強く印象に残っている。
 「鈴を鳴らせ、アンドレイ、ギャロップでとばすんだ。鈴をならせ、鳴物入りでぶっとばしてやれ。だれが来たかみんなにわかるようにな! 俺が来たんだぞ! みずから乗りこんできたんだ!」
 ドミートリィの運命を分けるその夜は弟アリョーシャにとっても奇跡の夜だった。ゾシマ長老を失い、葬式での事件で迷いの中にあったアリョーシャは夢にゾシマ長老の声を聞き歓喜に満ちて大地を抱きしめ、大地を永遠に愛することを誓った。
 この二人の青年が体験した美しい夜は、壮大なスケールを持った映像として私の中に残っている。カラマーゾフ的な欲望、魂を燃やすような情熱をまとい地獄に向かう兄と歓喜に満ちた心で大地を抱きしめた弟。そして彼らに等しく降り注ぐ満天の星空とすがすがしい大気。
 小説は読者の数だけさまざまな世界が生まれるのだとあらためて感じる。私は文学についてあまり理解も無いし、大きいことを言う資格が無いかも知れないが、文学が秘める世界の美しさは無限であるということ、ポケットに収まる本のなかに人生を揺るがすようなとてつもないスケールの衝撃があることを知った。
 また、この小説で興味を持ったのは登場人物が持つカラマーゾフという資質についてである。
 ドストエフスキーの小説、清水正の著書、授業を通して私が持ったカラマーゾフ的な人間のイメージは巨人である。しかし肉体的には普通の人間と変わらないカラマーゾフ人間は体のサイズにおさまりきらない程のエネルギーを持ち、活動的、情熱的で、様々な感情に満ちている。彼らは狼のように食べ、大股で歩き、感情が過剰なまでに渦巻いている。強烈なエネルギーで人生や世界と向き合い、読者に強烈な印象を残す。そのエネルギーはカラマーゾフでない他者の存在を簡単に飲み込み、ときには自らの肉体を滅ぼすこともある。
 ドストエフスキーの小説にカラマーゾフ達は現れる。『カラマーゾフの兄弟』で言えば、カラマーゾフの感情そのもののようなフョードル、ドミートリィ、神に反逆したイワン、小さな体で不条理と戦ったイリューシャ。『カラマーゾフの兄弟』だけにとどまらず、『悪霊』ではニコライ、ピョートル。『白痴』のロゴージン、ナスターシャ。また、カラマーゾフ的な人間はドストエフスキー作品のみの特徴ではなく多くの小説や映画、マンガなどに見られる。すぐ思いつくだけ挙げてみても、バルザックの人間喜劇のヴォートラン、モーム『月と六ペンス』のストリックランド、望月峰太郎『ドラゴンヘッド』の仁村などきりが無く、時代や場所を問わず確実に存在し、他者を圧倒する。
 カラマーゾフ的な人間について考えたとき、思いつくことがある。ラスコーリニコフが考えた「非凡人」、シガリョフが論じた専制主義社会において支配の座につく者、彼らはもしかしたらカラマーゾフなのではないかということだ。カラマーゾフ的な特徴を持った人間を想像してみると、それは多くの人とは違い、集団を支配する人間かもしくは集団に入れない人間である。ラスコーリニコフが「非凡人」と認めたナポレオンや、過去の歴史上の支配に成功した人物はみなカラマーゾフ的な人間の特徴をもっているといっていい。カラマーゾフ的な特徴を持ち、かつ頭脳や体力に恵まれた人間が集団を導く。
 また、支配者だけではなく偉大な芸術家や学者にもカラマーゾフは見られる。ピカソは異常とも思える体力で死ぬまでに約八万点もの作品を残し、荒木経惟は妻の死までも作品にした。福沢諭吉は田舎から出てきて学問に情熱を注ぎ、病気になるまで自宅に枕がないことに気づかなかったという。
 ドストエフスキーが思想犯としてシベリアで過ごしたあいだに得たものとして、貴族生活ではふれることが難しかったような様々な人間を実際に観察したということが挙げられる。その体験は「死の家の記録」で語られている。ドストエフスキーは囚人を観察するなかにこのようなカラマーゾフ的な人間を見つけたのではないだろうか。たとえばすべての囚人が恐れる「笞刑」。この恐ろしさとそれにおびえる囚人たちの様子が作品の中で語られている。その中で「はげしく根強い気性」を持った囚人オルロフは一度目の笞刑によってできた傷を早く治し、二度目の笞刑を終えることを望む。
 「これは並の人間ではなかった。わたしは好奇心をそそられて、彼と近づきになり、彼という人間を観察した。わたしはぜったいの自信をもって言いきれるが、わたしの生涯を通じて、彼ほどの強い鉄のような性格をもった男に一度も会ったことがない」
 オルロフについてドストエフスキーは驚きをもってその印象を記述している。
 「気力が肉体をおさえつけている」「世の何ものも恐れていない」「無限のエネルギーと行動の渇望と復讐の渇望と心に決めた目的達成の渇望」「異常な高慢さ」
 これらは私のイメージするカラマーゾフ的な人間の姿とぴったり一致する。ドミートリィの異常なまでのエネルギー、イワンの神に対する挑戦、カラマーゾフの一家に復讐を企てる幼いイリューシャ。またはニコライ・スタヴローギンの誇大な自己やピョートル・ヴェルホーヴェンスキーの鋼鉄の意志と行動力。
 しかしオルロフは殺人を犯し逮捕され、シベリアに流刑された人間、つまり社会に拒絶された人間である。もし仮にオルロフが環境に恵まれ、犯罪ではない違う方向に情熱をそそいでいたら彼は何か名を残す人間になっていたかもしれない。
 カラマーゾフとは特定の人間の中に流れるエネルギーであり、人類の文明はこのエネルギーをもった人間を中心として進歩してきたのではないかとすら思う。ドストエフスキー自身もカラマーゾフ的人間なのだろう。
 そして私は、清水正もカラマーゾフだと思う。これは二年間授業を受けた素直な印象である。
 大学に入り所沢で過ごした最初の一年間、興味をそそられる授業もなく、大学に対して抱いていた期待は完全に空回りし、大学には行かず一人で映画を見たり本を読んだり、シナリオライターの養成講座に通って過ごした。大学を辞めてもいいやと考えていたある日、予備校時代の先生と会う機会があり、日芸はつまらないと私は言うと、返ってきた答えは「日芸にいるなら絶対に清水正の授業を受けろ」というものだった。その先生はドストエフスキーの愛好家で、大学に入ったらとにかくドストエフスキーを読めと散々言っていたが、その日あらためてそう言われるとともに「世界で一番ドストエフスキーを研究している人」が日芸にいることを教えてくれた。
 「スメルジャコフにカラマーゾフを感じなかった、カラマーゾフとはもっと情熱的なエネルギーだ。イリューシャにはカラマーゾフを感じた」
 と清水正は授業で語ったが、それを聞いて私は、あぁこの人もカラマーゾフだと思った。
 著作の量やその授業は当然だが、ちょっとしたことでもカラマーゾフを感じる。例えば授業の前、机に突っ伏して寝ていても彼が教室に入ってきたことはドカドカという足音でわかる。強烈なインパクトを持った人間である。
 しかし考えてみると、前に述べた予備校時代の先生も高齢と思えないエネルギーを持っていた。ドストエフスキーに深く関わる人間はカラマーゾフ的な特徴を持っていると考えていいのだろうか。ドストエフスキーの小説に現れる人間は感情を過剰に放出し、カラマーゾフ的な人物においては先に述べた通り読者に強い印象を残す。この世界的な文豪の小説に心酔する者は自らの中に存在しているカラマーゾフが小説に共鳴しているのだろうか。それともドストエフスキーの小説によって読者の中にカラマーゾフが生まれるのだろうか。私は後者だと思う。初めて『白痴』でドストエフスキーの小説を読み終えた時、今までの自分はなんだったのだろうと感じるほど、間違いなく世界の見え方が変わった。
 もともと世界に存在していたカラマーゾフはドストエフスキーという芸術家によって表現された。その小説は何世紀にも渡って世界中にカラマーゾフを増やし続けたのである。
(平成十八年度「文芸批評論」受講生)                             

  ドストエフスキーと西鶴
     清水正のコンテクストにそって


浅 沼   璞 
 
 Ⅰ
 かつて清水正は、ミハイル・バフチンの『ドストエフスキー論』(増補版、一九六三年)を評し、その「創作方法の諸問題」の検討は、そもそも〈芸術家としてのドストエフスキーを浮彫りにすることを意味していた筈〉として、バフチンの不徹底な態度を批判した。つまりバフチンは、〈芸術家ドストエフスキーの創作した作品世界はポリフォニイであると指摘しながらも、ドストエフスキー自身の意識構造そのものがポリフォニイであるとはいわなかった〉からである。「ことばの内なるドストエフスキー」に迫りながら、それを「ことばの外なるドストエフスキー」へと還元していなかったわけである。
 清水はいう  ポリフォニイ小説の創造者であるということは、とりもなおさず、その作家自身が唯一絶対の《我》を崩壊させている存在であることを意味している、と。小説という非現実的な空間(意識空間)において、唯一絶対の《我》を崩壊し、無数の〈我〉を等価で主体的なものとして活動させることのできる芸術家(意識空間内分裂者)こそ、真のポリフォニイ作家たりうると清水は規定するのだが、それだけではない。肉体を備えた、書き手としての〈我〉もまた、作中人物の〈我〉に同じく、無数に分裂した〈我〉のひとつにすぎないというのだ。つまりドストエフスキーという〈作者〉は、すべての作中人物のみならず、〈書き手〉をもまた主体的なものとして活動させているというのである。
 こうしたポリフォニックなドストエフスキー像を、ニーチェのいわゆるディオニュソス的存在者とも清水は呼ぶ。
 〈私がドストエフスキーの芸術世界をディオニュソス的であるといい、またバフチンの説を借りてポリフォニイであるといい切ることは、ある意味で容易である。しかし、ドストエフスキー自身がディオニュソス的、及びポリフォニックな存在者であるといい切る時には、私はある程度の決断力を必要としたのである。何故なら、例え芸術家の意識が広大無辺の領域を持ち、その意識空間において完全なる自由を獲得していようとも、彼が肉体を備えた存在者である限り、彼はその肉体からは自由であり得ないからである。即ち、真に芸術家自身の存在がディオニュソスであるためには、彼は肉体を備え持った存在であってはならないのである。……中略……この世界に自体はなくあるのはただ解釈のみであるといった自意識の極限にまで到達してしまった者達は、不可能であることを充分に知りつつも、この肉体を解消し抹殺してしまいたい衝動に常にかられている状態を脱することはできないのである。〉(「ドストエフスキー  そのディオニュソス的世界」、私家版『ドストエフスキー体験記述』一九七一年)
 この清水のコンテクストが、近世俳文学を専攻する私に示唆したものは、そう簡単に記述できるものではないけれど、栞の任を果たすため、以下試みにのべてみたい。
 〈自体はなくあるのはただ解釈のみ〉というのは、ニーチェからの引用である(『権力への意志』一九〇一年)。俳文学者の乾裕幸もまた、このニーチェの言を援用し、「ことばの内なる」芭蕉のテキストを批評対象としたことがあった(『ことばの内なる芭蕉』未来社、一九八一年)。
 私もまた自分なりに「ことばの内なる芭蕉」によって「ことばの内なる西鶴」を相対化してみようとしたことがある(『西鶴という方法』鳥影社、二〇〇三年)。二人は同世代、同時代人ではあったけれど、両者の「ことばの内なる」テキスト群は、似て非なる志向のもとに創作されたものといっていい。
 周知のように、芭蕉は「わび・さび」に代表されるような絶対的な美的価値観を確立した。かたや西鶴は、分裂症的な相対化運動によって無目的的に滑稽化をくりかえすばかりで、ついに絶対的な価値観をもたなかった。そんな二人の「ことばの内なる相違」を「ことばの外なる相違」へと還元したならどうなるであろう。「ことばの外なる」生ま身の芭蕉は唯一絶対の我を堅持し、ぎゃくに西鶴は唯一絶対の《我》を崩壊しているといえはしまいか。つまり西鶴はドストエフスキーの側にいて、生ま身の「書き手」をも包摂する無数の〈我〉を、等価で主体的なものとして、分裂症的に活動させることのできるポリフォニックな存在者に思えるのである。
 現に西鶴には、俳諧師として〈自意識の極限にまで到達してしまった〉が故に、マルチ作家として無名性を志向した軌跡がみてとれる。
  Ⅱ
 西鶴は流行作家だった。だから『西鶴置土産』『西鶴織留』『西鶴名残の友』などほとんどの遺作は、「西鶴」というブランド名をタイトルに掲げている。しかし生前、西鶴自身が自らの名前を掲げたのは『西鶴諸国ばなし』一作である。また、序文に署名をしたのも『世間胸算用』など数例だけである。生前の西鶴は、小説家としては作品の影にかくれようとしている。
 しかし小説家になる以前、純然たる俳諧師であったころの西鶴は違った。色紙・短冊はいうにおよばず、句集から俳論集まで署名をしまくった。そして一昼夜・千六百句独吟を『西鶴俳諧大句数』、四千句独吟を『西鶴大矢数』と題し、作品よりも「西鶴」という作家名をアピールした。
 ところがその後、小説に手をそめ、マルチ作家として活躍し始めたころ、おおきな転機を迎える。一昼夜で二万三千五百句という神がかり的な記録を得て、「二万翁」という匿名性の高い超人的存在へと超出したのである。これは、それまでの千六百句や四千句を独吟するという生ま身の「西鶴」の有限性が、「二万翁」の無限性へと超出したことを意味する。有限性は有名性に、無限性は無名性に、それぞれ相即する。
 果たして「西鶴」と名のっていた俳諧師は、「二万翁」を自称するようになった。このことを、先の〈真に芸術家自身の存在がディオニュソスであるためには、彼は肉体を備え持った存在であってはならない〉という清水のコンテクストにそって解釈し直したらどうなるであろう。〈肉体を解消し抹殺してしまいたい衝動〉によって「二万翁」の無名性を志向した、と考えられはしまいか。
 二万三千五百句のうち、作品として書き留められたのは、つぎの発句(連句の第一句目)だけである。
  神力しんりき誠 まことを以息もっていきの根留ねとむる大矢数おおやかず
 ここには、西鶴自身が真にディオニュソス的存在者となるための、大いなる神性が潜在していよう。つまりこの一句は、生ま身の「西鶴」の、その息の根をとめる決意表明にほかならない。一分間に十六句という超人的スピードに、記録すらままならなかった付句郡は、生ま身の肉体から発せられたものではなかったと言うしかない。
  Ⅲ
 さきに私は、「清水のコンテクストが示唆するものは、そう簡単に記述できるものではない」と述べておいた。だからドストエフスキーにおけるディオニュソス性と、西鶴におけるそれとが、まったく同質であるなどと短絡的に考察しているわけでは勿論ない。清水のコンテクストにそって、アナロジックに総論をのべたまでである。以下、取り急ぎ、各論における相違のその一端にふれておきたい。
 たとえば幸田露伴に次のような記述がある。
 〈内田不知庵子海浜に閑居してドストヱフスキーと西鶴の書を精読する一月、帰つて後語つて曰く、ドストヱフスキーの書を読み終りし時は我わが手を以て我胸を掻きむしらむとし、西鶴の書を読み終りし時は我心我身を忘るゝが如くなりしと。蓋し西鶴は一点散じて万点となり、彼は万点凝つて一点となるが如きものにあらざるなきを得んや。〉(「井原西鶴」『国民之友』一八九〇年)
 〈内田不知庵子〉とは内田魯庵のことである。魯庵は『罪と罰』を最初に邦訳したことで知られるが、じつは「黒痩子」という別号で西鶴論を残してもいる。そんな彼が、ドストエフスキーと西鶴と、ふたりのディオニュソス性の相違を比喩的に語っているのだが、そればかりではない。魯庵をうけて露伴も比較論をのべている。そして興味深いことにその露伴の記述は、清水がドストエフスキー作品の読後感について述べた次の一文とくしくも呼応するのである。
 〈ドストエフスキーの底知れぬ無意識の世界には、外部に表出した解決のない分裂を完全に統一してしまう謎のごとき力があった……それは読者が、彼の作品を読む過程において悩ましい分裂に襲われながらも、読み終えた時の、あの不思議と統一し充実した心情(こんな言葉で不足であるならば)読後のあの恍惚感を味わった者であるならば自ずから理解されると思う。〉(「肖像画に見るドストエフスキーとニーチェ」『ドストエフスキー体験記述』)
 まさに〈万点凝つて一点となる〉という読後感が、過不足なく語られている。おなじくディオニュソス的世界を創造しながら、〈一点散じて万点となる〉西鶴作品の読後感とは明らかに違う。この違いはどこからくるのか。いろいろと考えられようが、一神教/多神教という宗教的基盤の相違を無視することはできまい。その意味で、「母性とカオス」をテーマとした清水の一連の著述(『土方巽を読む』、『今村昌平を読む』など)は、やはり示唆的といわなければならない。
(連句人・レンキスト)  
  爆発で誕生する清水批評
下 原 敏 彦  
 
 芸術は爆発だ!! 画家岡本太郎が発したというこの言葉を聞くたびに、なぜか清水正氏のドストエフスキー評論を彷彿する。批評は爆発だ! である。清水氏と一度でもドストエフスキー談議した人なら、おそらくは同じ思いに駆られるに違いない。その論述は、まるで蒸気機関車のようである。ゆっくりと動き出す機関車の大車輪。だが、燃え盛る罐(かま)に休みなく投げこまれる石炭によって、ピストン運動は徐々に速さと力強さを増していく。そして、警笛を轟かせ全速力で、野も山も谷も街も、もろともせずに突き進んでいく勇姿。
 氏のドストエフスキー批評は、まさにそれである。が、作品を論じはじめるときの氏は、機関車と同じで、あくまで穏やかだ。「そこのところは、ぼくは、こう考えているのです」そう静かに切り出す。しかし、車輪が、石炭を得て速度と力を増すように、その論述は、しだいに激しくなっていく。蒸気罐は、まるで火山口のマグマのように熱く、大河の激流のように力強い。論述は、ピストン運動の回転の如く速さを増し、言葉は尽きない機関銃の一斉掃射となる。しかも、それらは、これまでにない発見と新説の矢弾である。
「ソーニャの最初の相手は!」「アントン君こそ、最大の黒幕」この推理推察に、聞き手はただただ圧倒され驚くほかない。茫然自失する間に氏の論述は、ますますスピードをあげて、氏自身の意識をも置き去りにして、ついには無意識の領域に突入していくのである。そうなったときの氏は、もはや飲むことも食べることも忘れ、まったくのトランス状態となる。生態も存在も無視し、ただひたすら爆発した想念の具現化のみに集中する。その結果、呼吸することさえ忘れてしまう。当然、呼吸困難となり、激しくむせかえる。そのとき氏は、ようやくわれに返る。そうして照れくさそうに「考えの方が速くて息をするひまがない」と苦笑する。
 氏の爆発的ドストエフスキー評論は、書くことにおいても、突出している。これまで氏は、多くのドストエフスキー論を上梓してきた。昭和四十五年出版の『ドストエフスキー体験』を皮切りに平成二十年の本全集まで、その冊数は厖大である。氏の生活を知らない人は、おそらくそれらの論稿は、自宅の書斎か大学の研究室において生まれたものと想像する。しかし、実際はそうではないという。驚くことに、氏はその論稿のほとんどを、「通勤の電車の車内で書いた」と明かす。いま現在もそれをつづけている。氏の自宅は、千葉県我孫子市である。最寄り駅から勤務先の江古田まで、あるいは教養課程の校舎がある所沢まで、およそ二時間かかる。その時間が、勝負だという。旧式の小型ワープロ、縦二○センチ横三○センチ、厚さ何センチほどの長方形の小さな箱。その中に、車内で爆発し生まれた思索思考、全宇宙を、すべて詰め込む。それが、一冊の書物となる。毎年、ハイペースの出版の秘密はそこにある。
 しかし、氏は、形になった論評を、あまり推敲しないという。物書きにとって書き直しや反古は当たり前だが、氏にとっては異常な作業なのである。時間に余裕がないと話すが、爆発で誕生したものの手直しは、宇宙の法則に反するからかも知れない。創られて時間の流れのなかに投げ出された存在物。それは、もはや変えることはできないのかも。
 その意味では清水正氏の論述、論稿は、まさにビックバンの爆発からできた宇宙といえる。それ故、ドストエフスキー作品を批評するときの氏は、創造主であり、一種シャーマンでもある。日本には、文芸批評家と呼ばれる人は多い。そのなかにあって作品を爆発させることによって、まったくあたらしい作品を構築してしまう清水正氏は、稀有な文芸批評家といえる。その想像・創造批評は、例をみないが、あえて対比するとすれば、戦前の雄、小林秀雄がいる。かつて小林は『様々なる意匠』の冒頭で自らの批評精神をこのように語った。
「私はただ世の騒然たる文芸批評家等が、騒然と行動する必要のために見ぬ振りをした種々な事実を拾い上げたいと思う。/私には常に舞台より楽屋の方が面白い。」
 この批評精神を読んで思い浮かぶのが、清水正氏の想像・創造批評である。
「ドストエフスキーの表層のテキストの底にはもう一つ闇に隠れた舞台があり、そこで思いもかけぬドラマが展開しているのである。」である。
 両者とも、その批評手段に作品の表層にないものを見つける、というところでは一致したものがある。が、決定的に違う点がある。小林の批評は、最初、ジャーナリズムに迎えられることはなかった。が、すぐに文芸批評界を席巻していった。秘訣は、小林が、批評の網を広く文学全般に打った印象批評にある。小林は『アルチュウル・ランボォ』からはじまって多くの作家、作品を評した。そのなかに『ドストエフスキイの生活』もある。しかし、そのドストエフスキーは、小林が命を賭けて狙う、ただ一匹の魚ではない。文豪ドストエフスキーも、小林にとって、あくまでも底引き網のなかの大量の魚の一匹に過ぎない。小林は、荒海にただ一人漕ぎ出し特定の魚を狙う一本釣り漁師ではなかった。
 一つの獲物を狙い、戦いをつづける文芸批評家として、日本において清水正氏は数少ない一人である。四十年の長きにわたっての格闘。それは、すべての人生を犠牲にして満身創痍となってモービーディツクを追う『白鯨』の船長エイハブの壮絶な闘いと似るものがある。ドストエフスキーという巨大な大樹に挑んだ男、樹液を吸い尽くすか、野たれ死ぬか。そこには、何ものも追随できぬ批評家魂がある。ドストエフスキー批評の凄さがある。
 今日、新訳『カラマーゾフの兄弟』が数十万部も売れているという。まさにドストエフスキー・ブームといえる。一躍時の人となった訳者亀山郁夫氏は、折に触れ「ドストエフスキー作品は世界最高の小説」と言いつづけている。ドストエフスキーを世に知らしめた立役者として評価する面もあるが、花は一夜にして咲かない。育つべき土壌、開花させるべき環境。それらが準備されてこそ、花は咲き、人はその美を目にすることができるのだ。
「ドストエフスキーを読まずして人類の現在と未来を語ることなかれ」
とは清水正氏が久しく公言し宣伝し続けてきた言葉である。
 人類がドストエフスキーを読むことの必要性。氏は、既に四十年前から説いてきたのだ。平成六年に出された氏の著書『ドストエフスキーの暗号』でも、このように呼びかけている。
「国連のユネスコは、一九九一年をドストエフスキーの年と定めた。この記念すべき年に、日本の文芸ジャーナリズムは、雑誌一つドストエフスキーの特集を組まなかった。わたしの編集する『江古田文学』一誌のみが特集を組んだにすぎなかった」と。
 いつだったか、二○○七年秋『「罪と罰」における復活』(河合出版)を出版されたドストエフスキー研究家のA氏とレストランで会食した。その折り、なにかの話題から明治、大正、昭和にわたるドストエフスキー研究家の話になったとき「いま、日本でこれという研究者は、だれでしょうね」と、お聞きした。ドストエフスキーを研究するために大学を辞して野にある氏だけに、ドストエフスキー研究者には、厳しい目をもっている。彼はどんな研究者なら認めるのだろう。そんな興味がわいたのである。もっとも、答えは予想していた。おそらく「誰もいませんよ、いまの日本には」。きっとそう答え一笑に付すだろうと思った。ところが
「わたしは、いまの日本では、江川卓さん、それに清水正さんだと思います」
A氏は、躊躇なく断言した。
 あまりにあっさり言われたので、次に返す言葉を失った。しかし、疑問は少しもわかなかった。「ああ、そうですか・・・」私は、いささか拍子抜けして頷いた。そして、私の書斎の床を埋める清水氏のドストエフスキー評論群を懐かしく思った。
「批評は爆発だ!」そのときどこかでそんな声がしたような気がした。
 私は、A氏の真摯な表情を見てふたたび力強く頷いた。
 爆発によって誕生した清水氏のドストエフスキー論群が、全集となる。奇しくもドストエフスキー・ブームの最中にではある。不思議な因縁を思う。
(ドストエーフスキイ全作品を読む会「読書会」主宰

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