清水正の宮沢賢治論

宮沢賢治作『みじかい木ぺん』を読む(8)

そのうちキッコは算術も作文もいちばん図画もうまいので先生は何べんもキッコさんはほんたうにこのごろ勉強のために出来るやうになったと云ったのでした。二学期には級長にさへなったのでした。その代りもうキッコの威張りやうと云ったらありませんでした。学校へ出るときはもう村中の子供らをみんな待たせて置くのでしたし学校から帰って山へ行くにもきつとみんなをつれて行くのでうちの都合や何かで行かなかった子は次の日みんなに撲らせました。ある朝キッコが学校へ行かうと思ってうちを出ましたらふとあの鉛筆がなくなってゐるのに気がつきました。さあキッコのあわて方ったらありません。それでも仕方なしに学校へ行きました。みんなはキッコの顔いろが悪いのを大へん心配しました。

  算術の時間でした。

 「一ダース二十銭の鉛筆を二ダース半ではいくらですか。」先生が云ひました。みんなちょっと運算してそれからだんだんさっと手をあげました。たうとうみんなあげました。
キッコも仕方なくあげました。
 「キッコさん。」先生が云ひました。
  キッコは勢よく立ちましたがあともう云へなくなって顔を赤くしてたゞもう〔以下原稿なし]

 キッコは鳥の王から宝珠を授かったホモイのように、有頂天になり、傲慢になる。ホモイの宝珠は最後に砕けて、その粉がホモイを失明させてしまう。はたしてキッコの場合はどうであったろう。キッコの望みをかなえ続けてくれた〈変な鉛筆〉はある日とつぜんなくなってしまう。この〈鉛筆〉にばかり頼って、自分では何一つ努力してこなかったキッコは、先生が出した算術を解くことができない。しかし、はたしてこの先生の出した算術を解いた者があっただろうか。わたしの知るところ、「一ダース二十銭の鉛筆を二ダース半ではいくらですか。」の問いに正確に答えた読者はただ一人を存在しなかった。

 〈一ダース〉は〈12〉本、〈二ダース半〉は〈30〉本である。一ダース二十銭ということであるから、〈6〉本で十銭である。従って二ダース半の〈30〉本では〈50〉銭ということになる。この答え〈50〉銭という答を出すことは小学生でもできる。問題はその〈50〉銭が潜んでいる意味である。

勘のいい方はもうお分かりだろう。先にわたしはケンジ童話に出てくる数字を数秘術的減算すると、キリストが十字架に掛かった時の突出した時を意味する〈三〉〈六〉〈九〉になることを指摘しておいた。さて、先に取り上げた掛算(48×62)においては、96が6、288 が9、2976が6ということで、キリストが十字架に掛かった時の〈三〉時(今の午前九時)が欠落していた。ところが、このテキストの最後で先生が出した算術の問題自体の内に、この欠落していた〈3〉が潜んでいた。〈一ダース〉は〈12〉本で、これを数秘術的減算すれば1+2=3となる。〈二ダース半〉は〈30〉本で、これも数秘術的減算すると3になる。これで、このきわめてみじかい童話において〈三〉〈六〉〈九〉がすべて揃ったことになる。そして、答えが〈50〉銭である。〈50〉を数秘術的減算すれば〈5〉となる。〈5〉はキリストを意味するとはすでに先に紹介してある。

 もう誰も疑うことはできないだろう。つまり、先生が出した〈算術〉の答は〈キリスト〉であったということである。そして〈キッコ〉は〈キリスト〉になりそこねた子供であったということである。

 〈キッコ〉は〈キリスト〉になれる可能性を持っていた。その可能性にかけたのが〈樺の林〉に現出した〈おぢいさん〉であった。否、〈おぢいさん〉はやはり、キッコを試みた悪魔的な存在である。〈変な鉛筆〉を持った物書きはくれぐれも注意しなければいけないという警告でもある。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です