『ポラーノの広場』に出てくるつめくさの花の番号をすべて数秘術的減算すると3と6と9と5になること、5はキリストを意味する数字だと知れば、何とも恐るべき十字架上のキリストが浮上して来ることになる。主人公のレオーノキューストは〈レオ〉(ライオン=トルストイ)の〈キュースト〉(九の人=キリスト)とも考えられる。そういった関連で想像を膨らませれば、キッコの〈キ〉はキリストの〈キ〉ではないかと思える程である。宮沢賢治は童話の世界において、キリストが十字架上で息を引き取った〈九〉時に執着
した作家であり、このテキストにおいても「キッコは9の字などはどうも少しなまづのひげのやうになって」云々と書いて〈九〉をちらつかせている。
(もう算術だっていっかうひどくない。字だって上手に書ける。算術帳面とだって国語帳とだって雑作なく書ける。)
キッコは思ひながらそっと帳面をみんな出しました。そして算術帳国語帳理科帳とみんな書きつけました。すると鉛筆はまだキッコが手もうごかさないうちにじつに早くじつに立派にそれを書いてしまふのでした。キッコはもう大悦びでそれをにがにがならべて見てゐましたがふと算術帳と理科帳と取りちがへて書いたのに気がつきました。この木ぺんにはゴムもついてゐたと思ひながら尻の方のゴムで消さうとしましたらもう今度は鉛筆がまるで踊るやうに二三べん動いて間もなく表紙はあとも残さずきれいになってしまひました。さあ、キッコのよろこんだことこんないゝ鉛筆をもってゐたらもう勉強も何もいらない。ひとりでどんどんできるんだ。僕はまづ家へ帰ったらおっ母さんの前へ行って百けた位の六つかしい勘定を一ぺんにやって見せるんだ、それからきっと図画だってうまくできるにちがひない。僕はまづ立派な軍艦の絵を書くそれから水車のけしきも書く。けれども早く耗ってしまふと困るなあ、斯う考へたときでした鉛筆が俄かに倍ばかりの長さに延びてしまひました。キッコはまるで有頂天になって誰がどこで何をしてゐるか先生がいま何を云ってゐるかもまるっきりわからないといふ風でした。
その日キッコが学校から帰ってからのはしゃぎやうと云ったら第一におっかさんの前で十けたばかりの掛算と割算をすらすらやって見せてよろこばせそれから弟をひっぱり出して猫の顔を写生したり荒木又右エ門の仇討のとこを描いて見せたりそしておしまひもうお話を自分でどんどんこさへながらずんずんそれを絵にして書いて行きました。その絵がまるでほんもののやうでしたからキッコの弟のよろこびやうと云ったらありませんでした。
キッコが〈おぢいさん〉から貰った〈変な鉛筆〉は、のび太における〈ドラエモン〉のような存在で、キッコが望むことをなんでも叶えてくれる。否、キッコが望む以上のことを次々に実現してくれる。掛算も割算も、キッコが何の努力をしないでもさっさと解いてくれる。キッコはいきなり倍に延びてしまう、この〈変な鉛筆〉の力を疑わないし怖いとも感じない。キッコは有頂天になって弟に絵を描いてやったり、話を作ってやったりする。不思議な超能力の〈変な鉛筆〉を手に入れたキッコはいったいこれからどうなってしま
うのだろう。
さてここで、キッコの性別について再びとりあげよう。わたしは最初、キッコはその名前からして女の子ではないかと思っていた。下に〈コ〉が付くのは女の子に多いからである。もしキッコが女の子であれば、〈木ぺん=ペニス〉は自分のものではなかったことになる。彼女は〈木ぺん=ペニス〉を使うことで自らに受胎させる儀式のようなことをしていたことになる。さらにキッコが両性具有的な存在である可能性についても示唆しておいた。キッコは言わば特別な存在であり、自分の身体に聖痕を刻んだ者という印象も受けた。ところが、ここでキッコは〈僕〉という一人称を使っている。〈僕〉はふつうに考えれば男の子を意味する一人称であるから、とうぜんキッコは男の子であったということになる。が、先から何度を書いているように、ケンジ童話においてはことはそうそう単純にすますわけにはいかない。たとえここでキッコが〈僕〉といっていようが、キッコが女の子であること、また両性具有的な存在であることを否定することはできないのだ。むしろキッコは性別を超えた存在であったかもしれないのであるから。何しろ、キッコが〈おぢいさん〉から譲り受けた〈変な鉛筆〉の超能力を考えれば、キッコをふつうの子供と見なす方がおかしいということになるだろう。
そのうちキッコは算術も作文もいちばん図画もうまいので先生は何べんもキッコさんはほんたうにこのごろ勉強のために出来るやうになったと云ったのでした。二学期には級長にさへなったのでした。その代りもうキッコの威張りやうと云ったらありませんでした。学校へ出るときはもう村中の子供らをみんな待たせて置くのでしたし学校から帰って山へ行くにもきつとみんなをつれて行くのでうちの都合や何かで行かなかった子は次の日みんなに撲らせました。ある朝キッコが学校へ行かうと思ってうちを出ましたらふとあの鉛筆がなくなってゐるのに気がつきました。さあキッコのあわて方ったらありません。それでも仕方なしに学校へ行きました。みんなはキッコの顔いろが悪いのを大へん心配しました。
算術の時間でした。
「一ダース二十銭の鉛筆を二ダース半ではいくらですか。」先生が云ひました。みんなちょっと運算してそれからだんだんさっと手をあげました。たうとうみんなあげました。
キッコも仕方なくあげました。
「キッコさん。」先生が云ひました。
キッコは勢よく立ちましたがあともう云へなくなって顔を赤くしてたゞもう〔以下原稿なし]
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