本書は昨年九月から書きはじめ本年一月に書きおえた。今までチェーホフについて書いたことはない。ただし、いずれチェーホフについて書かなければならないだろうという予感はあった。今から十年以上も前のことだが、ぐうぜん映画『小犬をつれた貴婦人』を観て、心をうたれた。それ以来、この映画のビデオを何回か観直すことがあったが、そのたびに静かに心が揺さぶられた。そんなこともあってチェーホフ論を書くときはこの映画の批評からはじめようと思っていた。
『小犬をつれた貴婦人』『可愛い女』『六号室』『黒衣の僧』と書きすすめ、最後に『退屈な話』をとりあげた。本論で詳しく批評したのでここでは簡単に触れるが、『退屈な話』の老教授ニコライ・ステパーノヴィチは、大学で講義する者にとっては身近な存在に思えた。国も時代も違うのに、大学の教師が学生たちに思うことはほとんど何も変わっていないことに驚いた。チェーホフを知らない者に、この小説は現代小説だと言っても分からないのではないかと思ったほどである。しかし、そんなことよりわたしの心をとらえたのは、ニコライ・ステパーノヴィチの抱えている虚無、退屈、倦怠である。これらは一人ニコライ・ステパーノヴィチのものではない。
わたしはドストエフスキーを四十年近くも読み続けているが、それで何が分かったのかと言えば、結局「わからない」と答えるほかはないのだ。ニコライ・ステパーノヴィチはカーチャに「わたしはどうしたらいいのです?」と訊かれて「わからないんだよ!」とつぶやき、『ともしび』の語り手は『この世のことは何一つわかりっこないんだ!』と思う。
チェーホフは確かにドストエフスキーの後に作家活動を続けた小説家である。チェーホフの小説世界は、ドストエフスキーのそれとはだいぶ異なっているように見えるが、詳細に検討してみるとあんがいチェーホフはドストエフスキーを熟読していたのではないかと思えてくる。『退屈な話』論で指摘したように、ニコライ・ステパーノヴィチは『悪霊』のステパン・トロフィーモヴィチ・ヴェルホヴェーンスキーと、彼の教え子であったニコライ・スタヴローギンの名前からとったのではないかと思えるほどである。ドストエフスキーの人物たちが抱える虚無は熱く激しい。が、チェーホフの抱える虚無は熟成している。言わば大人の虚無であり、泣いたりわめいたりしない。アンニュイな虚無と退屈と言おうか。
『六号室』のラーギン医師は「どうでもいい」(Всё равно)が口癖であった。わけも分からずこの世に生まれ、わけも分からず死んでいかなければならない。どんなに必死になって世界の神秘を解きあかそうとしても、結局は何にもわからない。わたしは映画『小犬をつれた貴婦人』の中で、一本の空き瓶が、ヤルタの穏やかな波間に浮かんでいるそのシーンを忘れることはできない。中身の空っぽな一本の空き瓶、それが現代に生きるわたし自身の象徴的な姿にも思える。中身があるかのように語ることは、それこそニコライ・ステパーノヴィチが言うように容易なことなのだ。自分自身の内部の声にどこまでも忠実であろうとするとき、やはり「何もわからない」としかつぶやけない。
『退屈な話』の最後のシーンは、自らの〈死〉よりも壮絶な孤独がさりげなく描かれている。〈わが宝〉(カーチャに象徴される愛)を失ってまで守ろうとした誠実、その代償としての孤独、この孤独を生きたのはニコライ・ステパーノヴィチのみではない。彼を手記の主体として設定した作者チェーホフもまたこの孤独を生きた。書くほかはない孤独、・・チェーホフは書いて書いて書き続けて四十四年の壮絶な生を終えた。
チェーホフは間違いなく現代に蘇るであろう。あらゆる価値観が相対化され、どこにも絶対的な真理など見当たらない。現代人の多くは、すでにあらゆることに飽いている。空虚で退屈で、仕方なく目先のどうでもいい安手の〈快楽〉を求めて生の時間を潰しているにすぎない。「どうでもいい」という気分が蔓延している。この虚無的な気分を否定する新しい価値観などすでに求めることさえしない。「どうでもいい」は人生をすねたニヒリズムではない。ひとつの確固たる生の態度と言ってもいい。が、それは大きな声で主張されるようなことではない。「どうでもいい」は小さな声でひとりつぶやくか、内部の声としてひっそりとしまいこまれるのだ。ドストエフスキーやトルストイの後に作家活動を続けたチェーホフのダンディズムははてしのない虚無と退屈を抱え、美しいまでのアンニュイを漂わせている。
チェーホフの作品は多い。本書はその中からわずか五篇の小説をとりあげたに過ぎない。チェーホフの全作品を扱おうとすれば、途方もない時間を要することになろう。わたしは今回、特に興味を抱いた小説に限定して批評を展開したが、これらの作品批評によってチェーホフの現代的な特質性は充分に浮上したのではないかと自負している。チェーホフは今が旬である。「チェーホフを読め!」は命令ではない。現代人に下された天からの啓示である。
最後に、本書の企画をたてられ、わたしにチェーホフ論を書く一つのきっかけを与えてくださった鳥影社の窪田尚氏に厚くお礼申し上げたい。
二〇〇四年一月十三日
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