清水正の宮沢賢治論

宮沢賢治作『みじかい木ぺん』を読む(5)

問題は、〈おぢいさん〉が優しく声をかけた、まさにその時、頭の上で〈鳥〉が〈ピー〉と鳴いたことである。この〈ピー〉が分からなければ、このテキストの深層に踏み込むことはできない。ここでもわたしは『黒ぶだう』の或る一場面を想起する。それは赤狐が空に向かって「タンタン」と何度も鳴く場面である。この「タンタン」は単なる赤狐の泣き声を意味しているのではない。これは犢(子牛)の〈タン〉、すなわち〈舌〉を意味する。つまりここで赤狐(および作者)は、自分が連れ出した子牛(悪魔の誘惑に落ちた子牛)は、やがて殺され、解体されて、バーベキューの食材にされてしまうのだという、恐るべき未来を子牛(および読者)に予告していたというわけである。また、『貝の火』のホモイが小川の辺で耳にした「ブルルルル、ピイ、ピイ、ピイ、ピイ」の〈ピイ〉を想起してもいいだろう。このけたたましい〈声〉は、これからホモイが〈或る何ものか〉によって試みられますよ、という、その〈試みの舞台〉の開幕音であり、警告音なのである。
 
もうお分かりだろう。〈おぢいさん〉が優しく声をかけた時、頭上で鳥が鳴いた、その〈ピー〉は、これからキッコが試みにあいますよ、という合図であり、また同時にキッコに対する警告音でもあったということである。〈おぢいさん〉はさらに優しい声で「何を泣いたんだ。正直に話してごらん。聞いてあげるから。」と言う。〈鳥〉は再び〈ピー〉と鳴く。〈おぢいさん〉は癇癪を起こし、〈鳥〉にどなりつける。キッコは〈鳥〉の警告に気づくことはできなかった。〈鳥〉は〈おぢいさん〉にどなられ、姿を消してしまう。〈樺の木〉から「きらきら光って降り」ている〈雫〉は、今まさに試みにあおうとしているキッコを、ただ黙って見守っているかのようである。
 ついにキッコは〈木ぺん〉を失くしたことを話す。〈おぢいさん〉は同情して〈ぼろぼろの手帳〉にはさんであった〈みじかい鉛筆〉をキッコに与える。その〈鉛筆〉は〈灰色でごそごそしておまけに心の色も黒でなくていかにも変な鉛筆〉であった。キッコは満足せず、依然として泣いているが、〈おぢいさん〉はすっと姿を消してしまう。キッコはその〈枝きれみたいな変な鉛筆〉をかくしに入れてうちの方へと歩きだす。
 キッコが持っていた〈みじかい木ぺん〉は〈横8の字〉の書ける〈木ぺん=ペニス〉で、〈耳〉(女性器)に入る〈みじかい鼠いろのゴムのついた鉛筆〉で〈面白いいゝ鉛筆〉であった。しかし、キッコはこの〈鉛筆〉を慶助(巡査)に奪われ、今度は〈おぢいさん〉から灰色で心の色が黒でない〈変な鉛筆〉を貰うことになる。はたしてこの〈鉛筆〉はどのような鉛筆なのであろうか。
 キッコは『どんぐりと山猫』の一郎が、山猫からの〈おかしな葉書〉を誰にも内緒でカバンの中に隠してしまったように、〈おぢいさん〉から貰った〈変な鉛筆〉を〈かくし〉に入れて〈うちの方〉へと歩きだす。『どんぐりと山猫』論でも指摘したように、〈うちの方〉とは〈家の方〉とも受け取れるし、キッコの内的世界、すなわち〈内の方〉とも受け取れる。キッコは、〈おぢいさん〉から〈変な鉛筆〉をもらい受けたことで、自らの内的世界へと向かっていったとも解することができるということである。
 キッコは〈おぢいさん〉がその姿を消した後、どうしたのか。〈おぢいさん〉と〈樺の林〉の中で会ったこと、〈変な鉛筆〉を譲り受けたことなど、家の者に話したのであろうか。それとも、『どんぐりと山猫』の一郎のように、〈変な鉛筆〉のことは家の者の誰にも内緒にしていたのであろうか。語り手は家に戻ったキッコに関していっさい語らない。
 三幕目を見ることにしよう。
  次の日学校の一時間目は算術でした。キッコはふとあゝ木ぺんを持ってゐないなと思ひました。それからさうだ昨日の変な木ぺんがある。あれを使はう一時間ぐらいゐならもつだらうからと考へつきました。
  そこでキッコはその鉛筆を出して先生の黒板に書いた問題をごそごその藁紙の運算帳に書き取りました。
  48×62=
「みなさん一けた目のからさきにかけて。」と先生が云ひました。
 「一けた目からだ。」とキッコが思ったときでした。不思議なことは鉛筆がまるでひとりでうごいて96と書いてしまひました。キッコは自分の手首だか何だかもわからないやうな気がして呆れてしばらくぼんやり見てゐました。
 「一けた目がすんだらこんどは二けた目を勘定して。」と先生が云ひました。するとまた鉛筆がうごき出してするするっと288 と二けた目までのところへ書いてしまひました。キッコはもうあんまりびっくりして顔を赤くして堅くなってだまってゐましたら先生がまた
「さあできたら寄せ算をして下さい。」と云ひました。また始まるなと思ってゐましたらやっぱり、もうたゞ一いきに一本の線もひっぱって2976と書いてしまひました。
  さあもうキッコのよろこんだことそれからびっくりしたこと、何と云っていゝかわからないでただもうお湯へ入ったときのやうにじっとしてゐましたら先生がむちを持って立って
 「では吉三郎さんと慶助さんと出て黒板へ書いて下さい。」と云ひました。
  キッコは筆記長をもってはねあがりました。そして教壇へ行ってテーブルの上の白墨をとっていまの運算を書きつけたのです。そのとき慶助は顔をまっ赤にして半分立ったまゝ自分の席でもぢもぢしてゐました。キッコは9の字などはどうも少しなまづのひげのやうになってうまくないと思ひながらおりて来たときやうやく慶助が立って行きましたけれども問題を書いただけであとはもうもぢもぢしてゐました。
  先生はしばらくたって「よし」と云ひましたので慶助は戻って来ました。先生はむちでキッコの説明をしました。
 「よろしい、大へんよくできました。」
 キッコはもうにがにがにがにがわらって戻って来ました。
 さてこの場面において賢治は96、288 、2976という数字を書いている。これらの数字は48×62の一桁目の掛けた数字、二桁目の掛けた数字、その合計の数字ということで、なんら特別な数字でないように見える。しかし、ケンジ童話において数字が特別な意味を持っていることは、すでにわたしの宮沢賢治論を読んでいる者にとっては説明するまでもない。ここでは繰り返しを厭わず、ケンジ童話における数字の秘密を解くことにしたい。
 宮沢賢治はどういうわけか、キリストが十字架に掛けられた、その突出した時間にこだわった童話作家である。キリストが十字架に掛けられた時間は〈三時〉(今の午前九時)、〈六時〉(今の正午)に太陽は姿を隠し全地は闇に覆われる。〈九時〉(今の午後三時)にキリストは十字架上で息を引き取る。『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』『注文の多い料理店』『ポラーノの広場』などにおいてこの三、六、九の数字はひときわ重要な意味を担っていた。まず、96であるが、この数字の中にすでに6と9が入り込んでいる。また96で何かを想い出さないであろうか。この96はキッコが〈みじかい木ぺん〉で書いていたそのものではなかろうか。つまりキッコは96を〈くさりめがね〉のように連続して書いていたということである。さらに96は数秘術的減算で9+6=15、1+5=6となる。288 を数秘術的減算すると2+8+8=18、1+8=9となり、2976を数秘術的減算すると2+9+7+6=24、2+4=6となる。つまり96、288 、2976を数秘術的減算すれば6、9、6となる。なにげなく出されたかにみえる掛け算であるが、その数字を数秘術的減算すると6と9になることは、それを偶然として片づけるわけにはいかないだろう。
『ポラーノの広場』に出てくるつめくさの花の番号をすべて数秘術的減算すると3と6と9と5になること、5はキリストを意味する数字だと知れば、何とも恐るべき十字架上のキリストが浮上して来ることになる。主人公のレオーノキューストは〈レオ〉(ライオン=トルストイ)の〈キュースト〉(九の人=キリスト)とも考えられる。そういった関連で想像を膨らませれば、キッコの〈キ〉はキリストの〈キ〉ではないかと思える程である。宮沢賢治は童話の世界において、キリストが十字架上で息を引き取った〈九〉時に執着
した作家であり、このテキストにおいても「キッコは9の字などはどうも少しなまづのひげのやうになって」云々と書いて〈九〉をちらつかせている。
 (もう算術だっていっかうひどくない。字だって上手に書ける。算術帳面とだって国語帳とだって雑作なく書ける。)
  キッコは思ひながらそっと帳面をみんな出しました。そして算術帳国語帳理科帳とみんな書きつけました。すると鉛筆はまだキッコが手もうごかさないうちにじつに早くじつに立派にそれを書いてしまふのでした。キッコはもう大悦びでそれをにがにがならべて見てゐましたがふと算術帳と理科帳と取りちがへて書いたのに気がつきました。この木ぺんにはゴムもついてゐたと思ひながら尻の方のゴムで消さうとしましたらもう今度は鉛筆がまるで踊るやうに二三べん動いて間もなく表紙はあとも残さずきれいになってしまひました。さあ、キッコのよろこんだことこんないゝ鉛筆をもってゐたらもう勉強も何もいらない。ひとりでどんどんできるんだ。僕はまづ家へ帰ったらおっ母さんの前へ行って百けた位の六つかしい勘定を一ぺんにやって見せるんだ、それからきっと図画だってうまくできるにちがひない。僕はまづ立派な軍艦の絵を書くそれから水車のけしきも書く。けれども早く耗ってしまふと困るなあ、斯う考へたときでした鉛筆が俄かに倍ばかりの長さに延びてしまひました。キッコはまるで有頂天になって誰がどこで何をしてゐるか先生がいま何を云ってゐるかもまるっきりわからないといふ風でした。
  その日キッコが学校から帰ってからのはしゃぎやうと云ったら第一におっかさんの前で十けたばかりの掛算と割算をすらすらやって見せてよろこばせそれから弟をひっぱり出して猫の顔を写生したり荒木又右エ門の仇討のとこを描いて見せたりそしておしまひもうお話を自分でどんどんこさへながらずんずんそれを絵にして書いて行きました。その絵がまるでほんもののやうでしたからキッコの弟のよろこびやうと云ったらありませんでした。
 キッコが〈おぢいさん〉から貰った〈変な鉛筆〉は、のび太における〈ドラエモン〉のような存在で、キッコが望むことをなんでも叶えてくれる。否、キッコが望む以上のことを次々に実現してくれる。掛算も割算も、キッコが何の努力をしないでもさっさと解いてくれる。キッコはいきなり倍に延びてしまう、この〈変な鉛筆〉の力を疑わないし怖いとも感じない。キッコは有頂天になって弟に絵を描いてやったり、話を作ってやったりする。不思議な超能力の〈変な鉛筆〉を手に入れたキッコはいったいこれからどうなってしま
うのだろう。
 さてここで、キッコの性別について再びとりあげよう。わたしは最初、キッコはその名前からして女の子ではないかと思っていた。下に〈コ〉が付くのは女の子に多いからである。もしキッコが女の子であれば、〈木ぺん=ペニス〉は自分のものではなかったことになる。彼女は〈木ぺん=ペニス〉を使うことで自らに受胎させる儀式のようなことをしていたことになる。さらにキッコが両性具有的な存在である可能性についても示唆しておいた。キッコは言わば特別な存在であり、自分の身体に聖痕を刻んだ者という印象も受けた。ところが、ここでキッコは〈僕〉という一人称を使っている。〈僕〉はふつうに考えれば男の子を意味する一人称であるから、とうぜんキッコは男の子であったということになる。が、先から何度を書いているように、ケンジ童話においてはことはそうそう単純にすますわけにはいかない。たとえここでキッコが〈僕〉といっていようが、キッコが女の子であること、また両性具有的な存在であることを否定することはできないのだ。むしろキッコは性別を超えた存在であったかもしれないのであるから。何しろ、キッコが〈おぢいさん〉から譲り受けた〈変な鉛筆〉の超能力を考えれば、キッコをふつうの子供と見なす方がおかしいということになるだろう。
  そのうちキッコは算術も作文もいちばん図画もうまいので先生は何べんもキッコさんはほんたうにこのごろ勉強のために出来るやうになったと云ったのでした。二学期には級長にさへなったのでした。その代りもうキッコの威張りやうと云ったらありませんでした。学校へ出るときはもう村中の子供らをみんな待たせて置くのでしたし学校から帰って山へ行くにもきつとみんなをつれて行くのでうちの都合や何かで行かなかった子は次の日みんなに撲らせました。ある朝キッコが学校へ行かうと思ってうちを出ましたらふとあの鉛筆がなくなってゐるのに気がつきました。さあキッコのあわて方ったらありません。それでも仕方なしに学校へ行きました。みんなはキッコの顔いろが悪いのを大へん心配しました。
  算術の時間でした。
 「一ダース二十銭の鉛筆を二ダース半ではいくらですか。」先生が云ひました。みんなちょっと運算してそれからだんだんさっと手をあげました。たうとうみんなあげました。
キッコも仕方なくあげました。
 「キッコさん。」先生が云ひました。
  キッコは勢よく立ちましたがあともう云へなくなって顔を赤くしてたゞもう〔以下原稿なし]

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