清水正の宮沢賢治論

宮沢賢治作『みじかい木ぺん』を読む(4)

キッコの場合、彼女の前に現れて来るのはいかにも狡猾そうな〈赤狐〉ではなく、〈灰いろのひだのたくさんあるぼろぼろの着物を着た一人のおぢいさん〉である。この〈おぢいさん〉は何者なのか。今のところ読者には分からない。しかし、わたしがこの〈おぢいさん〉出現の場面ですぐに想起したのはトルストイの『アンナ・カレーニナ』における〈ひげぼうぼうの小がらな老人〉であった。この〈小がらな百姓〉はアンナとヴロンスキーの悪夢の中に出現してくる。アンナはヴロンスキーに、この〈百姓〉が寝室の片隅でなにか袋の上に屈み込んでごそごそやりながら、早口のフランス語で「Il faut le battre le fer, le broyer, le petrir……」(この鉄をたたいて、砕いて、練りあげなくちゃいかん……)としゃべっているのだと恐怖の面持ちで語る。周知のように、アンナははカレーニンと結婚してセリョージャという子供もある。そのアンナがヴロンスキーと不倫の関係に落ちる。不倫になんの罪意識も感じない現代の日本人とは違って、十九世紀を生きるアンナは不倫の恋に深い罪意識を感じている。その〈罪〉を不断に告発し続けるのが髭ぼうぼうの小がらな年とった百姓である。この〈百姓〉はまずは汽車の〈暖炉たき〉の〈痩せた百姓〉として現れる。彼は現実的には車室の寒暖計を見にきた〈暖炉たき〉(イスタプニーク)に過ぎないが、象徴的な次元では姦淫の罪を犯したアンナを厳しく罰する神の代理人の役割を負った恐るべき存在である。つまり、このイスタプニーク(истопник)はアンナの〈死と再生〉を司る者として、彼女の夢の中にしばしば現れるのである。アンナが「神さま、あたしのすべてをお許しください!」と叫んで汽車の車両に飛び込んだときにも、トルストイは「ひとりの小がらな百姓がなにやらつぶやきながら、鉄の上にかがみこんでなにやらしていた」と書いている。
 
キッコの前にとつぜん現れ出た〈灰いろのひだのたくさんあるぼろぼろの着物を着た一人のおぢいさん〉も何か、怪しい雰囲気を漂わせている。ただし、先から指摘しているようにケンジ童話の語り手は、語りにおいてきわめて巧妙であり、怪しい人物の怪しさを隠蔽する天才でもある。キッコが〈おぢいさん〉の怪しさに気づかないように、牧歌的な読者など種を明かされてもその怪しさに気づかないだろう。
 (あのおぢいさんはきっと鼠捕りだな。)キッコは考へました。おぢいさんは変な黒い沓をはいてゐました。そしてキッコと行きちがふといきなり顔をあげてキッコを見てわらひました。
 「今日学校で泣いたな。目のまはりが狸のやうになってゐるぞ。」
  すると頭の上で鳥がピーとなきました。キッコは顔を赤くして立ちどまりました。
 「何を泣いたんだ。正直に話してごらん。聞いてあげるから。」
  鳥がまた頭の上でピーとなきました。するとおぢいさんは顔をしかめて上を向いて
 「おまへぢゃないよ、やかましい、だまっておいで」とどなりました。
  すると鳥はにはかにしいんとなってそれから飛んで行ったらしくぼろんといふ羽の音も聞え樺の木からは雫がきらきら光って降りました。
 「いってごらん。なぜ泣いたの。」
  おぢいさんはやさしく云ひました。
 「木ぺん失ぐした。」キッコは両手を目にあててまたしくしく泣きました。
 「木ぺん、なくした。さうか。そいつはかあいさうだ。まあ泣くな、見ろ、手がまっ赤ぢゃないか。」
  おぢいさんはごそごその着物のたもとを裏返しにしてぼろぼろの手帳を出してそれにはさんだみじかい鉛筆を出して木ぺんの手に持たせました。キッコはまだ涙をぼろぼろこぼしながら見ましたらその鉛筆は灰色でごそごそしておまけに心の色も黒でなくていかにも変な鉛筆でした。キッコはそこでやっぱりしくしく泣いてゐました。
 「ははああんまり面白くもないのかな。まあ仕方ない、わしは外に持ってゐないからな。」おぢいさんはすっと行ってしまひました。
  風が来て樺の木はチラチラ光りました。ふりかへって見ましたらおぢいさんはもう林の向ふにまがってしまったのか見えませんでした。キッコはその枝きれみたいな変な鉛筆を持ってだまってかくしに入れてうちの方へ歩き出しました。
 キッコが〈おぢいさん〉を見て、どういうわけで彼を〈鼠捕り〉と思ったのであろうか。その理由を語り手は例によって説明しない。読者は〈鼠〉の灰色と、〈おぢいさん〉の着ていたぼろぼろの着物が灰色であった、その共通性ぐらいしか思いつかない。問題は、キッコが〈おぢいさん〉を〈鼠捕り〉と思ったことで、読者の大半がその認識を無意識のうちに受け入れてしまうということである。しかし、わたしは語り手の巧妙な騙りから開放された次元でケンジ童話を読み進めている。〈おぢいさん〉を単なる〈鼠捕り〉などと
思っていたのでは牧歌的な読みの次元を超えることはできない。
 他のケンジ童話との関連から考えても、この〈灰いろ〉の着物を着て、〈変な黒い沓〉をはいている〈おぢいさん〉は、『風の又三郎』の又三郎や『銀河鉄道の夜』でジョバンニにどこにでも行ける灰色の切符を渡した車掌などを想起させる。すなわち、この〈おぢいさん〉は現実に存在する単なる〈鼠捕り〉なとではなく、キッコを〈試み〉るためにわざわざ〈樺の林〉に派遣された或るなにものかなのである。
 〈試みる者〉すなわち悪魔はどのように声をかけるのか。『黒ぶだう』における赤狐や『オツベルと象』における赤衣の童子を想い出したらいい。子牛の〈退屈〉につけ込んで柵の外へと誘いだした赤狐、白象のオツベルに対する内なる憎悪と怒りにつけ込んで山の象に助けを求めたらいいと硯と紙を持参して甘い言葉でささやく赤衣の童子、彼らは等しく柔和な表情で、優しい声でささやきかける。〈赤衣の童子〉などは未だに白象の味方だと思っているケンジ童話の愛好者は五万といよう。ケンジ童話の語り手は、主人公ばかりではなく読者をもあざむくほどに巧みなのである。キッコの前に現れた〈おぢいさん〉も、キッコに〈鼠捕り〉のおぢいさんと思わせることに成功している。彼はキッコと行き違う時に、笑って「今日学校で泣いたな」と声をかけている。〈おぢいさん〉はキッコが今、最も悲しんでいることを突いてくる。つまり、〈おぢいさん〉はキッコの最大の理解者、相談者として登場して来たのだ。相手が、今悲しんでいること、苦しんでいること、そういうことに関して鈍感な者は決して少なくない。相手が笑っているから、楽しいと思って疑わないバカがいる。人は余りにも悲しい時に笑ってしまう場合がある。他者の心の襞を理解できない者はあんがい多い。たとえば、キッコは大事にしていた木ぺんを慶助にとられて悲しい。しかし、キッコのクラスの先生はそのことに気づかなかった。『銀河鉄道の夜』の理科の先生も同じで、彼は銀河宇宙のことに関しては詳しいが、ジョバンニがクラス仲間からいじめにあっているその現実を把握することはできなかった。ところが、ここに現れた〈おぢいさん〉ときたら、着ている着物はぼろぼろでも、相手の気持ちをいっぺんに看破する眼力を備えている。

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