清水正の宮沢賢治論

宮沢賢治作『みじかい木ぺん』を読む(3)

課業がすんでキッコがうちへ帰るときは雨はすっかり晴れてゐました。
  あちこちの木がみなきれいに光り山は群青でまぶしい泣き笑ひのやうに見えたのでした。けれどもキッコは大へんに心もちがふさいでゐました。慶助はあんまりゐばってゐるしひどい。それに鉛筆も授業がすんでからいくらさがしてももう見えなかったのです。どの机の足もとにもあのみじかい鼠いろのゴムのついた鉛筆はころがってゐませんでした。新学期からずうっと使ってゐた鉛筆です。おぢいさんと一緒に町へ行って習字手本や読方の本と一緒に買って来た鉛筆でした。いくらみじかくなったってまだまだ使へたのです、使へないからってそれでも面白いいゝ鉛筆なのです。

 ここに書かれているのはまず、キッコの〈木ぺん〉に関する現実的な説明である。それは〈鼠色のゴムのついた鉛筆〉であり、おぢいさんと町で買って来た〈鉛筆〉である。この〈鉛筆〉が〈あんまりゐばってゐる〉慶助に奪い取られてしまったので、雨はすっかり晴れたというのに、キッコの心もちはふさいでいる。読者の大半はまだまだ、キッコの〈木ぺん〉を〈鉛筆〉と思って読み進んでいくに違いない。何しろそれが語り手の戦略なのである。ところで、注意深い読者なら、語り手がキッコの〈木ぺん〉を〈面白いいゝ鉛筆〉と言っていたことを見逃しはしないだろう。この〈鉛筆〉は単なる〈鉛筆〉ではないんだよ、ということを語り手はここでさりげなくもらしているのである。
 
 キッコは樺の林の間を行きました。樺はみな小さな青い葉を出しすきとほった雨の雫が垂れいゝ匂がそこらいっぱいでした。おひさまがその葉をすかして古めかしい金いろに
したのです。
  それを見てゐるうちに
 「木ぺん樺の木に沢山あるぢゃ)キッコはふっとかう思ひました。けれども樺の木の小さな枝には鉛筆ぐらゐの太さのはいくらでもありますけれども決して黒い心がはひっては
ゐないのです。キッコは又泣きたくなりました。そのときキッコは向ふから灰いろのひだのたくさんあるぼろぼろの着物を着た一人のおぢいさんが大へん考へ込んでこっちへ来る
のを見ました。
 キッコは〈樺の林の間〉を行きました、とある。これも別になんてことはない語りである。しかし、『黒ぶだう』を批評し終えている者としては、〈樺の林〉は恐ろしい試みの舞台である。赤狐が柵の中の子牛をいかに誘惑して、樺林へと連れだして行ったかを想起すればいい。子牛は赤狐に騙され、バチュラ侯爵家での晩餐会に犢肉として供されてしまうのだ。ケンジ童話の主人公たちは、いつも〈試み〉の舞台に引きずり出されていることを失念してはならない。キッコが、今歩いている〈樺の林〉は、キッコの家と学校とをつなぐ一本道であり通い道であったのだろうか。それとも、慶助に〈木ぺん〉を奪い取られたキッコが、心もちがふさいだままに入り込んでしまった道だったのであろうか。
 ふっと、キッコは(木ぺん樺の木に沢山あるぢゃ)と思う。〈面白いいゝ鉛筆〉を奪われて心がふさいでしまったキッコの悲しくもせつない願望の反映である。キッコはすぐに樺の木の小さな枝には〈黒い心〉がはいっていないことに気づいて泣きたくなる。
 ここで語り手は鉛筆のシンを〈黒い芯〉と書かずに〈黒い心〉と書いている。こういうところがケンジ童話の一筋縄ではいかない面白いところである。つまり、こういうことだ。キッコが「一生けん命にぎってひとりでにかにかわらひながら8の字を横にたくさん書いてゐた」あの〈みじかい木ぺん〉、あの〈面白いいゝ鉛筆〉には、その中央に〈黒い心〉すなわち〈黒いこころ〉が埋め込まれてあったということである。換言すれば、木ぺんの真ん中に〈黒い心〉が入っていなければ、夢中になって〈8の字〉などを書くことはできなかったということである。今、樺の木は青い葉を出し、雨の雫に濡れて〈いゝ匂〉を林中に漂わせている。〈おひさま〉は樺を、その葉をすかして〈古めかしい金いろ〉に照らしている。まさにこういった雨上がりの神々しい光景のただ中にあって、キッコは〈樺の木の小さな枝〉には〈黒い心がはひってはゐない〉ことを思って泣くのである。もちろん、キッコの表層意識は〈黒い心〉を〈鉛筆の芯〉と思っている。しかし、キッコの心の深層は違う。キッコの心の内部に誘惑者をそそのかす〈黒い心〉が秘められている。『黒ぶだう』の子牛と同じである。子牛は柵の中の生活に飽き飽きしていた。退屈しきっていた。何か面白いことはないかと、好奇心を疼かせていた。だからこそ、その機を逃さず、赤狐がまっしぐらに子牛の所へ飛んできて誘惑の言葉をささやくのである。
 キッコの場合、彼女の前に現れて来るのはいかにも狡猾そうな〈赤狐〉ではなく、〈灰いろのひだのたくさんあるぼろぼろの着物を着た一人のおぢいさん〉である。この〈おぢいさん〉は何者なのか。今のところ読者には分からない。しかし、わたしがこの〈おぢいさん〉出現の場面ですぐに想起したのはトルストイの『アンナ・カレーニナ』における〈ひげぼうぼうの小がらな老人〉であった。この〈小がらな百姓〉はアンナとヴロンスキーの悪夢の中に出現してくる。アンナはヴロンスキーに、この〈百姓〉が寝室の片隅でなにか袋の上に屈み込んでごそごそやりながら、早口のフランス語で「Il faut le battre le fer, le broyer, le petrir……」(この鉄をたたいて、砕いて、練りあげなくちゃいかん……)としゃべっているのだと恐怖の面持ちで語る。周知のように、アンナははカレーニンと結婚してセリョージャという子供もある。そのアンナがヴロンスキーと不倫の関係に落ちる。不倫になんの罪意識も感じない現代の日本人とは違って、十九世紀を生きるアンナは不倫の恋に深い罪意識を感じている。その〈罪〉を不断に告発し続けるのが髭ぼうぼうの小がらな年とった百姓である。この〈百姓〉はまずは汽車の〈暖炉たき〉の〈痩せた百姓〉として現れる。彼は現実的には車室の寒暖計を見にきた〈暖炉たき〉(イスタプニーク)に過ぎないが、象徴的な次元では姦淫の罪を犯したアンナを厳しく罰する神の代理人の役割を負った恐るべき存在である。つまり、このイスタプニーク(истопник)はアンナの〈死と再生〉を司る者として、彼女の夢の中にしばしば現れるのである。アンナが「神さま、あたしのすべてをお許しください!」と叫んで汽車の車両に飛び込んだときにも、トルストイは「ひとりの小がらな百姓がなにやらつぶやきながら、鉄の上にかがみこんでなにやらしていた」と書いている。
 キッコの前にとつぜん現れ出た〈灰いろのひだのたくさんあるぼろぼろの着物を着た一人のおぢいさん〉も何か、怪しい雰囲気を漂わせている。ただし、先から指摘しているようにケンジ童話の語り手は、語りにおいてきわめて巧妙であり、怪しい人物の怪しさを隠蔽する天才でもある。キッコが〈おぢいさん〉の怪しさに気づかないように、牧歌的な読者など種を明かされてもその怪しさに気づかないだろう。
 (あのおぢいさんはきっと鼠捕りだな。)キッコは考へました。おぢいさんは変な黒い沓をはいてゐました。そしてキッコと行きちがふといきなり顔をあげてキッコを見てわらひました。
 「今日学校で泣いたな。目のまはりが狸のやうになってゐるぞ。」
  すると頭の上で鳥がピーとなきました。キッコは顔を赤くして立ちどまりました。
 「何を泣いたんだ。正直に話してごらん。聞いてあげるから。」
  鳥がまた頭の上でピーとなきました。するとおぢいさんは顔をしかめて上を向いて
 「おまへぢゃないよ、やかましい、だまっておいで」とどなりました。
  すると鳥はにはかにしいんとなってそれから飛んで行ったらしくぼろんといふ羽の音も聞え樺の木からは雫がきらきら光って降りました。
 「いってごらん。なぜ泣いたの。」
  おぢいさんはやさしく云ひました。
 「木ぺん失ぐした。」キッコは両手を目にあててまたしくしく泣きました。
 「木ぺん、なくした。さうか。そいつはかあいさうだ。まあ泣くな、見ろ、手がまっ赤ぢゃないか。」
  おぢいさんはごそごその着物のたもとを裏返しにしてぼろぼろの手帳を出してそれにはさんだみじかい鉛筆を出して木ぺんの手に持たせました。キッコはまだ涙をぼろぼろこぼしながら見ましたらその鉛筆は灰色でごそごそしておまけに心の色も黒でなくていかにも変な鉛筆でした。キッコはそこでやっぱりしくしく泣いてゐました。
 「ははああんまり面白くもないのかな。まあ仕方ない、わしは外に持ってゐないからな。」おぢいさんはすっと行ってしまひました。
  風が来て樺の木はチラチラ光りました。ふりかへって見ましたらおぢいさんはもう林の向ふにまがってしまったのか見えませんでした。キッコはその枝きれみたいな変な鉛筆を持ってだまってかくしに入れてうちの方へ歩き出しました。
 キッコが〈おぢいさん〉を見て、どういうわけで彼を〈鼠捕り〉と思ったのであろうか。その理由を語り手は例によって説明しない。読者は〈鼠〉の灰色と、〈おぢいさん〉の着ていたぼろぼろの着物が灰色であった、その共通性ぐらいしか思いつかない。問題は、キッコが〈おぢいさん〉を〈鼠捕り〉と思ったことで、読者の大半がその認識を無意識のうちに受け入れてしまうということである。しかし、わたしは語り手の巧妙な騙りから開放された次元でケンジ童話を読み進めている。〈おぢいさん〉を単なる〈鼠捕り〉などと
思っていたのでは牧歌的な読みの次元を超えることはできない。
 他のケンジ童話との関連から考えても、この〈灰いろ〉の着物を着て、〈変な黒い沓〉をはいている〈おぢいさん〉は、『風の又三郎』の又三郎や『銀河鉄道の夜』でジョバンニにどこにでも行ける灰色の切符を渡した車掌などを想起させる。すなわち、この〈おぢいさん〉は現実に存在する単なる〈鼠捕り〉なとではなく、キッコを〈試み〉るためにわざわざ〈樺の林〉に派遣された或るなにものかなのである。
 〈試みる者〉すなわち悪魔はどのように声をかけるのか。『黒ぶだう』における赤狐や『オツベルと象』における赤衣の童子を想い出したらいい。子牛の〈退屈〉につけ込んで柵の外へと誘いだした赤狐、白象のオツベルに対する内なる憎悪と怒りにつけ込んで山の象に助けを求めたらいいと硯と紙を持参して甘い言葉でささやく赤衣の童子、彼らは等しく柔和な表情で、優しい声でささやきかける。〈赤衣の童子〉などは未だに白象の味方だと思っているケンジ童話の愛好者は五万といよう。ケンジ童話の語り手は、主人公ばかりではなく読者をもあざむくほどに巧みなのである。キッコの前に現れた〈おぢいさん〉も、キッコに〈鼠捕り〉のおぢいさんと思わせることに成功している。彼はキッコと行き違う時に、笑って「今日学校で泣いたな」と声をかけている。〈おぢいさん〉はキッコが今、最も悲しんでいることを突いてくる。つまり、〈おぢいさん〉はキッコの最大の理解者、相談者として登場して来たのだ。相手が、今悲しんでいること、苦しんでいること、そういうことに関して鈍感な者は決して少なくない。相手が笑っているから、楽しいと思って疑わないバカがいる。人は余りにも悲しい時に笑ってしまう場合がある。他者の心の襞を理解できない者はあんがい多い。たとえば、キッコは大事にしていた木ぺんを慶助にとられて悲しい。しかし、キッコのクラスの先生はそのことに気づかなかった。『銀河鉄道の夜』の理科の先生も同じで、彼は銀河宇宙のことに関しては詳しいが、ジョバンニがクラス仲間からいじめにあっているその現実を把握することはできなかった。ところが、ここに現れた〈おぢいさん〉ときたら、着ている着物はぼろぼろでも、相手の気持ちをいっぺんに看破する眼力を備えている。
 問題は、〈おぢいさん〉が優しく声をかけた、まさにその時、頭の上で〈鳥〉が〈ピー〉と鳴いたことである。この〈ピー〉が分からなければ、このテキストの深層に踏み込むことはできない。ここでもわたしは『黒ぶだう』の或る一場面を想起する。それは赤狐が空に向かって「タンタン」と何度も鳴く場面である。この「タンタン」は単なる赤狐の泣き声を意味しているのではない。これは犢(子牛)の〈タン〉、すなわち〈舌〉を意味する。つまりここで赤狐(および作者)は、自分が連れ出した子牛(悪魔の誘惑に落ちた子牛)は、やがて殺され、解体されて、バーベキューの食材にされてしまうのだという、恐るべき未来を子牛(および読者)に予告していたというわけである。また、『貝の火』のホモイが小川の辺で耳にした「ブルルルル、ピイ、ピイ、ピイ、ピイ」の〈ピイ〉を想起してもいいだろう。このけたたましい〈声〉は、これからホモイが〈或る何ものか〉によって試みられますよ、という、その〈試みの舞台〉の開幕音であり、警告音なのである。
 もうお分かりだろう。〈おぢいさん〉が優しく声をかけた時、頭上で鳥が鳴いた、その〈ピー〉は、これからキッコが試みにあいますよ、という合図であり、また同時にキッコに対する警告音でもあったということである。〈おぢいさん〉はさらに優しい声で「何を泣いたんだ。正直に話してごらん。聞いてあげるから。」と言う。〈鳥〉は再び〈ピー〉と鳴く。〈おぢいさん〉は癇癪を起こし、〈鳥〉にどなりつける。キッコは〈鳥〉の警告に気づくことはできなかった。〈鳥〉は〈おぢいさん〉にどなられ、姿を消してしまう。〈樺の木〉から「きらきら光って降り」ている〈雫〉は、今まさに試みにあおうとしているキッコを、ただ黙って見守っているかのようである。
 ついにキッコは〈木ぺん〉を失くしたことを話す。〈おぢいさん〉は同情して〈ぼろぼろの手帳〉にはさんであった〈みじかい鉛筆〉をキッコに与える。その〈鉛筆〉は〈灰色でごそごそしておまけに心の色も黒でなくていかにも変な鉛筆〉であった。キッコは満足せず、依然として泣いているが、〈おぢいさん〉はすっと姿を消してしまう。キッコはその〈枝きれみたいな変な鉛筆〉をかくしに入れてうちの方へと歩きだす。
 キッコが持っていた〈みじかい木ぺん〉は〈横8の字〉の書ける〈木ぺん=ペニス〉で、〈耳〉(女性器)に入る〈みじかい鼠いろのゴムのついた鉛筆〉で〈面白いいゝ鉛筆〉であった。しかし、キッコはこの〈鉛筆〉を慶助(巡査)に奪われ、今度は〈おぢいさん〉から灰色で心の色が黒でない〈変な鉛筆〉を貰うことになる。はたしてこの〈鉛筆〉はどのような鉛筆なのであろうか。
 キッコは『どんぐりと山猫』の一郎が、山猫からの〈おかしな葉書〉を誰にも内緒でカバンの中に隠してしまったように、〈おぢいさん〉から貰った〈変な鉛筆〉を〈かくし〉に入れて〈うちの方〉へと歩きだす。『どんぐりと山猫』論でも指摘したように、〈うちの方〉とは〈家の方〉とも受け取れるし、キッコの内的世界、すなわち〈内の方〉とも受け取れる。キッコは、〈おぢいさん〉から〈変な鉛筆〉をもらい受けたことで、自らの内的世界へと向かっていったとも解することができるということである。
 キッコは〈おぢいさん〉がその姿を消した後、どうしたのか。〈おぢいさん〉と〈樺の林〉の中で会ったこと、〈変な鉛筆〉を譲り受けたことなど、家の者に話したのであろうか。それとも、『どんぐりと山猫』の一郎のように、〈変な鉛筆〉のことは家の者の誰にも内緒にしていたのであろうか。語り手は家に戻ったキッコに関していっさい語らない。
 三幕目を見ることにしよう。
  次の日学校の一時間目は算術でした。キッコはふとあゝ木ぺんを持ってゐないなと思ひました。それからさうだ昨日の変な木ぺんがある。あれを使はう一時間ぐらいゐならもつだらうからと考へつきました。
  そこでキッコはその鉛筆を出して先生の黒板に書いた問題をごそごその藁紙の運算帳に書き取りました。
  48×62=
「みなさん一けた目のからさきにかけて。」と先生が云ひました。
 「一けた目からだ。」とキッコが思ったときでした。不思議なことは鉛筆がまるでひとりでうごいて96と書いてしまひました。キッコは自分の手首だか何だかもわからないやうな気がして呆れてしばらくぼんやり見てゐました。
 「一けた目がすんだらこんどは二けた目を勘定して。」と先生が云ひました。するとまた鉛筆がうごき出してするするっと288 と二けた目までのところへ書いてしまひました。キッコはもうあんまりびっくりして顔を赤くして堅くなってだまってゐましたら先生がまた
「さあできたら寄せ算をして下さい。」と云ひました。また始まるなと思ってゐましたらやっぱり、もうたゞ一いきに一本の線もひっぱって2976と書いてしまひました。
  さあもうキッコのよろこんだことそれからびっくりしたこと、何と云っていゝかわからないでただもうお湯へ入ったときのやうにじっとしてゐましたら先生がむちを持って立って
 「では吉三郎さんと慶助さんと出て黒板へ書いて下さい。」と云ひました。
  キッコは筆記長をもってはねあがりました。そして教壇へ行ってテーブルの上の白墨をとっていまの運算を書きつけたのです。そのとき慶助は顔をまっ赤にして半分立ったまゝ自分の席でもぢもぢしてゐました。キッコは9の字などはどうも少しなまづのひげのやうになってうまくないと思ひながらおりて来たときやうやく慶助が立って行きましたけれども問題を書いただけであとはもうもぢもぢしてゐました。
  先生はしばらくたって「よし」と云ひましたので慶助は戻って来ました。先生はむちでキッコの説明をしました。
 「よろしい、大へんよくできました。」
 キッコはもうにがにがにがにがわらって戻って来ました。
 さてこの場面において賢治は96、288 、2976という数字を書いている。これらの数字は48×62の一桁目の掛けた数字、二桁目の掛けた数字、その合計の数字ということで、なんら特別な数字でないように見える。しかし、ケンジ童話において数字が特別な意味を持っていることは、すでにわたしの宮沢賢治論を読んでいる者にとっては説明するまでもない。ここでは繰り返しを厭わず、ケンジ童話における数字の秘密を解くことにしたい。
 宮沢賢治はどういうわけか、キリストが十字架に掛けられた、その突出した時間にこだわった童話作家である。キリストが十字架に掛けられた時間は〈三時〉(今の午前九時)、〈六時〉(今の正午)に太陽は姿を隠し全地は闇に覆われる。〈九時〉(今の午後三時)にキリストは十字架上で息を引き取る。『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』『注文の多い料理店』『ポラーノの広場』などにおいてこの三、六、九の数字はひときわ重要な意味を担っていた。まず、96であるが、この数字の中にすでに6と9が入り込んでいる。また96で何かを想い出さないであろうか。この96はキッコが〈みじかい木ぺん〉で書いていたそのものではなかろうか。つまりキッコは96を〈くさりめがね〉のように連続して書いていたということである。さらに96は数秘術的減算で9+6=15、1+5=6となる。288 を数秘術的減算すると2+8+8=18、1+8=9となり、2976を数秘術的減算すると2+9+7+6=24、2+4=6となる。つまり96、288 、2976を数秘術的減算すれば6、9、6となる。なにげなく出されたかにみえる掛け算であるが、その数字を数秘術的減算すると6と9になることは、それを偶然として片づけるわけにはいかないだろう。
『ポラーノの広場』に出てくるつめくさの花の番号をすべて数秘術的減算すると3と6と9と5になること、5はキリストを意味する数字だと知れば、何とも恐るべき十字架上のキリストが浮上して来ることになる。主人公のレオーノキューストは〈レオ〉(ライオン=トルストイ)の〈キュースト〉(九の人=キリスト)とも考えられる。そういった関連で想像を膨らませれば、キッコの〈キ〉はキリストの〈キ〉ではないかと思える程である。宮沢賢治は童話の世界において、キリストが十字架上で息を引き取った〈九〉時に執着
した作家であり、このテキストにおいても「キッコは9の字などはどうも少しなまづのひげのやうになって」云々と書いて〈九〉をちらつかせている。
 (もう算術だっていっかうひどくない。字だって上手に書ける。算術帳面とだって国語帳とだって雑作なく書ける。)
  キッコは思ひながらそっと帳面をみんな出しました。そして算術帳国語帳理科帳とみんな書きつけました。すると鉛筆はまだキッコが手もうごかさないうちにじつに早くじつに立派にそれを書いてしまふのでした。キッコはもう大悦びでそれをにがにがならべて見てゐましたがふと算術帳と理科帳と取りちがへて書いたのに気がつきました。この木ぺんにはゴムもついてゐたと思ひながら尻の方のゴムで消さうとしましたらもう今度は鉛筆がまるで踊るやうに二三べん動いて間もなく表紙はあとも残さずきれいになってしまひました。さあ、キッコのよろこんだことこんないゝ鉛筆をもってゐたらもう勉強も何もいらない。ひとりでどんどんできるんだ。僕はまづ家へ帰ったらおっ母さんの前へ行って百けた位の六つかしい勘定を一ぺんにやって見せるんだ、それからきっと図画だってうまくできるにちがひない。僕はまづ立派な軍艦の絵を書くそれから水車のけしきも書く。けれども早く耗ってしまふと困るなあ、斯う考へたときでした鉛筆が俄かに倍ばかりの長さに延びてしまひました。キッコはまるで有頂天になって誰がどこで何をしてゐるか先生がいま何を云ってゐるかもまるっきりわからないといふ風でした。
  その日キッコが学校から帰ってからのはしゃぎやうと云ったら第一におっかさんの前で十けたばかりの掛算と割算をすらすらやって見せてよろこばせそれから弟をひっぱり出して猫の顔を写生したり荒木又右エ門の仇討のとこを描いて見せたりそしておしまひもうお話を自分でどんどんこさへながらずんずんそれを絵にして書いて行きました。その絵がまるでほんもののやうでしたからキッコの弟のよろこびやうと云ったらありませんでした。
 キッコが〈おぢいさん〉から貰った〈変な鉛筆〉は、のび太における〈ドラエモン〉のような存在で、キッコが望むことをなんでも叶えてくれる。否、キッコが望む以上のことを次々に実現してくれる。掛算も割算も、キッコが何の努力をしないでもさっさと解いてくれる。キッコはいきなり倍に延びてしまう、この〈変な鉛筆〉の力を疑わないし怖いとも感じない。キッコは有頂天になって弟に絵を描いてやったり、話を作ってやったりする。不思議な超能力の〈変な鉛筆〉を手に入れたキッコはいったいこれからどうなってしま
うのだろう。
 さてここで、キッコの性別について再びとりあげよう。わたしは最初、キッコはその名前からして女の子ではないかと思っていた。下に〈コ〉が付くのは女の子に多いからである。もしキッコが女の子であれば、〈木ぺん=ペニス〉は自分のものではなかったことになる。彼女は〈木ぺん=ペニス〉を使うことで自らに受胎させる儀式のようなことをしていたことになる。さらにキッコが両性具有的な存在である可能性についても示唆しておいた。キッコは言わば特別な存在であり、自分の身体に聖痕を刻んだ者という印象も受けた。ところが、ここでキッコは〈僕〉という一人称を使っている。〈僕〉はふつうに考えれば男の子を意味する一人称であるから、とうぜんキッコは男の子であったということになる。が、先から何度を書いているように、ケンジ童話においてはことはそうそう単純にすますわけにはいかない。たとえここでキッコが〈僕〉といっていようが、キッコが女の子であること、また両性具有的な存在であることを否定することはできないのだ。むしろキッコは性別を超えた存在であったかもしれないのであるから。何しろ、キッコが〈おぢいさん〉から譲り受けた〈変な鉛筆〉の超能力を考えれば、キッコをふつうの子供と見なす方がおかしいということになるだろう。
  そのうちキッコは算術も作文もいちばん図画もうまいので先生は何べんもキッコさんはほんたうにこのごろ勉強のために出来るやうになったと云ったのでした。二学期には級長にさへなったのでした。その代りもうキッコの威張りやうと云ったらありませんでした。学校へ出るときはもう村中の子供らをみんな待たせて置くのでしたし学校から帰って山へ行くにもきつとみんなをつれて行くのでうちの都合や何かで行かなかった子は次の日みんなに撲らせました。ある朝キッコが学校へ行かうと思ってうちを出ましたらふとあの鉛筆がなくなってゐるのに気がつきました。さあキッコのあわて方ったらありません。それでも仕方なしに学校へ行きました。みんなはキッコの顔いろが悪いのを大へん心配しました。
  算術の時間でした。
 「一ダース二十銭の鉛筆を二ダース半ではいくらですか。」先生が云ひました。みんなちょっと運算してそれからだんだんさっと手をあげました。たうとうみんなあげました。
キッコも仕方なくあげました。
 「キッコさん。」先生が云ひました。
  キッコは勢よく立ちましたがあともう云へなくなって顔を赤くしてたゞもう〔以下原稿なし]

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