清水正の遠藤周作論(6)「『おバカさん』と『白痴』」

清水正の遠藤周作論

遠藤周作は『真昼の悪魔』で『悪霊』や『罪と罰』を俎上にあげたが、『おバカさん』は『白痴』を下敷きにしている。ドストエフスキーの読者であればガストン・ボナパルトがムイシュキン公爵をなぞっている人物であることはすぐに分かる。
 背がものすごく高く、信玄袋のようなサック一つぶらさげて日本にやってきた馬面のガストンは、まるで三歳の子供のように無垢な存在として設定されている。ガストンを迎えに来た隆盛と巴絵は、彼が何のために日本にやって来たのか皆目見当もつかない。巴絵はガストンをバカだと思う。しかし出会った当初は馬面の白痴のようにしか思えなかったガストンに対し、やがて巴絵は「母親が不具の子供に持つ、あのあわれにも似た気持」を抱き始める。
 ガストンは打ち捨てられた者、貧しい者、弱い者に対し深い同情を寄せ、その側を黙って通りすぎることのできない男である。ガストンは子供の頃から兄弟や友だちにいつも嘲笑され、ばかにされてきた。しかし彼は人間を信じたかった。彼は「弱くて、悲しい者にも何か生きがいのある生き方ができないものだろうか」と考えてきた。彼は自分がどんな酷い仕打ちをうけても、相手を憎むことのできない性格であった。作者は「どんな人間も疑うまい。信じよう。だまされても信じよう・・これが日本で彼がやりとげようと思う仕事の一つだった。疑惑があまり多すぎるこの世界、互いに相手の腹のそこをさぐりあい、
決して相手の善意を認めようともしない文明とか知識とかいうものを、ガストンは遠い海のむこうに捨てて来たのである。今の世の中に一番大切なことは、人間を信じる仕事・・愚かなガストンが自分に課した修行の第一歩がこれだった」と記している。一週間を共に過ごした隆盛はガストンを「遠い青空のどこかからフラリとやってきたような男。生き苦しいこの世ではめったにお目にかかれぬほどお人よしで、善良で、人なつっこかった」男とみている。
 
地上の世界は憎しみと争いに満ちている。遠藤という男は無実の罪を着せられて処刑された兄の復讐に燃えている。遠藤は「おれァ、憎しみ以外は信じない男なんだぜ」と言い切る。しかしガストンはこの遠藤を〈捨てないこと〉、どこまでも〈ついて行くこと〉を決心する。遠藤はガストンに食事を運んでくれた娼婦をバンドでなぐりつけた男である。その時、ガストンの目に遠藤は「血も涙もない冷酷な人間」「無感動な気持で人を殺せる男」に映った。しかしガストンは、この〈残忍な人間〉が兄のことを話した時、その顔に〈人間の悲しみ〉が浮かんだことを見逃しはしなかった。遠藤の人間不信と憎悪に対し、ガストンはどこまでもどこまでも愛と信頼で寄り添おうとする。
 ガストンは殺し屋の遠藤にとってのみ理解しがたい謎の人物であったのではない。巴絵はガストンを〈まれに見る善人〉〈無類のお人好し〉と認めながら、同時に〈近代的魅力に全く欠けたウドの大木〉とも思っていた。ところがある日、それまで苦笑と憐憫の情しかわかなかったガストンが突然〈不思議な力をもった男〉のように見えてくる。巴絵はガストンは単なるバカではなく〈おバカさん〉なのだと思う。〈おバカさん〉とは「素直に他人を愛し、素直にどんな人をも信じ、だまされても、裏切られてもその信頼や愛情の灯をまもり続けていく人間」である。この時、巴絵は、ムイシユキン公爵を一目見て〈おバカさん〉(дураг)と看破したエパンチン将軍夫人の眼差しを獲得したと言えようか。
 ドストエフスキーは真実美しい人間の具体的な姿を描こうとして『白痴』を書いた。ムイシュキン公爵は十九世紀ロシアの〈現代〉に降臨した〈キリスト〉として設定された。遠藤周作は現代日本の首都東京に遠藤版〈キリスト〉を降臨させようとした。隆盛は「おれがガスさんが好きなのはね……彼が意志のつよい、頭のいい男だからじゃないんだよ。弱虫で臆病なくせに……彼は彼なりに頑張ろうとしているからさ。おれには立派な聖人や英雄よりも……はるかにガスさんに親近感を持つね」と巴絵に語り、殺し屋の遠藤はガストンに「おれにはお前さんが時々たまらないほどいやになる。とぼけて、善人ぶって、心をごまかして……偽善者じゃないか、あんた」と言う。疑いの眼差しにガストンは偽善者に映り、好意をもった眼差しにガストンは善良なお人好しに見える。ガストンに深い懐疑はなく迷いはない。ガストンは予め作者によってムイシュキン公爵の日本版を付与されており、その役割からの逸脱を許されていない。
 さて、わたしはここで『白痴』と『おバカさん』を比較検討する気はない。『真昼の悪魔』を批評した時につくづく感じたが、『悪霊』と『真昼の悪魔』を同一次元で論じること自体に無理がある。遠藤周作が自ら言うように〈大天才〉と〈われわれぐらいの小説家〉が書いた作品の違いは歴然としている。ガストンは〈お人よし〉の〈善良な人間〉の次元から一歩も逸脱せず、作者の意のままに動く人形の域を出ていない。作者の眼差しはガストンの心の深部をえぐる眼差しとはほど遠い。
 ガストンは思う「結局、なにを自分はこの日本に来てやったのだろうか……やったことといえば、人々の邪魔になることだけ、野良犬のようにうろつくことだけ、そして遠藤のように手をさしのべた男からさえも憎まれることだけだった」と。さらにガストンは「わたしがやったこと……それはただ、人のあとをついていくだけ……」とも思う。ガストンは悲しい者、貧しい者、悩める者、憎悪にかられた者の後をついていく。どんなに邪険にされ、蔑まれ、嘲笑されてもガストンは自分を必要とする人間のあとをついていく……これが作者遠藤周作のイメージする〈キリスト〉と言っていいだろう。
 遠藤周作の〈キリスト像〉が『おバカさん』において成功を収めているかどうかは問うまい。ただ、〈暗い沼〉の章でのガストンには、遠藤周作が『沈黙』の中でキリスト教が日本の風土に根づくことがいかに困難であるかとしばしば嘆いた、その具象的な姿が隠喩的に描かれている。ガストンが沼の中に足を踏み入れる場面を作者は次のように書いた・・「彼は沼の性質に気づかなかった。腰まで水がつかる地点にきて、はじめてガストンは足もとの地面が急にヌルヌルと変ったのを知り、それと共に両足が泥の中にはまりこんでいくのにやっと気がついた。/あわてた時はもう遅かった。片足をあげようとすれば、もう一方の足が泥の中にふかくめりこむのである」と。ガストンは殺し屋の遠藤が兄に罪をきせて生き延びた小林を殺すことを阻止しようとして、遠藤の後を追って来た。そして今、ガストンは濃い霧がたちこめた山の中で、小林が十四年前、沼の中に隠した金の延べ棒が入った箱を引き上げるために沼の中へと入ったのだ。ガストンは年老いた小林に同情し、殺し屋の遠藤が小林を殺すことのないように最大の努力を払った。が、その結果としてガストンは沼の泥に足をとられ、「もがけばもがくほど、抜きさしならぬ羽目におちいって」しまったのである。この場面は、遠藤版〈キリスト像〉の挫折とも受け取れる。
 遠藤と小林の確執、憎悪、殺意をガストンの善良な心では解消しきれない。ガストンの善意と同情だけでは遠藤も小林も救うことはできなかった。が、遠藤周作はガストンに人間の力を超えた力を与えたがっている。肺病の遠藤は水の中にうつぶせになっている所を発見され一命をとりとめる。逃げた小林も逮捕される。要するにガストンが願ったように、遠藤も小林も殺人者にならずにすんだ。ただ一人、ガストンだけが行方不明になっている。
 現実的な文脈で考えれば、ガストンは命を失っている。従ってその死体が発見されなければならない。しかし遠藤周作は、ガストンをそのような結末で終わらせたくはなかった。ガストンはあくまでも日本に降臨した遠藤版〈キリスト〉としての役割を全うしなければならないというわけだ。事件の三日後、殺し屋の遠藤は病院での取り調べで、気絶してから何十分かたった頃、かすかに目をあけると「青い空にむかって、一羽のシラサギが真白な羽をひろげながら、飛び去っていく」のが見えたと〈告白〉する。ここで遠藤周作が〈証言〉と書かずに、敢えて〈告白〉と書いていることに注意すべきだろう。人を憎むこ
とだけを生き甲斐にしてきた殺し屋の遠藤が、ガストンと出会うことで新たな人間へと復活蘇生したのだ。遠藤の〈気絶〉は〈死〉の隠喩であり、〈三日後〉の〈告白〉は〈新生〉の隠喩となっている。
 遠藤周作はガストンの行方について次のように書いている。

  沼のなかには彼が死んだと想像させるものは残っていなかった。たった一つ、三日後に、沼に突きだした浅瀬に大きな古い上着が落ちているのが発見された。遠藤はこの上着がガストンのものだとみとめたのである。

 ガストンの〈古い上着〉は彼の復活を意味している。ガストンは死んでも生きている。まさにガストンは、死んで三日後に復活したキリストをそのまま反映した存在として描き出されている。隆盛は帰りの列車の窓から出羽山陵を眺めながら、突然、ガストンが白鷹山の頂き近くを登っているような空想にとらわれる。と、そのとき〈一羽のシラサギ〉が田んぼから青空に向かってゆっくりと舞いあがる。隆盛はそのシラサギに向かって「ガスさん、さようなら」と小声で呟く。隆盛はガストンは「竹取物語の主人公のように空から来て空に戻った」のだと思い、さらに「ガストンは生きている。彼はまた青い遠い国から、この人間の悲しみを背おうためにノコノコやってくるだろう」とも思う。そしてこの『おバカさん』は幕を閉じる。
 ガストンを〈シラサギ〉にしてしまうことで、この人物は現実的な人物から寓話的、童話的人物へと変容する。ガストンは弱く、臆病な、それでいて底抜けにお人好しの善良な人物、すなわち遠藤版・無力な〈キリスト〉として造形された。ガストンは遠藤周作の信仰上の〈夢〉であり〈希望〉と言えようか。その描き方は、ドストエフスキーの場合と違って垂直的ではない。日本の首都と東北山形を舞台にした水平的な展開にとどまっている。はてしない深みへと垂直的にガストンを追い込めば、この作品で描かれたようなガストンの姿はなくなったであろう。ガストンが係わった隆盛や巴絵、殺し屋の遠藤や、彼に命を狙われた金井や小林、占い師の川井調停など、すべての人物が衣装替えして再登場しなければならなくなったであろう。しかし、今、その検証を具体的に展開するつもりはない。『おバカさん』を『白痴』と同じ次元で論じても詮方ない。遠藤周作はドストエフスキーと真っ向勝負を避けて通俗娯楽小説として『おバカさん』を読者に提示しているのであるから。
 隆盛と巴絵に代表される通俗平凡な人々が織りなす日常の中に遠藤版〈キリスト〉は溶解して行ったと言ってもいいだろう。〈シラサギ〉になってしまった〈キリスト〉ガストンは、殺し屋遠藤や隆盛だけが見た〈幻想〉〈空想〉ではなく、作者遠藤周作のそれでもあったろう。『おバカさん』のメルヘンチックな終幕場面を読んで、今さら空想家の仲間入りもできないわたしとしては、改めて『白痴』の戦慄的な終幕部に思いを寄せ、文学の深さと恐ろしさを再確認したい思いである。

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