清水正の遠藤周作論(5)「神と神々」

清水正の遠藤周作論

ドストエフスキーにとって〈神の存在〉は大きな問題であった。しかし日本人にとってドストエフスキーが問題にした〈神〉はそれほど切実なのであろうか。たいていの日本人は汎神論的な自然観を受け入れるか、仏教的な浄土観を受け入れてこの地上での束の間の生を終えていくのではなかろうか。
 遠藤周作は『神々と神と』で〈神々の世界〉と〈唯一神の世界〉、〈日本的なもの〉と〈西洋のキリスト教的なもの〉を問題にしたが、彼は少年時代に西洋に対し憧れではなく違和感を感じていたと述べている。彼がカトリックに入信したのは昭和九年(一九三四)、十一歳の時である。もとより自分の意思によって入信したのではない。遠藤周作は戦時中、教会で「汝殺すなかれ」と教えられたことと現実の戦争の矛盾に苦しみ、キリスト教を捨ててしまおうかと何度も考えたが、「母親に対する複雑なうしろめたい気持のため」もあって棄教することはできなかった。以来、彼は〈自分の着せられたダブダフの洋服を自分の体にあった和服にすること〉を〈自分の小説のテーマの核〉にする。はたして〈洋服〉(カトリック)が〈和服〉になってもカトリックなのか、という大問題が生ずることになる。日本という風土の中でキリスト教が根付くことはない、という井上筑後守の言葉は重い。〈ダブダブの洋服〉を〈自分の体にあった和服〉に仕立てなおすということは、正統カトリックの教義を改ざん、ないしは異常なほどの拡大解釈をほどこしたということになろう。
 遠藤周作の〈カトリック〉は卑劣者、卑怯者、臆病者、裏切り者をも許す〈キリスト〉を重要視する余り、厳しく罰する神、呪う神、試みる神、この世に破壊と混乱を招く神、自らの十字架を背負ってついてきなさいと命ずる〈キリスト〉などがはてしなく後退している。遠藤周作の〈キリスト教〉は親鸞の悪人正機やマルメラードフの甘えの神学に通じ、仏教的な慈悲に限りなく近づいている。キリスト教の神は〈生ぬるき者〉を自らの口から吐きだすが、遠藤教ではその〈生ぬるき者〉をこそ包み込む神を信奉している。遠藤周作が仕立てなおした自分の体にあった〈和服〉は、限りなく汎神論的無神論の日本の風土に適合した〈宗教〉である。わたしの目には遠藤周作の〈宗教〉は〈カトリック〉という衣装を借りた〈母親教〉に見える。

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