清水正の宮沢賢治論

宮沢賢治作『みじかい木ぺん』を読む(1)

宮沢賢治作『みじかい木ぺん』を読む
 ケンジ童話『みじかい木ぺん』に関してはすでに一度書き終えている。ところがこの『みじかい木ぺん』論が見当たらない。ここ二三日、家に保管してあるフロッピーと大学に保管してあるフロッピーのすべてを確認しなおしたがどこにもない。最初の記憶ではD文学通信に載せてあったように思い、合本(1032号まで)以降のものを確認したがそこにもない。そこでさらに記憶を辿ると、確かポケット3のメモリーカードが一枚壊れてしまったことがあった。もしかしたらこのメモリーカードに保存してあった可能性もある。とすれば、もはや『みじかい木ぺん』論を発見することはできない。印字してあればいいのだが、どうもその記憶もない。前に一度、メモリーカードが壊れて『千と千尋の神隠し』論が消えてしまい、初めから書き直したことがある。そのとき、書いた原稿は必ず印字しておかなければいけないと思ったのだが、同じ失敗を繰り返してしまったことになる。なんとも情けないことだが、仕方がない。また書き直すしかない。
 『みじかい木ぺん』に関しては、当時の授業で講義したことがあり、今回はその授業のことも視野に入れて論じることにする。
 
タイトル『みじかい木ぺん』の〈木ぺん〉をどのように読むか、という問いに対して〈もっぺん〉〈もくぺん〉〈きっぺん〉などが返ってきた。わたしは一人でこの作品を読んだ時は、素直に何も考えずに〈もっぺん〉と読み、それ以外の読み方など考えてもいなかったのであるが、授業においてはなるべく多くの学生に問いかけることにしているので、その時も〈木ぺん〉の読み方を意図的に問うことにしたのである。返ってきた答えで、改めて宮沢賢治が〈語〉に込めた多義性に気づかされることになる。
 さて、〈みじかい木ぺん〉とはいったい何を意味しているのか。まずはテキストを逐一追っていくことで検証していくことにしよう。
  キッコの村の学校にはたまりがありませんでしたから雨がふるとみんなは教室であそびました。ですから教室はあの水車小屋みたいな古臭い寒天のやうな教室でした。みんなは胆取りと巡査にわかれてあばれてゐます。
 「遁げだ、遁げだ、押へろ押へろ。」
 「わぁい、指噛ぢるこなしだでぁ。」
  がやがやがたがた。
  ところがキッコは席も一番はじで胆取りにしてはあんまり小さく巡査にも弱かったものですからその中にはひりませんでした。机に座って下を向いて唇を噛んでにかにか笑ひながらしきりに何か書いてゐるやうでした。
 〈たまり〉とは何だろう。〈あの水車小屋みたいな古臭い寒天のやうな教室〉とはどういう教室であろうか。〈胆取りと巡査〉とはいったいどのような遊びなのだろうか。いきなり分からないことだらけである。〈たまり〉とは皆が集まれる集会場のような所、例えば体育館のような所を意味しているのだろうか。〈あの水車小屋みたいな〉と言われても、その水車小屋が分からない。〈古臭い寒天のやうな教室〉と言われても、どうにも具体的なイメージが浮かばないのである。ただし、象徴的なレベルで見れば、この〈教室〉は〈母胎〉をイメージさせる。〈雨〉が降る、〈水車小屋〉みたいな〈古臭い寒天〉のような〈教室〉が〈母胎〉だとすれば、子供たちはこの〈母胎〉で遊びふざけているということになる。
それにしても、〈胆取り〉と〈巡査〉の遊びがよく分からない。〈胆取り〉は胆を取るというのであるからただごとではない。〈胆〉は胆臓で内臓の内でも重要な働きをする器官であり、これを取られたら命にかかわる。その〈胆〉を取るのが〈巡査〉であるのか、それとも逆に〈巡査〉が〈胆取り〉に胆を取られるというのか。書かれたテキストを読んだだけではよく分からないが、とりあえず分かるのは、教室で子供たちが二手に別れて「がやがやがたがた」遁げたり、押さえたり大騒ぎをしていたということである。
 注目すべきは、クラスの連中が大騒ぎを展開している最中、キッコだけがその仲間に加わっていなかったことである。キッコは別に仲間外れにされているのではなく、自分の意思でこの遊びに加わらなかったらしい。語り手の「胆取りにしてはあんまり小さく巡査にも弱かったものですから」という説明がそのことを裏付けている。キッコの席が〈一番前のはじ〉にあったということは、彼女がこのクラスの中で一番背の低い生徒であったということを意味している。今はどうか知らないが、わたしが小学生の頃の席順は背の高さで決まっていた。キッコが女の子なのか男の子なのかはっきりと書かれているわけではないが、名前の下に〈コ〉が付いているのでいちおう〈女の子〉と見なして話を進めていくことにする。
 からだが小さくて弱いキッコは「胆取りと巡査にわかれてあばれ」るような遊びには加われなかったが、しかし彼女はそのことに何のかなしみも感じていない。否、それどころか彼女は自分一人の楽しみに耽っている。いったい彼女は何をしていたのだろうか。語り手は「机に座って下を向いて唇を噛んでにかにか笑ひながらしきりに何か書いてゐるやうでした」と書いている。この語り手の語りだけを読めば、キッコのしていることは何かしら隠微な印象を受ける。キッコのこの行為は、何か彼女だけの秘密であり、誰にも知られてはならないことだったのではないか。クラスの連中は〈胆取りと巡査〉に夢中で、キッコが〈唇を噛んでにかにか笑ひ〉ながらしきりに何かしていることに注意しない。とりあえず、キッコの行為に特別な注意を払っているのは語り手のみである。
  キッコの手は霜やけで赤くふくれて居ました。五月になってもまだなほらなかったのです。右手の方のせなかにはあんまり泣いて潰れてしまった馬の目玉のやうな赤い円いかたがついてゐました。
 まず語り手はキッコの手に焦点を合わせる。キッコの手は〈霜やけ〉で〈赤〉くふくれている。右手のせなかには〈馬の目玉のやうな赤い円いかた〉がついている。五月(春)になっても治らない〈霜やけ〉・・キッコは貧しい家の子供で、おそらく家では家事手伝いやら、その他の仕事もしていたのだろう。キッコの〈霜やけ〉はそんなことを読者に感じさせる。しかし、それだけを感じていたのではケンジ童話の不気味で神秘的な世界への参入は拒まれる。霜やけの〈赤〉が、〈潰れてしまった馬の目玉〉のような〈赤い円いかた〉になって右手のせなかに残ったとき、〈霜やけ〉の〈赤〉が、単なる〈霜やけ〉の〈赤〉とは違った意味を持ちはじめるのだ。過酷な労働によってのみ、この〈赤〉は〈赤〉となったのではない。キッコにおける〈右手〉、すなわち〈にかにか笑ひながらしきりに何か書いてゐる〉その右手のせなかに残った〈赤い円いかた〉に注目しなければ、キッコにおける〈赤〉の神秘性に撃たれることはない。
  キッコは一寸ばかりの鉛筆を一生けんめいひとりでにかにかわらひながら8の字を横にたくさん書いてゐたのです。
 (めがね、ねがね、めがねの横めがね、めがねパン、      くさりのめがね、     )
  ところがみんなはずゐぶんひどくはねあるきました。キッコの机はたびたび誰かにぶっつかられて暗礁に乗りあげた船のやうにがたっとゆれました。そのたびにキッコの8の字は変な洋傘の柄のやうに変ったりしました。それでもやっぱりキッコはにかにか笑って書いてゐました。
 ここで語り手はタイトルの〈みじかい木ぺん〉が〈一寸ばかりの鉛筆〉であることを明らかにしている。しかし、こういった回答、ないし説明ほど読者は注意しなければならない。ケンジ童話の語り手は一筋縄ではいかないのだ。もし〈木ぺん〉が〈鉛筆〉であるなら、タイトルも〈みじかい鉛筆〉でよかったろう。なぜ語り手はわざわざ〈鉛筆〉を〈木ぺん〉などと言う必要があったろうか。もちろん、こういった疑問に対しては、キッコの村の子供たちは〈鉛筆〉を〈木ぺん〉と言っていたからだという説明がすぐになされるだろう。しかし、ケンジ童話においては、一つの〈語〉が様々な象徴的な意味を担って、多義的な世界を構築、ないしは内包していることはすでに検証済みである。〈木ぺん〉は単なる〈鉛筆〉ではないからこそ、〈木ぺん〉と表記されているのである。
 キッコがにかにかしながら書いていたのは横にした〈8の字〉であった。この横にした〈8の字〉はいったい何を意味しているのであろうか。キッコがぐうぜんにこの〈8の字〉を書いていたわけではなかろう。キッコがこの横にした〈8の字〉を「たくさん書いてゐた」ことには、彼女自身にも分からない意味が隠されているはずである。
 語り手はいつものように、読者を表層の次元にとどめ置こうとする。キッコの書いている横にした〈8の字〉は〈めがね〉ということになる。もちろんこの解釈は語り手のそれというよりは、キッコ自身のものである。〈めがね〉〈めがねの横めがね〉〈めがねパン〉〈くさりのめがね〉・・これらはキッコ自身が自分の書きつづけている〈横8の字〉に対する連想であり、そのことに対して語り手は何ら特別のコメントを加えているわけではない。しかし、そのことが語り手の巧妙な戦略の一部をなしているのである。読者はキッコがしきりに書いている〈何か〉が〈横8の字〉であることを知らされ、さらにそれが〈めがね〉であったことを知らされる。
 『貝の火』においてホモイが見た〈黒いもじゃもじゃしたもの〉は、語り手によって〈ひばりの子〉と確定されてしまう。しかし、『貝の火』というテキストが内包している神秘的な、不気味な世界に参入するためには、〈ひばりの子〉と確定された〈或るなにものか〉を再び〈黒いもじゃもじゃしたもの〉に引き戻す必要がある。
 わたしが〈横8の字〉からすぐに想起したのは無限を意味する記号〈∞〉である。キッコは〈無限〉にとらわれた子供であったのではないか。みんなが大騒ぎして遊んでいる〈胆取りと巡査〉などより、キッコは〈無限〉の謎を解く方が好きなのだ。換言すれば、キッコは〈無限〉に呪われた存在であり、〈無限〉とエロティックな、濃密な関係性を取り結んでいる存在なのである。キッコは単に〈横8の字〉を書いていたのではない。キッコの机はたびたび誰かにぶつけられてがたっと揺れても、それでもキッコは〈にかにか笑ひながら〉書き続けているのだ。これはただごとではない。書かれた次元で読んでも、キッコは普通の子供とは違った印象を受ける。
 キッコは〈横8の字〉を書きながら、それを〈横めがね〉や〈パン〉や〈鎖で繋がれためがね〉を連想しながら楽しんでいる。他の子供たちが自分のからだを思いきり動かすことで楽しんでいる時に、キッコだけが自分の想像力を発揮して楽しんでいる。しかもキッコのこの連想遊びの砦は強固で、ちっとやそっとでは崩れない。

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