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林芙美子の文学(連載153)林芙美子の『浮雲』について(151)
尾道にて(2009.11.14)
林芙美子の文学(連載153)
林芙美子の『浮雲』について(151)
(初出「D文学通信」1357号・2010年1月10日)
清水正
ゆき子は逞しい女である。ゆき子は、富岡に速達で呼び
出されて、雨の中を四谷見付から渋谷まで歩き、富岡の
提言にのって伊香保温泉までやって来た。富岡の後ろ姿
を長いこと見つづけて来た女が、富岡の内心などすでにお
見通しであったと見たほうがいい。
読者は富岡の非現実的な妄想に今しばらく付き合わされることになる。
食い荒した炬燵の上の赤い広蓋に、電燈が反射している。赤い塗りに、
金で小松が描いてある。これも、いまに、見おさめだな……。富岡は、部
屋のすべてを眺めまわした。山の中へ這入って、この二人は、間もなく死
んでしまうンだよと、心でひそかに言葉を述べていた。
生涯の最後だと思うと、何もかも淋しい美しい。いとしくなるほど、
すべて見るものが美しいのだ。菊の花の、白に見える薄黄ろ……。汚れた
軸の山水から風が吹きあげている。今朝の東京の、御所の雨が心を掠めた。
(260 〈二十四〉)
リアリテイのあるのは「食い荒した炬燵の上の赤い広蓋に、電燈が反射
している」その光景である。食い荒らしたのはゆき子だろう。女を殺す妄
想に耽っている男が、出された料理を食い荒らしている様は想像だにした
くない。ゆき子は逞しい女である。ゆき子は、富岡に速達で呼び出されて、
雨の中を四谷見付から渋谷まで歩き、富岡の提言にのって伊香保温泉まで
やって来た。富岡の後ろ姿を長いこと見つづけて来た女が、富岡の内心な
どすでにお見通しであったと見たほうがいい。作者にして見れば、敢えて
書く必要もなかったということである。富岡が今さら〈芝居がかりの死〉
の演出家にも主人公にもなれないことは見えすいており、一読者としても
富岡のアンリアルな妄想につきあうことには辟易する。感心するのは、作
者がこの富岡の妄想にどこまでも付き合っていることである。
わたしは批評家であるから、富岡の非現実的な妄想に黙って付き合うこ
ともできないことはないが、しかし余りにもバカげているので、描かれた
叙述場面から逸脱して、今は正直な感想を述べている。〈食い荒した炬燵
の上の赤い広蓋に、電燈が反射している〉その光景を眺めているのは誰な
のか。叙述は「これも、いまに、見おさめだな」と続くから、当然、富岡
ということになる。しかし、別にこの叙述に捕らわれる必要はない。この
光景は、一緒に酒を飲んでいたゆき子の眼差しにも捕らえられているし、
描いている作者にも当然捕らえられている。そして一読者であるわたしの
眼差しにも捕らえられている。
ニコライ・スタヴローギンは、マトリョーシャが、小さな拳を振り上げ
て、無力な威嚇を示した後で、階段を下りて行った後の時間、その、死の
ような静寂が支配する時を、ベランダに置いてあった鉢植えのゼラニウム
の葉を見つめていた。その葉の上には小さな赤い蜘蛛が潜んでいた。ニコ
ライは、この赤い蜘蛛を見つめながら、マトリョーシャが物置小屋で首を
括って死ぬ、その時をひたすら待っていた。富岡は〈食い荒した炬燵の上
の赤い広蓋に、電燈が反射している〉その光景を眺めながら、「山の中へ
這入って、この二人は、間もなく死んでしまうンだよ」と心の中でひそか
に思う。
ニコライの場合には、沈黙の神(不条理の神)に成り代わって、マトリ
ョーシャの自殺に、自分がどこまで徹底して無関心を装うことができるの
かという、はてしなく傲慢な実験の意識が潜んでいたが、富岡の場合には
「二人は、間もなく死んでしまうンだよ」という、この密かな思い自体が
安っぽく、アンリアルである。富岡がゆき子と伊香保温泉で〈心中〉する
必然性が全く感じられないし、富岡の妄想にゆき子が乗るほど、ゆき子は
すでに富岡に魅力を感じていない。
2010年1月10日
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