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林芙美子の文学(連載147)林芙美子の『浮雲』について(145)
尾道にて(2009.11.14)
林芙美子の文学(連載147)
林芙美子の『浮雲』について(145)
(初出「D文学通信」1351号・2010年1月4日)
清水正
戦前、戦争中、敗戦後の日本人の生き方を冷静に
見れば「みんな、人間のやっていることは、喜劇の連
続だった。心臆して、こそこそと喜劇のなかで、人間は
生きる。
戦前、戦争中、敗戦後の日本人の生き方を冷静に見れば「みんな、人間
のやっていることは、喜劇の連続だった。心臆して、こそこそと喜劇のな
かで、人間は生きる。正義をふりかざすことも喜劇。人間の善も悪もみな
喜劇ならざるはない。涙の出るほどのおかし味のなかに、人間は、自分に
合った、最もしごくな理屈をつけて、生活をしている」ということになる。
この思いは、富岡兼吾のものというよりは、林芙美子の思いを直接的に表
現したもののように聞こえる。敗戦後、焼け野原になった東京の光景を眼
にした小説家にとって、戦争中の〈正義〉、敗戦後の〈ギブミーチョコレ
ート〉も〈パンパン〉も、すべては〈涙の出るほどのおかし味〉の中での
ことである。〈人間の善も悪もみな喜劇ならざるはない〉という虚無の認
識を抱えた小説家林芙美子は、それでも創作活動を続けることでエネルギ
ッシュに生きることはできる。が、富岡はどうしたらいいのだろうか。事
業に失敗した富岡は惨めの極に佇んで、できもしないゆき子殺害の妄想に
耽ることぐらいしかできない。
・伊香保への旅立ち・
思いきって、富岡は、ゆき子を連れて伊香保へ行った。伊香保へは夜
更けて着いた。宿引きに、金太夫という旅館へ連れて行かれた。坂の多い
温泉町で、その坂は、路地ほどの狭さだった。湯花の匂いがむっと鼻に来
る。ゆき子は珍しそうに、坂道の両側の家々を覗いて歩いた。不如帰で有
名な伊香保というところが、案外素朴で、いかにもロマンチックだった。
夜更けて着いたせいか、水の音も、山の風も、凍ったように肌を刺す。宿
の奥まった部屋へ這入ると、部屋には大きな炬燵がつくってあった。炬燵
の上には、一枚板が乗っかっている。ゆき子は冷えた膝を炬燵に入れた。
ほかほかと暖かった。(257 〈二十二〉)
小説には省略が必要だ、それも思いきって。何もかもを書こうとすると、
印象が薄くなる。『浮雲』はあくまでも富岡とゆき子の二人の関係に絞っ
て描くことが肝要だ。おそらく林芙美子はそう思って、大胆な省略を決行
したのだろう。作者は、富岡の妻の邦子に関して何も触れようとしない。
富岡が、こうしてゆき子と会って、伊香保へでも行こうか、などと誘って
いる時、邦子はどこで何を思い、何をしていたのかいっさい触れようとし
ない。読者が知らされるのは、富岡が思いきってゆき子を連れて伊香保へ
と着いたことである。何時発の、どんな電車に乗って、どんな話をしなが
ら伊香保へ着いたのか、作者は記さない。
富岡はゆき子に向かって「どうだね、今日、このまま、伊香保か、日光
のほうへでも行ってみる気はないかね?」と聞いた。ゆき子は「本当に行
けるの?」と聞き返す。富岡は「一泊か二泊ぐらいなら行ける」と答えた。
この答えは、再び東京へと戻ってくる者の言葉である。富岡は「ちっぽけ
な人間の心のおもむくままに、好き勝手もいいじゃないか」と思い、ゆき
子を連れて伊香保へと着くが、富岡の思いきった行動が酒を飲んだうえで
の、いつもの気まぐれから出たものであることを忘れてはならないだろう。
両親も邦子も捨てて、ゆき子との新しい生活に賭けることのできなかっ
た富岡は、邦子に内緒でゆき子と一泊二泊の小旅行はできても、彼が空想
したような心中などできはしない。夜更けについた伊香保は坂の多い温泉
町で、坂は路地ほどの狭さだっというから、林芙美子はこの場面を第二の
故郷とも言うべき狭い坂道だらけの尾道の光景に重ねながら書いていたか
もしれない。ゆき子は珍しそうに路地の両側の家々を覗きながら歩く。こ
のゆき子の姿に、何でも見て、聞いて、知ってやろうという好奇心旺盛な
林芙美子の姿も重なって見える。
林芙美子は感覚的な作家らしく、ここでもゆき子にその鋭い感覚を存分
に発揮させている。まずは〈湯花の匂い〉がゆき子の鼻孔を強く刺激して
いる。続いて〈水の音〉や〈山の風〉が凍ったように肌を刺す、という描
写が続く。読者はゆき子が嗅ぎ、耳にし、肌に感じた温泉町伊香保を感覚
的に共有することになる。同じ時、富岡が伊香保の町に何を感じ、ゆき子
のことや自分のことをどう思っていたのか、作者はいっさい無視して通り
すぎる。
2010年1月 4日
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