ホーム > 林芙美子の文学 , ホーム > 林芙美子関係 > 林芙美子の文学(連載146)林芙美子の『浮雲』について(144)





林芙美子の文学(連載146)林芙美子の『浮雲』について(144)


CIMG2719.JPG

 尾道にて(2009.11.14)

ここをクリックする  「清水正の本」 「清水正の著作一覧」 

林芙美子の文学(連載146)
林芙美子の『浮雲』について(144)

(初出「D文学通信」1350号・2010年1月3日)
清水正


「日々の生活が、いかにくだらなく憐れむべきか」と、
富岡は思う。誰も否定はしない。まさに富岡のしてい
ることはくだらないし、憐れむべきことだし、それを喜劇
的というのであればその通りであろう。

ここから続き


「日々の生活が、いかにくだらなく憐れむべきか」と、富岡は思う。誰
も否定はしない。まさに富岡のしていることはくだらないし、憐れむべき
ことだし、それを喜劇的というのであればその通りであろう。否、富岡に
限ったことではない。富岡に惚れているゆき子のために障害事件を起こし
た加野も、三年も肉体関係を結んでいたゆき子が盗み出した蒲団を取り返
しに来た伊庭も、別れるつもりのゆき子に速達まで出して逢い引きなどし
ている富岡並に〈憐れむべき〉人間である。人間がこの世で生きている様
を、滑稽の眼鏡を掛けて見れば、すべて悉く〈くだらなく憐れむべき〉も
のに映る。

みんな、大まじめに、悲劇をくりかえしていると思いながら。人類をう
るおすところの、人間の悲劇味は、何千年の昔から、何一つありはしなか
ったのじゃないかと、うたぐって来る。みんな、人間のやっていることは、
喜劇の連続だった。心臆して、こそこそと喜劇のなかで、人間は生きる。
正義をふりかざすことも悲劇。人間の善も悪もみな喜劇ならざるはない。
涙の出るほどのおかし味のなかに、人間は、自分に合った、最もしごくな
理屈をつけて、生活をしている。死のまぎわになって、初めてほっとして、
ああと、本当の溜息が出るものかもしれない。
(257 〈二十三〉)

まるで、林芙美子が富岡の内的な思いを借りて自分自身の考えを述べて
いるような場面である。「心臆して、こそこそと喜劇のなかで、人間は生
きる」・・妻に内緒でゆき子と一緒に伊香保に行こうと誘う富岡、親しい
関係になったジョオを裏切って富岡の誘いに喜んで応じるゆき子、蒲団を
ゆき子に盗まれたことやゆき子との秘密の関係を伊庭は妻には内緒にして
いただろう、人間のすることなすことはすべて卑小で狡くて滑稽である。
どんなに悲劇的な事件や人生も、いったん〈滑稽〉の眼鏡を通して見れば、
すべては喜劇的なものになる。『浮雲』では具体的に描かれることはなか
ったが、富岡の妻の邦子も、伊庭の妻も、彼女たちなりの〈喜劇〉をこそ
こそと、心臆して演じていたのだということを忘れてはならない。富岡の
友人だった小泉と結婚していた邦子が、夫の富岡だけを思って三年も四年
も姑に仕えて家を守っていたなどと思っていたのでは〈女〉という生物を
見損ねてしまう。同じ家に住んでいて、夫と年頃のゆき子の三年間の関係
に気づかない妻がいるとすれば、その妻はすでに女ですらないということ
になろう。

「人間の善も悪もみな喜劇ならざるはない」・・善も悪もみな喜劇とい
うことは、善と悪を相対化して見ていることを意味している。つまり、善
も悪も、その絶対性を奪われたことを意味している。伊庭が東京に出てき
たばかりのゆき子を強姦したこと、富岡に妻のあることを知っていたゆき
子が積極的に富岡にアプローチしたこと、富岡が妻のある身でニウやゆき
子と関係を持ったこと、これらすべては絶対的な〈悪〉として、厳しく断
罪されるようなことはない。伊庭も、ゆき子も、富岡も、自分たちの〈不
倫〉の行為を〈悪〉として真剣に悩んだことは一度もない。伊庭や富岡に
あるのは、その〈不倫〉行為が妻や世間にばれては困るという意識ぐらい
のもので、ゆき子にあってはその点、怖いものなしといった感じである。
故郷を捨てたゆき子には、富岡との関係も、パンパンに身を堕としたこと
も、すでに、ばれて困るようなことではなくなっていた。

ニコライ・スタヴローギンは〈善悪観念の磨滅〉に苦しみ、あげく自ら
が絶対的な神(沈黙する神)に成り代わろうとさえした。この滑稽を誰よ
りも意識していたであろうニコライは、それでも少女マトリョーシャに対
して〈善悪観念の磨滅〉した〈沈黙せる神〉を演じて見せる衝動を抑える
ことはできなかった。『悪霊』を読んでニコライの〈自殺〉やその卑劣な
行動に多大な関心を寄せていた富岡は、ニコライの〈善悪観念の磨滅〉や
虚無や卑劣に自らを重ねていたのかも知れない。

が、ニコライ・スタヴローギンの虚無には、その前提としての〈絶対的
な神〉に対する反逆があるが、富岡にはそれがない。富岡にはそもそも確
固たる、微動だにしない善悪観念がないのであるから、〈善悪観念の磨
滅〉など生じようもない。富岡はすべてにおいて生温いので、ゆき子を殺
すという空想をいくら膨らましても、まったくリアリティを獲得できない。
平べったい顔をした平凡な女と無理心中するという空想は空想のままに終
わるしかない。富岡には、相手の女を殺し、自分もすぐに後追いするとい
うシナリオを成就させるために必要な、烈しい情念が欠如している。

2010年1月 3日

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.shimi-masa.com/mt/mt-tb.cgi/1873

コメント

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたとがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)