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林芙美子の文学(連載145)林芙美子の『浮雲』について(143)
『清水正・ドストエフスキー論全集』第三巻(右)
私家版限定五十部・装丁が全集版と異なっている
林芙美子の文学(連載145)
林芙美子の『浮雲』について(143)
(初出「D文学通信」1349号・2010年1月2日)
清水正
林芙美子は「富岡は女を殺す場面を空想している」と
書いた。しかし、富岡のこの空想にリアリティはない。
『浮雲』を最後まで読んでいるから言うのではない。
作者の眼差しは、ゆき子の〈新婚夫婦が、旅のプランを相談しているよ
うな、浮々した表情〉だけを見ているのではない。作者は、ゆき子が加野
の名刺をハンドバッグに入れて、それとなくコンパクトを出し、鼻の先に
鏡を開いた、その様子をさりげなく、だが正確に描いている。作者は、ゆ
き子の女心とその反映としての仕種を見逃さない。
ゆき子は雨の降る寒いなかを富岡の後をついて歩いてきても、伊香保に
行かないかと誘われて子供のように喜んでも、だからと言って、富岡一人が
意識にあるわけではない。命がけでゆき子を好きになって、あげく障害事
件まで犯した加野の名刺を渡されれば、それをさりげなくハンドバッグに
しまいこみ、いずれ連絡をとろうとする気持ちになるのも女心というわけ
で、作者はそういった微妙なゆき子の心の動きを端的に捕らえている。
富岡は女を殺す場面を空想している。音のない芝居のように、血みど
ろなゆき子の姿が、ゆるく空想の景色の中で動いている。危険な感情だっ
たが、その危険な思いに這入り込んでゆける勇気が、爽快でさえあった。
殺してやる。そして、自分も折り重なって死ぬ。それだけのものだ。誰も
自分たちに対して、文句を言うものはないのだと、富岡は二本目の酒を注
文して、化粧をしているゆき子の平べったい顔をぼんやり見つめていた。
この顔が、外国人に好かれるのかなと、妙な気がした。卑しい顔だった。
平べったくて、顎が張り、何のとりえもない平凡さだ。だが、よく見てい
ると、原始人に近いのだ。額や、眉や、眼のあたりが、仏像のようでもあ
った。
「家は、留守をしてもだいじょうぶなのかい?」
「ええ、鍵をかけて来てるから、人が来ても、いないと思うでしょう
?」
「伊庭が蒲団を取りに来たンだって?」
「あら、私の手紙着いて? そうなの。いま、だから、私は毛布で寝て
いるのよ」
ゆき子は別に困った様子もなく、徳利を取りあげて、富岡の盃に酒を
ついだ。富岡は冷えた焼きそばの上に散らかっている、葱や筍を肴に、酒
を飲んでいる。日々の生活が、いかにくだらなく憐むべきかと、富岡は、
自分のやっていることが喜劇的に思えて来た。 (256 ~257 〈二十三〉)
林芙美子は「富岡は女を殺す場面を空想している」と書いた。しかし、
富岡のこの空想にリアリティはない。『浮雲』を最後まで読んでいるから
言うのではない。この〈二十三〉までに描かれた富岡で十分である。富岡
はその場限りの性愛的な関係を結べる男だが、十全な責任をとらずに、い
ざとなったら逃げだす卑怯な男である。目先の儲け話に乗って、まんまと
失敗する愚かな男である。ゆき子と結婚すると約束して、日本に引き揚げ
て来ると、確かな計算も立てずに農林省を辞めて、ゆき子から姿をくらま
し、発見されれば、安ホテルでコオロギのような無味乾燥のセックスをし
て、そのくせ、胸懐には別離のカードを潜ませ続け、事業に失敗すれば行
きどころを失って、パンパンになったゆき子の小舎を尋ね、酒を飲んで慾
情に駆られてしまうような情けない男である。
こんな男にできることと言えば、がらんどうになった部屋に妻を一人残
して、ゆき子と伊香保に出掛けるという、やけっぱちな冒険ぐらいのもの
である。富岡は現実に実現できない殺人や心中を〈空想〉することで解消
してしまっている。ゆき子を殺し、自分もまた死ぬという〈空想〉を実現
できるのは加野のような、いざとなれば無鉄砲になれる情熱家であって、
富岡のような斜に構えた気取り屋にできることではない。
富岡は嫌なほど冷静で、ここでもゆき子の化粧した〈平べったい顔〉を
見ながら、そこに〈卑しい顔〉を、〈何のとりえもない平凡〉を、さらに
〈原始人〉や〈仏像〉を発見している。読みながら、思わず笑ってしまっ
たが、相手の女の顔を平べったいとか平凡とか仏像のようだなどと思って
いる男が、その女と心中できるわけもなかろう。ゆき子の平べったい顔を
ながめながら、「この顔が、外国人に好かれるのかな」などと思って、微
塵の嫉妬の感情も見せない、絵に描いたような〈生温い〉男には、殺人や
心中の熱いドラマの主役を張る資格はない。せいぜい、できもしない〈空
想〉に耽っていたらよかろう。
富岡がゆき子の〈平べったい顔〉に何の魅力も感じていないことは確か
である。いったい富岡はゆき子のどこに魅力を感じたのであろうか。富岡
にとってニウやゆき子は、遠く離れて関係を結ぶことのできない妻の邦子
の代理として、彼の肉欲を満たすためだけの存在であったのだろうか。肉
欲で求めただけの女を恋してしまうということも稀にはあるだろうが、富
岡がゆき子に対して恋心を抱いていたようには思えない。富岡が惚れた女
は、友人から奪ってまで妻にした邦子ということになるが、作者は、富岡
が惚れた邦子の魅力を読者に納得のいくようには描いていない。富岡とゆ
き子の関係に絞れば、要するに彼らの関係は性愛的な次元での結びつきが
第一であり、精神的に深く繋がっているとは思えない。
平べったい顔をした、平凡な女を誘って伊香保に行き、その女と心中す
るなどというシナリオを聞かされても面白くもおかしくもない。作者は
「富岡は、自分のやっていることが喜劇的に思えて来た」と書いているが、
富岡が思う前に、富岡の空想を聞かされた時点で、読者は喜劇以前の荒唐
無稽を感じてしまう。富岡は、「みんな、人間のやっていることは、喜劇
の連続だった」などと思う前に、平べったい顔の平凡な女と三年ものあい
だ悦楽の日々を送り、日本で苦労し続けた妻の邦子をさしおいて、伊香保
でその仏像みたいな女と心中する空想などをしている自分自身の滑稽を存
分に笑いとばしたらいいだろう。抽象的な悲劇論や喜劇論を、中途半端に
展開されても興ざめである。
2010年1月 2日
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