ホーム > 林芙美子の文学 , ホーム > 林芙美子関係 > 林芙美子の文学(連載139)林芙美子の『浮雲』について(137)
林芙美子の文学(連載139)林芙美子の『浮雲』について(137)
林芙美子の文学(連載139)
林芙美子の『浮雲』について(137)
(初出「D文学通信」1343号・2009年12月27日)
清水正
ゆき子が富岡に今、何を求めているのか、といったこと
に関して富岡は実に鈍感である。ゆき子の言葉から、二
人は雨の降る通りを長いこと歩いていたことが分かるが、
傘もささずに自分が呼び出した女を歩かせ続ける無神経
もそうとうなものである。
ゆき子に「ねえ、どこまで歩くのよ?」と聞かれて、ゆき子に死の道づ
れになって欲しいとさえ思っていた富岡が「疲れたのかい?」と答えてい
る。何とも陳腐な言葉の返しである。「君が望んでいるダラットまでだ
よ」「二つの躯が一つの心に解け合えるところまで」とか、どんなに気障
な言葉でも、富岡が真にゆき子を〈道づれ〉にしたいと願っていたなら口
に出せるセリフなのである。しかし、富岡は何一つ気のきいたセリフは口
にしない。
ゆき子が富岡に今、何を求めているのか、といったことに関して富岡は
実に鈍感である。ゆき子の言葉から、二人は雨の降る通りを長いこと歩い
ていたことが分かるが、傘もささずに自分が呼び出した女を歩かせ続ける
無神経もそうとうなものである。富岡は、赤坂へ出て、そこから渋谷へ都
電で出てみるのもいいぜ、などと実に呑気なことを言っているが、問題は
渋谷ではなく、富岡がゆき子を呼び出した理由なのである。
ゆき子は我慢仕切れずに「話って、なあに?」と訊く。富岡の答えは
「別に、たいした話もないンだがね」である。惚れていなければ、後ろか
ら棒でなぐってやりたいような男である。こういう男には苛々するが、ゆ
き子は苛々しながらも、この哀れな男の樹液に魅惑された甲虫のように、
そこから離れることができない。
「勝手なひとね……」とゆき子は言う。別れを決意した女は、当の男に
向かってこういうセリフを吐くことはない。黙って去って、二度と戻りは
しない。ゆき子は富岡の皮肉や毒舌や、嘘や卑劣や、図々しさや自分勝手
に苛々したり、腹をたてたり、泣いたり、わめいたりしながら、それでも
別れることはできない。富岡は「君に逢いたかったからなんだよ」と口に
する。ゆき子は「嘘! 嘘言ってるわ」と断言しながらも、しかしこうい
った富岡のセリフが嬉しいのも確かで「私に逢いたいなンて、そんな優し
い言葉を聞くのは、初めてね?」と言葉を付け足している。
スヴィドリガイロフ氏曰く「この世のなかに、何がむずかしいと言って、
真正直ほどむずかしいものもないし、お世辞ほどやさしいものもありませ
んな。真正直ということだと、たとえ百分の一でも偽りの調子がまじれば、
たちまち不協和音が生まれて、たちまちスキャンダルです。ところがお世
辞ということなら、徹頭徹尾偽りの調子で終始しても、それでも耳に快く、
聞き手に満足を与えます。まあ、上品な満足ではないまでも、満足である
ことに変わりはない。しかもお世辞というやつは、どんなに見えすいたも
のでも、最低その半分はきまって真実に思える。しかもこれが、どんな教
育を受けた人でも、社会のどの階層の人でもそうなんですな。聖女だって
お世辞で誘惑できる。ふつうの人間についちゃ、言うまでもありません」
である。
お世辞で落ちない女はいない。海千山千の好色漢の言葉に敢えて異を唱
える必要はない。女は、だれでも〈優しい言葉〉を聞きたいし、心のこも
っていないお世辞でも、お世辞自体が力が発揮して、女心を気持ちよく揺
さぶるのである。富岡が『罪と罰』を読んでスヴィドリガイロフの言葉を
記憶していれば、お世辞の効力を意識していなかったはずはない。
ところで富岡は、本当にゆき子に逢いたいと思い、ゆき子に〈自然な死
の道づれ〉になって貰いたいと思っていたのであろうか。富岡の優柔不断、
生温き生存の特質性は〈自然な死の道づれ〉という言葉に端的に表出して
いる。富岡は自分から積極的に働きかけて、ゆき子を〈死の道づれ〉にし
ようというのではない。富岡はまさに熱くもなければ冷たくもなく、ただ
ただ生温いのである。が、生温いのはゆき子も同じで、富岡に対して積極
的に振る舞っているようで、実は彼女もまた優柔不断の浅瀬の泥沼をすべ
ったり転がったりしながら生きている。ゆき子は、結婚の約束さえ守れな
い卑小で嘘つきな富岡の〈優しい言葉〉に、パンパンになってまでほださ
れてしまうほどの愚かな女である。ゆき子は、チェーホフの描いた『かわ
いい女』とは真逆の〈かわいい女〉と言えようか。
2009年12月27日
トラックバック
このエントリーのトラックバックURL:
http://www.shimi-masa.com/mt/mt-tb.cgi/1864