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林芙美子の文学(連載138)林芙美子の『浮雲』について(136)
林芙美子の文学(連載138)
林芙美子の『浮雲』について(136)
(初出「D文学通信」1342号・2009年12月26日)
清水正
ゆき子の「どこまで歩くのよ?」の言葉に、「どこまでも
ついていくわ」という熱い気持ちは込められていない。ダ
ラットの森の中を、大股で歩く富岡の後ろを必死で追って
いたゆき子はここにはいない。雨の中を濡れ鼡になって歩
くことにほとほとうんざりしている者の言葉である。
「ねえ、何処まで歩くのよ?」
「疲れたのかい?」
「だって、濡れて歩くの、たまらないわ。風邪ひいてしまうわ……」
「赤坂へ出て、あすこから、渋谷へ都電で出てみるのもいいぜ」
「ええ。・・ねえ、別に、話って、なあに?」
「話か……。別に、たいした話もないンだがね」
「勝手なひとね……」
「そうかね? 君に逢いたかったからなンだよ」
「嘘! 嘘言ってるわ。私に逢いたいなンて、そんな優しい言葉を聞く
のは、初めてね?」
「女というものは、そんなに、優しい言葉を聞きたいものかい?」
「そりゃア、そうよ……」(254 〈二十二〉)
「ねえ、どこまで歩くのよ?」の言葉に、ゆき子の気持ちが端的に表れ
ている。虚無と絶望を抱えて歩いている富岡に疲れはない。もともと行く
当てなどないのだから、いくら歩いても目的地につくわけはない。今のゆ
き子は〈口笛〉を吹かれて、富岡の方をちらりと振り返った濡れ鼡の野良
犬と同じようなものである。違いは、野良犬はすぐに「このひとは違うん
だといった、哀れっぽい眼つきで、すたすたと、八ツ手の植込みのほうへ
まぎれて行った」が、ゆき子は事業に失敗し、惨めな後ろ姿を晒して歩き
続ける富岡を見限ることができないでいる。野良犬は本能を働かせて富岡
の無力(自分にとって何の役にも立たないこと)を一瞬のうちに看破して
姿をくらます。ゆき子は動物としての本能が壊れてしまっているのだろう
か。
ゆき子の「どこまで歩くのよ?」の言葉に、「どこまでもついていく
わ」という熱い気持ちは込められていない。ダラットの森の中を、大股で
歩く富岡の後ろを必死で追っていたゆき子はここにはいない。雨の中を濡
れ鼡になって歩くことにほとほとうんざりしている者の言葉である。しか
し、ダラットの時もそうだったが、ゆき子は引き返すことを知らない女で
ある。富岡が二股で人道に踏み入れた時、ゆき子は富岡の背中に浮き出た
〈卑しさ〉に期待を抱いてついていった。今、ゆき子はいったい富岡に何
を期待しているのだろう。
約束を守れない、煮え切らない、虚無と絶望だけを友にしたような、中
途半端な卑劣な男に期待できるものなど何一つない。ゆき子が富岡を捨て
きれないのは、富岡が躯全体で醸しだしている〈哀れさ〉そのものにある
のかもしれない。ゆき子は富岡に性愛的次元での魅力ばかりではなく、橋
にも棒にもかからない、このどうしようもない駄目さ加減にも惹かれてい
るとしか思えない。富岡の〈哀れ〉を大いなる母性的な力で包み込むとい
うのではない。ゆき子は富岡の前に〈母性〉として立ったことは一度もな
い。嘘つきで、卑劣で、図々しくて、情けない富岡の前に、ゆき子はいつ
も一人の女として立ちつづけた。
ゆき子は富岡の虚無や絶望を、観念的な次元で理解しようと努めたこと
はない。理屈や思想でゆき子の心を捕らえることはできないし、ましてや
躯を自由にすることもできない。富岡が自然に放っているダンディで深遠
な雰囲気にゆき子の心身が反応した。富岡が本当に〈深遠〉であるかどう
かなどということは最初から問題ではない。現に富岡とゆき子の間でトル
ストイやドストエフスキー、夏目漱石、武者小路実篤など、富岡や加野が
愛読していた作家について話題にのぼることはなかった。富岡の内面が、
著名な小説家の作品と絡ませながら描かれることはなく、専らゆき子との
関係を通して描かれる。
読者は富岡の〈虚無〉と〈絶望〉を素朴な一枚の絵のように提示される。
『罪と罰』のラスコーリニコフに見られたような内心の思いが延々と書き
継がれるようなことはない。『悪霊』のニコライ・スタヴローギンが書き
残したような〈告白〉もない。言い換えれば、富岡の〈虚無〉や〈絶望〉
は奥行きのない面として表現されており、その奥行きを探ろうとすれば、
厚さのない面の断面図を見なければならない。数学的な厳密さにこだわれ
ば、これは論理矛盾で、面を断ち切って、その断面を見ようとしても何も
見えてこない。が、文学的にはここに奇跡が生じなければならない。
富岡の〈虚無〉と〈絶望〉の面を断ち切って、そこに断面図が見えなけ
れば、批評は失敗したことになる。批評の眼差しが、その断面図に〈ゼ
ロ〉を見れば、富岡の〈虚無〉と〈絶望〉の実体を見たことになるが、完
璧に厚みのないゼロの断面図に絵の具をまぶして厚みを与えることもまた
批評の役割として捨てがたい。つまり、奥行きのない富岡の〈虚無〉と
〈絶望〉に、敢えて奥行きを与えてそこに踏み込むという〈虚構〉(創
作)を作り上げることを拒まないということである。
2009年12月26日
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