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林芙美子の文学(連載137)林芙美子の『浮雲』について(135)


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林芙美子の文学(連載137)
林芙美子の『浮雲』について(135)

(初出「D文学通信」1341号・2009年12月25日)
清水正


ゆき子は富岡の孤独を癒す大いなる母性足りえない。
ゆき子は、大いなる父性を求めて彷徨っている女であ
りながら、まったく父性足りえない甘えん坊の富岡に
性愛的次元で溺れたまでのことである。

ここから続き


敗戦後を生きる感覚が富岡とゆき子では微妙に違っている。富岡の空虚
と絶望は、事業の失敗よりも敗戦という事実に深く係わっているように思
える。作者は富岡の思いに寄り添いながら「今日まで生きて来て、何も彼
も、国とともに喪失してしまっているという感情は、背筋が冷い、この冬
の雨のような侘しさだった」と書いている。敗戦によって国とともに喪失
したもの、それを再び元通りにすることはできない。富岡は虚無と絶望を
感じるが、同時に「いかなる戦争も、やぶれてこそ、愛しく哀れでもあ
る」とも思う。ゆき子は富岡ほどには感傷的な気分になることはできない
が、それでもゆき子なりに〈ものの哀れ〉は感じている。

富岡は何も考えていないような〈単純な女の生活のファイト〉を羨む。
女の逞しさを富岡は安南人のニウにも、ゆき子にも、そして妻の邦子にも
感じている。富岡が何年も日本を留守にしていた間、邦子は富岡の両親の
面倒をみながら辛い戦争中を生き抜いてきた。ニウは富岡の子供を身籠も
って故郷へと帰っていった。ゆき子はパンパンになって生きている。富岡
は寄り添って歩いているゆき子を見ながら、ゆき子に限らず、どんな女も
戦争の痕跡を少しもとどめていないことを改めて発見する。女は生きてさ
えいれば再び立ち上がることができる逞しさを備えている。

富岡という男は、不思議な男である。女に逞しさを感じて羨んだりして
いるが、しかし富岡はゆき子のヒモになって養ってもらっているわけでは
ない。妻の邦子や両親の暮らしに関しても、いちおう彼が責任を持って対
処している。富岡は逃げたい心一杯で、しかし家からもゆき子からも逃げ
きることができない。富岡は逃げ場所を知らない。否、富岡にとって唯一
の逃げ場所は〈死〉である。その唯一の逃げ場所に一人ではなく、ゆき子
を道づれにして行きたいと願ったのが富岡であった。死の道づれに、邦子
ではなくゆき子を選ぶところに、富岡の卑しさがあり弱さがある。ゆき子
は富岡の孤独を癒す大いなる母性足りえない。ゆき子は、大いなる父性を
求めて彷徨っている女でありながら、まったく父性足りえない甘えん坊の
富岡に性愛的次元で溺れたまでのことである。

林芙美子は、雨の中を黙ってひたすら歩いていく富岡の後ろ姿を見てい
るゆき子の内心の思いをまったく書かなかった。当てもなく歩く富岡の後
ろ姿から、希望に輝く未来を思い浮かべることはできない。ダラットの森
で感じた〈卑しさ〉すら感じることはできない。牙折れ、闘う意志を喪失
した、惨めなだけの男、それが富岡である。なぜ、ゆき子はこんな男の後
ろに付いて歩いているのだろう。一度は、ゆき子と別れるほかはないと思
った富岡が、心変わりして速達を出したり、ジョオと関係して新たな人生
を踏みだしたゆき子が、にもかかわらず、こうして富岡の後について歩い
ている。

2009年12月25日

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