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林芙美子の文学(連載136)林芙美子の『浮雲』について(134)


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林芙美子の文学(連載136)
林芙美子の『浮雲』について(134)

(初出「D文学通信」1340号・2009年12月24日)
清水正


ゆき子に裁きの視点はない。
ゆき子にあるのは富岡に対する性愛的次元での執着で
あり、この執着によって富岡にまとわりつく。ゆき子は、
パンパンになってすら富岡への執着を断ち切れずに、富岡
から誘いがあれば、それに従ってしまうのである。

ここから続き


二人は仏印の事は〈夢〉であったと思う。それは過ぎ去った〈過去〉で
あり、二度と再び蘇ることのない〈ファンタジー〉である。当初ゆき子は、
ダラットでの悦楽の日々が敗戦後の日本においても可能だと思い込んでい
たが、富岡の家にまで押しかけ、富岡の冷めた気持ちも知って、徐々にそ
れが現実味のない望みであったかを思い知る。ゆき子は、妻と別れること
のできない富岡を裏切り者とみなして軽蔑し、淋しさに堪えきれずジョオ
と関係を持つが、それでも富岡の誘いを無視することができず、雨の中を
まるで富岡の影法師のように付いて歩いている。富岡はゆき子を〈孤独の
道づれ〉になって貰いたい、さらに〈死の道づれ〉になって貰いたいとさ
え思う。ここに富岡の余りにも独りよがりな身勝手さが露骨に表れている。

富岡は日本に帰ってきて、妻の邦子と別れることができず、逆に両親と
邦子を守って生きようとしたのであるから、もし彼がゆき子に対して誠実
に対応しようとするなら、当然、二度とゆき子に逢ってはいけなかったは
ずである。邦子は友人の小泉から奪ってまで一妻にした女なのであるから、
〈孤独の道づれ〉も〈死の道づれ〉も、ゆき子ではなく邦子にすべきであ
る。しかし、どういうわけか、富岡は邦子にそれを求めない。

邦子は、夫の富岡から真実を何も知らされていない。ダラットで三年以
上も肉体関係があったこと、日本に引き揚げたら離婚してゆき子と結婚す
る約束をしていたこと、その約束は守れなかったがゆき子と池袋のホテル
で肉体関係を持ったこと、ゆき子と別れるほかないと考えてゆき子に手切
れ金を渡したこと、にもかかわらずパンパンになったゆき子に欲情してし
まったこと、速達まで出してゆき子に逢いたいと思い、そのゆき子に〈死
の道づれ〉になって貰いたいと思ったこと、これらのことすべてを富岡は
妻に内緒にして、何一つ真実を語っていない。

ゆき子は富岡に裏切られた女であるが、しかしその事実を知っている。
邦子は妻の立場にあるが、富岡に二重三重に裏切られていることを何一つ
明確にしることはできない。女としてどちらが不幸であるかは言うを俟た
ないであろう。富岡兼吾は、富岡家の長男なのであろうが、長男としての
責任をきちんと果たせるような男ではない。

が、富岡兼吾一人を裁きの場に据え置いて裁断批評を展開しても意味が
ない。林芙美子はこのどうしようもない卑劣卑小な男を裁きの眼差しで描
いていない。林芙美子はゆき子を通して富岡の卑しさの奥深くへと踏み込
んでいくが、そのこと自体は裁きではない。ゆき子に裁きの視点はない。
ゆき子にあるのは富岡に対する性愛的次元での執着であり、この執着によ
って富岡にまとわりつく。ゆき子は、パンパンになってすら富岡への執着
を断ち切れずに、富岡から誘いがあれば、それに従ってしまうのである。

2009年12月24日

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