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林芙美子の文学(連載132)林芙美子の『浮雲』について(130)


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「喫茶 芙美子」 尾道にて(2009.11.14)

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林芙美子の文学(連載132)
林芙美子の『浮雲』について(130)

(初出「D文学通信」1336号・2009年12月20日)
清水正

富岡にとってゆき子との〈別れ時〉は、すでに特定の
時ではなく、言わばいつでもその時なのである。いつ
でも別れられる富岡が、それでも別れられずにずるず
るとゆき子との関係を続けていく。

ここから続き


富岡にとってゆき子との〈別れ時〉は、すでに特定の時ではなく、言わ
ばいつでもその時なのである。いつでも別れられる富岡が、それでも別れ
られずにずるずるとゆき子との関係を続けていく。今や、ゆき子にとって
も、いつでも富岡と別れられる〈娼婦まがい〉の商売をはじめながら、そ
れでも富岡から逢いたい旨の速達が届けば、やはり足が約束の駅へと向い
てしまう。富岡はゆき子に「上手にあしらわれているような気がしてい
る」が、それでもゆき子を降り捨てて帰ることはできない。この二人には、
躯は別々に存在していても、切ることのできない伸縮自在な紐がしっかり
と結びついているようである。

富岡が歩きだすと、ゆき子もそのまま、水溜りのなか
にはいって来た。・・富岡は孤独に耐えられない気持ちで、一人でさっさ
と歩きながらも、後から濡れた道をぴちゃぴちゃと歩いて来るゆき子の表
情を、素通しにして、心で眺め、自分の孤独の道づれになって貰いたい気
持ちになっていた。そのくせ、ゆき子と歩いていることは、何となく犯罪
感がつきまとう気さえしてくる。
自分の孤独を考えて歩きながら、その孤独に、ひどく戦慄しているよ
うな、おびえを、富岡は感じていた。現在に立ち到って、何ものも所有し
ないという孤独には、富岡は耐えてゆけない淋しさだった。自分を慰めて
くれる、自己のなかの神すらも、いまは所有していないとなると、空虚な
やぶれかぶれが、胸のなかに押されるように、鮮かにうごいて来る。
ゆき子と、二人きりで、いまのままの気持ちで、自殺してしまいたか
った。・・若い日本の男が、外国の女とかけおちをして、追手に反抗して、
郊外の駅で劇薬をのんだ事件があったのを、富岡は思い出していた。
人間というものの哀しさが、浮雲のようにたよりなく感じられた。ま
るきり生きてゆく自信がなかったのだ。
(252 〈二十二〉)

孤独に耐えられない気持ちで水溜りの道を黙って歩く富岡の後ろを、ゆ
き子もまた黙って付いてくる。富岡はゆき子に〈自分の孤独の道づれ〉に
なって貰いたいという気持ちになってくるが、同時に何となく〈犯罪感〉
がつきまとってくる。富岡が覚える〈犯罪感〉とはなんなのだろうか。ゆ
き子はいつでも、富岡の後を追って来た。逃げたのは富岡であってゆき子
ではない。淋しい砂漠の街で出会ったジョオと関係を結んでさえ、今もこ
うして富岡の後を黙って付いてきているではないか。ダラットの森の中で
も、ゆき子はひたすら富岡を追って来た。振り返って強くゆき子を抱きし
め、長い接吻をしたのも富岡である。にもかかわらず、富岡は〈接吻〉の
後の、さらに強い衝動に駆られることなく、ゆき子を抱いた腕の力を抜い
た。ダラットから帰る時、結婚の約束までしておきながら、日本に引き揚
げて来てからは、逃げてばかりいた。そんな富岡が、今、事業に失敗して、
行きどころがなくなると、ゆき子を求めて、速達まで出してしまう。ゆき
子の〈孤独の道づれ〉になることはできないのに、自分の孤独の道づれに
なっては貰いたいと、自分勝手な思いを抱くのが富岡である。

作者は「現在に立ち到って、何ものも所有しないという孤独には、富岡
は耐えてゆけない淋しさだった」と書いた。〈何ものも所有しない〉こと
に孤独を感じるとは、〈何か〉を所有したいと願っていたのだろうか。い
ったい富岡はどんな〈何か〉を所有したかったのであろうか。金か、名誉
か、権力か、それとも女か。農林省を辞め、事業にも失敗したとなれば、
今や富岡には自分を守ってくれる社会的な地位もなければ金もないという
ことになる。が、富岡には両親もいれば、妻の邦子もいる。しかし、どう
いうわけか富岡には両親や邦子の存在は慰めや励ましにはならない。引き
揚げて来てから、厄介者と思っていたゆき子に、今の富岡は〈孤独の道づ
れ〉を欲している。

富岡は、ゆき子とふたり、自殺してしまいたい気持ちにも駆られる。富
岡は、自分の存在が浮雲のようにはかないものに思え、生きていく自信を
まったく持てない。作者はこの場面で、後ろを黙ってついていくゆき子の
眼差しが、富岡をどのようにとらえていたのか書くことはなかった。ダラ
ットの森では、大股で歩いていく富岡の背中に〈卑しさ〉を見て、その
〈卑しさ〉に期待を抱いたゆき子の内心を描いたが、ここでは完璧に省略
している。

「まるきり生きてゆく自信がなかった」富岡の後ろ姿を見て、ゆき子は
どのような思いを抱いていたのか。開き直って、堕ちるところまで堕ちて、
たくましく〈淋しい砂漠の街〉を歩き始めたゆき子の眼に、富岡の後ろ姿
はどのように映っていたのか。一緒に死んでもいいと思っていたのか。遅
れたとはいえ、約束の場所にやって来たゆき子が、富岡に愛想を尽かして
いたとは言えない。同時に、自分に愛情を向けない富岡と、今さら心中す
る気になるとも思えない。否、ゆき子が今、どのような思いでいるかなど
ということは瑣末なことで、問題はゆき子が富岡の後ろを黙ってついて歩
いていることだ。〈しぽしぽした雨の日〉に、〈水溜り〉の道を、ゆき子
は富岡の後ろを黙って歩いている。批評家は、そのゆき子の後ろ姿を追い
ながら、彼らの後をどこまでも歩いて行く。

2009年12月20日

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