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林芙美子の文学(連載131)林芙美子の『浮雲』について(129)


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「喫茶 芙美子」 尾道にて(2009.11.14)

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林芙美子の文学(連載131)
林芙美子の『浮雲』について(129)

(初出「D文学通信」1335号・2009年12月19日)
清水正

富岡を執拗に追いかけ回していたゆき子にさえ、今、
富岡は愛想を尽かされてしまったのか。富岡は哀しみ
よりは、その絶望を素直に認めようとする。

ここから続き


富岡を執拗に追いかけ回していたゆき子にさえ、今、富岡は愛想を尽か
されてしまったのか。富岡は哀しみよりは、その絶望を素直に認めようと
する。ゆき子が来なければ、来ないというその現実を受け入れようとする。
今、富岡は濡れ鼡になった雑種の犬よりも哀れな姿を晒して佇んでいる。
と、その時

「待ったでしょう?」
ゆき子が、駅の廂のところに立っている富岡のそばへ、肩をぶっつけ
て来た。
「三十分も過ぎたンだから、もう、いないと思って、よっぽど、引返そ
うかしらと考えたのよ。ごめんなさいね……」
ゆき子は、赤い絹のマフラを頭から被って、顎の下にきつく結び、生
々とした表情で、背の高い富岡の顔を見上げている。富岡は、三十分も遅
れたので、家へ引返そうと思ったと言った、ゆき子の言葉が気に入らなか
った。自分がこの女に、上手にあしらわれているような気がしている。ゆ
とりのある女の心の状態が、富岡には厭な気持ちだった。別れ時が来てい
ると思った。
(252 〈二十二〉)

富岡がゆき子の小舎を訪ねた日にちが分かれば、四谷見付の駅で二人が
何日ぶりに逢ったのかが分かる。速達を出して逢ったのだから、三四日も
経っていないのかどうか。林芙美子は日付に関しては厳密に記していない。
ゆき子は富岡と逢った翌日に伊庭と逢っている。その場面は詳細に報告さ
れた。さて、ゆき子は伊庭と逢った日から数えて何日目に富岡と四谷見付
駅で逢ったのだろうか。知りたいのは、その間にゆき子がジョオと何回ぐ
らい逢い、どのような関係をしたかである。富岡が小舎を去った翌日、突
然小舎を訪れた伊庭は盗まれた蒲団を返せと要求した。蒲団を伊庭が持ち
帰ったのかどうかについても作者は明確に記していない。

林芙美子は読者に何もかも報告する義務を感じていない。読者は想像力
の限りを尽くして、その描かれざる場面を埋めていかなければならない。
〈赤い絹のマフラ〉〈生々とした表情〉これらの言葉から、読者はゆき子
が〈パンパン〉の仕事を順調にこなしているとも思えるし、富岡が速達で
逢いたいと言って来たことに心底喜んでいたとも思える。おそらく、ゆき
子はジョオと逢って寂しさを紛らわしていただろう。もしかしたら他の男
(客)とも関係していたかも知れない。富岡に惚れていながら、しかしジ
ョオと関係を結んでしまったゆき子が、富岡だけに躯を許さなければなら
ないなどと考えるはずはない。〈赤い絹のマフラ〉は、ゆき子が不特定多
数の男たちを受け入れるという、言わば〈パンパン〉の表明である。ゆき
子は〈パンパン〉であることによって、富岡との惨めなしがらみから解放
され〈生々とした表情〉を獲得したと言える。

2009年12月16日(水曜)

待ち合わせの時間にゆき子が三十分遅れて来たということが、二人の関
係の逆転を如実に語っている。もともと追いかけるタイプのゆき子が待ち
合わせ時間に遅れて来るなどということはあり得ない。富岡はどこか必死
であり、ゆき子にはゆとりがある。事業という新しい第一歩に躓いた富岡
と、堕ちるところまで堕ちてやろうと開き直ったゆき子との間に決定的な
差が生じた。富岡からの速達を受け取ったゆき子の表情を想像したらいい。
欲情に駆られて「今夜、泊ってもいいかい?」と口にした富岡を徹底して
いじめ尽くして追い返しておきながら、一人残された刹那さに我慢できず、
底冷えする寒い道を駅まで追いかけ、姿を見失って泣きながら小舎に帰っ
て来たのが、ほんの数日前のことである。その日の夜、ゆき子は炬燵にも
ぐり込んで、獣のように身を揉んで泣いた。逢えば、富岡を蔑み、罵らず
にはおれないのに、きっぱりと別れることができない。そんなゆき子の所
に富岡からの速達が届くのだ。逢いたいという文字を見た瞬間のゆき子が、
その顔に優越的な笑みを浮かべたとしても誰も責めはしないだろう。

三十分の遅れは、この日、ゆき子が念入りの化粧をしたせいかもしれな
いが、しかし同時に、多少遅れても富岡は待っているという確信もあった
にちがいない。この確信がゆき子のゆとりであるが、富岡はそのゆとりに
不快な思いを抱く。ゆき子の口にした「引返そうかしらと考えたのよ」と
いう言葉は、もはや必死になって富岡だけを追いかけ回す女のセリフでは
ない。富岡は〈ゆとりのある女の心の状態〉に厭な気持ちになり、〈別れ
時〉が来ていると思う。この富岡の思いは、冷静にこの小説を読み進めて
きた読者の耳を一瞬疑わせる。〈別れ時〉は、富岡がゆき子と結婚の口約
束をして、ひとりダラットから日本に引き揚げた、その時であった。富岡
とゆき子は〈別れ時〉を間違えたのだ。否、富岡の一人勝手な、都合のい
い〈別れ時〉に、ゆき子が承服しなかっただけのことである。

ゆき子は富岡が自分と別れたい気持ちで一杯なことを明確に知っていた。
相手の男が、自分を好いているか嫌っているか、それを分からない女がい
るとすれば、その女は動物としての本能を失っていることになる。ゆき子
は極めて動物的な本能を持った女である。ゆき子は本能に従って富岡を執
拗に追いかけ回す。富岡が胸懐に〈別れのカード〉を潜ませていても、そ
のカードを首尾よく使い切れないことをゆき子は誰よりも知っている。だ
からこそゆき子は富岡を追いかけ回した。女の計算は、当の本人によって
すら明確に自覚されていないからこそ、迫真的な演技となる。たとえ、身
を揉んで泣いても、蒲団を躯に巻きつけて部屋中を転げ回っていても、そ
んな自分の姿を冷静に見ているもう一人の自分がいる。このもう一人の自
分がなくなれば、それは即ち狂気の淵へと落ちたことを意味する。ゆき子
は狂気を抱え込んでのたうち回ることはあっても、狂気の淵へと落ちるこ
とはなかった。ゆき子は富岡がふと感じていたように逞しい女なのである。

2009年12月19日

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