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林芙美子の文学(連載82)林芙美子の『浮雲』について(80)
林芙美子の文学(連載82)
林芙美子の『浮雲』について(80)
(初出「D文学通信」1286号・2009年10月31日)
清水正
林芙美子は、加野にゆき子を殺させることも、富岡にゆき子を
殺させることも、加野に富岡を殺させることもしなかった。
林芙美子はドストエフスキーのように、極端な〈事件〉の渦中に
人物を置くことはなかった。
2009年10月25日(日曜)
生一本な加野を、狂人のようにしてしまってまで、あの時は、富岡は
ゆき子を得た。その為に、ゆき子は加野から傷つけられたが、あの時は無
造作に二人は結婚出来ると考えていたし、また二人はそれだけの心の準備
をしたつもりだった。富岡は急に味のなくなった朝の食卓から、早く箸を
置いた。ゆき子の不幸な姿に済まなさを感じた。旅空での、男の無責任さ
が反省されもした。この家を売るとなれば、両親にも妻にもそれぞれ金を
与えて、自分は無一文で、ゆき子と一緒になるべきではないかとも空想し
たが、その空想は少しも慰めにはならなかった。(232 〈十八〉)
前にも指摘した通り、富岡とゆき子と加野の三角関係の頂点をなすべき、
ゆき子に加えられた加野による傷害事件の詳細は現在進行形で語られるこ
とはなく、ゆき子や富岡の断片的な〈回想〉によって描かれているので、
その現場をリアルに感じることはできない。ドストエフスキーの『白痴』
においても、ロゴージンによるナスターシャ殺害の現場は描かれなかった。
読者はすでに殺されてベッドに横たわるナスターシャの遺骸を、ロゴージ
ンとムイシュキン公爵と共に立ち会うばかりであった。もし、加野が嫉妬
の余り、ゆき子を殺していれば、この『浮雲』という小説は、その時点で
幕を下ろすことになったであろう。
林芙美子は、加野にゆき子を殺させることも、富岡にゆき子を殺させる
ことも、加野に富岡を殺させることもしなかった。林芙美子はドストエフ
スキーのように、極端な〈事件〉の渦中に人物を置くことはなかった。林
芙美子は人間を簡単に殺させたり、自殺させたりしない。加野はゆき子を
傷つけた後もおめおめと生きつづける。富岡は別れたい〈過去の女〉ゆき
子と別れることができずにいる。ゆき子は自分に愛情のない富岡の心を厭
という程知っているのに、ストーカーのように追い回す。邦子は富岡の女
関係を敏感に察していても、富岡に愛想を尽かして家を出ていくことはで
きない。
要するに、林芙美子の描く人間は、小説の世界のヒーロー、ヒロインの
ように恰好よく生きることを拒まれている。ダンディな富岡も、その虚飾
のすべてを剥ぎ取られ、その卑怯で狡い裸体を晒すことになる。が、注意
しなければいけないのは、林芙美子はそうすることで富岡を裁いているの
ではないということである。
生きるということ、愛するということは決してきれいごとではすまない
のだという、冷徹な現実認識が林芙美子にはある。神や仏を信じようが信
じまいが、なるようにしかならない、という生活実感から導き出された認
識(諦観)がある。林芙美子は、自殺や他殺で、人物における人生の幕を
強制的に降ろすのではなく、その人物のどろどろの浮き沈みにどこまでも
歩幅を同じくして付き合うという覚悟(大いなる優しさ)がある。それは、
現実の人生を小説世界においてもなぞっていくような辛さがある。小説的
な飛躍や虚構によって、人物を英雄視したり、必要以上におとしめること
もない。
富岡は描きようによっては、ダンディな、多くの女にもてる〈いい男〉
になったであろう。加野も描きようによっては、ゆき子を情熱的に愛する
〈誠実な男〉として光彩を放ったであろう。ゆき子も、李香蘭に似ている
という篠井春子などより、はるかに妖しい美女(魔性の女)に設定すれば、
まさに『浮雲』はドストエフスキーの『白痴』、トルストイの『アンナ・
カレーニナ』ばりの作品になったかも知れない。
しかし、林芙美子はドストエフスキーやトルストイの作品を読んでも、
彼ら文豪の亜流になることは望まなかった。林芙美子は彼らにはない、普
通の暮らしの中に生きている庶民の喜怒哀楽の感覚が備わっている。林芙
美子の目線は、庶民の背丈に合っている。林芙美子は、広大な領地をかか
えた貴族地主の空虚な高見の視線など、持とうとしても持てなかったし、
観念的な世界での〈神〉の存在などに煩わせられることもなかった。
2009年10月31日
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