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五十嵐綾野さんの寺山修司論(連載27)
寺山修司による「贋絵はがき」について
五十嵐 綾野
寺山修司は「贋絵はがき」作りが好きだった。なぜ、「贋」がつくのだろうか。ただの「絵はがき」では都合が悪いのだろうか。何が「贋」なのかも気になる。「贋絵はがき」を簡単に説明すると、モノクロ写真を脱色してセピア色にして手彩色をしたものに古切手を貼って、「シミ」や「汚れ」をわざと付けたものである。もちろん、誰かに宛てた一言も書いてある。だから、イラストというよりコラージュした写真作品に近い。私はこれをただのコラージュとして扱いたくないのである。
どこまでも「贋」にこだわるのが寺山である。写真は、「真」を写すことはできない。どうやっても、中身まで透視できない。むしろ、一番偽装がしやすい。本当はどんな人間なのかまでは写らない。今では、コンピューターの著しい発達のため、写真の補正・修正は当たり前のことであり、つまらない。
よく考えてみると、撮られる側は「きれいに写して欲しい」「可愛くしてくれないと困る」というふうに注文をつけたがる。撮られ方には気を使うのに、撮り方には何も言わない。どんな気持ちでレンズを覗いているかということに対して関係がないと思っている。人は他人に覗かれることに嫌悪感を持つ。カメラも「覗く」機械だということをしばしば忘れる。カメラ付きケータイが普及した今日では、ほとんどの人が最低一台はカメラを持っていることになる。それだけ「目」が増えたと考えると怖い。その分他人に覗かれる。
写真は撮った瞬間から過去になる。その写真に手を加えるということは、過去を修正するということになる。この過去の修正に寺山は終生追い続けていたことだ。
さて、ここでこの「贋絵はがき」をじっくり見てみたい。「贋絵はがき」ならぬ「贋写真」は怪奇な絵柄だ。機械の中に人間が組み込まれている機械人間、白塗りセーラー服の少女。女装、同性愛、サドマゾの世界。それらが、凝縮している。
一見、レトロなものに見えるが全体的にセピア色になっているという色の問題からであり、内容は古臭くない。ニセモノの古臭さだ。
差出人の名前も風変りである。蝙蝠夫人、一寸法師、写真の兄など、写真のテーマに関係がありそうなものになっている。空想の世界で完結している。消印は上海や横浜といった港町であることがわかる。船で海を越えて届いたという設定なのだろうか。
違和感を感じるのは、切手である。この切手には手を加えていないらしい。古切手ということらしいが、どうだろうか。なんだか、それだけがくっきりと浮き上がって見える。これも時間差を作り出すためにしたのだろう。あくまでも、切手を貼ったのは「今」であるということだ。そして、「絵」は更に昔のものであるということになる。
寺山からすれば、実に楽しい作業だろうと思う。この「贋絵はがき」の中には、寺山自身の過去、あるいは記憶の修正は出てきていない。実験の中の一つという印象を受けた。過去の修正の資料集めである。しかし、所詮「贋」は「贋」である。そう考えるとなんだかむなしくなってくる。楽しくても、悲しい作業である。
そのようにすれば、聞こえがいいが寺山の悪だくみが含まれているのを見逃せない。この「贋絵はがき」には記憶のすり替えが見え隠れしている。記憶をどのようにすり替えたのかは、本人にしかわからない。それは一人遊びに近い。人間は、どんどん忘れていく。時間はひとまとまりであり、区切りや印をつけることができない。自分を失いたくないという思いの強さが、全てを忘れたくないという思いに繋がっていくのである。寺山の作品からは、どうにかして寺山修司という人間を忘れないで欲しいという叫びがある。
寺山は後ろ向きに歩いていたのではないかと思う。ごくまれに、振り返って前を確認するのだ。「贋絵はがき」には、未来性が感じられない。時間の遡行計のようなものがあったら面白い。後ろ向きに歩いた寺山の、時間のベクトルは過去と未来どちらをむいているのだろうか?
2009年10月 2日
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