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五十嵐綾野さんの寺山修司論(連載⑯)


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寺山修司は化粧が好き

 五十嵐 綾野

 
 『化粧はしばしばエロチックですが、それは「それをしなくても生きてゆける」余剰文化に属するものだからとも思えます。化粧する女は、さみしがりやです。一人では生きられないから化粧するのです。化粧を、女のナルシズムのせいだと決めつけてしまったり、プチブル的な贅沢だと批判してしまうのは、ほんとうの意味での女の一生を支える力が、想像力の中にあるのだということを見抜くことを怠った考え方です。』(寺山修司・さかさま恋愛講座青女論より)

 このように、寺山修司は化粧をする女性が好きらしい。虚構によって現実を乗り切ろうとするエネルギーが感じられるからと理由もはっきり述べている。よく化粧をした顔よりも、素顔の方が好きと言う男性がいる。だから何だといつも言いたくなる。そう言えば女性が喜ぶと思うのだろうか。中にはそういう人もいると思うが私はそう思ったことはない。誰でも、外見が一番気になるのは当たり前なのに、しらじらしいことを言うものである。
 寺山は、内面の美容と外見は関係がないというようなことを言っていたが、それはどうだろうか。男性にも女性にも言えることだが外見さえ良ければいいというのは恐ろしいことである。中身がからっぽだ。そんなつまらない人間は嫌だ。
 とても綺麗に化粧をしていて、笑顔が可愛らしくても、いざ会話をしてみるとがっかりするということがある。若いうちは、何とかなるかもしれない。年を重ねれば、化粧だけではどうにもならなくなる。美しく見せるだけではなく、隠したいという願望も込められてくる。これは女性の立場から言うことだが、そうなった時に必要なのは、メンタルなものを含めた内面の美容である。
 化粧といってもただ、塗りたくればいいわけではない。肌のコンディションを整えるためには睡眠や食べ物に気をつけなければいけない。化粧の方法も練習が必要で、いきなり上手くはできない。膨大な化粧品から自分に合うものを見つけるのも意外と大変なのだ。化粧品に失敗すると肌荒れを起こして大惨事になる。
 男性が見たら驚くほど化粧には手間がかかっている。だから、本当に化粧をするのが好きな女性は一握りだろう。化粧が嫌いでも、一定の年齢になればしないわけにはいかなくなる。TPОも考えなくてはいけない。それは、社会におけるルールの一つであり戦略でもある。これは、社会が女性にもう一人の自分である虚構を演じることを強要していることになる。そう考えると少し怖い。
 化粧をすることに対して、虚構性を感じたことはなかった。ただ好きだからという理由のみだった。実際に私は美容関係に気を使うのが好きだ。だから、面倒くさいと苦痛に思ったことはない。それでも、一日の終わりに、化粧を落とすと妙にほっとする。知らず知らずのうちに、「もう一人の自分」を演じているのかもしれない。鏡を見ながら「しめしめ、今日も上手く騙した。」とほくそ笑む心を押し殺している可能性もある。社会が女性に虚構を押し付けているのではなく、実は女性が虚構によって社会を操作しているとすればどうだろうか。女性はいろいろな意味でたくましい。
 寺山の目つきは鋭い。こういうことを見抜いているのだろう。顔がなければ仮面をかぶれない様に、素顔がなければ化粧すらできない。寺山は虚構に生き、誰よりも変身願望が強かった。寺山はころころと表情を変えて社会に順応する女性が羨ましく思い憧れたのかもしれない。化粧の代わりに「寺山修司」という皮を被って演じ続けた人である。私は寺山に対して、しばしば中性的なものを感じるが、どうやらここから来ているのかもしれない。完璧な化粧の女性に何も言えない様に、素顔の自分より納得がいくように作り上げた「寺山修司」に誰も文句は言えないはずである。

2009年8月10日

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