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チェーホフの戯曲『かもめ』を読む(清水正)連載②
チェーホフの戯曲『かもめ』を読む(清水正)連載②

チェーホフ没後100年記念に刊行した
清水正編集による『チェーホフの授業』より チェーホフを読め
チェーホフの戯曲『かもめ』を読む(清水正)連載②
2006年7月2日(日曜)
トレープレフはこの芝居でいったい何を言いたかったのであろうか。ニ
ーナが背負っている役は「一さいの生き物、生きとし生けるものは、悲し
い循環をおえて、消え失せた」後の「世界に遍在する一つの霊魂」である。
この〈霊魂〉にトレープレフの思いのすべてが託されている。チェーホフ
の人物の大半は、自分の存在を未来の時点から見つめる視点を持っている。
ここでトレープレフは〈なん千世紀〉という未来時点に存在する〈世界に
遍在する一つの霊魂〉を描いているが、これはその未来時点から今現在を
見ていると言ってもいい。トレープレフはここで、単なる人間、単なる民
族の滅び行く運命ではなく、〈一さいの生き物〉が消え失せた地球を、す
なわち悠久の時を視野に入れている。人間はどんなに養生しても百年も二
百年も生きられるものではない。この世に誕生した者は、ただ一人の例外
もなく死んでいかなければならない。しかも人間はどこから来て、どこへ
行くのかを知らない。人生を真剣に考えれば考えるほど、わたしたちの存
在は或るなにものかによって愚弄されているようにも感じる。或る限定さ
れた時間の枠の中で、喜んだり悲しんだりしながら、結局は死の淵へと追
いやられてしまう人間。それでも今現在に没頭できる人間は、それなりに
生を享受できる。ところが、不断に今現在の自分の存在を死後の時点から
見つめるような眼差しを持った人間は、どうしてもしらけてしまう。どの
ように生きようと、結局は死んでしまうのだとすれば、この世の束の間の
生にいったいどのような意味があるのか。イワーノフの内部に侵入した空
虚、倦怠、憂鬱は、決してイワーノフだけに特有のものではない。自分の
存在を未来時点から眺める者はすべて空虚と倦怠の卵を抱いて生きている。
ここでトレープレフが設定した〈世界に遍在する一つの霊魂〉は〈わた
し〉という主体的な存在で、人間と同様の〈孤独〉を抱えている。この
〈わたし〉は〈永遠の物質の父なる悪魔〉とは対極にある存在で、この悪
魔をも包み込んだ〈霊魂〉ではない。〈わたし〉は〈物質の力の本源たる
悪魔〉と〈たゆまぬ激しい戦い〉をしなければならない存在である。ただ
し〈わたし〉はこの悪魔との戦いに勝利すること、「やがて物質と霊魂と
が美しい調和のなかに溶け合わさって、世界を統べる一つの意志の王国が
出現する」ことを予言している。〈わたし〉は悪魔と勝つか負けるかの、
賭博のような戦いをしているわけではない。〈わたし〉は勝利を約束され
た〈霊魂〉なのである。ならば、何故に〈わたし〉は孤独を感じるのであ
ろう。
〈世界に遍在する一つの霊魂〉は、トレープレフが想像し創造した〈霊
魂〉で、多分にトレープレフ自身の内的世界を反映している。〈わたし〉
は「宇宙のなかで、常住不変のものがあれば、それはただ霊魂だけだ」と
言い、さらに「うつろな深い井戸へ投げこまれた囚われびとのように、わ
たしは居場所も知らず、行く末のことも知らない」と言う。この言葉から
分かるのは、トレープレフは人間は死んだら死りっきりとは思っていなか
ったということである。死んだ人間の身体は腐敗し、大地に溶けこんでし
まうが、霊魂は依然として存在するという考えである。そして人間を含む
〈一さいの生き物〉の霊魂が溶け合わさって一つになったものが〈わた
し〉であり、〈わたし〉はやがて〈世界を統べる一つの意志の王国〉が出
現することを信じている。この〈意志の王国〉に或る限定された生物の固
体はどのように復活してくるのであろうか。例えば、今現在を芝居に熱中
しているトレープレフは、〈意志の王国〉が出現した時に、どのような姿
形を持って蘇生してくるのであろうか。もし、姿形はもとより、すべてが
今現在のトレープレフと違ったものとして蘇生するのであれば、死後も存
在し続ける〈霊魂〉の意味はどこにあるのだろうか。
トレープレフは何と戦っていたのだろうか。母親のアルカージナと戦っ
ていたのであろうか。否、トレープレフが何よりも一番に戦っていた相手
とは〈時間〉である。トレープレフは〈時間〉を超脱しようとしている。
人間は時間の枠の中で生存している。時間の枠から逃れる唯一の方法は死
しかない。死んでも〈霊魂〉が存続するというのであれば、その〈霊魂〉
が存続する〈時間〉が想定されなければならない。しかし、自分が自分で
あることを認識するには意識が必要である。たとえ死んでも、いきのびた
〈霊魂〉が「自分は自分である」という自己同一性の意識を持っていなく
てはならないことになる。トレープレフは生きており、死んだ後の〈霊
魂〉の存在を証明してはいない。トレープレフに可能なことは芝居の脚本
を書いて、自分の考えを観客に伝えることだけである。ニーナの口を通し
て語られたトレープレフの考えは死後においても〈霊魂〉が存在すること、
やがては物質と霊魂が溶け合って世界を統べる一つの意志の王国が出現す
るということである。この確信は、言わばトレープレフの信仰のようにも
のである。、が、この信仰をもってしてもどうにもならない事実がある。
それは〈時間〉である。〈世界に遍在する一つの霊魂〉である〈わたし〉
もまた時間を超越することはできない。それは〈永遠の物質の父なる悪
魔〉もまた同様である。〈世界に遍在する一つの霊魂〉に意志があり、
〈永遠の物質の父なる悪魔〉に意志があったにしても、〈時間〉そのもの
をどうこうする力はない。〈時間〉そのものに意志があるとすれば、〈霊
魂〉も〈悪魔〉もその意志をどうすることもできない。〈時間〉の支配下
におかれたモノの〈意志〉など、はたして意志と呼べるものかどうか。
トレープレフのヴィジョンにはニーチェの永劫回帰説やショーペンハウ
エルの盲目的な宇宙意志、キリスト教の復活説などが反映している。しか
しここでトレープレフの〈世界に遍在する一つの霊魂〉や〈永遠の物質の
父なる悪魔〉、〈世界を統べる一つの意志の王国〉の実体などを考察する
よりは、このような戯曲を書かざるを得なかった彼の〈孤独〉に照明を与
えることにしよう。トレープレフの実存の特徴は〈世界に遍在する一つの
霊魂〉の口から出た〈寒い〉〈うつろ〉〈不気味〉〈孤独〉〈空虚〉とい
った言葉に端的に表れている。〈世界に遍在する一つの霊魂〉は「人間が
いないので、退屈なのだ」と言う。まさに、この〈霊魂〉はいっさいの生
き物の霊魂が一つに溶け合ったものというより、人間の一人であるトレー
プレフ自身の内的世界を投影している。トレープレフは孤独で、しかも退
屈なのだ。おそらくトレープレフは愛するニーナの存在によってもその孤
独と退屈から脱することはできないであろう。なにしろトレープレフは救
い難き憂鬱症に陥ったイワーノフの後に登場してきた人物なのである。
トレープレフがカッとなって「芝居はやめだ! 沢山だ! 幕をおろ
せ!」と怒鳴った場面に注目しよう。トレープレフの怒りがとつぜん爆発
したのは、医師ドルーンが帽子を脱いだときに、母親のアルカージナは
「それはね、ドクトルが、永遠の物質の父なる悪魔に、脱帽なすったの
さ」と説明した直後である。どうしてこのアルカージナの説明がトレープ
レフの怒りを誘発したのか。ここには何かひとには言えない秘密が隠され
ているのであろうか。
トレープレフは怒りにまかせて「失礼しました! 芝居を書いたり、上
演したりするのは、少数の選ばれた人たちのすることだということを、つ
い忘れていたもんで」と皮肉を飛ばす。しかし、この辛辣な皮肉が皮肉と
してアルカージナに伝わっていないところにトレープレフの孤独と滑稽が
ある。アルカージナの兄ソーリンは「若い者の自尊心は、大事にしてやら
なけりゃ」と言う。ソーリンから見れば、アルカージナの言葉は、新しい
芝居に情熱を傾けるトレープレフの自尊心を著しく傷つけたように思えた
のであろう。しかし肝心のアルカージナにそういった自覚はまったくない。
彼女はある意味、天真爛漫な女優であり、感じたこと、思ったことを率直
に口にしているに過ぎない。〈世界に遍在する一つの霊魂〉の前に強敵の
悪魔がやって来た、まさにその時、トレープレフは〈硫黄の臭い〉を漂わ
せる。すかさずアルカージナはトレープレフに「こんな必要があるの?」
と訊いている。これは皮肉ともあてこすりともとれなくはないが、アルカ
ージナに対抗して新しい演劇を展開しようとする者が、そんな言葉にいち
いちカリカリしていてはいけないだろう。
2006年7月3日(月曜)
トレープレフは「芝居を書いたり、上演したりするのは、少数の選ばれ
た人たちのすることだ」と本気で考えていたのだろうか。おそらくアルカ
ージナは多くの観客を楽しませ感動させるために芝居はあり、自分はその
主役女優だと思っていたに違いない。いつの時代でも、どんな芸術の分野
でも、トレープレフとアルカージナにおける意見の相違は存在する。文学
に限っても純文学と大衆文学がある。演劇の場合は、或る一定の場所(舞
台)に、或る限定された時間内に多くの観客を集めなければならない。小
説の読者のようなわがまま(どんな時間にどれだけ読むかは読者の自由で
ある)は、原則として演劇の観客には許されていない。興行主は、経営上
の問題からも、なるべく多くの観客が集まるような芝居を打ちたいし、俳
優を使いたいと思うのが当然である。トレープレフのような考えを持った
脚本家や演出家は、利益優先の興行主には嫌われるだろう。もしトレープ
レフが自分の主張をまげずに演劇活動を展開しようとするなら、興行費用
は自分で負担しなければならないことになる。トレープレフの演劇論に賛
同する同志的俳優やスタッフが経費を自己負担でもしなければ、とうてい
興行は続けられないことになる。いつの時代でも、新しいことを展開する
ためには、旧世代や旧理論と壮絶な闘いをしなければならないし、自分た
ちの主張が受け入れられるまでにそうとうの苦労を積み重ねなければなら
ない。アルカージナにちょっとばかりチャリを入れられたぐらいでヒステ
リーを起こし、芝居を中断するようではトレープレフの前途は決して明る
くはない。
アルカージナに言わせればトレープレフは「わがままな、自惚れの強い
子」であり、トレープレフの野心満々な演劇の新形式も、ただの〈根性ま
がり〉に過ぎない。要するにアルカージナは息子が〈何か当り前の芝居〉
を出さずに、〈デカダンのたわ言〉を上演したことに不満なのである。
〈世界に遍在する一つの霊魂〉と〈永遠の物質の父なる悪魔〉との闘いも、
〈世界を統べる一つの意志の王国〉の出現も、アルカージナにとっては根
性まがりのデカダンであり〈退屈な暇つぶし〉に過ぎない。哲学の問題は
哲学者が、神学の問題は神学者が頭を悩ませばいい。芝居は皆が喜び、興
奮する一時の娯楽であればいい。演出家や俳優は大衆の娯楽に奉仕すれば
いいのであって、舞台上で自己満足的な理屈をこねまわすことではない。
おそらくアルカージナが考えているのはこういうことであろう。
確かにアルカージナの言は説得力がある。トレープレフがニーナに語ら
せたセリフは脚本を読めばそれですんでしまうことで、敢えて舞台にかけ
る必然性があるとは思えない。アルカージナの感想は、この場に観客とし
て集まった者たちの大半の賛同を得たことだろう。トレープレフの演劇の
新形式に賭ける情熱に水をさすつもりはないが、〈世界に遍在する一つの
霊魂〉の独白は、ひとり書斎で読んでもいい性格のものである。というよ
り、その方が聞き逃しもなく、正確に読み取ることができよう。チェーホ
フ作の『かもめ』は、トレープレフ作の〈デカダンのたわ言〉をも内包す
ることで、観客の退屈を回避することが可能となっている。
アルカージナがトレープレフの芝居の中身について何らコメントを出さ
ず、言わば外側からトレープレフの野心満々を〈デカダンのたわ言〉〈退
屈な暇つぶし〉と切って捨てたのに対し、教師のメドヴェーヂェンコは
「何がなんでも、霊魂と物質を区別する根拠はないです。そもそも霊魂に
してからが、物質の原子の集合なのかも知れんですからね」と一応、中身
に関するコメントを発している。いずれにしても、トレープレフが自ら中
断した芝居は理屈が勝ったもので、一般の観客には理解できず、退屈きわ
まりないものと化したことだろう。二十一世紀の今日においても、トレー
プレフ的理屈の勝った芝居を打っている劇団は多い。主催者側がいくら自
己満足しても、観客にとってはただただ眠いだけの朗読劇のようなものは
なんとかならないものか。もし脚本のセリフ勝負というのなら、それに相
応しい役者を抜擢してもらわなければならない。そうでなければ脚本を静
かな場所でじっくり読んだほうがどれほどましであろうか。
メドヴェーヂェンコは文士トリゴーリンに「で一つ、どうでしょう、わ
れわれ教員仲間がどんな暮らしをしているか・・それをひとつ戯曲に書い
て、舞台で演じてみたら。辛いです。じつに辛いです!」と言う。アルカ
ージナは戯曲や原子の話はもうやめにして、向う岸から聞こえてくる歌に
耳をすまそうと言う。彼女はトリゴーリンに向かって次のように言う。
十年か十五年まえ、この湖じゃ、音楽や合唱がほとんど毎晩、ひっきり
なしに聞えたものですわ。この岸ぞいに、地主貴族が六つもあってね。忘
れもしない、にぎやかな笑い声、ざわめき、猟銃のひびき、それにしょっ
ちゅう、ロマンスまたロマンスでね。……その頃、その六つの屋敷の花形
で、人気の的だったのは、そら、御紹介しますわ(ドールンをあごでしゃ
くって)・・ドクトル・ドールンでしたの。今でもこのとおりの男前です
もの、その頃と来たら、それこそ当るべからざる勢いでしたよ。それはそ
うと、そろそろ気が咎めてきた。可哀そうに、なんだってわたし、うちの
坊やに恥をかかしたのかしら? 心配だわ。(大声で)コースチャ! せ
がれや! コースチャ!
2006年7月4日(火曜)
こういった場面で分かるのは、アルカージナが過去に思いをいたすタイ
プであること、つまり未来よりは積み重ねた過去の時間の方に重きを置い
て生きているということである。アルカージナからかつて花形であったと
紹介されたドクトル・ドールンもまた基本的には同じである。アルカージ
ナは第二幕のはじめに「わたしには、主義があるの・・未来を覗き見しな
い、というね。わたしは、年のことも死のことも、ついぞ考えたことがな
いわ。どうせ、なるようにしかならないんだもの」と語っている。この言
葉で彼女は自分の人生に対する基本的な姿勢を端的に示している。名もな
い、駆け出しのトレープレフは自分の仕事を未来に託すほかはない。かれ
にとって現在は未来へ向かって投企されている。だからこそ未来へと続く
現在が否定されることは、トレープレフにとって何よりも痛い。彼は意識
のうえではアルカージナを過去の人として葬り去りながら、しかし依然と
して彼女の言葉が重くのしかかっている。ところがアルカージナは、すで
に女優としての絶頂期を終えている。彼女にとって過去よりも、現在より
もすばらしい未来が待機しているようには思えない。すでにアルカージナ
は未来を覗き見して一喜一憂する乙女のような心持ちでいきることはでき
ない。彼女は過去をなつかしく思い出すことはあっても、別にその過去に
過剰とらわれることもないし、未来に過剰に期待することもない。彼女は
現在を精一杯、感じ、働き、生きることを信条としている。それは一つの
理想的な生き方である。
ところでアルカージナのこういった現在優位の生き方は自分に自信があ
るからこそ可能だとも言える。現在に絶望し、未来になんの期待も寄せら
れない人間に可能なのは、現在よりはましだった過去への追憶に時を費や
すことであったり、死後の世界に希望を抱くほかはないだろう。アルカー
ジナは過去の名声を現在へまで繋げている大女優である。もし彼女が自分
を一歩前面から退く謙虚さをもって後進の指導にあたることができるよう
なタイプであれば、息子トレープレフの自尊心をいたく傷つけることもな
かったであろう。しかしそういった謙虚さや指導力を彼女に期待すること
はできない。トレープレフは母親の性格を的確に認識している。アルカー
ジナについて先に彼は「褒めるなら、あの人のことだけでなくてはならん。
劇評も、あの人のことだけ書けばいい」とソーリンに言っていた。舞台女
優で名声を博したような者は、たいがい傲慢でひとりよがりと思っていれ
ば間違いないということであろうか。女優に必要とされるのは謙虚さなど
より、むしろ見栄や虚勢であるのかも知れない。自分が世界一の女優だと
心の底から思わなければ、舞台に華やかさをもたらすことはできず、観客
を大きな感動の渦へと誘う力も失せてしまうのかもしれない。喝采を独り
占めするくらいの勢いで舞台に登場しなければ女優はつとまらない。しか
も女優は私生活においても派手な立ち居振る舞いで人々の注目を集めてい
なければならない。というよりか、もともとそういった派手で目立ちたが
り屋でなければ女優としては大成しないのであろう。ドストエフスキーの
人物の中に〈女優〉を探すなら、二人の女の頭上に斧を振り下ろして殺害
したラスコーリニコフの妹ドゥーニャや、ロゴージンとムイシュキン公爵
の間を揺れ動いたあげく殺害されたナスターシャなどを見出すことができ
よう。前者は殺人者の兄ラスコーリニコフの妹にふさわしく、スヴィドリ
ガイロフに銃弾を発射することのできる誇り高き美女であり、後者もまた
傲慢で気まぐれな誇り高き絶世の美女である。こういった荒馬を調教し、
演出できる監督がいれば、彼女たちはさらに美しく輝いたはずである。
『罪と罰』のソーニャのような、運命に従順な、静かな女は、信仰を得て
強い女にはなれても、決して舞台女優にはなれないのである。彼女のよう
な存在は、ドストエフスキーという偉大な小説家のペンによってのみ誰よ
りもすばらしい、輝ける聖なる存在へと高められるのである。つまり小説
世界の中で輝きを増す存在が、即、舞台女優としてその才能を発揮するこ
とはないのである。
ただしアルカージナは女優であると同時にトレープレフの母親でもある。
どんなにトレープレフが演劇の新形式で彼女の牙城に迫ろうとも、母親と
して息子を想う気持が失せることはない。と言うよりアルカージナは未だ
トレープレフを手ごわい相手とは見ていない。ところで医師ドールンのみ
はトレープレフの芝居を高く評価している。彼は独りごちる「ひょっとす
ると、おれは何にもわからんのか、それとも気がちがったのかも知れんが、
とにかくあの芝居は気に入ったよ。あれには、何かがある。あの娘が孤独
のことを言いだした時や、やがて悪魔の紅い目玉があらわれた時にゃ、お
れは興奮して手がふるえたっけ。新鮮で、素朴だ」と。ドールンはトレー
プレフに向かってもはっきりと「僕はきみの芝居が、すっかり気に入っち
まった。ちょいとこう風変りで、しかも終りの方は聞かなかったけれど、
とにかく印象は強烈ですね。君は天分のある人だ、ずっと続けてやるんで
すね」と言って励ましている。トレープレフはドールンの手を強く握り、
いきなり抱きついて、目には涙までためて感激する。ドールンはさらに言
葉を続ける「いいですか・・きみは抽象観念の世界にテーマを仰いだです
ね。これは飽くまで正しい。なぜなら、芸術上の作品というものは必らず、
何ものか大きな思想を表現すべきものだからです。真剣なものだけが美し
い」「重要な、永遠性のあることだけを書くんですな。きみも知ってのと
おり、僕はこれまでの生涯を、いろいろ変化をつけて、風情を失わずに送
ってきた。僕は満足ですよ。だが、まんいち僕が、芸術家が創作にあたっ
て味わうような精神の昂揚を、ひょっと一度でも味わうことができたとし
たら、僕はあえて自分をくるんでいる物質的な上っ面や、それにくっつい
ている一さいを軽蔑して、この地上からスーッと舞いあがったに相違ない
な」「それに、もう一つ大事なのは、作品には明瞭な、ある決った思想が
なければならんということだ。何のために書くのか、それをちゃんと知っ
ていなければならん。でなくて、一定の目当てなしに、風景でも賞しなが
ら道を歩いて行ったら、きみは迷子になるし、われとわが才能で身を滅ぼ
すことになる」と。
かつて六つの貴族の屋敷で、花形として人気の的であったドールンの言
葉が、どれだけトレープレフを勇気づけ励ましたであろう。若い有能な才
能には讃美と励ましが必要である。放っておいても育つ才能があり、厳し
い指導によってのみ伸びる才能がある。しかし大抵の場合は、理解者が側
にいて励ます必要がある。確かに中途半端な称賛はよくないが、真に理解
し、真に励ます者がいることは、芸術家の誰もが望ところであろう。アル
カージナにチャチャを入れられたくらいで、怒りを爆発させて芝居を中断
するほどナイーヴなトレープレフに必要なのは、ドールンのような勇気づ
けなのである。
2006年7月5日(水曜)
さて、トレープレフとニーナの恋はどうなっただろうか。わたしは先に
二人の破綻は目に見えているかの如く書いた。トレープレフは自分の思い
入れの中でニーナを偶像化した。ニーナは美しい女であったかも知れない
が、トレープレフの精神世界の理解者ではない。皮肉を飛ばすことができ
るだけ、母親のアルカージナの方がよほど息子を理解している。ニーナは
所詮は田舎育ちの、有名な女優や作家に憧れているお嬢さんの域を一歩も
出ていない。トレープレフはただ自分に仕えてくれるだけの、従順な女性
を求めているのではない。自分の新しい演劇理論を理解し、共に同志とし
て闘ってくれる伴侶を求めている。しかし、芝居が失敗に終わり、ニーナ
はトレープレフに冷たい態度をとっている。
次にトレープレフが自分が猟銃で撃ち落とした鴎の死骸をニーナの足元
に置いた、その直後の場面を見てみよう。
ニーナ どういうこと、これ?
トレープレフ 今日ぼくは、この鴎を殺すような下劣な真似をした。あ
なたの足もとに捧げます。
ニーナ どうかなすったの? (鴎を餅あげて、じっと見つめる)
トレープレフ (間をおいて)おっつけ僕も、こんなふうに僕自身を殺
すんです。
ニーナ すっかり人が違ったみたい。
トレープレフ ええ、あなたが別人みたいになって以来。あなたの態度
は、がらり変ってしまいましたね。目つきまで冷たくなって、僕がいると
さも窮屈そうだ。
ニーナ 近ごろあなたは怒りっぽくなって、何か言うにもはっきりしな
い、へんな象徴みたいなものを使うのね。現にこの鴎にしたって、どうや
ら何かの象徴らしいけれど、ご免なさい、わたしわからないの。……(鴎
をベンチの上に置く)わたし単純すぎるもんだから、あなたの考えがわか
らないの。
トレープレフ ことの起りはね、僕の脚本があんなぶざまな羽目になっ
た、あの晩からなんです。女というものは、失敗を赦しませんからね。僕
はすっかり焼いちまった、切れっぱし一つ残さずにね。僕がどんなにみじ
めだか、あなたにわかったらなあ! あなたが冷めたくなったのが、僕は
怖ろしい、あり得べからざることのような気がする。まるで目が覚めてみ
ると、この湖がいきなり干あがっていたか、地面に吸いこまれてしまって
いたみたいだ。今しがたあなたは、単純すぎるもんだから僕の考えがわか
らない、と言いましたね。ああ、何のわかることがいるもんですか?!
あの脚本が気にくわない、それで僕のインスピレーションを見くびって、
あなたは僕を、そのへんにうようよしている平凡な下らん奴らと一緒にし
てるんだ。……(とんと足ぶみして)わかってるさ、ちゃんと知ってるん
だ! 僕は脳みそに、釘をぶちこまれたような気持だ。そんなもの、僕の
血をまるで蛇みたいに吸って吸って吸いつくす自尊心もろとも、呪われる
がいいんだ。……(トリゴーリンが手帖を読みながら来るのを見て)そう
ら、ほんものの天才がやって来た。歩きっぷりまでハムレットだ、やっぱ
り本を持ってね。……(嘲弄口調で)「言葉、ことば、ことば」か……ま
だあの太陽がそばへ来ないうちから、あなたはもうにっこりして、目つき
まであの光でトロンとしてしまった。邪魔はしませんよ。(足早に退場)
(全集12・123 ~124 )
トレープレフはなぜニーナに対して腹をたてているのであろうか。それ
は彼の〈可愛い魔女〉が〈可愛い魔女〉でなくなり、彼の〈夢〉が彼の
〈夢〉でなくなったからである。ニーナはトレープレフの内的世界をなん
にも理解できない。ニーナが芝居に望んでいることは、トレープレフの新
形式ではなく、むしろアルカージナの方にある。芝居は男と女のロマンス
を具体的に、分かりやすく演じなければならない。それこそ大衆が、多く
の芝居好きの観客が望むところであり、哲学的な〈デカダンなたわ言〉が
延々と続くような独白劇ではない。〈世界に遍在する一つの霊魂〉だの
〈永遠の物質の父なる悪魔〉などは、頭でっかちの文学青年が一人自分の
小部屋で読むか呟いていればいいことで、多くの観客を巻き込んで彼らの
単純な頭脳を苦しめることはない。ニーナは自分でも言っているように
〈単純〉なお嬢さんで、トレープレフが演劇の新形式を舞台上で体現させ
るような存在ではなかったのである。トレープレフはニーナをよく観察し
分析した上で彼女を好きになったわけではない。トレープレフがニーナに
求めるものと、ニーナがトレープレフに求めるものは違っている。その違
いにニーナは気づいているが、トレープレフは気づいていない。
ニーナはトレープレフに言われた通り、芝居をした。が、ニーナ自身は
自分が口にしているセリフを何一つ理解していない。トレープレフがアル
カージナの皮肉に我慢がならず、芝居を中止して姿を消してしまった後、
ニーナは仮舞台のかげから出てきてアルカージナとキスをかわし、話をす
る。この時ニーナはアルカージナにトリゴーリンを紹介される。ニーナは
嬉しさいっぱいでどぎまぎしながら、トリゴーリンの作をいつも拝読して
いる意味の言葉を発する。続いてニーナは「ね、いかが、妙な芝居でしょ
う?」と言い、トリゴーリンは「さっぱりわからなかったです。しかし、
面白く拝見しました。あなたの演技は、じつに真剣でしたね。それに装置
も、なかなか結構で。(間)この湖には、魚がどっさりいるでしょうな」
と答える。この短い会話の中に、トリゴーリンとニーナの凝縮された思い
がこめられている。ニーナはトリゴーリンに憧れている。トリゴーリンは
すでに作家としての名声を博しており、トレープレフのような野心も焦燥
もない。トレープレフはアルカージナの愛人であるトリゴーリンをおもし
ろくないと思っているし、彼の作品を評価したくもない。ところがトレー
プレフの〈可愛い悪魔〉は、トレープレフなどよりはるかにトリゴーリン
に魅力を感じて憧憬の眼差しを向けている。ニーナがトリゴーリンに向か
って「妙な芝居でしょう?」と語りかけている、その時点で彼女のトレー
プレフに対する思いは、トレープレフに恋する乙女のものでないことは明
白である。ニーナの乙女心は眼前のトリゴーリンに夢中である。トリゴー
リンの「さっぱりわからなかったです」は「妙な芝居でしょう?」とその
同意を求めたニーナの問いに対する如才のない返答であり、田舎娘ニーナ
の乙女心を一挙にとらえたと言えよう。しかもトリゴーリンはニーナの演
技の真剣さに関してはさりげなく、しかしはっきりと讃美している。こん
な短い言葉でありながら、トリゴーリンはすっかりニーナの魂を鷲掴みし
てしまったのである。しばらく間をおいて、トリゴーリンは芝居から湖の
魚へとさりげなく話題を変換している。チェーホフは省略の美学を存分に
発揮して、憧れの作家から自分の演技を褒められたニーナの内心の歓喜を
いっさい表現していないが、おそらく(間)のあいだの、喜びにうち震え
ているニーナの気持を十分に汲み取ったうえでトリゴーリンは魚の話を持
ち出している。トリゴーリンがどれほどの小説家であるかは分からないが、
女心に精通した男であることに間違いはなさそうである。
2006年7月6日(木曜)
トリゴーリン 僕は釣りが好きでしてね。夕方、岸に坐りこんで、じつ
と浮子を見てるほど楽しいことは、ほかにありませんね。
ニーナ でも、一たん創作の楽しみを味わった方には、ほかの楽しみな
んか無くなるんじゃないかしら。
アルカージナ (笑い声を立てて)そんなこと言わないほうがいいわ。
このかた、ひとから持ちあげられると、尻もちをつく癖がおありなの。
(109 )
トリゴーリンのさりげない釣りの話がいい。ニーナの顔を見れば新しい
演劇について理屈をこね廻しているトレープレフよりは、はるかにおしゃ
れでダンディである。名声や才能に憧れる田舎のお嬢さんにとって、トリ
ゴーリンとの出会いは決定的な何かを植えつけてしまった。それこそ尊敬
の念に隠れた密かな恋心であったかもしれない。女が新しい恋に目覚めれ
ば、今朝の恋心さえ古臭く思われるものである。ニーナは『可愛い女』の
オーレンカのように、過去にとらわれず、未来に思いを寄せず、ただひた
すら現在を生きるのである。その意味では、歳をくっている分、過去にこ
だわりはするが、基本的に今現在を燃焼して生きようとするアルカージナ
と似ていると言えよう。今を生きる女は、その〈今〉から脱落した者のこ
となど振り向きもしない。トレープレフはあっという間に、ニーナの〈
今〉から振り落とされてしまった。トレープレフは恨ましい眼差しでニー
ナとトリゴーリンの関係を見ているほかはない。初めての実験的な芝居に
失敗し、同時にニーナという〈夢〉も失ってしまったトレープレフ。が、
ニーナはトレープレフになんの同情も憐れみも感じることはない。まさに
ニーナは〈魔女〉であり、トレープレフに対しても情容赦無く存分にその
魔性を発揮している。
トレープレフはニーナの心がトリゴーリンに移ってしまったのを感じて
いる。ニーナの態度はまさにがらりと変わってしまったのだ。ニーナは自
分が単純すぎてトレープレフの言うことが「わからない」と正直に語って
いる。ニーナは単純で正直で、従って残酷である。ニーナは「わからな
い」という言葉でトレープレフを拒んでいる。トリゴーリンという存在を
知ってしまったニーナは、もはやトレープレフを理解しようという気持が
起きない。トレープレフは「僕がどんなにみじめだか、あなたにわかった
らなあ!」と言う。これは泣き言であり、愚痴である。こういう言葉を口
にする男を女は好かない。ましてや心が他の男に移ってしまったニーナに
とってはなおさらである。トレープレフは自分の作品に自信が持てないの
であろうか。「僕のインスピレーションを見くびって、あなたは僕を、そ
のへんにうようよしている平凡な下らん奴らと一緒にしてるんだ」これは
もはや叫びである。傷つけられた自尊心が真っ赤な血を噴き出して、誰も
それをとめることはできない。トレープレフは行くところまで行くしかな
いだろう。もともとトレープレフの思想を、その感性を共有できないお嬢
さんを好きになって、あたかも自分の〈夢〉を体現する救世主のごとく偶
像化してしまったところに間違いがあった。ニーナはニーナ、トリゴーリ
ンのような名声のただなかにある男に魅力を感じるような女なのである。
トレープレフは手帖を読みながら歩いてくるトリゴーリンを見て「そう
ら、ほんものの天才がやって来た。歩きっぷりまでハムレットだ」と揶揄
している。が、トリゴーリンよりはるかにトレープレフ自身の方が悩める
ハムレット風である。「言葉、ことば、ことば」ハムレットのセリフに誰
よりも共感を寄せているのはトレープレフである。単なる言葉、されど言
葉、所詮は言葉、されど言葉……言葉の虚無を抱え持った者のみが呟くこ
とのできるセリフである。トレープレフはなんの説明もしていないが、彼
は彼流に「言葉、ことば、ことば」のはてしない空虚と、空虚に包まれた
情熱を、その情熱を包む空虚を感じている。トレープレフは「まだあの太
陽がそばへ来ないうちから、あなたはもうにっこりして、目つきまであの
光でトロンとしてしまった。邪魔はしませんよ」と言って足早に退場する。
トレープレフはアルカージナに対してと同様、トリゴーリンとも闘う姿勢
を見せない。
2006年7月7日(金曜)
トレープレフは自分が撃ち殺した鴎をニーナの眼前に捧げて、それが自分
の姿だと言う。トレープレフは母親から、ニーナから、トリゴーリンから、
さらに自分自身からも逃げて、いずれは自殺することを考えている青年な
のである。確かにトレープレフはイワーノフの憂鬱症の血を引き継いでい
る。彼は偉大な希望を抱いて邁進することのできる青年であるが、同時に
ちょっとした失敗で絶望し、すべてに嫌気がさしてしまうような青年でも
ある。イワーノフはサーシャという新しい若い恋人ができてさえ、新生活
を築くことよりはピストル自殺を選んでしまった男であったが、ニーナと
いう〈夢〉を奪われたトレープレフは今後どのような選択に迫られるので
あろうか。
2006年7月13日(木曜)
アルカージナの「未来を覗き見しない」という主義は一つの人生に対す
る確固たる態度である。彼女は「年のことも死のことも、ついぞ考えたこ
とがない」と言う。彼女のうちには「どうせ、なるようにしかならない」
という諦念が潜んでいる。チェーホフの文学全体にこの諦念の空気が漂っ
ており、この空気に馴染むことのできない者、たとえばイワーノフやトレ
ープレフは自殺して果てるしかない。なるようにしかならない、どうでも
いい、という虚無を抱えて、この現実の大海を泳ぎ続けるにはそれなりの
工夫と希望が必要である。年のことも死のことも考えたことのないアルカ
ージナは、それでも愛するトリゴーリンのことをいつまでも自分の側にお
いておきたいと思っている。アルカージナに尊敬され愛されている作家の
トリゴーリンは「書かなくちゃならん、書かなくちゃ、書かなくちゃ」と
いう脅迫観念にとらわれている。彼になぜ小説を書きつづけるかと問えば、
おそらくニコライ教授のように「わからない」と答えるだろう。本質的な、
根源的なことを聞かれて分かったような口をきかないのがチェーホフの人
物たちである。「まるで駅逓馬車みたいに、のべつ書きどおしで、ほかに
打つ手がない」とトリゴーリンは言う。トリゴーリンのセリフには若い頃
から生活費を得るために小説を書きつづけてきたチェーホフの思いがその
まま込められている。しばしニーナ相手のトリゴーリンの言葉に耳を傾け
てみよう。
今こうしてあなたとお喋りをして、興奮している。ところがその一方、
書きかけの小説が向うで待っていることを、一瞬たりとも忘れずにいるん
です。(略)こうして話をしていても、自分やあなたの一言一句を片っぱ
しから捕まえて、いそいで自分の手文庫のなかへほうりこむ。こりゃ使え
るかも知れんぞ!というわけ。一仕事すますと、芝居なり釣りなりに逃げ
だす。そこでほっと一息ついて、忘我の境にひたれるかと思うと、どっこ
い、そうは行かない。頭のなかには、すでに新らしい題材という重たい鉄
のタマがころげ廻って、早く机へもどれと呼んでいる。そこでまたぞろ、
大急ぎで書きまくることになる。いつも、しょっちゅうこんなふうで、わ
れとわが身に責め立てられて、心のやすまるひまもない。自分の命を、ぼ
りぼり食っているような気持です。(略)うかうかしてると、誰かうしろ
から忍び寄って来て、わたしをとっつかまえ、あのポプリーシチン〔ゴー
ゴリの『狂人日記』の主人公〕みたいに、気違い病院へぶちこむ んじゃな
いかと、こわくなることもある。それじゃ、わたしがやっと物を書きだしたころ、
まだ若くて、生気にあふれていた時代は
どうかというと、これまたわたしの文筆生活は、ただもう苦しみの連続で
したよ。駈けだしの文士というものは、殊に不遇な時代がそうですが、わ
れながら間の抜けた、不細工な余計者みたいな気のするものでしてね、神
経ばかりやたらに尖らせて、ただもう文学や美術にたずさわっている人た
ちのまわりを、ふらふらうろつき廻らずにはいられない。認めてももらえ
ず、誰の目にもはいらず、しかもこっちから相手の眼を、まともにぐいと
見る勇気もなく・・まあ言ってみれば、一文なしのバクチきちがいといっ
たざまです。
2006年7月15日(土曜)
なんのために書くのか。生活の糧を得るため、と答えていられるうちは
まだいい。純粋に書く理由を発見できる作家がはたして何人いることか。
トリゴーリンがいう脅迫観念はよく分かる。なぜこういった脅迫観念が生
じるのか。ドストエフスキーの地下男の言うように、書くことは何かしら
仕事をなしているような実感がともなうからかもしれない。作家としての
名声や評価を得るためなどと思っているやからは、そのうち放っておけば
自然に消えてしまうだろう。トリゴーリンがここでニーナに語っているこ
とは、彼の率直な思いであり、微塵のてらいもない。「どうでもいい」
「わからない」を連発するチェーホフが、書くことにおいては馬車馬のよ
うに駆けつづけた。チェーホフからペンを奪ったらいったいどうなってい
たのだろう。
書くという行為が、自分自身との対面であることは間違いない。書いて
いる以上は、世界や自分を置き去りにするわけにはいかない。書く行為は
自分という存在の神秘に直面することである。ドストエフスキーは人間は
謎であり、その謎を解くために一生を費やしても悔いはないと書いた。チ
ェーホフは人間の謎を解くために書きつづけたのであろうか。否、チェー
ホフは人間の謎をそのままに提示することに止まろうとしているように思
える。わからないことをわかったつもりになって説教するような愚者が主
人公として登場することはない。大学教授として情熱的な講義を続けたニ
コライ・ステパーノヴィチは、彼を追ってきた必死のカーチャに「わから
ない」「朝飯を食べよう」としか言えない。彼は自分の無知であること、
愚かであることを相手にさらけ出すことを恥とはしない。
2006年7月16日(日曜)
ニコライは「私の愛する宝」と共に人生を歩
むことができない。死をも超えた愛で相手を包むこともできない。ニコラ
イは孤独であり、この孤独を二人で分かち合うことはできない。カーチャ
が唯一納得したとすれば、それは彼女自身もまた己の孤独を生きるほかは
ないということである。いずれにしてもニコライとカーチャに明るい未来
はない。憂鬱症に陥ったイワーノフにも希望はなかった。彼に残された唯
一の希望は、自らのこめかみに向けてピストルの引きがねを引くことだけ
であった。トリゴーリンは書き続けるという脅迫観念に支配されているこ
とによって辛うじて自殺を免れている。トリゴーリンはアルカージナとい
う女に庇護されているし、その時々の恋に身をまかせる柔軟さも備えてい
る。ニーナはうぶな田舎娘で、有名な作家や女優に己の過剰でロマンチッ
クな夢を乗せることができる。未だ破綻を知らない乙女の夢は、言わば怖
いものしらずである。ニーナのトリゴーリンに対する態度は、トレープレ
フに対するものとは明らかに違う。トレープレフはすでに過去のものとな
り、彼女の現在と未来を見つめる眼差しがとらえているのはトリゴーリン
ただ一人である。イワーノフに熱愛して両親を捨てたアンナのように、ニ
ーナはトリゴーリンのためなら両親でも何でも捨て去ることができるので
ある。トリゴーリンは物書きとしての自分のあるがままの姿をさらけ出し
ただけでニーナの魂を鷲掴みにしてしまった。一度、恋に落ちた女にとっ
て、相手の男はいつでも星の王子様なのである。年齢の違いや、地位や名
声や財産など、すべての差異を一気に飛び越えて男と女は結びつくのであ
る。ニーナはトレープレフと恋愛状態にあったときから、冷静に二人の間
に存在する溝に気づいていた。この溝は双方のいかなる努力によっても埋
めることはできない。ニーナが選択したのは、この溝を一挙に飛び越える
こと、すなわち自分が心の底から納得できる男の胸へと飛び込むことであ
った。ニーナはその先に何が待ち受けているのか、そこまで汁ことはでき
なかった。しかしニーナにとっては最初の飛び越えこそが必要であった。
ニーナは田舎に閉じこもって、やがては確実に老いていく父や継母の面倒
を見るためにこの世に誕生したのではない。ニーナは自らの夢(それはと
りあえず舞台女優となって脚光を浴びることである)を実現するために、
その一つの大きな跳躍台としてトリゴーリンを選んだのである。ニーナは
トレープレフの理屈の勝った演劇理論に共鳴することはできなかったし、
彼と共に〈彼の夢〉を実現する気もなかった。トレープレフはニーナに自
分の夢を託したが、その〈夢〉は相手の正体を見定めることのできなかっ
た愚かな男の妄想と化してしまった。未来の才能のある若者は、現に社会
的名声を博している既成の作家よりもはるかに強烈な光を発していなけれ
ばならない。ニーナは〈未来の才能ある若者〉トレープレフよりも、トリ
ゴーリンの方に強烈な、魅惑的なオーラを感じてしまっている。ニーナは
冷徹な審判者としてトリゴーリンに勝利の旗を挙げている。トレープレフ
に勝利の女神が微笑むためには、〈可愛い魔女〉ニーナを即座に捨て去る
冷酷さが必要である。トリゴーリンを選んだ〈可愛い魔女〉の、その浅薄
さを笑いのめし、踏みにじるだけの自信がなければ、トレープレフに勝利
の道は開けない。トレープレフは母親のアルカージナがよく了承していた
ように、傷つきやすいナイーヴな青年で、己の才能を過信しているが、同
時にそれは極度の不安の上に成り立っていた。トレープレフが自殺未遂し
た時、アルカージナはその原因をトリゴーリンに対する〈嫉妬〉とみなし
た。本当に自信のある者は嫉妬などしない。嫉妬の感情がわき上がったそ
の時点ですでに敗北である。トレープレフはソーリンに聞かれて、トリゴ
ーリンを「あれは、頭のいい、さばさばした、それにちょいとその、メラ
ンコリックな男ですよ。なかなか立派な人物でさ。まだ四十には間がある
のに、その名は天下にとどろいて、何から何まで結構ずくめの御身分だ」
と言っていた。しかしこの言葉は決してトリゴーリンを褒めたたえている
のではない。ここにはトリゴーリンに対する極度に押し込んだ悪意や嫉妬
の感情がのぞいている。母親の愛人であるトリゴーリンを素直に認めるほ
ど、トレープレフはお人好しではない。2006年7月17日(月曜)
若い才能のある者が同時代を生きる先行者の作品を正当に評価することは
極めて困難である。ライバル心や嫉妬が常につきまとうからである。トレ
ープレフは先の言葉に続けて「書くものはどうかと言うと……さあ、なん
と言ったらいいかな? 人好きのする才筆じゃあるけれど……が、しかし
……トルストイやゾラが出たあと、トリゴーリンを読む気にゃどうもね」
と言っている。トレープレフはどんなことがあってもトリゴーリンの才能
やその作品を素直に肯定することはないだろう。アルカージナに言わせれ
ば、息子のトレープレフは「わがままな、自惚れの強い子」なのである。
アルカージナとトレープレフが顔を突き合わせるたびに口喧嘩してしまう
のも、トリゴーリンの存在が大きい。トレープレフにとってトリゴーリン
は自分の母親を奪い取った張本人であり、同時に彼の唯一の〈夢〉であっ
たニーナの魂をも魅了してしまった憎っくき伊達男である。ニーナを奪わ
れ絶望にかられたトレープレフは自殺をはかるが、幸か不幸か未遂に終わ
る。憤懣やるかたなくトリゴーリンに決闘を申し込めば、相手は卑怯にも
脱走を企てる。未だ母親に甘えたい気持のあるトレープレフではあるが、
肝心のアルカージナはトリゴーリンを〈人格の高い立派な人〉と見なし、
自分の前で尊敬するトリゴーリンの悪口は謹んでくれと釘をさす。トレー
プレフはついに我慢がならず「お母さんは、僕にまであの男を天才だと思
わせたいんでしょうが、僕は嘘がつけないもんで失礼・・あいつの作品に
ゃ虫酸が走りますよ」と言ってしまう。売り言葉に買い言葉、気の強いア
ルカージナも黙ってはいない・・「それが妬みというものよ。才能のない
くせに野心ばかりある人にゃ、ほんものの天才をこきおろすほかに道はな
いからね。結構なお慰みですよ!」と。この後も実の母と子とは思えない
ほどの凄まじい言葉のやりとりが展開される。トレープレフはアルカージ
ナやトリゴーリンは〈古い殻をかぶった連中〉であるとして「自分たちの
することだけが正しい、本物だと極めこんで、あとのものを迫害し窒息さ
せるんだ! そんなもの、誰が認めてやるもんか!」と怒鳴る。しばし二
人のやりとりを見てみよう。
アルカージナ デカダン!……
トレープレフ さっさと古巣の劇場へ行って、気の抜けたやくざ芝居に
でも出るがいいや!
アルカージナ 憚りながら、そんな芝居に出たことはありませんよ。わ
たしには構わないどくれ! お前こそ、やくざな茶番ひとつ書けないくせ
に。キーエフの町人! 居候!
トレープレフ けちんぼ!
アルカージナ 宿なし!
トレープレフは実の母親から〈デカダン〉〈居候〉〈宿なし〉と罵られ
ている。トレープレフは二十五歳である。既に経済的にも自立していてい
い歳であり、少なくとも母親に甘えて〈居候〉していていい歳ではない。
もちろんトレープレフは誰に言われるまでもなく、そのことをよく承知し
ていて、不断にプライドが傷つけられている。こういったナイーヴな点を
伯父のソーリンはよく理解していて、トレープレフの自殺未遂の原因につ
いて次のように語っていた・・「若盛りの頭のある男が、草ぶかい田舎ぐ
らしをしていて、金もなければ地位もなく、未来の望みもないと来てるん
だからな。なんにもすることがない。そのぶらぶら暮らしが、恥かしくも
あり空怖ろしくもあるんだな。わたしはあの子が可愛いくてならんし、あ
れの方でもわたしに懐いてくれるが、だがやっぱり早い話が、あれは自分
がこの家の余計もんだ、居候だ、食客だという気がするんだ。論より証拠、
だいいち自尊心がな……」と。
2009年6月10日
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