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落合尚之版『罪と罰』第五巻までを読む(坂本綾乃)⑥
「日本文学特論Ⅱ」(日芸大学院講座)坂本綾乃(連載6)

落合尚之版『罪と罰』第五巻までを読む(坂本綾乃)⑥
改めて弥勒について
落合尚之版『罪と罰』第無五巻までを読む⑥
改めて弥勒について
坂本綾乃
五巻までを改めて一気に読んでみた。今まで一週間に一冊のペースで感想を書いていくことで、全体を通して読んだのは初めてだったわけだが、改めて感じたことが一つある。主人公の裁弥勒は「普通」の青年に過ぎなかったのだ。「普通」についての定義は人様々だろうが、やはり私にとって弥勒は「普通」でしか過ぎない。確かに頭は良いかもしれない、有名大学に合格しているということから、俗に言う偏差値が高い優秀な元学生であるだろうが、頭が切れるかどうかにいたっては、売春組織を作り上げたヒカルの方が上であろう。
頭が良いこと(偏差値が高い)イコール人として優れていると一概には言えない。弥勒こそその最たる例だ。彼は圧倒的にコミュニケーション能力が低い、なんとなく机に噛り付く勉強の虫が思い浮かぶ。弥勒の母が言う「立派な人」になるには、今の世の中ではそれこそ有名大学に入り、企業に就職することが第一条件と言えるかもしれないが、実際そんな人生はつまらないと思う。確かにそういった道を進むことが出来れば「立派」であるかもしれないが、そこにある目標は野望も何も無い、試験で優秀な成績を取るといったこととなんら変わりの無いものでしかない。つまり、向き合っているのが自分でしかなく、闘っているのも自分でしかないのだ。自分と向き合うことが無駄であるとは思わない、現に向き合わなければならない時が私にだってある。向き合う方向性を間違ってしまってはいけないと思うのだ。弥勒を見ていると、自分ひとりで生きている、生きていけるといった感があるのだが、実際問題一人で生きていくことほど辛く寂しいものは無いだろう。自分と向き合う前に世界と闘ってそこから自分と闘い、また世界と闘うことで人は成長を遂げることが出来るのではないだろうか。
それこそ、今のこの不景気の世の中において何が重要視されているかといえばコミュニケーション能力だろう。四巻でのインターンシップや、大学での交友関係を見ると弥勒にはやはりコミュニケーション能力がないといえる。自分は特別だと思い込み、周りの人間は愚劣だと思いこんでいる弥勒は手に負えない。そういった点からすると、そんな弥勒に対して愛想を尽かすわけでもなく向き合おうとする矢住の方が、人として「立派」だと思う。
私も弥勒と同じように小説を書くが、頭の中で繰り広げられるストーリはどこか人間味が無く実際書くものも嘘くさくなってしまう。それは私自身が知らない世界を書こうとするから、と言えるのだが、弥勒も同じではないだろうか…。彼の「計画」を実行する前の作品「収穫者の資格」を「計画」実行後に書いたら、明らかにその作品は生まれ変わるだろう。書き出す世界を弥勒は知っているのだから、そこには圧倒的なリアリティーが生まれる。しかしその時作品は、下手すればフィクションからノンフィクションへと姿をも変える危険性を孕むことになる。いかにノンフィクションをフィクションとして面白くするかは、作者の力量にかかっている。だが弥勒なら書き出すことが出来ると思うのもまた事実だ。
「普通」の青年である弥勒は、その弱さゆえに現実と向き合えないでいた。首藤といったある種の成功者と出会った事で、弥勒はもがきながら世界に出ようとし「計画」を実行した。形としては行動を起こしたことになるが、その動機はなんとも幼く、直情的だ。現代のニュースの被疑者の動機とそう変わらない。弥勒はまだ捕まっていないが、今度は逃げることに奔走する。弥勒が逃げ切れるかどうかは、ドストエフスキーの『罪と罰』からするとまず無いが、弥勒はもう少し私を楽しませてくれるように思う。それは「計画」前、「計画」後、と時間を追うごとに変わっていく弥勒の表情が私を引きつけて止まないからだ。
2009年6月 3日
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