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林芙美子の文学(連載9)林芙美子の『浮雲』について⑦
林芙美子の文学(連載9)林芙美子の『浮雲』について⑦
清水正

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林芙美子の文学(連載9)
林芙美子の『浮雲』について⑦
清水正
林芙美子の文学(連載9)
林芙美子の『浮雲』について⑦
清水正
林芙美子の代表作『浮雲』とドストエフスキーの『悪霊』の関係に肉薄して
いく。
2009年5月13日(水曜)
作者は富岡と加野の二人の男の違いを短い会話の中で浮き彫りにしている
が、描写においても二人の内的世界の相違を鮮明に描き分けている。
加野は、コアントロウを手酌でやりながら、血走った眼で、天井の動かな
い扇風機の白いプロペラを見上げていた。富岡はいかにもものうそうに金網
の窓ぶちに脚をあげて、椅子の背に頭を凭れさしていた。(189 〈八〉)
加野の性格は〈血走った目〉、富岡の性格は〈ものうそう〉によく表現さ
れている。加野にはまだ希望があり、情熱が潜んでいる。富岡はすでに何も
かもに絶望しているように見える。戦争に対しても、彼なりに的確な判断を
下して、絶対に負ける戦争を日本が続行していることを冷やかに見ている。
『悪霊』の人物に重ねれば、加野はロシアの神を信じていたシャートフを、
富岡はなにものをも信じていなかったニコライ・スタヴローギンを思わせる。
林芙美子は実はかなり『悪霊』を意識して『浮雲』を書いたのではないか
と思う。坂口安吾や埴谷雄高よりも、林芙美子はドストエフスキーを意識し、
しかもそのことを前二者ほど前面に出さなかっただけのことではなかろうか。
富岡の好きな小説家をドストエフスキーではなくトルストイとしたこともそ
の一つのあらわれと考えられる。林芙美子はドストエフスキーが描く人物よ
り、ある意味はるかに血肉を備えた人物を描くことに成功している。
加野は、黒いパンツを瞼から取り去れないもどかしさで、立って、扇風
機のスイッチを入口へ押しに行った。白いプロペラは、ネヂがきりきりとま
わるとみるまに、ぶうんと唸り始めた。卓上の花が風に強くゆるぎだした。
(190 〈八〉)
戦争の話の後で、作者はこのような描写をしている。戦争に勝つか負ける
かという、言わば日本人にとっては最重要問題を話した後で、作者はゆき子
の〈黒いパンツ〉に心を奪われている加野の内的世界を注視する。加野はゆ
き子に対する情欲を強く押さえ込んで悶々としている。そのもどかしさ、心
の葛藤状態を、扇風機のスイッチを押しに行く加野の行動によって端的に表
している。扇風機の白いプロペラは、「ネヂがきりきりとまわるとみるまに、
ぶうんと唸り始め」る、まさに加野の情欲はスイッチ一つ入れればぶうんと
唸り始めることを見事に表現している。それは加野の悶々とした内的世界の
象徴的光景であると同時に、これから展開されるゆき子と加野の性的関係の
暗示であり予告となっている。
〈九〉章の始めの箇所を見てみよう。
幸田ゆき子はしばらくたっても戻って来なかった。富岡は扇風機の風に
吹かれて、椅子の背に頭を凭れさしたまま眠っている。(190 〈九〉)
加野はゆき子のことで頭が一杯なのに、富岡はゆき子のことなどまるで意
に介していないかのようである。頭を椅子の背に凭れさせている富岡の姿勢
は、彼がすでに自らの思考を停止して、流れるがままに任せているという心
的状態をよく表している。富岡は何かをすでに深く諦めている。後はなるが
ままにまかせるといった感じである。
富岡は扇風機の風に吹かれるままに人生を送り、加野は自分の意志で扇風
機のスイッチを入れたり、止めたりする。加野は未だ自分の人生に期待と希
望を持っており、自分の意志で人生は切り開いていけるのだという思いがあ
る。だからこそ加野は、眠ってしまった富岡を一人食堂において、ゆき子を
探しに戸外へと出ていくのである。
加野が富岡を誘ってゆき子を探しに出て行かなかったのは、彼の内にゆき
子に対する特別な思いがあったからであり、また〈黒いパンツ〉が瞼から離
れなかったこともある。読者は、いわば加野のゆき子に対する妄想を共有し
て、彼と共に戸外へと出ていくのである。林芙美子の描き方は巧みであり、
人物の内的状態を読者にそれとなく共有させながら場面を構築していく。
ヒガンザクラのこんもりした暗い並木のあたりで、夜烏が啼いた。濡れて、
ぴたりと動きがとまったような空だった。淡い燈かげが、樹間にちらついて
いる。山林事務所のすぐ下のほうに、華僑の別荘風な、でこでこした建物が
あった。しばらく人も住まないと見えて、庭は荒れていたが、南洋バラとで
もいうのか、雪のように小さい花をつけた、生垣の中に、かすかに歌声が聞
えた。日本の歌だ。あっ、このなかにゆき子がいるのだなと、加野は芝生の
ほうから這入って行った。虫がしきりに啼きたてている。背中の反った、ゆ
ったりした木のベンチに、ゆき子が腰をかけて、歌っている。(190 〈九
〉)
加野が出て行った戸外の様子が実にリアルに描かれている。読者は加野と
共に「ヒガンザクラのこんもりした暗い並木のあたり」で、確かに夜烏の啼
き声を耳にし、「濡れて、ぴたりと動きがとまったような空」を見るのだ。
こういった描写ができるということは、作者林芙美子がいつかこういった
〈空〉を実際に見たことがあったとしか思えない。
戦争の最中という激動の時代にあって、仏印のダラットは極楽の世界に例
えられていた。いわば、この地だけが時の停止したユートピアを作りだして
いた。この〈ぴたりと動きがとまったような空〉を見たのは、確かにこの叙
述場面においては加野一人であるが、富岡もゆき子も、そして誰よりも作者
の林芙美子が見た空であったに違いない。しかも、「濡れて」という形容が、
実にこの場面に、すなわちゆき子の〈黒いパンツ〉に性的な妄想を膨らまし
た加野が見上げる空に、あまりにも相応しいものとなっている。
こんもりした暗い並木のあたりで〈夜烏〉が啼き、そして、濡れて動きが
とまったような空、とくる。烏の啼き声もまた、この場面に実に効果的な
〈声〉となって響いている。烏に死、病といった不吉なイメージを抱く民族
は少なくない。夜烏の鳴き声は、ゆき子と加野の、やがて訪れる不幸な出来
事の予兆ともなっている。
短い描写だが、林芙美子の描く場面はかなり凝縮度が高く、それは並みの
散文家の比ではない。華僑の別荘風な廃れた建物、雪のような小さな花をつ
けたバラの生垣、こういった異国情緒に溢れた南洋の夜の自然の中で、ゆき
子と加野の〈逢瀬〉の場面が展開される。虫がしきりに啼き、ゆき子はゆっ
たりしたベンチに腰かけて、日本の歌をうたっている。まさに愛する恋人同
士が出会うに相応しい舞台背景であり、人物配置である。はたして、二人の
関係はどのような発展を見せるのか。
2009年6月24日
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