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林芙美子の文学(連載4)林芙美子の『浮雲』について②
林芙美子の文学(連載3)林芙美子の『浮雲』について②
清水正

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林芙美子の文学(連載4)
林芙美子の『浮雲』について②
清水正
林芙美子の文学(連載4)
林芙美子の『浮雲』について②
清水正
林芙美子の代表作『浮雲』とドストエフスキーの『悪霊』の関係に肉薄して
いく。
2009年5月7日(木曜)
『罪と罰』のロジオン・ラスコーリニコフは人間なんてみんな卑劣漢だと
思う。この人間認識はドストエフスキーのなかに拭いがたくあった。この認
識は『悪霊』のピョートル・ヴェルホヴェンスキー、『カラマーゾフの兄
弟』のフョードル・カラマーゾフへと受け継がれていく。
もちろん、ドストエフスキーの作品の中にはキリストを信ずる人物も登場
してくる。『罪と罰』のソーニャ、『白痴』のムイシュキン公爵、そして
『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャなどがドストエフスキーの〈信仰〉
を表明し、体現する者として登場してくる。問題は、ドストエフスキーの内
部に信仰と不信とが不断に同居していたことである。
富岡兼吾は『悪霊』を読んでいて、ニコライ・スタヴローギンの死に方に
多大の関心を寄せている。おそらく富岡はニコライの虚無、なにものをも信
じられないという虚無にも深く共鳴するところがあったであろう。富岡は日
本に妻がありながら、召使のニウーとも肉体関係を結ぶし、幸田ゆき子とも
関係する。しかし、富岡がそのことで苦しむことはない。妻のある者は妻だ
けを愛し続けなければいけない、などという倫理・道徳上の縛りがない。国
家が戦争に突入し、戦地では平然と人殺しが行われているというのに、そん
な倫理や道徳に縛られる方が滑稽であろう。
『浮雲』には戦地での状況はいっさい描かれていず、仏印のダラットはま
るで楽園のような気だるささえ感じる。そこだけがまるで台風の眼のような
真空状態になっていて、その真空と富岡兼吾の虚無とが重なり合っているよ
うにさえ思える。内地に妻があることと召使のニウーと関係を続けることと
が富岡の中で深刻な葛藤を呼び起こすことはない。タイピストの幸田ゆき子
と関係を結ぶことも、いわば成り行きであって、それを絶対に回避しなけれ
ばならないという倫理上・宗教上の縛りなどはまったくない。それはひとり
富岡兼吾に限ったことではない。幸田ゆき子も、ゆき子に好感を持っていた
加野久次郎も同じである。
林芙美子が描く人物はきれいごとの次元で生きていない。男としての、女
としての本能を抑えようとする力を悪として排斥する思いはない。『浮雲』
を読んでいると日本の男と女は、男と女の思いの中で関係を成立させている
ので、そこに罪を発見して厳しく裁く唯一神の影すら落ちていない。富岡兼
吾を責めるのは幸田ゆき子ではあっても決して神ではないし、富岡の良心で
もない。ゆき子が富岡を責めるときも、彼女は自分を神の立場に置いている
わけではない。ゆき子は伊庭杉夫に処女を奪われ、伊庭の妻に発覚されない
ままに三年間も肉体関係を続けていた。作者はゆき子、富岡、伊庭を断罪す
る視点を持っていない。
「その夜のことがあって以来、ゆき子は、杉夫の妻の真佐子に、顔むけの
ならないような気がしていたけれども、ゆき子は、夜になると、杉夫の来る
のが何となく待ちどおしい気がしてならなかった。杉夫は来るたびに、ハン
カチをゆき子のくちなかへ押し込むようにした。美人で、機智のある妻の真
佐子をさしおいて、目立たない自分のような女に、どうして杉夫がこんな激
しい情愛をみせてくれるのか、ゆき子は不思議だった」・・ここには不倫に
対する良心の呵責などというものはない。杉夫が「まるで娼婦をあつかうよ
うなしぐさで」扱ったにしても、そのこと自体にゆき子が我慢のならない屈
辱を感じているわけではない。
作者は「ゆき子が、仏印行きの決心を固めたのも、こうした不倫から自分
を抜けきりたい気持ちで、ことがきまるまでは、伊庭夫婦にも、静岡の母に
も、姉弟にも打ちあけなかったのだ。いよいよ、仏印行きが本当にきまって
から、ゆき子は肉親にも、知らせ、伊庭夫婦にも打ちあけた。杉夫は別に顔
色も変えなかった。/ゆき子は、案外冷たい表情でいる杉夫を盗み見て、心
のなかに噴きあげるような侮辱を感じていたが、自分が伊庭の家を出ること
によって、伊庭の心のなかに釘を差し込むような、気味のいいものも感じ
た」と書いている。
ゆき子という女が侮辱を感じるのは、自分が杉夫のところを離れても、杉
夫がそれほどのショックを感じないことにある。ゆき子は杉夫の〈冷たい表
情〉に、自分の存在価値が貶められたように感じる。ゆき子が居ても居なく
ても関係がないような杉夫の態度に、ゆき子は侮辱を感じるが、真佐子の手
前もあって、杉夫に激しい感情をぶつけることはできない。ここがドストエ
フスキーの人物と違ったところで、ゆき子もまた杉夫の〈冷たさ〉と同等の
冷静さを保っている。
作者は、ゆき子は自分が伊庭の家を出ることで、杉夫の心のなかに「太い
釘を差し込むような、気味のいいものも感じた」と書いた。この表現は面白
い。自分が居なくなることで、相手の心に大きな空洞をあける、というので
はない。太い釘を〈差し込む〉ということは、ゆき子が単なる受け身の存在
ではなく、かなり能動的、攻撃的な存在であったことを示している。
この観点から見れば、ゆき子は杉夫に一方的に処女を奪われたというより
は、杉夫をそのように仕向けたとも考えられる。ゆき子の無言の誘惑の〈
声〉を、杉夫は敏感に察して、家に来てまだ一週間だというのに、杉夫はこ
とに及んだというわけである。ことほどさように、男と女の関係は微妙であ
る。
もし、ゆき子が断固として杉夫を拒む意志があったならば、大声を発して
真佐子に気づかせることになったであろう。ゆき子は杉夫と肉体関係を取り
結ぶことで、妻の真佐子をライバル視することはあっても、自分の犯してい
る不倫の〈罪〉に苦しむようなことはない。ゆき子の言う「不倫から自分を
抜けきりたい気持ち」のなかに、不倫の罪を悔いるという思いは含まれてい
ない。ゆき子は自分の肉体の欲求に忠実な女であって、妻の真佐子と張り合
ってまで杉夫を獲得したいとは思っていないが、しかし面倒を避けられれば
杉夫との関係を続けていてもいいと思っている。
ゆき子が仏印行きの決心をしたのは、杉夫との三年間の不倫関係をひとま
ず清算して新たな関係性のなかに生きようとしたにすぎない。杉夫に対して
激しい執着もないし、殺したいと思うほどの憎悪もない。杉夫は、適当に肉
の欲求を満たしてくれただけの男であったということだろう。
2009年5月8日(金曜)
ゆき子は明け方になって、杉夫の夢を見た。遠い旅に出たせいか、妙に人
肌恋しくて、奈落に沈んでゆくような淋しさになる。ここまで来ていながら、
日本へ帰りたい気がしてならなかった。ハンカチを口へ押しこむ時の、気忙
しい杉夫の息づかいが、耳について離れない。厭だと思い続けていた杉夫が、
こんなに遠いところへ来て、急に恋しくなるのは変だと、ゆき子は、杉夫と
の情事ばかりを想い出していた。きっと、杉夫は淋しがっているに違いない。
ただ、あのひとは無口だったから、別に、こみいったことも言わなかったけ
れども。(176 〈四〉)
惚れたはれた、愛した恋したでは片づかない、男と女の肉の結びつきとい
うものがある。心では憎んでいてもからだが求めてしまう女の性がある。遠
く仏印のダラットに来てまで、杉夫との情事ばかりを想いだしてしまうゆき
子がいる。かと言って、ゆき子は杉夫を求めているというのではない。ゆき
子は〈人肌恋し〉いのであって、極端なことを言えば、自分の性欲と淋しさ
を解消してくれる男であれば、誰でもいいといった思いなのである。
こういった思いにかられているゆき子の前に現れたのが富岡兼吾である。
作者は次のように書いている。
……離合集散の激しい食堂で、窓ぎわの涼しい場所に、いつも変わらない
顔が一人だけあった。ふっと、ゆき子はこの男に注意を惹いた。食事中も、
いつも本を読むとか、新聞を読んでいた。別に、連れがあるらしくもなく、
そこへ腰をかける時間も、場所も、判で押したようだった。色は青黒く、髪
の毛の房々とした、面長な顔立ちで、じいっと本を読んでいる横顔は、死人
のように生気のない表情をしていた。夜になると、どこからか戻って来て、
誰もいない食堂で、ウイスキーの壜を前において酒を飲んでいる。シャフス
キンの半袖シャツを着て、茶色の洋袴をはいているところは、ゆき子には安
南人のようにも見えた。ゆき子は熱があったので、ときどき食堂へ氷を貰い
に行ったが、その男は、いつでも食堂の椅子に膝をたてた、不作法な腰のか
け方で酒を飲んでいた。ゆき子が食堂へはいって行っても、別に、ゆき子の
ほうを注意するでもなく、ゆっくり孤独を愉しんでいるような茫洋とした風
貌をして、酒を飲んでいる。(179 ~180 〈五〉)
サイゴンの宿舎の食堂で見かけた富岡兼吾の外貌と顔の表情には彼の孤独
と虚無がそこはかとなく反映している。ゆき子は富岡の孤独と虚無に敏感に
反応している。富岡は農林省の役人であるが、いわゆる鯱張った役人風では
ない。どんなお固い組織にも、一人や二人は斜に構えた変わり者がいるもの
だが、富岡もまたそういった、組織の中に安息する奇人の一人と見ていいだ
ろう。こういった人間は、組織から独立して生きるほどの野望も覚悟もない
が、組織におとなしく順応する気もさらさらないといった天邪鬼なのである。
ゆき子は遠くかすかに聞こえてくる日本の音楽を聞きながら「何というこ
ともなく、酒を飲んでいる男と話をしてみたい、冒険的な気持ちになって」
くる。ゆき子は杉夫との情事を想いながら、まだ名前も知らない富岡の姿を
凝視している。
男は、何ものにもとんちゃくしない太々しさで、本を読みながら、酒を飲
んでいる。酒を飲むと、肌に赤味がさして、白い半袖からむき出した、すく
すくとのびた腕が、ゆき子の眼をとらえる。三十四五になっているであろう
か。名前も知らなければ、職業も判らないままで、別れるひとなのだと思う
につけ、ゆき子は一人寝の、狭いベッドへ這入ってからも、その男のことが
始終瞼を離れなかった。(176 〈四〉)
ゆき子と富岡の出会いは、ゆき子の眼差しが捕らえた富岡に対する一方的
な思いから始まる。小説でここまで書かれたら、二人の間に何かが起きるの
は当然である。二人の正式な出会いは、高原のダラットの街にある地方山林
事務所においてである。ゆき子が食堂にいると、そこへ偶然にもサイゴンの
宿舎で会った〈あの男〉(富岡)が「さくさくとした足どりで食堂に這入っ
て来るなり、ゆき子を見て、ちょっと驚いたふうで、軽く眼で挨拶をして、
また、さっさと廊下へ出て行った」のである。
『浮雲』を最後まで読んでいる者にとって、この富岡が食堂に這入ってく
る場面は、なかなか奥行きがあって面白い。富岡は妻に日記がわりに手紙を
書いているという、一見〈愛妻家〉の貌をもちながらも、女中のニウとも関
係を持っていた。作者は安南人の女中について「女中はもう三十は過ぎてい
る年配であるらしかったが、眼のきれいな女だった。額は禿げあがり、渋紙
色の凹凸のない顔に、粉を噴いたような化粧をして、ねり玉の耳輪をはめて
いる。彼女は、かたことの日本語を少し話した」と書いている。女中と富岡
の関係を頭においてこういった描写を読むと、久しぶりに富岡に会えた女中
の気持ちがせつなく伝わってくる。
突然、前庭のほうで自動車のエンジンの音がしたので、ゆき子は所長の牧
田喜三がランビァン・ホテルの夕食を終えて戻ってきたのかと思う、「が、
それにしてはばかに帰りが早いと、ゆき子はきき耳をたてていた。女中が走
って出て、甘い声で、ボンソアと庭口へ呼んだ。やがて、男の声で何事か、
ごやごやと話す声と足音がして、ぱっと食堂へ這入って来たのは、サイゴン
の宿舎で会った、ゆき子の注意を惹いていた、あの男であった」・・ここに
は、すでに富岡と肉体関係のある女中と、一目惚れしたゆき子との出会いも
さりげなく、しかししっかりと描きこまれている。
この場面の前の描写もいい。「その夜、ゆき子は、安南人の女中のつくっ
てくれた日本食を、広い食堂で一人で食べた。中央には岩のようなシュミネ
があり、入口近いところにピアノが一台光っていた。のりのきいたテーブル
クロースの白い布に手を置くと、黄色の手が、安南人の女中の手よりも汚れ
た感じだった」富岡と関係のある安南人の女中が、日本から来た若い女ゆき
子の存在に特別の注意を払ったことは間違いない。ゆき子も女の本能で、こ
の安南人の女中に何かを感じたはずである。
特に重要なのは、わたしが敢えて太字にした箇所である。『浮雲』のなか
で、女中ニウの内的世界はまったく描かれなかったが、この描写は『浮雲』
を最後まで読んだ者には衝撃的である。後で詳しく触れようと思うが、要す
るにゆき子の〈黄色の手〉は、〈のりのきいたテーブルクロースの白い布〉
を用意した安南人の女中の手よりも〈汚れた感じだった〉ということである。
※ニウは富岡の子供を生んだが、ゆき子は富岡の子供を自分の意志で堕胎し
たことを忘れてはならない。
2009年6月18日
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