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林芙美子の文学(連載3)林芙美子の『浮雲』について①


林芙美子の文学(連載3)林芙美子の『浮雲』について①

清水正

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林芙美子記念館


林芙美子の文学(連載3)

林芙美子の『浮雲』について①

清水正

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林芙美子の文学(連載3)

林芙美子の『浮雲』について①
清水正

林芙美子の代表作『浮雲』とドストエフスキーの『悪霊』の関係に肉薄して
いく。

2009年5月5日(火曜)

林芙美子がドストエフスキーの作品の何をいつ、どこで、どのように読ん
だのかは詳らかにしないが、『放浪記』には「ムイシュキン様の憤怒絶望」
(417 )という言葉が出てくるから、『白痴』を、『浮雲』には『罪と罰』
と『悪霊』が出てくるから、この三作品は読んでいたと見ることができるだ
ろう。さらに『カラマーゾフの兄弟』も読んでいたと考えられる。しかしわ
たしはここで林芙美子とドストエフスキーの関係を実証的に考察しようとは
思っていない。わたしは『浮雲』を読んだ素直な感想を述べながら、ドスト
エフスキー作品との関連などにも言及してみたいと思う。

かつて坂口安吾とドストエフスキーについて書いたとき、集中して『吹雪
物語』を読んで、この作品がいかに『悪霊』の影響を受けていたかを考察し
た。その時、思ったことだが、坂口安吾は当時、誰よりもドストエフスキー
を読んで研究していた小説家で、ドストエフスキーを必死になって乗り越え
ようとしていた。しかし、坂口安吾は自分の非才を認めざるを得なかった。
彼は自分の才能に絶望し、純文学の筆を折った。小説家であるなら、だれだ
ってドストエフスキーやトルストイの才能を羨望するだけにとどまらず、な
んとかしてその高い山を越えて、自分独自の文学世界を創りあげたいと願う
だろう。

武者小路実篤は『カラマーゾフの兄弟』を読んだ感想を「世界にこんな本
が又とあるかと言いたい。無いに決まっている。驚く驚く」と書いたが、わ
たしなどはこの実篤の言葉に驚いた。余りにも純朴な、何の警戒心もない驚
嘆であり賛美の言葉である。これでは自分の小説家としての価値を自分で無
にしているようなものではないかとも思った。が、実篤にしてみれば、ドス
トエフスキーはドストエフスキー、自分は自分という気持ちがあったからこ
そ、このような真っ正直な感想を記すことができたのだろう。

横光利一は二十歳ばかりの時に『悪霊』を読んだ時にはその偉大さに気づ
くことができなかったが、自らの小説に行き詰まった時に『悪霊』を読みな
おし、文字通り顔面蒼白、ドストエフスキーの凄さにぶちのめされている。
横光の弟子であった寺崎浩は、氏の家を訪れるたびに『悪霊』を読むことを
すすめられたとわたしに語った。

坂口安吾は果敢にドストエフスキーに挑戦し、破れた。『吹雪物語』は出
版社の意向もあり、不本意ながら未完のまま刊行された。読んだ感想は、余
りにも観念的な次元に入り込んでしまったと思った。人物が肉体を獲得でき
ないままに観念的な空回りをしている、といった印象が強かった。

ドストエフスキーの『悪霊』は各主要人物たち・・ニコライ・スタヴロー
ギン、シャートフ、キリーロフ、ピョートル、ステパン・トロフィーモヴィ
チ、ワルワーラ婦人などはもとより、脇役の人物たちも実に生き生きと描か
れている。レンプケー県知事、秘密結社の人物たち、レビャートキン退役二
等大尉、その妹でニコライの正妻マリア、ニコライが恋していたリーザ、リ
ーザに恋していたマヴリーキー、シャートフの妹ダーリヤ、ピョートルの手
下となってマリアを殺害した脱獄囚フェージカなど、誰をとっても彼らは彼
ら独自の個性を存分に発揮している。しかもその舞台では革命、神、汎神論
的な神、ロシアの神、虚無などを巡る激しく深い議論が展開されている。

ドストエフスキーの小説世界は、私小説的な、一義的な視点から捕らえら
れた四畳半的世界とは全く異質な、深くダイナミックなディオニュソス的な
世界である。こういった世界は模倣するだけでも困難である。坂口安吾は果
敢にドストエフスキーに挑戦したが、しかし『吹雪物語』は余りにも一義的
で、観念的な主人公の〈退屈〉だけが全面を覆っている小説に終わった。

林芙美子は『悪霊』を読んだが、『悪霊』を越えようとか、ドストエフス
キー的世界を凌駕しようとかいう野心がはじめからなかったのが良かったと
思う。『浮雲』の設定としては、『悪霊』を読んでいたのは富岡であって、
幸田ゆき子をはじめその他の人物は『悪霊』やドストエフスキーにいっさい
触れない。富岡はゆき子に『悪霊』を話さないし、ニコライ・スタヴローギ
ンの死についても触れない。従って『悪霊』やニコライに関して議論の起こ
りようがない。それがこの作品を成功させていると思う。

『浮雲』という小説でドストエフスキー論や『悪霊』論を展開されても、
おそらく興味深いものとはならなかっただろう。坂口安吾は自分のドストエ
フスキーの読み方などはたかの知れたものだったと書いているが、この言葉
を謙遜と受け取る必要はない。当時、坂口安吾のドストエフスキー理解は、
文芸評論家などよりはるかに理知的であったと思うが、しかし「たかが知れ
たもの」であったことに間違いはない。

『悪霊』の影響を受けて埴谷雄高は『死霊』を書き継いだが、この小説も
実に観念的な思わせぶりたっぷりの小説で、人物たちはだれ一人として肉体
性を獲得していない。『悪霊』では人物たちが血肉を備えて生きているが、
『死霊』では観念の亡霊たちがとりとめのない抽象的な言葉(妄言)を延々
と吐きつづけて止まない。

こういった観念の亡霊にとり憑かれる文学青年たちはいつの時代にも存在
し、作者が拵えたもっともらしい、難しい造語を口真似して、なんだか自分
もその難解な文学の理解者であるかのように錯覚して満足している。『死
霊』は単にこういった難解好きな文学青年ばかりか、職業的な文芸評論家や
編集者にも支持され、一つの時代をも巻き込んた感があるが、わたしは小説
はふつうの誰にでもわかる言葉で構築されなければならないものだと思って
いる。

ドストエフスキーの文学は難解だが、その言葉自体が難解ということはな
い。その意味でわたしは林芙美子の『浮雲』を高く評価する。林芙美子は時
の文学的流行などにはまったく左右されない確固たる信念がある。

『放浪記』の中に次のようなことが記されている・・「私の詩を面白おか
しく読まれてはたまらない。ダダイズムの詩と人は云う。私の詩がダダイズ
ムの詩であってたまるものか。私は私と云う人間から煙を噴いているのです。
イズムで文学があるものか! 只、人間の煙を噴く。私は煙を頭のてっぺん
から噴いているのだ」と。まったく、イズムや観念だけで詩や小説を書いて、
ひとの魂を震わせることはできない。知的、観念的次元のお遊びは所詮、そ
の次元を一歩も超え出ることはできない。

『浮雲』で書かれているのは人間である。包丁で刺せば血が吹き出す人
間である。悩んだり、苦しんだり、喜んだり、しらけたり、退屈したり、人
生に絶望したり、一時の快楽に溺れたり、人を殺したいと思ったり、自殺し
たいと思ったりする人間である。愛しているのに深く憎んだり、憎んでいる
のに離れられずに、いつまでもしつこくくっついていたりする人間である。
自分をどうしようもないロクデナシと感じながら、そのロクデナシの泥沼か
ら抜け出すことのできない男や、そんな男に愛想を尽かしながら、そんな男
だからこそ愛しく思い、離れることができない女、そういった男と女のどろ
どろの関係を余すところなく描き出したのが『浮雲』である。

この世界にきれいごとはいっさいない。戦時中、富岡兼吾は仏印のダラッ
トの農事試験場に林務技官として勤め、そこに日本から幸田ゆき子がタイピ
ストとしてやって来る。富岡には友人から奪って結婚した妻邦子がいて、三
日に一度は日記代わりに手紙を送っている。ゆき子は仏印に来る前、日本で
妻帯者の伊庭杉夫に処女を奪われ三年もの間、密かな関係を続けていた。こ
こにあげた四人だけでも、誰一人として潔癖な人間はいない。富岡は友人か
ら妻を奪った男、その妻は前夫を裏切った女、ゆき子は伊庭と不倫の関係を
続けていた女であり、伊庭は妻がありながらゆき子を愛人にした男である。


2009年6月18日

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