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林芙美子の文学(連載1)・清水正「林芙美子と言えば『夜猿』がすべて」


林芙美子の文学(連載1)
2009年4月12日(日曜)

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林芙美子と言えば「夜猿」がすべて
清水正

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2009年4月12日(日曜)
林芙美子と言えば「夜猿」がすべて

清水正


わたしは中学に入ってすぐに、武者小路実篤の「真理先生」や「馬鹿一」
を読んで、その影響のもとに小説らしきものを書きはじめた。小学生の時に
は家でなにひとつ勉強しない子供で、宿題などはやったことがない。担任の
女教諭が熱心な方で、始業時間前に漢字書き取りのテストを毎日実施して、
その成績を傍線グラフにして教室の後ろの壁に張りつけてあった。子供とい
うのは、こういう戦略に弱いもので、いわゆる勉強のできるいい子たちは、
傍線グラフの高さに毎日一喜一憂していた。わたしはそんな〈いい子〉たち
の背中を見ながら、自分のグラフがどの位置にあったのかさえ記憶にない。
わたしが漢字を覚えたのは、小学校に入る前、母親に自分の名前を教わった
のが最初で、そのことは鮮明に記憶している。なにしろ、勉強をしなかった
子供で、成績はいつも中の下であったが、しかし教師の教え方や、教室で何
を言ったかなどは鮮明に覚えている。わたしの母親は、どんなに悪い成績表
を持って帰っても、そのことで怒ったことはない。「うちの家系はみんな大
器晩成型で、おまえはやればできる」ということだけは耳に蛸ができるほど
きかされた。母親は小学一年の時には、十一番目の末の弟を背負って学校に
通い、二年の途中から他家に奉公に出された。漢字などはぜんぶ独学で学ん
だそうで、わたしが小学生の頃は、毎朝、新聞記事を朗読して聞かせてくれ
た。「わたしも死ぬまでに小説を書きたい」と言っていたから、口に出して
は言えない波瀾万丈があったのだろう。自分が学校に行きたくても行けなか
ったので、子供たちは風邪を引こうが下痢していようが、強制的に学校に行
かされた。おかげで、わたしは小学一年から高校三年まで一日も休んだこと
はない。小学校を卒業する時、母親は学校側にかけあって「皆勤賞」を作ら
せた。わたしはその第一回受賞者となった。副賞に机上国語辞典をもらった。
小説を書きながら、知らない漢字はすべてこの辞書を引いて覚えた。中学の
担任の教諭が生徒たちに日記を書くことを奨励していたので、わたしは毎日
文章を書くようになった。その教諭は実に教育熱心な方で、生徒たちひとり
ひとりの日記を読んでは赤インクで感想を記して返していた。わたしは日々
の出来事を記すというのではなく、その時々に思った様々な疑問を論文形式
で書いていた。「なぜ勉強するのか」「なぜ今日でも奴隷は存在するのか」
などといった記述には感想が記されたが、「時間は繰り返す」を書いて提出
した時点で感想はなくなった。それ以来、日記を提出することもなくなった。

わたしは小学生の頃、漠然とではあったが将来は画家になりたいと思って
いた。六年の時、たまたま入った美術部の担当教諭がピカソの絵をみんなに
見せて、何か話していた。その話をなにも記憶していないが、ピカソの絵、
それは真っ赤なリンゴのような頬をした女のひとの顔であったが、その絵が
強烈にわたしの脳裏に刻印された。一口で言えばショックを受けてしまった。
わたしは描く子供から考える子供になった。なんだろう、なんだろうと思っ
たが、解決のつかないまま、中学に入った。図書館で脚の奇妙に長い象を描
いたダリの絵を見た時もショックを受けたが、しかしそれはピカソの時の比
ではなかった。中学一年の時、ピカソの謎は、とつぜん溶けた。それまでわ
たしが受けていた美術教育は、ある一定の場所を動かずに、対象をいかに忠
実に写し取るか、といったものであった。しかし、厳密に考えれば、描く側
の〈一定の場所〉も、描かれる対象も、常に生成流動する時間のうちにあり、
それはどんなに努力しても絶対不動の位置を獲得することはできない。ピカ
ソの絵は、まさに生成流動する時間に沿って対象を見、描いている。当然、
視点は自在に移動し、描かれる対象も様々な無限の様相をもつことになる。
しかし、ピカソの絵が、見る者に衝撃を与えるのは、そんな描法の理論にあ
るのではない。対象を解体し、再構築する情熱の根源、それは描く対象に対
する果てしのない、破壊的なデモーニッシュな愛である。このキャンバス上
に塗り込められた愛の結実が、見る者の魂を直接的に撃つのである。

わたしは絵描きになることをピカソによって断念し、小説家になることを
ドストエフスキーによって断念した。高校に入ってわたしは同級生の美しい
文学少女から太宰治やケストナー、ニーチェまで教えられた。この少女があ
る時、林芙美子の名を口にした。太宰などを読まずに林芙美子を読みなさい、
そんなことを彼女は父親から言われたということであった。太宰やニーチェ
は娘に危険だが、林芙美子は大丈夫だとでも思ったのだろうか。当時のわた
しは、もっぱら聞き役に回っていたので、美少女の発した言葉を鮮明に記憶
しているばかりで、その言葉の奥を詮索することもなかった。

一年浪人して日芸の文芸学科に入ると、わたしはドストエフスキーにのめ
り込んだ。ドストエフスキー以外の作家で読んだのはアルベール・カミュぐ
らいで、文字通りドストエフスキーにとり憑かれた。大学を卒業して研究室
に残ったその年、母が気にしていた乳房のしこりの検査結果が出た。乳癌で
あった。このことをわたしは母に秘密にした。千駄木の病院で手術した結果
は、すでに癌細胞がリンパにまで回っているということで、余命五年という
診断が下された。担当医師が、母の切断された乳房の肉片を見せながら説明
したが、わたしは目眩がして卒倒しそうだった。以来、本屋で〈癌〉〈が
ん〉〈ガン〉などの活字を目にするだけで目眩がするし、すべての肉類、カ
ップラーメンに入っている細かなメンチ状の肉にも吐き気をもよおした。


2009年4月13(火曜)
大学にティーチングアシスタントとして残ったが、与えられた部屋は学科
事務室の奥であった。わたしは衝立を作ってその中に引きこもり、ドストエ
フスキーを読み続けた。二、三年してからドストエフスキーの読書会を開い
た。集まった学生は大阪の大学を卒業して日芸に入学した者、京都大学哲学
科の受験を二度失敗した者、早稲田大学を中退した者、坂口安吾に心酔する
者など、要するにみな曲者揃いであった。その頃の学生は長髪で髭をはやし、
みなドストエフスキー風の顔つきをしていた。一週間に六日は酒を飲んだ。
酒は日本酒に限り、ビール、ウイスキーなどは飲まなかった。夕方の五時過
ぎから十一時過ぎまで、日本酒をあびるように飲み、ひとりしゃべり、そし
て吐いた。吐くまで飲むのが当たり前だった。

深夜の道に酔いどれてふらつく影法師を目で追いながら、ようやく家につ
くと、母は起きていて、「帰ってこないから眠れない」と言う。母の咳はひ
どく、夜中じゅう止まない。母の苦しい咳を耳にしながら、わたしもまた眠
れない夜を過ごす。病院でもらってくる抗ガン剤は副作用が強く、呑むと目
の中に火花が散ると言って、袋ごと庭にたたきつけたこともある。当時のわ
たしの一ヵ月の給料はすべて母の薬代で消えた。

母の実家に喘息で苦しんでいた従兄弟がいた。結婚もせず、軍鶏を飼って
いたが、彼の目はひとの苦しみや悲しみによく反応する寂しい目であった。
母の癌を知った従兄弟は、森に入ってサルノコシカケを採ってきてくれた。
自転車で一時間もかかる実家からわざわざ運んでくれた。当時、サルノコシ
カケは癌に効くと言われていた。わたしは庭に新聞紙を敷き、ナタでサルノ
コシカケを断ち割り、細かに砕いた。母は縁側に腰掛けて黙って見ている。
こみあげてくる涙を必死に抑え、砕いたものを沸騰した鍋に入れ、さらに煮
込む。茶色の汁をさまして、母に呑ませる。警戒をとくために、まずわたし
が口につける。乾燥した木の香りがするコーヒーのような味に、絶望の味も
潜んでいた。

五年目に入って、千駄木の病院から我孫子の中央病院に移った。あの病院
に入院したら生きて帰ってくることはない、と噂されていた病院であった。
自分の病名も知らされないまま、母は終日ベッドに横たわっていた。わたし
の一日は、新聞のテレビ番組のチェックから始まる。癌、特に乳癌に関する
番組を母に見られないようにするためである。ある日、病室に入っていくと、
母がNHKの教養番組を喰い入るように見ていた。それは乳癌の早期発見の
必要と進行状態などについて説明する番組であった。わたしは最後まで母に
病名を知らせなかったが、左乳房を全摘されていた母がそれを知らなかった
はずはない。注意に注意を重ねて、バラエティ番組を見ていても、そのお笑
い番組の中で末期癌で余命いくばくもない病人を面白おかしく演じる場面に
出くわしてしまうこともあった。病室の空気が鉛になり、息苦しくなる。チ
ャンネルを変えることもできず、そのお笑い番組に耐えなければならなかっ
た。

トイレに行くのに母は五分も十分もかかる。ベッドから二メートルほどの
距離が途方もない距離となる。最後まで体重が落ちなかった母は、癌細胞に
犯された骨で前身を支えなければならず、一歩進んでは立ち止まり、咳込ん
では立ち止まった。母の苦しみをだれも代わってやることはできない。効き
目のない薬を飲み、副作用に苦しみ、しかし確実に死へと向かって進んでい
かなければならない。

わたしは妹と交代で病室に泊まった。相変わらず母の咳は酷く、夜昼関係
なく母はベッドで咳き込んでいる。妹が残していった文庫本を手にする。新
潮文庫「林芙美子傑作集(一)」(昭和四十九年五月十日 四十一刷)を開
くと、そこに「夜猿」という作品が載っている。その題名に惹かれて読みは
じめる。

主人公は若くして結核で死んだ画家の青木繁である。中学校の美術の教科
書に青木繁のの代表作「海の幸」が紹介されていたのを覚えている。読み進
めていくうちに、青木繁の生に対する執念の凄まじさに圧倒される。四百グ
ラムの血を喀いてから数日後、ふっと目を覚ました繁は弟の義雄がそばに立
っているのを目にして「もはや自分の命数がない」ことを知る。

ベッドのそばの台の上には、幾袋も散薬や水薬があったが、繁は時間を
忘れないで、義雄に薬をさいそくした。義雄が散薬をこぼすと、繁は大きい
眼をむいて、「俺を殺したいのかッ」と云って怒った。繁は最後まで、自分
の躯を投げる気はしていない。何とかして、死神の注視からはぐれたかった。
生きたかった。「その薬の包みを捨てるなッ」と云って、繁は紙にこびりつ
いた薬をべろべろと色の悪い舌でなめた。大粒な涙をこぼしながら、「命の
薬なンだ。俺はいま死にたくない。この命の薬を半分もこぼして、俺を不憫
だとは思わないのかッ。ひらってのませてくれ……」泣きながら、痩せた手
を出して、繁は、枕にこぼれた散薬をすくうような恰好をしていた。

ベッドからは絶え間なく母の咳き込む声が聞こえる。

わたしが泊まりの病室の控えで夜中にやっていたのは、ドストエフスキー
の作品「おかみさん」論の清書であった。いったいだれが、ドストエフスキ
ーの「おかみさん」など読んでいるのだろう。いったい、だれがわたしの
「おかみさん」論などを読むのだろうか。母がいつ死ぬかわからない、そん
な時にわたしは唇を噛み、途方もない無念を胸に、ただただ二百枚以上も書
いた「おかみさん」論をひたすら清書していた。

めったに顔も出さなかった担当の医師が、わたしを呼んで、いよいよ母の
絶命が近いことを告げた。わたしは病室を抜け出し、庭に出て、遠くの方を
眺めた。コンクリートで固めた白いマンションの建物が揺らいでいた。とつ
ぜん涙がこみあげてきた。こんなに涙が溜まっていたのかと、不思議に思い
ながら、わたしは泣いた。強固なパリケードのはずだった自意識の網の目か
ら、涙はとめどなく流れた。ふと、泣いている場合ではないという意識がた
ちあがり、強制的に涙を止めた。何事もなかったかのように、ふつうの態度
で病室に戻らなければならない。

母は三人の息子を亡くし、四男坊のわたしを長男として育てた。わたしの
心の内など、すべてお見通しであったはずだが、わたしが嘘をつき続けたよ
うに、母もまた自分の心に嘘をつき続けた。わたしは母の目を見ることがで
きなかった。母もまた、わたしの目を見ることはなかった。意識を失い、ベ
ッドに横たわった母のからだに跨がり、蘇生術を施してくれた看護婦を、わ
たしは固まったまま見つめることしかできなかった。

2009年4月14日(火曜)
医師は母の死を告げると黙って病室を出ていった。看護婦は母のからだを
きれいにすると、衣服を整え、死化粧をほどこしてくれた。背の低い、小太
りした、決して美人ではなかったが、わたしは彼女が天使に見えた。
寝ずの看病が何日か続き、疲労困憊、母の遺体が家についた夜、わたしは
正体もなく眠りに落ちた。翌日の夜、母の実家からひとが来て、昨夜、実家
の裏の竹林に大きな魂が浮遊し、ゆっくり家のまわりを飛んでから姿を消し
たということであった。母が死んでから、その姿を見たという者は他にもい
たが、わたしの前に母が現れることはなかった。


2009年6月16日

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