ホーム > マンガ論 > マンガ論第十回講義





マンガ論第十回講義


CIMG4657.JPG

 今日は、学生たちに手塚治虫のマンガ『罪と罰』を読んで感想を書いてもらった。マンガ自体がかなりのページ数であるため読むだけでも大変だったと思う。先入観なしでの感想だったので、それぞれ自由な受け止め方ができただろう。特にラスコリニコフの「天才について」の論文に関する感想が多く見られた。来週はこの『罪と罰』の解説をする予定である。乞うご期待。

 <お知らせ>

 7月14日の授業中に試験を行います。持ち込み可能のテキストは『増補版・つげ義春を読む』、『日野日出志を読む』、『「マンガ論」へようこそ』の三冊です。まだ持っていない人は早めに用意をして下さい。


【学生の声】

 手塚治虫の「罪と罰」を読み、私の中で最も印象に残ったのはラスコリニコフの「天才について」という論文であった。私は矛盾した考えを持っている。それは、「神はいないが神に選ばれた人間はいる」というものだ。ソーニャのように、祈れば神が救ってくれるとは思えない。存在するという確かな証拠のないものを、何故信用できるのか。そんなものを心の支えにして、何になるというのか。それならば、己の力で道を拓く努力をした方がはるかに人間らしいと思う。しかし、神に選ばれたと思えるような人間はたしかにいる。それが「天才」である。彼らは、たしかに「ふつうの人」とは違う「何か」を持っており、それは育ち方や人格の形成など、外的要因からの影響によって生まれるものではない。そして数少ない「天才」たちは、世界全体のトップに立った神の如く、己の手の届く範囲の世界で思うままに新しい「世界」を作り出していくのだ。
 ラスコリニコフは、自分のことを「天才」だと思っていたのだろう。私の目には「天才になり損ねた天才」とうつった。自分自身を「天才」と頭で考えた時点で、その人はすでに「天才」ではないのではないか。スビドリガイロフは、自分が他のものとは違う、格上の存在だと思っていた。それをラスコリニコフに指摘され、お前もただの人間だと言われた時、彼は心中動揺しただろう。自分が制裁する権利など持たない、ただの人間ではないか、という迷いが生じたから、ラスコリニコフを殺せなかったのではないか。
 この二人が向き合うシーンでは、ラスコリニコフは「天才」であるように見えた。そして、自分を英雄だと思っている奴の中に自分自身も含まれていたと知り、そして彼ら「ふつうの人」が自らを英雄と思い込み勝手なことをやっていると、憂いていたところは、まぎれもなく「天才」であると見えた。だが、偽りの「天才」で埋めつくされ、新しい世界に生まれ損なった広場で、彼の叫びは誰にも届かなかった。金貸しのばぁさんをシラミだと見下し、殺したというそれだけのことで英雄気取りであったラスコリニコフは、どう見ても「ふつうの人」である。しかし、彼はその「罪」とその後の「罰」を通し。たしかに「天才」へとなったように見えた。時代により、ちっぽけな「天才」が見過ごされ、広場を去っていく後ろ姿に、私はどうしようもないさみしさをおぼえた。(文芸学科1年 柴田暁人)
 

 この「罪と罰」の漫画では、残酷な出来事が、まるでたいしたことがないように、むしろおもしろい出来事のように描かれている。例えば、マルメラードフの事故死では、マルメラードフはただぺしゃんこになっているだけだし、手塚治虫の絵柄がかわいいだけに、尋問するところも暴力がポップに見えてくる。これは、手塚治虫が、漫画は子供が読むものだと子供に読ませる為に、こんなポップな表現にしているのだろうが、私にはそれが逆に残酷に思えた。ほぼ血もでてこない。お通夜ものん気なものだし、実際だったら大きなケンカであろうこともおもしろおかしい。これは私は、私たちの日常がそうであることを示しているのではないだろうかと思った。例えば、いじめは、いじめている方はこの漫画の印象と同じようにおもしろおかしいのかもしれないが、実際は残酷である、というように。それを逆説的に示したかったのではないだろうかと思った。でもそんな中で、最後の暴動の描写は、人が簡単に倒れ、人々がそれぞれ関係のないことを叫び、めちゃくちゃになっている様子は、本当の暴動を再現しているように見えた。そんな中で「羽田へ行く道路は全部シャットダウンだ」などと設定を完全に無視した言葉もとんでいて、中央で主人公が地面にキスをしている。この2ページはまるで世界の縮図みたいだとも思った。これは文学としての文字だけでは絶対に描けないものだと思った。(演劇学科2年 大野香織)
           

 どうにも物足らない、というのがまず第一の感想である。この罪と罰が子供の為に描かれたものは分かっているが、だからといってそれで内容をおろそかにしていいということにはならない。子供は娯楽というものに対し、大人よりもはるかに厳しい感覚を持っている。面白ければ面白い。つまらなければつまらない。それ以外の言葉を何一つとして必要としない子供の評価を勝ち取ることは下手な批評家の眼鏡にかなうよりもはるかに難しいことだ。私が読んだ限り、この作品が子供達の評価を勝ち取れなかったのは当然だと思う。そもそも人殺しの話の時点でどうやってそれを子供向けにするのだろうか。無論、青ひげのような猟奇殺人を題材にした童話もある。だが、あれはあくまで怖い話に属するから成立するのであって、罪と罰のラスコーリニコフはまるで怖くない。そもそもあの絵柄では彼が殺人を犯したという事実がまるで伝わってない。せいぜい叩いたが関の山である。そういった点から、この作品はそもそも基本構想からして失敗であるといわざるを得ない。一体どうして罪と罰を時計仕掛けのりんごのようなリアルな絵柄で描かなかったのか。その方がはるかに読める作品になっただろうに。この点に関しては実にもったいないことだと思う。
 内容に関して言えば、作中で語られるラスコーリニコフの思想の一つである、罰は天才が作るが故に天才に罰は来ないという考えには改めて感銘を受けた。実際にこの考えは神というものに対し人が向き合う際にも応用可能である。神は全能であるが故にその是非を問うことは人にはできない。この事実に直面する度、私はとてつもない無力感を感じる。しかし、先人たちはこれを己が糧とし、いつか神さえ踏破せんと各々の道を進んでいったのだろう。ならば私も弱音など吐いている場合ではない。私の道は私の死を以って終着に至る。ならばその時まで、ただひたすらに突き進むのみである。おそらくはその先に報いはない。(文芸学科2年 山下慧)

2008年06月24日

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.shimi-masa.com/mt/mt-tb.cgi/1166

コメント

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたとがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)