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清水正の遠藤周作論(3)「遠藤周作とドストエフスキー」


遠藤周作とドストエフスキーの関係については、加賀乙彦が「遠藤周作さんと私」(「新潮」一九九六年十二月)の中で「いつだったか「ぼくはドストエフスキーが嫌いでね、面倒くさくて終りまで読めないよ」と言われたことがある。私は驚いてやぼな反論だったが、「そうですかね。あんなに面白い小説はないと思いますがね」と言った。そういうとき、論争をせずに黙ってしまうのが遠藤さんの常だった」と書いている。弟子の加藤宗哉は「わが師 遠藤周作」(「小説新潮」一九九六年十一月)で、遠藤周作が「人生の苦悩を一身に背負った感じの、いかにも文学青年といったタイプは苦手なんだ」と言っていたことを書いている。

 遠藤周作はドストエフスキーもドストエフスキー好きの文学青年も嫌いであったのかもしれない。しかし、遠藤周作が神の存在をめぐって生涯を苦しみ抜いたドストエフスキーを意識していたことに間違いはない。

 遠藤周作にまとまったドストエフスキー論は一編もない。ただ河出書房版ドストエーフスキイ全集の月報に寄せた「ドストエーフスキイと私」の短い一文があるのみである。彼は次のように書いている。

 残念なことには今の私はドストエーフスキイのいかなる作品を読んでも一読者としては圧倒されるだけで終り、そのために原稿用紙を拡げたくなることはなくなった。それはロシアと日本の精神風土や世代や環境の違いということもあろうが、正直いえば「歯がたたぬ」という感じがするからである。私にはシベリア流刑のような経験もないし、それに何よりも死刑台に並ばされて、その直前で救われたという怖ろしい経験もない。『カラマーゾフの兄弟』や『悪霊』のような根源的な観念をまるで核の分裂のように吐きだせる人物を今の私の力倆ではとても、創作できるとは思えない。

  二十年近く前にリヨンにいた頃、むし暑い夏休み、私は仏訳で『悪霊』を読んだことがあった。学生時代、米川正夫氏の訳でこれも河出書房版のドストエーフスキイ全集を拡げて以来の経験であった。その時『悪霊』のなかの「スタヴローギンの告白」に眩暈のするような感動をおぼえ、『白痴』のうまさに舌をまいた。学生時代は訳もわからず、義務のようにめくっていた頁が、改めて新しい光をあてられたような気持ちだった。小説技術的にも何とすごい作家だと思った。

  その時はいつか、自分もドストエーフスキイのような小説を書くべしと思った。しかし、思えばそれは、こわいもの知らずであった。以来二十年、私ができたのは、結局、私の理想的人物を描いた作品に『白痴』からヒントをえた『おバカさん』という題名を与えたぐらいであった。

  だからと言って、私がドストエーフスキイの作品と無縁だというのではない。リヨンの夏休みに「スタヴローギンの告白」を読んで以来、あのような小説を書きたいという気持ちはやはり心の奥に燻っているようだ。しかし、まだとても手をだせない。私も多少は小説家なので、その怖さと自分の力倆を知っているからである。

(『遠藤周作文学全集13』(54~55頁)。初出は河出書房新社刊『ドストエーフスキイ全集』月報 一九六九年八月)

 日本の小説家でドストエフスキーを読んで「これぐらいの作品なら俺にも書ける」と思った者がいるのだろうか。若い頃からドストエフスキーに心酔し、研究会まで作った坂口安吾は『悪霊』に影響されて『吹雪物語』を書きはじめたが、途中、自分の才能に絶望して中断を余儀なくされた。横光利一もまた『悪霊』に圧倒された小説家である。わたしは日本の小説家の中では特に三島由起夫と遠藤周作がドストエフスキーをかなり意識して、直接的な発言を控えていたと見ている。日本の小説家の大半はドストエフスキーを読んではじめから「歯がたたぬ」と思っているのではなかろうか。「こわいもの知らず」の青年時代はともかく、ドストエフスキーの〈怖さ〉と〈自分の力倆〉を知っている小説家は、口が裂けても「ドストエフスキーを越えた」などとは言わないだろう。

 遠藤周作は正面切ってドストエフスキーと戦う途を回避して、『真昼の悪魔』のようなエンターテインメントの作品において『悪霊』をとりあげている。本書で指摘したように『真昼の悪魔』の女主人公の『悪霊』の読みは浅く、作品自体も『悪霊』に遠く及ばない。わたしは『真昼の悪魔』論で遠藤周作の小説よりは、再読した『悪霊』やカミュの『異邦人』のすばらしさに改めて感動した。純文学とエンターテインメントを書き分けた小説家・遠藤周作の姿勢そのものを問いたい気持ちにもかられた。

2004年08月19日

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