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大森政秀の「ぎりぎりす」(アンモナイト)を観る


2004年7月3日(土曜)


舞踏の神にすべてを捧げ尽くした大森政秀

【清水正】
大森政秀の公演タイトル「ぎりぎりす」に何かただならぬものを感じて、七月二日、中野テルプシコールへと足を運んだ。公演前にこんなに緊張したことはない。やたらに喉が渇き、水を飲んだ。一番前の席につき、大森政秀の出番を待った。わたしの正面の壁には一本の立ち箒が置かれていた。壁の六箇所にビニール袋がとめられ、室内のかすかな風に揺れていた。舞台の右端に大きな手作りのアンモナイトが置かれていた。舞踏手が現れるまでの十数分、わたしはこれらわずかなモノを通して想像力の限りをつくすことになる。立てかけられた箒、風にかすかに揺らぐビニール袋、舞台の隅にうちすてられたアンモナイト……大森政秀はこれらとどのように絡み合うのか。


 思えば、大森政秀の公演を一番前の席で観たことはない。しかしこの日は眼前に舞踏手の姿を見たかった。午後七時十五分、大森政秀は入口のドアからその姿を現した。わたしは首を極端に左に傾け、その姿を凝視した。黒いズボンをはき、白いワイシャツを着込んで、舞踏手は入口から徐々に舞台へと進み出る。白塗りされた顔、手と足。一点を凝視して動かぬ目、その目は何かにとり憑かれたもののようである。足の指、一本一本に緊張が漲り、まるでその一本一本が独立した生き物のように動いている。黒いズボンに白い粉がつき、足や腕に茶色の線が塗られ、右手首に赤いゴム紐が結ばれている。眼前に見なければ見落としてしまう細かい演出である。とつぜん舞踏手は体から力を抜いて舞台を何周かする。緊張の極からの弛緩……しかし観客であるわたしに弛緩はない。舞踏手の弛緩においてすら、観客の緊張が崩れることはなかった。この日の大森政秀の舞踏に微塵の無駄は
なく、終始一貫した緊張の持続があった。

 第二場は幅広の黄色の帽子を被り、黒いドレスに身を包んだ大森政秀が左手の暗幕から現れる。ドレスを着た大森政秀の体全体に異様な緊張感が漲っている。男が女装するとはどういうことか。内なる女性と一体化しようとする衝動に身をまかせることか。源初の混沌から立ち上がったモノが舞台に現れたといった感じである。大野一雄の女装の姿には罪深い人間の深淵と同時に底知れぬ抱擁力を感じるが、大森政秀のそれは破壊的なエネルギーを内包した挑発的、挑戦的なものを感じる。女装の舞踏手は宇宙の核心の〈玉〉を蹴り上げ遊ぶ両性具有の道化とも見えるが、この何ものかにとり憑かれた道化こそは自らの出生を求めて彷徨う者でもある。

 アンモナイトは世界そのもの、宇宙の核心であり、命そのもの、女装の道化を産み落とした母なるものである。舞踏手はアンモナイトを愛撫し、その根源にもぐり込もうと頭を入れる。宇宙の命、根源的なる一者との合一、母胎回帰の試み、それは成功したかに見えるが、徹底して挫折したかにも見える。が、その試みに焦りは見られない。一種の深い断念を感じる。断念を内に潜め、宇宙の根源に合一化しようとする舞踏手の試みは、道化の仕種を限りなく逸脱して幼児の無垢を獲得し始める。アンモナイトの傍らに横になった舞踏手の寝姿には束の間の至福の時空が訪れる。しかし、そのまま永遠の眠りに落ちることはできない。舞踏手は再び立ち上がり、世界の中で狂おしく舞うて見せなければならない。額に浮かぶ汗に赤い涙が混じっているようにも見える。

 女装の舞踏手は宇宙のはぐれ者であるかのように舞い、蹴り、駆け、横たわり、抱きしめ、慟哭する。それら一連の舞いを通して舞踏手は自らの命の根源を問う。この世に誕生したすべての者がどこから来てどこへ行くのかを知らない。ただ漠然と、生の終わりは命の根源(カオス)へと戻るだけだという思いにかられることがある。しかし、アンモナイトの渦巻きを指でなぞって遡ってみても宇宙の根源に合体できるわけではない。アンモナイトを丸ごと抱えてだきしめてみても、母胎回帰がかなうわけでもない。母胎の宇宙で胎児の真似事を演じてみても所詮は徒労の行為に終わる。とり憑かれた舞踏手の姿に深い断念があり自意識の渦がある。

 大森政秀の舞踏に大野一雄に見られる歓喜はなく地獄はない。どろどろの底無しの沼から立ち上がってくる天使の姿もかいま見えない。しかし、今回の舞踏公演に大森政秀の〈祈り〉が見えた。自らの存在をキリストに擬して、あまたの人間を救いとろうとする、そんな人工的な祈りではない。自らの存在を救いとろうとする、まさにぎりぎりの祈りである。わたしはかつて大森政秀は自力志向の舞踏手だと指摘したことがある。彼の舞踏は計算されつくしており、一見、即興に見えるそれは実は予め緻密に計算された演出であったりする。もちろん今回の公演も基本的には同じであろう。しかし、何かが違う。緻密に計算された動きの微少な隙間を縫って立ち上がってくる何かがある。わたしはそれを〈祈り〉と感じた。もし大森政秀が〈祈り〉を予め計算の内に入れていたなら、わたしの心を動かすことはなかったろう。まさに祈りは計算の外からやってきた。その舞踏手の祈りにわたしの祈りが合致した瞬間、わたしの心が震えた。

 女装の舞踏手が舞台から姿を消し、しばし闇が覆った。闇こそ豊穣、光は闇の落ちこぼれと見るわたしの内で、今回の公演はこれで十分によかったと思った。第三場があることは容易に予想できたが、わたしは闇の中で心地よい沈黙の中に居た。

 かつて大森政秀の舞踏を観に来て、闇と音響を満喫したことがあった。極端なことを言えば、大森政秀の舞踏がいらないほど闇と音響が突出していた。が、今回、第一場において音響はなく、大森政秀の沈黙の舞踏のみで舞台に緊張を漲らせていた。舞踏に音響はつきものと思っていたが、今回、大森政秀は音響なしの舞踏において異様な〈沈黙〉の音を奏でていた。第二場、女装の大森政秀は言葉を発した。わたしは初めて公演中の大森政秀の声を耳にした。今まで舞踏において舞踏手の声を聞くことはなかっただけにある種の衝撃を覚えた。叫び、凝縮されたため息、詩の言葉のようにも聞こえたが、その声には何とも言えぬ憤怒と呪いと悲しみが込められていた。希望と無念と絶望が一本の鋭い槍となって中空に吐きだされた。この呪いと憤怒と悲しみの声に胸をえぐられる思いであった。

 闇の時空をこじ開けて第三場が始まった。全裸にエプロンだけを身につけて舞踏手は登場した。すこしコミカルな感じの衣装による舞踏であるが、緊張は持続している。第一場ですぐに感じたが、今回の大森政秀の体はしぼりにしぼった体とは言いがたかった。エロプン姿で観客に後ろを見せれば、舞踏手の体つきは一目瞭然である。が、多少肉のついたその体に、一部の隙も感じさせない精神の張りが漲っていた。弘田三枝子の「人形の家」が小屋全体に響きわたる。今、大森政秀は〈舞踏手〉という〈人形〉を舞いきって、そのすべてを〈あなた〉に捧げつくした。〈あなた〉とは〈暗黒舞踏〉であり〈舞姫〉の霊と感じた。白塗りの顔はまるで水を浴びたように汗と涙で濡れていた。

 土方巽、大野一雄、二人の巨大な暗黒舞踏家の後を継ぐ者はいないのか。土方巽は土方巽、大野一雄は大野一雄、彼らの舞踏は一代限りのものである。わたしは『土方巽を読む』の中でそのように書いた。わたしはすでに暗黒舞踏は終焉を迎えたのだとすら思った。

しかし、今回、大森政秀の舞踏にわたしは静かに感動していた。大森政秀は大森政秀の舞踏の形を完成したかに見える。この〈完成した形〉を深化させることが今後の大森政秀の課題となろうが、そんなことより何より、今、大森政秀が〈ぎりぎり〉の地点で自分の舞踏を徹底させたことに心動かされたのである。

2004年7月 8日

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