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『城の崎にて』を読む(1)
『城の崎にて』は「山の手線の電車に跳飛ばされて怪我をした、その後養生に、一人で但馬の城崎温泉へ出掛けた」で始まる。年譜を見ると、志賀直哉が山手線に跳ねられ重傷を負ったのは大正二年八月である。年譜の記述といい、この小説の書き出しといい、実にあっさりと書かれているので、ああそうかぐらいにしか思わないのであるが、改めて考えて見れば、山手線の電車に跳飛ばされたということは、言わば人生における大事件である。死ななかったのが逆に不思議なくらいである。
『城の崎にて』は大正六年五月に「白樺」に発表された。志賀直哉は大正四年九月に京都から我孫子の弁天山に移り住み、大正五年六月に長女慧子をもうける。慧子は生後五十六日で病死する。つまり、『城の崎にて』は自分自身の〈怪我〉から四年、長女の〈死〉の翌年に書かれた作品である。とりあえずわたしは、この二点を念頭に置いて『城の崎にて』を見ていきたいと思う。
背中の傷が脊椎カリエスになれば致命傷になりかねないが、そんな事はあるまいと医者に云われた。二三年で出なければ後は心配はいらない、とにかく要心は肝心だからといわれて、それで来た。三週間以上・・我慢出来たら五週間位居たいものだと考えて来た。
頭は未だ何だか明瞭しない。物忘れが烈しくなった。然し気分は近年になく静まって、落ちついたいい気持がしていた。稲の穫入れの始まる頃で、気候もよかったのだ。(24)
抑制のきいた文章で、この叙述からは作者の不安や脅えの声は聞こえてこない。しかし「脊椎カリエスになれば致命傷になりかねない」という医者の言葉が作者の内部に刺のように突き刺さっていたことは確かであろう。〈死〉の不安を抱えていた志賀直哉は、自らの死ではなく、長女の死に立ち会わなければならなかった。『和解』に詳しく描かれた赤子の死は余りにも悲しすぎる。『和解』を読んでわたしは涙したが、志賀直哉の描写に微塵の感傷もない。彼の眼差しは自分のかけがえのない子供の死を描くにあたって冷徹である。事実が描ければコメントはいらない。小説家が自作の中で説明を展開するのは最悪である。事実の持っている重さの前に跪拝する姿勢がなければ描写はリアリティを持たない。志賀直哉はキリスト教の神からは離れたが、この世界の事実をそのままに受け入れる小説家としての謙譲さは捨てていない。創造者が造った〈世界〉の事象を〈写〉しとり、〈描〉く、小説家が出来ることはそれ以外のことではない。志賀直哉はそう言っているように思える。ここに引用した文章でまず指摘しておきたいのは、主語が完璧に省略されているということである。〈私〉なのか、〈彼〉なのか、〈彼女〉なのか、とにかく主語のない文章である。主語がなくても読めてしまうのが日本語である。わたしたち読者は『城の崎にて』を読みながら、主語がないことに不自然を感じることはない。むしろ主語が省略されていることで、かえって文章にしまりが出てくる。要するにこういった文章はいい文章として高く評価される。
2004年7月 1日
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