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2004年7月 アーカイブ

2004年7月 1日

野沢尚先生の死を悼んで

【学生による寄稿追悼文】

nozawa350.jpg


伊丹十三の自殺が報じられてから六年半が経った。当時、その原因についての記事が世間に多く出回った。だが、結局、その真相はわからなかった。今となっては、溢れかえる情報という闇の向こうに葬り去られたが、伊丹の死はまだ形を変えながら僕の胸の中に生き続けている。最近では、佐世保の事件が話題となった。やはりその原因も定かではない。しかし、一部報道によると、少女の狂気性によるものだということである。マスコミをとおして、原因不明の出来事にあたかも関連のありそうな事柄を報道される。すると、それが人々の間に真実として認識される傾向があるのだ。少女が「バトルロワイアル」を愛読していたといったことなどがそれにあたる。何も知らない視聴者は、事件とその事柄を無意識のうちに因果関係で結びつけることになり、間違った人物像を不特定多数の人たちが共有することとなる。それはとても危険なことだと思う。

自殺をする人間は、やはりそれだけの人間だ。このことは、ずっと思い続けていたことであるし、今もまだ変わらない。ただ、ヒトという動物は、本当に未知なる生き物だと思う。「死人に口なし」という言葉があるように、まさに今回の野沢尚の死は全くもって謎であり、今後も決して解明されることはないだろう。この先、マスコミによって多くの推測が世間に出回ることになるはずだ。長くなってしまったが、言いたいことは一つ。どうか、マスコミの流す情報を鵜呑みにしないで欲しい。間違った野沢尚を作り上げないで欲しい。

原因が何にせよ、野沢尚の自殺は本当に残念でならない。

(中原崇・大学院博士前期課程文芸専攻一年)


、ス、ホテヒ。「カァヒス、ヒ、ト、ュ

 


野沢氏の講義は、立ち見も出て、ぎっしり埋まった教室での、刺激的な体験だった。
よどみない口調で、ストレートな熱い授業を展開する野沢氏からはとても「毎日ひとりで仕事場に籠って黙々と作品を書き続ける人」といった感じがしなかった。執筆に取りかかる前、プロットができた段階で関係者にプレゼンテーションをするから、人前で話をするための術は心得ているとのことだった。

自身の作品に、確かな自信を持った人だった。
別冊宝島「シナリオ入門」のQ&Aだったと思う。ご自身の最高傑作は? とのクエスチョンに、「たけし監督が手を入れる前の『その男、凶暴につき』」とのアンサー。すげえ、と思った。
脚本は、スタッフ含めて二百人位にしか読んでもらえないので小説を書き始めたという。小説でも脚本でも、まずなによりその天才的な構成力に圧倒された。理系のものすごいエリート、みたいな頭脳を持ってるんだろうなと思った。木村拓哉氏に「化学の先生みたい」とその性格や風貌を指摘されたという。確かにそんな感じがした。
半年ほど前、月刊「ドラマ」誌に、野沢尚氏から倉本聰氏へのあからさまな挑戦状めいたものが載った。かっこよかった。ただ、自分は三谷幸喜氏に及ばないだろう、とも、そこにはあった。「あれ?」と思った。

日芸での野沢氏の講義のあと、一時間ほどお話をさせていただく機会を得た。
ギラギラした目をしていらっしゃった。すこし怖かった。なんか、四十二歳(当時)には見えなかった。日々、精神的に肉体的に消耗しながら、これだけたくさんの作品を生み出し続けてこられたのだろうと思った。時間を無駄にしない人、という印象を受けた。

 ご冥福をお祈りします。
 

(五十部裕明・文芸学科三年)


作品を残すことは自分が生きていた軌跡を残すことだ。
野沢さんがこの言葉をおっしゃった時、こころに響きました。ご冥福をお祈りいたします。

                                     

(岩城良和・文芸学科三年)

彼を知ったの『眠れる森』だった。母に薦められるまま観て、すごいと思った。謎を一枚一枚剥がすように明らかにしていく計算された巧さ。ミステリーが面白いとそのとき初めて知った。「脚本家 野沢尚」は以来ドラマを観るときの基準になった。だから会えたときは、なんと言えばいいのだろう、感動した、うれしかった、泣きそうだった、言い方はいくらあれど表現しきれない。授業内容や、握手をしてもらったことはいまだに鮮明で、これからもちょっと忘れられそうにない。

 彼の訃報に接した日、我が家の辺りは虹が出ていた。テレビ眺めていたら、「野沢尚自殺」と不意にテロップが出た。とっさに未遂だと思った。そして詳細をアナウンサーが読み上げたがどれも嘘っぽく、現実ではない気がした。翌日、彼と次回作の打ち合わせを七月七日にする予定だった人がテレビに出ていた。そこでようやく彼の死を理解した。死ぬということは、もう次の作品はないということだった。『眠れる森』で感じたような高揚感や次回が楽しみでしかたない気持ちを私はこの先感じることが出来るのだろうか。

 ご冥福お祈り申し上げます。 

(鈴木香奈・文芸学科在学中)

 六月二十八日、野沢尚先生が他界されました。
 衝撃を受け、しかし、私は中沢けい先生がおっしゃられた言葉を思い出します。
 「小説のすごいところは、故人とコラボレーションができることなのよ」
 本当にその通りだと思います。
 文面で恐縮ですが、お悔やみ申し上げます。
 
                            2004年7月1日 

                                   

 (渡邉倫子・文芸学科在学中)

野沢尚先生の死を悼んで

【学生による寄稿追悼文】

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伊丹十三の自殺が報じられてから六年半が経った。当時、その原因についての記事が世間に多く出回った。だが、結局、その真相はわからなかった。今となっては、溢れかえる情報という闇の向こうに葬り去られたが、伊丹の死はまだ形を変えながら僕の胸の中に生き続けている。最近では、佐世保の事件が話題となった。やはりその原因も定かではない。しかし、一部報道によると、少女の狂気性によるものだということである。マスコミをとおして、原因不明の出来事にあたかも関連のありそうな事柄を報道される。すると、それが人々の間に真実として認識される傾向があるのだ。少女が「バトルロワイアル」を愛読していたといったことなどがそれにあたる。何も知らない視聴者は、事件とその事柄を無意識のうちに因果関係で結びつけることになり、間違った人物像を不特定多数の人たちが共有することとなる。それはとても危険なことだと思う。

自殺をする人間は、やはりそれだけの人間だ。このことは、ずっと思い続けていたことであるし、今もまだ変わらない。ただ、ヒトという動物は、本当に未知なる生き物だと思う。「死人に口なし」という言葉があるように、まさに今回の野沢尚の死は全くもって謎であり、今後も決して解明されることはないだろう。この先、マスコミによって多くの推測が世間に出回ることになるはずだ。長くなってしまったが、言いたいことは一つ。どうか、マスコミの流す情報を鵜呑みにしないで欲しい。間違った野沢尚を作り上げないで欲しい。

原因が何にせよ、野沢尚の自殺は本当に残念でならない。

(中原崇・大学院博士前期課程文芸専攻一年)


、ス、ホテヒ。「カァヒス、ヒ、ト、ュ

 


野沢氏の講義は、立ち見も出て、ぎっしり埋まった教室での、刺激的な体験だった。
よどみない口調で、ストレートな熱い授業を展開する野沢氏からはとても「毎日ひとりで仕事場に籠って黙々と作品を書き続ける人」といった感じがしなかった。執筆に取りかかる前、プロットができた段階で関係者にプレゼンテーションをするから、人前で話をするための術は心得ているとのことだった。

自身の作品に、確かな自信を持った人だった。
別冊宝島「シナリオ入門」のQ&Aだったと思う。ご自身の最高傑作は? とのクエスチョンに、「たけし監督が手を入れる前の『その男、凶暴につき』」とのアンサー。すげえ、と思った。
脚本は、スタッフ含めて二百人位にしか読んでもらえないので小説を書き始めたという。小説でも脚本でも、まずなによりその天才的な構成力に圧倒された。理系のものすごいエリート、みたいな頭脳を持ってるんだろうなと思った。木村拓哉氏に「化学の先生みたい」とその性格や風貌を指摘されたという。確かにそんな感じがした。
半年ほど前、月刊「ドラマ」誌に、野沢尚氏から倉本聰氏へのあからさまな挑戦状めいたものが載った。かっこよかった。ただ、自分は三谷幸喜氏に及ばないだろう、とも、そこにはあった。「あれ?」と思った。

日芸での野沢氏の講義のあと、一時間ほどお話をさせていただく機会を得た。
ギラギラした目をしていらっしゃった。すこし怖かった。なんか、四十二歳(当時)には見えなかった。日々、精神的に肉体的に消耗しながら、これだけたくさんの作品を生み出し続けてこられたのだろうと思った。時間を無駄にしない人、という印象を受けた。

 ご冥福をお祈りします。
 

(五十部裕明・文芸学科三年)


作品を残すことは自分が生きていた軌跡を残すことだ。
野沢さんがこの言葉をおっしゃった時、こころに響きました。ご冥福をお祈りいたします。

                                     

(岩城良和・文芸学科三年)

彼を知ったの『眠れる森』だった。母に薦められるまま観て、すごいと思った。謎を一枚一枚剥がすように明らかにしていく計算された巧さ。ミステリーが面白いとそのとき初めて知った。「脚本家 野沢尚」は以来ドラマを観るときの基準になった。だから会えたときは、なんと言えばいいのだろう、感動した、うれしかった、泣きそうだった、言い方はいくらあれど表現しきれない。授業内容や、握手をしてもらったことはいまだに鮮明で、これからもちょっと忘れられそうにない。

 彼の訃報に接した日、我が家の辺りは虹が出ていた。テレビ眺めていたら、「野沢尚自殺」と不意にテロップが出た。とっさに未遂だと思った。そして詳細をアナウンサーが読み上げたがどれも嘘っぽく、現実ではない気がした。翌日、彼と次回作の打ち合わせを七月七日にする予定だった人がテレビに出ていた。そこでようやく彼の死を理解した。死ぬということは、もう次の作品はないということだった。『眠れる森』で感じたような高揚感や次回が楽しみでしかたない気持ちを私はこの先感じることが出来るのだろうか。

 ご冥福お祈り申し上げます。 

(鈴木香奈・文芸学科在学中)

 六月二十八日、野沢尚先生が他界されました。
 衝撃を受け、しかし、私は中沢けい先生がおっしゃられた言葉を思い出します。
 「小説のすごいところは、故人とコラボレーションができることなのよ」
 本当にその通りだと思います。
 文面で恐縮ですが、お悔やみ申し上げます。
 
                            2004年7月1日 

                                   

 (渡邉倫子・文芸学科在学中)

野沢尚氏の講演記録(1)

野沢尚さんが6月28日、お亡くなりになった。
新聞記事を見て衝撃を覚えた。
野沢さんが日大芸術学部文芸学科の特別講座で講演されたのは2002年1月17日であった。満員で、教室に入りきれない学生も何人かいた。何年か先、ぜひとも文芸学科で「シナリオ研究」の授業を持ってもらいたいと熱く要請したのが昨日のような気がする。
ご冥福を祈りあげます。
 次に、野沢尚さんの講演記録を紹介します。  (清水正)
 

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清水:今日は特別講座ということで、雑誌研究の授業内で、シナリオ作家として著名な野沢尚先生をお迎えしています。私のほうから簡単にプロフィールを紹介します。

 野沢先生は昭和三十五年に愛知県にお生まれになりまして、日本大学芸術学部映画学科を卒業されています。卒業してから二十年ということだそうです。昭和六十年に、『殺して、あなた…』で脚本家としてデビューなさいまして、鶴橋康夫監督とのコンビで多数の作品を発表されております。『愛の世界』で芸術作品賞、第十七回放送文化基金賞優秀賞、ATP賞、ギャラクシー優秀賞等を受賞、平成九年に小説『破線のマリス』で江戸川乱歩賞を受賞しております。その他にも第十七回向田邦子賞受賞、という風に数々の賞を総ナメにしておられます。主な作品には『十年目のクリスマス・イブ』『反乱のボヤージュ』『青い鳥』『親愛なる者へ』『眠れる森』等があります。これは今日、副手の方に調べてもらったんですが、たくさんあります。ですから今日お集まりの皆さんの中には、野沢先生に関して詳しく研究をされている方もいらっしゃるようですから、更に詳しく知りたいという方は自分で調べてみてください。

 先ほど雑談の中で、野沢さんは一日に原稿を二十枚書くということですね。私も原稿を毎日書いているけれど、五枚くらいしか書けませんから、相当違うわけですね。ですからあなた方も、非常に刺激的な話になると思いますので、まず六十分ほど話をして頂きまして、あと二十分くらいは質問を受けてくださるそうです。心の中で何を聞こうかなということも準備しながら聞いていただければと思います。それでは野沢先生、よろしくお願いします。

野沢:どうも初めまして、野沢です。よろしく。タイトルとして「シナリオ作りの現実」ということなんですけれども、こういうことは一般論で話すと非常につまらないものになるので、なるべく実例を挙げて、自分の過去の作品を通して脚本作りの本質がわかるような、そういう仕事は過去にありましたんで、それを中心に喋っていきます。立ち見の人は適当に座りながら聞いてください。

 ちょうど僕が卒業して二十年になって、二十年間一回もこういう講義はやったことがなくて、そろそろ自分の後輩たちに何かを託したり伝えたりということもいいんじゃないかと思って、本当は去年のもっといい時期に来るはずだったんですけれども、ちょっとこういう時期にずれこんで…。

 今日はですね、具体的には二本の映画を中心に話そうと思います。裏話も含めて色々話しますんで、それを踏まえて、ビデオレンタルやDVDで観れる映画を一応選びました。一本はこちらの先生のリクエストでもあったんですが、『その男、凶暴につき』という、八十九年に公開された映画です。これはご存じのとおりビートたけしさんの第一回監督作品です。もう一本はその二年後に公開になったんですが、『さらば愛しのやくざ』という東映の映画です。「ニューやくざ路線」といわれた映画で、陣内孝則、柳葉敏郎というふたりの男優が出た映画です。この二本を中心に話していこうと思います。

 まずはじめに『その男、凶暴につき』は八十八年から八十九年にかけての仕事なんですけれども、それに至るまで、どういう形でプロデビューして、その仕事をするに至ったかということを、ごくかいつまんで話したいと思います。


 僕は映画学科の監督コースなんですけれども、大学三年の二十一歳のときに勝プロダクションという会社があるから、そこへ行ってちょっとプロットのアルバイトをしてきてくれと先生に言われて。で、僕を含めて三人の学生たちが、勝新太郎さんのやられているプロダクションに行ったわけです。新宿の歌舞伎町の風林会館の近くの、ものすごく薄汚れたビルで、幽霊ビルみたいなところに行かされて、ちょうど火曜サスペンス劇場というのが始まる直前だったので、原作のミステリーをとにかくたくさん読んで、それをペラ二・三枚のプロットにまとめるという、後々に僕はプロットライターという仕事を実際にやるんですけれども、それのちょっと前段階というか、プロデューサーが読んで「あ、これちょっと面白い原作じゃないか」と思わせるようなものを書いてこい、と。とにかく僕はミステリーが好きだったので、片っ端から読んで、書いて持っていったわけです。

 卒業してから勝プロから今度は三船プロという、三船敏郎さんのプロダクションに行って、プロットライターという仕事を始めたわけです。この仕事というのは、多分シナリオライターを志す方が、これから多くやられる仕事だと思うんですけれども、要するに企画書を書く仕事なんですね。

野沢尚氏の講演記録(2)

企画書というのはペラで五・六十枚のものなんですけれども、制作会社が「こういう趣旨の番組を作りたい、こういうストーリーのドラマを作りたい」ということを、日本テレビやフジテレビにプレゼンテーションするための企画書を作るわけです。本当はそういうものはプロデューサーが書くんですけれども、プロデューサーも忙しいし、文章書くのが苦手だっていう人もいるんで、若いライター志望の人間に下請けをさせるわけですよね。それを若いライターが書いていって、もちろん原作がある場合もあるし、こういうストーリー、こういう俳優を想定して、というふうに書く場合もあるし、とにかくそれを一本やると、僕がやっていた当時はそれで一本三万円くれたんですよね。まあ税金引かれて二万七千円になるんですけれども。いまは多分五万円くらいだと思うんですけれども、大体月に三本書けば、安いアパートに住んでいたし、それで生きられるっていう綱渡りの生活を、大学の四年から卒業して二・三年やっていました。それだけで就職せずに、多分変な自信があったんだと思うんですけれども、そうやって頑張って書いていれば何とかなるという思いこみがあったんでしょうね。

 それでやっていたんですが、当時何本くらい書いたかというと、ペラ五・六十枚のものを年に五十数本書いていたんですね。週に一本、月に四・五本書いていたと思うんですけれども、そうしたらそれだけのお金を貰えるかなと思って三船プロの経理に行くんですけれども、そうすると二本分しか入っていないとか、一体その金はどこに消えたんだとか、そういう不満もあるんですけれども、でもそういうことはプロデューサーには言えないし、仕事も欲しいですからそういうことを言って、「金にうるさい奴だ」と思われたくない……。そういう辛い経験をすると思うんですけれども、そういう二十代の前半だったんですね。
 ただ、プロットばっかり書いていたんではデビューできないっていう風にどこかで分かっていて、コンクールのための脚本を書きました。城戸賞に大学を卒業した年に応募して、それが佳作入選になったんですけれども、いま目の前にビデオソフトがあって、すごく恥ずかしいんですけれども、『Vマドンナ大戦争』っていう、『七人の侍』の学園版みたいな、これは別に観なくていいです(笑)。そういう映画をやって、まあその脚本が城戸賞に入ってからも、すぐにデビューできたわけではなくて、相変わらずプロット書きをやっていましたけれども、ただ城戸賞に入ったということで、周りの目が多少変わった。そういう感じはありました。

 で、その脚本が回り回って三船プロから松竹富士の奥山和由さんという人の手に渡って、即決で映画化されることになって、それが城戸賞を獲ってから二年後だったと思います。一九八五年の七月十三日に初日を迎えたんですが、大コケだったんですね。映画館に行ってですね、皆さんもよく知っていると思うんですけれども、舞台挨拶がある。で、舞台挨拶があるんで、お客さんはほとんど満員に近い状態なんですね。ところが挨拶が終わると第一回を見終わったお客さんが全部出ていって、五割か六割ぐらいになっちゃう。その時点で「ああ、これはコケたんだな」という暗い気分で、東銀座から駅まで歩いたっていう記憶がいまでもありますけれども。それでコケて二年か三年、映画の仕事はなかなか実を結ばなかった。まあテレビの仕事はやっていましたけれども。

 その後に『マリリンに会いたい』っていうファミリーピクチャーを書いたわけです。これはもうご存じのように、犬が三キロの海を自分の恋人の犬に会いたさで…という、まあ、スケベな犬の話なんですけれども、それを書きまして。新人がそういう厳しい制約の中で、つまりファミリーピクチャーでとか、泣かせなくちゃいけないとか、主演は安田成美と加藤雅也というこの二人でやってくれとか、とにかくそういう中で自分らしさというのをいかに出すかというのが出始めの作家の難しいところなんですね。その映画に関しては、そういう制約を消化した上で、人間ドラマに焦点を絞って、まあまあ評もそんなに悪くなかったし、興行的にはいちばん成功して、デビュー作の損を返した形になったんですけれども。

 それで『その男、凶暴につき』に行くわけなんですが、この映画は僕にとっては、たけしさんと仕事をしたというよりも、深作欣二監督との仕事だという風にいまでも思っているんですね。皆さんご存じのように、五日前に監督はお亡くなりになって、僕も昨日お葬式に行ってお別れをしてきたんですけれども、深作さんとの脚本づくりの思い出が強烈にあります。

 そもそもはまず深作さんと会って、紹介をされて、一番最初は記憶に間違いないと思うんですけれども、「蒲田行進曲パート2」という話があったんですね。つかさんの原作で「銀ちゃんが行く」っていう続編があって、その上でどう脚色できるかっていう話が最初にあったような気がします。ところが深作さんにはこれを映画化しても、第一作を越えられないなという気持ちがあって、まあ夕べ監督に対する追悼の意味も込めて、『蒲田行進曲』のDVDを観たんですけれども、やっぱりあのつかさんの毒とか、エネルギッシュな演出とか、一分一秒も停滞していないような激しさとか、まあ古くさいと思う部分もあるけれども、やっぱり傑作だと思うし、これを越えるものってなかなかできないんですよね。ちょっとこれじゃ無理じゃないかとなったときに、じゃあ改めて何をやろうかということになって、僕はとにかく深作さんのアクションが観たかった。それまでは文芸路線で『家宅の人』とか『華の乱』とかをやられているけれども、やっぱり『仁義なき戦い』とか、反骨精神に溢れた登場人物が出てくるアクション映画を僕はやりたい、と。シネマスコープのその横顔の画面が、手持ちの撮影で揺れるっていう、ああいう激しいものを撮ってほしい、ということを言った気がします。

『城の崎にて』を読む(1)

『城の崎にて』は「山の手線の電車に跳飛ばされて怪我をした、その後養生に、一人で但馬の城崎温泉へ出掛けた」で始まる。年譜を見ると、志賀直哉が山手線に跳ねられ重傷を負ったのは大正二年八月である。年譜の記述といい、この小説の書き出しといい、実にあっさりと書かれているので、ああそうかぐらいにしか思わないのであるが、改めて考えて見れば、山手線の電車に跳飛ばされたということは、言わば人生における大事件である。死ななかったのが逆に不思議なくらいである。

 『城の崎にて』は大正六年五月に「白樺」に発表された。志賀直哉は大正四年九月に京都から我孫子の弁天山に移り住み、大正五年六月に長女慧子をもうける。慧子は生後五十六日で病死する。つまり、『城の崎にて』は自分自身の〈怪我〉から四年、長女の〈死〉の翌年に書かれた作品である。とりあえずわたしは、この二点を念頭に置いて『城の崎にて』を見ていきたいと思う。

 

背中の傷が脊椎カリエスになれば致命傷になりかねないが、そんな事はあるまいと医者に云われた。二三年で出なければ後は心配はいらない、とにかく要心は肝心だからといわれて、それで来た。三週間以上・・我慢出来たら五週間位居たいものだと考えて来た。
  頭は未だ何だか明瞭しない。物忘れが烈しくなった。然し気分は近年になく静まって、落ちついたいい気持がしていた。稲の穫入れの始まる頃で、気候もよかったのだ。(24)

 抑制のきいた文章で、この叙述からは作者の不安や脅えの声は聞こえてこない。しかし「脊椎カリエスになれば致命傷になりかねない」という医者の言葉が作者の内部に刺のように突き刺さっていたことは確かであろう。〈死〉の不安を抱えていた志賀直哉は、自らの死ではなく、長女の死に立ち会わなければならなかった。『和解』に詳しく描かれた赤子の死は余りにも悲しすぎる。『和解』を読んでわたしは涙したが、志賀直哉の描写に微塵の感傷もない。彼の眼差しは自分のかけがえのない子供の死を描くにあたって冷徹である。事実が描ければコメントはいらない。小説家が自作の中で説明を展開するのは最悪である。事実の持っている重さの前に跪拝する姿勢がなければ描写はリアリティを持たない。志賀直哉はキリスト教の神からは離れたが、この世界の事実をそのままに受け入れる小説家としての謙譲さは捨てていない。創造者が造った〈世界〉の事象を〈写〉しとり、〈描〉く、小説家が出来ることはそれ以外のことではない。志賀直哉はそう言っているように思える。ここに引用した文章でまず指摘しておきたいのは、主語が完璧に省略されているということである。〈私〉なのか、〈彼〉なのか、〈彼女〉なのか、とにかく主語のない文章である。主語がなくても読めてしまうのが日本語である。わたしたち読者は『城の崎にて』を読みながら、主語がないことに不自然を感じることはない。むしろ主語が省略されていることで、かえって文章にしまりが出てくる。要するにこういった文章はいい文章として高く評価される。

2004年7月 2日

野沢尚氏の講演記録(3)

じゃあ、たけしさんを主演に、暴力刑事の映画をやろう、というふうになりました。それでそこからまた一年くらいかかるんですけれども、監督と警視庁に取材に行ったり、色んなことをしながら、色んな本を回し読みしながら、旅館にも二・三日入って、こういう登場人物にしようとか、こういうストーリーにしようとか話をしながら、それから何ヶ月か後に「灼熱」と題名の脚本を書きました。これが『その男、凶暴につき』の原型になっているんですけれども、監督の深作さんというのは、集団と個人というようなテーマを、非常に組織的な集団の中で、反骨精神を持った個人がいかに戦っていくかということを常に描いてきた監督ですよね。

 

話を作っていくときに一番悩んだのは、監督の作品歴の中で刑事が主人公になっているものはあんまりないんですよね。『県警対組織暴力』と『やくざの墓場』っていう映画では刑事が主人公になっているけれども。深作監督と刑事というのは、ちょっと折り合いの悪い組み合わせみたいで、何でこの東という主人公は暴力刑事になったのか、どういう前歴があるのか、親はどういう人で、兄弟はいるのか、結婚はしているのか、しているなら女房はどういう女なのか、離婚しているならばいまはどういう関係なのか、旅館にこもりながら徹底的にそういう話をしたわけです。

 そういう中で非常に深作さんらしいストーリーだなと今でも思っているエピソードがあるんですけれども、これは映画では川上麻衣子扮する知的障害者の妹っていう設定になっているんですけれども、最初はそれは息子だったんですね。女房がいる…いしだあゆみさんみたいな女房がいて、主人公に暴力癖があるんで、家庭がめちゃめちゃになって離婚したと。で、その子供が東の血を引いているんじゃないかと思えるほど、暴力癖があって、自閉症で自傷行為をするみたいな、小学校一年生くらいの子供がいる。それが別れて暮らしているんですけれども、主人公が最後に、自分の親友を殺したやくざと対決に行くときに、自分の妻子に別れを告げるために妻の実家に行くんですよね。すると荒れ果てた、とにかく子供が暴れ回った家の中になっていて、女房が「あなたは反対したけれども、やっぱりこの子を施設に入れようと思う。あなたは子供を捨てるのかって言うけれども」と言う。でも主人公はその辛さが分かって、「分かった」と答える。すると子供が向こうから剣玉を投げてくるんですよね。するとその剣玉の紐がちぎれていて、玉も一緒に転がってくるのを主人公が手に取るというエピソードがあって、戦いがすべて終わって、エピローグにその子供を長野県かどこかにある施設に送り出す、その妻子の見送りを駅でするときに、子供がそのちぎれた剣玉を押しつける。それで主人公が妻子を見送り終わったあとに、剣玉をやるというストップモーションで終わるというラストシーンを考えたんですけれども、それが深作監督の考える人間の哀れさとか、暴力衝動の根底にあるものとか、そういうものを象徴的に描いたエピソードだったんですね。

 そういう脚本だったんだけれども、それが結局、深作さんが降りることになってしまった。なぜかというと、脚本が大体できてきて、どういうスケジュールで、どういうセットでとかいう具体的な撮影準備に入っていったときに、たけしさんが「こういうスケジュールでやりたい」と言ってきた。いまもそうですけれども、たけしさんは当時からもう週五~七本のレギュラー番組を抱えていて、要するにその通りにやるということは、至難の業であったと。どうしたいかというと、一週間とにかくテレビの収録を集中的にやって、次の一週間で映画の撮影をやると。で、また一週間テレビの収録をやるみたいな、交代交代でやるというスケジュールをたけしさんが提示してきたんですね。

 それだと確かに人件費がかかると。たけしさんがテレビの収録をしている一週間のあいだも映画のスタッフの人件費がかかるわけなんで、でももうそれしかないと、奥山和由プロデューサーが監督に言ったら、冗談じゃないと。それは映画を甘く見てるんじゃないかと。ちゃんと一月二月開けてこいっていう風に監督はおっしゃった。でももう周りで見ていてしょうがないんじゃないかと。たけしさん主演で、もうそういうスケジュールでやるしかないんじゃないかと、でも監督は最後まで抵抗して、それだったら俺はできない、降りるという風になったわけです。それは映画人の意地という一言に尽きると思うんですけれども、そういうことで深作監督が降りられたのは非常に残念でした。

 そうして深作監督と作り上げた脚本がたけしさんの手に渡りまして、奥山プロデューサーが、「じゃあたけしさんを監督に起用しよう」と。でもたけしさんは例のフライデー襲撃事件があった後ですから、要するに武闘派タレントみたいなイメージがあったんですね。暴力を知っている人というイメージがあったので、そういう人に映画を作らせたら、何かすごいものができるんじゃないか、という奥山さんの確かな勘だと思うんですけれども、それで「灼熱」という脚本がたけしさんの手に渡って、題名が『その男、凶暴につき』となったんですね。これは既存の、過去にあった小説のタイトルを使ったんですけれども。

野沢尚氏の講演記録(4)

一番最初に僕はたけしさんに挨拶をしに行って、日本テレビの控え室だったと思うんですが、当時たけしさんは「TVジョッキー」という番組をやっていて、まず僕の方から参考になる刑事映画のリストを作ってきたんで、これをできるだけ見てくださいという風にお渡ししたんですね。その中には『ダーティーハリー』であるとか『フレンチ・コネクション』であるとか、そういう過去の名作はそんなにご覧になっていないと思ったので、リストをお渡ししたんですね。

 

で、その中に一本『LA大捜査線 狼たちの街』っていうマイナーな刑事映画があって、監督が『フレンチ・コネクション』を撮った、ハリウッドの七十年代の天皇と言われたウィリアム・フリードキンで、八十五年くらいになって、まあちょっと落ち始めていたんですけれども、非常に異色の刑事映画を作ったんですね。これはいまでもビデオで出ているんで、見てもいいと思いますけれども。これは要するに暴力刑事が主人公で、若い刑事がその相棒で、いつも主人公の後をおどおどついて歩いているんですけれども、最後の敵と戦うクライマックスになったときに、この映画がすごく変わっているのは、主人公があっさり撃たれて死んじゃうんですね。撃たれて死んだ後に、それまでおどおどしていた相棒が、最後の数分でがらっと変わってきて、ラストシーンはその相棒が、主人公以上に暴力的な、汚職もするような刑事に変貌しましたというようなエピソードなんですけれども、これが『その男、凶暴につき』のエンディングなんですね。もうほとんど同じなんですね。たけしさん扮する東という刑事に、菊池という若い刑事がついていて、これがいつもいじめられながら仕事をしているんだけれども、最後は菊池が東の死んだ後に汚職を引き継いで、非常にダークな部分を引き継いでいくというエンディングになっているんだけれども、これは『LA大捜査線 狼たちの街』に相当インスパイアされたものなんだなあと。そのエンディングは僕の原作にはなかったものですから。

 まあそういうわけで、最初に顔合わせをして、次に一回打ち合わせをして、四谷の寿司屋に行って、寿司を食べながらプロデューサーとたけしさんと一緒に話をして。既に脚本はできていて、その脚本の中の知的障害者の子供という設定を妹にしようということは、多分たけしさんが言われたと思うんですけれども。この妹は精神病院から出てきて、ところがすぐにアパートに男を引きずりこんだりとかして、とんでもない妹で、その妹がのちのち白竜扮するシャブ中のやくざにさらわれて、それを取り戻しに行って対決になるという、そういう映画になるんですけれども、この妹を最後をどうするかというのがそのときのテーマだったような気がします。妹を救い出して終わりにするのか、妹を殺されて立ちつくすのか、色々なエンディングがあって、どれを取るべきか、でも、とにかくたけしさんは普通のハッピーエンディングは作ろうとは思っていなかった。
 どうしようかとみんなで話しているときに、たけしさんがトイレに立たれて、戻ってきた第一声で「妹を殺しましょう」と、「主人公が殺しましょう」という風におっしゃったんですね。みんなびっくりして、それはどういうことかというと、障害者でも、ボロボロにヤク中にされて、兄貴が殺した白竜扮するやくざにクスリを泣いてすがるみたいな妹を見たときに、何とも言えない悲しい気持ちになって、そういうどうしようもない悲しみを、殺すという形で処理してやろうと。これは屠殺なんだという風におっしゃったんですね。やっぱりそれを聞いたときに僕は、「この人は天才だな」と思いましたね。これまでの映画のセオリーにはないエンディングを思いつく人なんだ、と。
 そういう形でエンディングを直したんですけれども、プロデューサーから、「脚本をたけしさんに任せてくれないか」と言われて。あの人はやっぱり即興演出をする人だし、脚本作業で時間をかけたくない、と。早く現場に行って、あの人の持っている第六感を刺激しながら作る映画であるべきなんだと。脚本はそこそこでいいから、もう監督に渡してほしいという風に言われたんですね。僕は最後までやりたかったんですけれども、まあそういう映画の枠組みであれば、これは仕方ないという風に任せました。だから監督が変えた部分がどんどん入っていくんですけれども、やはりかなり変わっていきましたね。

野沢尚氏の講演記録(5)

映画をご覧になって、シナリオも僕が書いたものが読めますから、読み比べてみるとわかるんですけれども、ストーリーはあまり変わらないです。変わらないんですけれども、言葉を削ぎ落とした映画になっています。あとは、たけしさんのような暴力実践派の人間が作った映画だな、という風に思います。例えば自分の捕まえた売人をトイレで痛めつけるシーンがあるんですけれども、それが半端な殴り方じゃない。もう十回二十回と殴り続ける描写であるとか、これはもう観ていて生理的に耐えられないというほどのシーンでした。自分が捕まえた証人が船だまりみたいなところに逃げ込んでいると。主人公はそれに会って帰るときに、歩道橋の向こうから白竜扮する殺し屋がやって来る。観客はもちろん彼が殺し屋だと知っているんですけれども、たけしさん扮する東は知らない。で、二人がすれ違って歩いていくんですけれども、あるとき突然パッと踵を返してさっきの証人のところに走って戻ったら、もう殺されていたというような、第六感で「ああ、あいつじゃないか」と思って追いかけていくときの描写というのは、既成の映画作法が身に付いている職業監督にはない感覚なんですよね。

 

そういうものが本当に溢れていた映画で、かなり脚本が変えられていて、「あなたの思い通りになった映画ではないかもしれない」と言われながらも見に行って、たけしさんもいらして、遠くで挨拶を交わしたあと映画を観て、やっぱり面白かったです、僕は。面白かったし、それが悔しかったという思い出のある仕事ですね。

 この間、江戸川乱歩賞の高野さんという『13階段』を書いた人と対談をやったときに、『その男、凶暴につき』の話になったんですけれども、「あれは、脚本というものがあまり関係のない映画でしたね」と言われて、ちょっと反発もあったんですけれども、確かにそうだなと思いました。どういうことかというと、やっぱり先ほども言ったように、とにかく削ぎ落としていった映画なんですね。僕はどちらかというと「芸人・ビートたけし」というイメージで、饒舌なブラックユーモアを周りに撒き散らすようなキャラクターを考えていたんですが、たけしさんはとにかく徹底的に喋らない、言葉を排した主人公を作ろうと思ったみたいです。ですからあの映画の後半、とくに二十分くらいは、主人公はひとことも喋っていないという形になっているんですけれども、そういう映画を作るために色んな無駄な部分を削ぎ落としていったんですよね。
 たとえば警察機構の内部はどうなっているのかとか、ヤク中とは一体どういう人間なのかとか、もっと沢山のディテールがあったんですけれども、そういうものを排除していって、要するに記号化しているというのか、刑事や犯人や警察社会というものをある程度の枠組みで作って、そこで自分の感覚を注ぎ込むみたいな、そういう作り方をしているんですね。よくよく後の映画を観るとやっぱりファクターというのが、記号化というか単純化されている。悪く言えば、どこかで観たようなものになっている。

 例えば『HANA-BI』の女房の岸本加世子は、白血病かなにかなんだけれども、本当だったら沢山薬を抱えていて、車で主人公と一緒に旅ができるような病状じゃないはずなんだけれども、でもたけしさんの映画の中ではそれでいいんだと。刑事くずれの男が病気の妻と一緒に旅に出るという映画をやりたいから、白血病のディテールとかそんなことは関係ないんだっていうのが、あの人の作り方なんですよね。『BROTHER』なんかを観ても、外国人がよくわかるやくざという枠組みの中で自分の感覚を注ぎ込んでいるという。

 多分その出発点が『その男、凶暴につき』になっていて、未だにあの人が組んだ脚本家というのは僕ひとりだけで、即興で脚本を作っていて、クレジットにされている人も、いわゆる弟子の人だったりするらしいんですね。本当に作家と組んだというのは、あの映画だけだと思うんですけれども、まあこれは僕自身への慰めなんですけれども、たけしさんというのは、あるきちんとした脚本があって、それを壊したときになにかが生まれるという、そういう作り方をする人なんだ、と。だから自分の脚本は、決して無駄にはなっていない、という風に思っています。今でも僕は思うんですけれども、ちゃんとした脚本家と組んで、それを壊した映画を作ったときに次のステップに行けるんじゃないかなと、あの人の映画に関してはそういう風に僕は生意気ですけれども思っているんですね。

 まあちょっとこの話には後日談があって、とにかく僕はずっと深作さんと仕事がしたいという希望がずっとあって、その後にもう一回組むチャンスがあったんですね。それには『その男、凶暴につき』の主人公をひきずった主人公を出して、労働者たちの暴動によって包囲された警察署の中が舞台で、風来坊のように隣町から警官がやって来るという、その一晩のストーリーなんですけれども、クライマックスで暴動に紛れてある重要な証人を殺そうとするやくざがいるみたいなシナリオを書いて、これが映画化寸前まで行ったんですけれども、これがいまの日本映画界の非常に悲しいところなんですけれども、暴動を再現するためのオープンセットがなかなかできない、と。立川にそういう古い町並みがあったんですけれども、結局取り壊されることになってしまって、現実的に無理だということになってしまって。それで『いつかギラギラする日』っていう、丸山昇一さんが脚本を書いた萩原健一の銀行ギャングの映画も同時に進行されてて、悪く言えば両天秤をかけられた状態になっていて、結局そっちの方に行ったわけで…。
 僕は深作さんが八十八年から九十二年までの、映画がうまく撮れなかった4年間に知り合って、二本の映画を書いたんですけれども、結局それはうまく形にならなくて。二本目に書いたその暴動の話というのが、僕は非常に心残りで、脚本というものの悲しい宿命とも言えるんでしょうけど、要するに映画にならないと、ただの紙くずになってしまうんですね。小説のように発表もできないし、自分の本棚に色とりどりの改訂校・準備校が挟まれるだけのものになってしまうと。それはとっても寂しくて、やっぱり深作さんと作り上げたものを何とか世に出したいという思いで、警察小説をシナリオを元に書き上げて、一番最初の江戸川乱歩賞に出したんですね。福井晴敏に僅差で勝って入賞できたんですけれども、江戸川乱歩賞は二年やってて、その一年目にやったのがそのシナリオだったんですけれども、まだ出版されてないんですが、いつかは出したいと思っています。それと、さっき話した『その男、凶暴につき』の原型になった深作さんと作り上げたシナリオを死なせてはならないという思いがあって、ちょうど「週刊ポスト」に連載をしているんですけれども、「烈火の月」という、それを元にした小説を書いていて、半分くらい終わっていて、来年の夏に終わるんですけれども、それを読んでいただけると、映画とのストーリーは通じていますし、キャラクターもたけしさんに通じているものもあります。

野沢尚氏の講演記録(6)

実は去年の七・八月で集中的に連載の原稿を書いたんですけれども、ちょうど九月に深作さんがガンの告白をされて、非常にショックを覚えたんですけれども、書き上げた原稿をお送りしまして、読む余裕はないでしょうけれども、書類棚に置いておいてくださいと。監督と悩んだこと、正義とは何かとか、なぜ主人公が暴力刑事になったのかとか、そういう悩んだ答えを僕は出しておいたつもりなので、お手元に置いておいてくださいとお送りしたんですけれども。そういう形で何とか深作さんとは、映画脚本として結実させたかったんですけれども、まあ、そういう形になりました。

 『その男、凶暴につき』については、後ほど質問がありましたらお答えしますけれども、この仕事が終わりまして、八十九年に公開になったんですけれども、ちょうど同じ年に僕はもう一本『ラッフルズ・ホテル』という村上龍さんが監督をした映画の脚本を書いたんですね。これは僕にとっては自分のキャリアの中でも、日本映画史上の中でも、最低の映画だと思っていますが(笑)、どれほどひどいかは観てもらってもいいですが、そのひどさについては愚痴になるのでやめますが、何が言いたいかというと、八十九年というのはバブル景気の終わりぐらいで、映画界にお金が流れ込んでいた時代なんですね。いまは全然そうではないですけれども、ビルのオーナーであるとか、企業であるとか、税金でみんな持っていかれるぐらいなら文化事業をやろうというような気持ちでお金が流れ込んできて、何をもたらしたかというと、プロじゃない映画監督でも映画を撮れる時代になったんですね。村上龍さんは二本その前にやっていますけれども、小説家だし、島田伸介さんもやりましたし、色んな異業種の人たちが映画を撮れた時代だったんですね。

 それは背景として言うと、ビデオレンタル店が非常に伸びてきた時代で、あの時代ビデオレンタル店と不動産業というのは非常なつながりがあって、不動産業が景気のいいときにはレンタル店も増えて、映画もたくさん買われたりとか、そういう時代だったんですね。ですからそれが脚本家になにをもたらすかというと、プロじゃない監督と仕事をしなきゃいけない辛さということがあって、つまりたけしさんにしても龍さんにしても、悪く言えば叩き台を作ってもらって、それを元に自分流に直してやればいいというようなところがあって、プロの脚本家とがっぷり四つに組んで、旅館に入って、主人公の前歴から話し合って、キャラクターから考えるという作業をできなかったんですね。おふたりともとても忙しい人だったし、当時龍さんは『RYU'S BAR』っていうTBSの対談番組をやっていて、本当に時間がなくて、打ち合わせの時間もとれないという状況の中で、まあある程度のものは、野沢くんが書いてきてくれればいい、という形になって、脚本家にとっては不満の多い仕事になりました。

 この八十九年というのは僕にとってちょっと辛い時代だったんですけれども、その後に東映の方から『さらば愛しのやくざ』という原作があると、それを脚色してくれないかというオファーがあったんですね。東映という映画会社は、簡単にいうと自分でリスクを背負って映画を作る会社なんですね。いまでもそういうところがあるし、他の会社には少なくなっているんですけれども、つまり自分のところで全額出して、自分のところで権利を持つ、と。ところが失敗したらリスクを全部背負わなければいけないというような、そういう映画人というのが生きている、映画魂というものが生きている、何とか自分のところで映画を作りたいという、そういう気概みたいなものを持っている会社だったんですね。で、大泉の撮影所に呼ばれて行きまして、打ち合わせをしました。

野沢尚氏の講演記録(7)

『さらば愛しのやくざ』という映画は、どういう企画として成立したのかというと、原作は六十年安保を背景にした、やくざと早稲田の大学生との交流を描いた小説なんですね。ふとしたことで知り合って、やくざがけんかのやり方を大学生に教えたり、学生がやくざを講義に連れていったりとかという交流があって、しかも主人公のやくざには腹違いの妹がいるんですけれども、その妹と近親相姦的な関係があって、相楽晴子がやっているんですけれども、要するにこの三人の男女の青春やくざ映画みたいな、そういうテイストを持った小説だったんですね。ある人が権利を持っていて、それを陣内さんのところに持っていったわけです。

 陣内さんはちょうどあの頃、『ちょうちん』をやって、『傷』をやって、次のやくざ映画の新しい素材を探そうと思っていた時期で、「ああ、この小説は面白い」ということになって、どういうわけか僕のところに来たんですけれども、一番大変だったのは、映画会社もリスクを背負っているから、失敗は絶対できない。とにかく意見を言う。打ち合わせを渋谷の東急インでやったような記憶があるんですけれども、会議室を借りて、東映大泉の撮影所長がいる、その原作を最初に持った企画者という人がいる、中堅のプロデューサーと若いプロデューサーがいる、陣内氏本人がいる、陣内氏のマネージャーがいる。マネージャーは陣内氏の言いにくいことを言う役割なんですね。あとは監督のいずみさんがいる。それで僕がいるという、そういう大人数の中で打ち合わせをするわけです。

 その時点で僕の方から、僕の書いた構成表っていうものを、つまりこの原作を、こういう風な料理の仕方をしたいという表を渡してあるんですね。つまりそれに対する文句を言う会みたいなものになっていて、一番最初に問題になったのは、原作では学生がある夜、場末のバーに行ったら、ビールを一本頼んだだけで三万円とられて、バーテンに文句を言ったらぶん殴られて放り出されたと。で、その学生が癪に触るので、もう一回あの店に行ってバーテンと対決しないと、自分の人生が先につながっていかないというような気持ちがあって、ある晩また行って、三万円出して、「これだけで飲ませてください、これ以上払いませんよ」と言って、それで溜飲を下げるという、最初はそういうエピソードになるんですけれども。で、なぜ大学生がその晩、バーに行ったのかと。何かきっかけがあるはずだと。それは僕が最初に感じた疑問というか、そこをうまく作りたいと思ったんですね。何かエポックメイキングストーリー的なことがあって、それでバーに行ったんではないかと。映画の時勢としては九十一年が現在でしたから、その十年前を思い返すというスタイルの映画にしようと思っていましたから、要するに一九八〇年代に、何かエポックメイキングストーリー的なことがなかったかと調べたんですよね。

 そうしたらふたつあった。ひとつは天皇崩御、もうひとつはジョン・レノンが殺された日。一九八七年十二月。そうしたらやっぱりジョン・レノンだろうと。ジョン・レノンの死が報道された夜に、彼のことがすごく好きな大学生が酒を飲んで、酔っぱらって悪酔いして、でももっと飲みたくて、何か変なバーに足を踏み入れたという、そういうきっかけにしようと。この映画のラストは、主人公のやくざが殺されるという原作でもそういう結末になっているんですけれども、だったら最後はジョン・レノンのように死ねればいいんじゃないかと。「○○さんですね」と言われて振り返ったら、若い男に五発の銃弾を撃ち込まれて殺されるという、そういう話にしようと。要するにジョン・レノンの死んだ日に知り合った大学生とやくざの話で、最後はジョン・レノンのように殺されるやくざの話というような仕組みを作ったんですね。これはもう僕のスタイルというか、そういう形が好きということに尽きるんですけれども、構成表でつまりおじさん達にそういうものを提示したわけですよね。

 すると、「何でやくざ映画にジョン・レノンが出てくるんだ。何でそういう風に始まるのかがまず分からない」と言い出す。僕はこの反対している人たちを何とか説得しなければいけない。ジョン・レノン案に、陣内さんは顔色を見る限り、とりあえず賛成している。監督も何となく賛成している。じゃあ、この賛成している人たちを味方につけて、何とかこの会議を乗り切ろうみたいな戦略を色々考えながら、大人数の会議を乗り切る。で、また別のストーリー展開になると、今度は陣内さんと監督は反対しているけれども、プロデューサーは賛成していると。じゃあ何とか今度はこの人たちを取り込んで、何とか説得させようみたいな、要するにこれが映画の作り方というか、脚本の作り方なんですね。

野沢尚氏の講演記録(8)

僕は監督コースで卒業して、映画監督になりたかったんだけれども、卒業制作で監督を作ってて、やっぱりカリスマ性がないということに気づいたんですね。周りは素人の学生スタッフだから、色々文句を言うわけなんだけれども、それを自分で制御できないというか、制御できるだけの人間的魅力がないということに卒業制作のときに気がついて、ひとりでできる仕事を選ぼうと思ったんです。脚本というものは高校時代から書いていたから、脚本家でまず世に出ようという風に思って。脚本というのは個人で、自分で納得したものを書き上げて、それを応募すればいいわけですから。

 

ところがプロの仕事というのは、書き上げた脚本に対して、色んな人が色んなことを言う。ある人は賛成するけれど、ある人は反対するという、要望や希望の海の中を、脚本家が泳いでいかなければならない。全然個人作業じゃなかったということに気づいたんですけれども、そういう仕事なんですね。それがいま、皆さんには実感として分からないことだと思うんですけれども。話し合いをやってて、「この人は何を言いたいんだろう。どうやら言葉が足りないみたいだな。何か誤解して伝わっている気がする。でもこの人の言いたいことを汲み取ろう」と思わないと、やっていけない仕事。やっぱり人対人の仕事だっていうことを痛感しました。

 文芸学科だから小説家を目指す人もたくさんいると思いますけれども、そこが一番大きな点で、どこか人対人の、大勢の人間を相手にする仕事に疲れたというわけではないですけれども、なかなか自分の思い通りにいかない。脚本を書いて、それが映像化されても、たけしさんや龍さんが作ったみたいになってしまうと。だったら自分ひとりで完結する仕事に行きたいということで、いま小説の世界に体半分行っていますけれども、そういう道を進んだような気がします。

 小説に行ったというのは、またもうひとつエピソードがあるんですけれども、『さらば愛しのやくざ』から三・四年経った頃だと思うんですけれども、『集団左遷』っていう映画があって、サラリーマンの奮闘を描いた社会派の集団劇なんですけれども、その仕事をしたとき、例によって東映という映画会社ですから、プロデューサーもものすごいリスクを背負っているから、色んなことを言う。とても辛い打ち合わせがずっと続いたときに、プロデューサーも含めた四・五人の打ち合わせだったと思うんですけれども、旅館に入ったんですよね。プロデューサーが僕の書いた脚本をコピーして、それにここをこうしたいとか書いたものがあって、とにかくこれを見てくれないか、と。こういう風に直したものを読んでほしいと言われたんですね。それを見たときに、色んな打ち合わせの中で、セリフが長いとか、ここのセリフをもっと削ってほしいという要望があって、それはでも役者の生理もあるし、監督の生理もあるから、削るというのは仕方ないだろうと。だけどそのコピー台本を見ると、ト書きが削られているんですよね。読んだことのある人は分かると思うけれども、僕の脚本というのは、ト書きの書き込みが多くて、人間の心理状態であるとか、そういうものを克明に書く癖があるんですよね。人によっては、ここがうるさいじゃないかと、そこまで書かなくていいじゃないかという気分になる。それでつい、ト書きを消しましたみたいなところがあるんですよね。それを見たときに、脚本という仕事の、これが宿命なんだな、と。

野沢尚氏の講演記録(9)

要するに脚本の中でどんな美しい文章を書いても、それは映像化とはもちろん別だし、どういう風に変わるかも分からない。例えば晴れの日を想定して、ギラギラした夏の陽光の下で、飢えた猟犬のような目をした男がいるというト書きを書いたとしても、撮影日に雨だったとしたら、特にテレビの場合は雨で撮影するしかない。ギラギラした陽光なんてどこにもない。そうしたら、そんなト書きのどこに意味があるんだろうって。やっぱり脚本というのは、美しい文章を必要としていないんだ。美しい文章で人を感動させようと思ったら、小説に行くしかないという風にそのとき一番気づいたんですよね。

 

まあ、これが大体、『さらば愛しのやくざ』と『その男、凶暴につき』の顛末で、何が言いたいかと言いますと、ひとりでは完結しない仕事であると。人と人との中で、本当に奮闘して、言葉を尽くして人を説得して、そのためにはすごい理論武装をして立ち向かっていかないといけない仕事だと。そして、どこかで柔軟性を持っていないと、ダメな仕事なんだということなんです。それは新人だけで、四十や五十のベテランだから全部思い通りに行くんじゃないかと言うと、全然そんなことはなくて。

 これもつい最近あったエピソードなんですけれども、今ちょうどNHKで『緋色の記憶』というテレビドラマを放送中で、あと二回やるんですけれども、鈴木京香が主演で、倍賞美津子さんや、岸辺一徳さんが出ているドラマで、これももちろん最終回までできているんですけれども、ちょっとトラブルがあって。話は夏八木勲さん扮する主人公が故郷に帰って、四十年前の殺人がらみの事件を思い返すという話なんですね。で、事件が全部終わって、最後に故郷から旅立つときに、「私の長い旅はこれで終わった」と。夏八木さんというのは色んな原罪を抱えている男なんですけれども、第一回のファーストシーンで、この男が病院で組織検査を受けていて、どうやらこの男はガンらしいと。それで自分の親友の医者に、「もし自分がガンだったなら、告知をしてくれ」と言い残して故郷に旅立つんですね。これを作ったときに、最後は絶対にナレーションで「私の長い旅はこれで終わった」と。それで東京に帰ったら、末期ガンだったと医者は正直に告げてくれたというナレーションの入るエンディングを絶対に入れたくて、そういう形でドラマにも一応なったんですけれども、試写を観たNHKのプロデューサーが、「非常に後味が悪い」と言うんですね。末期ガンで死んでしまうという、そこまで言わなくてもいいんじゃないかと。だから消したいと言ってきたわけです。これに僕は非常に抵抗しまして、これがなければ、この主人公がガンで死ぬということは誰にも分からないじゃないかと。確かに冒頭で検査に行ったというシーンはあるけれども、そんなこと客は覚えちゃいないと。絶対に最後にナレーションで流さなければダメなんだということを言ったんですね。そこでもうひとつ、テレビドラマにおける後味って何なんですかって僕は聞いたんですね。後味が良ければいいのかと。

 後味が悪いっていうのも実は大事なんじゃないかと言ったんですけれども、そこで実例を挙げたのは、『眠れる森』というドラマをやったときに、皆さんの中でも観た人は大勢いらっしゃると思いますけれども、木村拓哉くんがコテッと死ぬんですよね。これは見ていると、本当に死んだかどうだか分からない。未だにいろんな人に、あれは死んだんですか、どうなんですか、とよく聞かれるんですけれども、非常に後味の悪いエンディングなんですね。お客を放り出しているみたいな。でも僕はそういう一種後味が悪いからこそ、人の記憶に残っていると僕は思っていて、人の間をすり抜けていくようなものを作っているわけであって、どこかで受け取ってほしいとか、覚えていてほしいというような思いがすごくあるんですよね。だからたとえ後味が悪くても、お客の頭をガツンと殴るような、そういうエンディングがあってもいいんじゃないかということを、話し合いの中でそのNHKのプロデューサーに言いました。でも向こうはやっぱり消したいということを言ってきた。それだったら最終回のタイトルから、タイトルを消してほしいと言ったんですね。つまり野沢という名前を全部消してほしいと。新聞の欄からも全部消してほしいと、それは僕が書いたエンディングじゃないから。するとそれはできないと、そんなことをしたらすごい大事件になるから。じゃあどうするかっていうことで、十五分二十分沈黙が続くんですけれども、タイトルを消してくれという最終案をもって話し合いに臨んだんですけれども、どこかで歩み寄らなければいけないという思いもあって、だったらはっきり死ぬとは言わないけれども、主人公の死を暗示するナレーションを改めて書かせてくれと。でも夏八木さんのスケジュールが取れるかどうか分からないと。つまりナレーションひとつ録るにしても、夏八木さんを引っ張ってきて録らなきゃいけないわけで、そんなことは簡単にはできるはずはないと思ったけれども、それしかないということになって。で、ようやくその別のナレーションをつけて…どういうものかは見てのお楽しみですけれども、それで落ち着いたんですね。

 つまりいくら四・五十のベテランになったって、やはり組織の歯車でしかない。もっと悪く言うと出入り業者でしかないんですね。フリーの脚本家というのは。どこかで歩み寄って集団の歯車として機能しようと思わないとやっていけないんですよね。

野沢尚氏の講演記録(10)

僕はサッカーが好きなんで、よくテレビの場合はサッカーにたとえるんですけれども、シナリオライターっていうのは10番の選手なんですね。トップ下の選手。主演男優と主演女優という2トップが前にいて、まわりに中盤の選手がいる。それで10番のトップ下のシナリオライターは、とにかく2トップにいいボールを出す、いいパスを出すというのが、シナリオメーカーの仕事なんじゃないかという風に納得して、テレビの仕事をやっています。

 ちょっと時間がなくなってきたんで、本当はもっとテレビの場合についても話をしたかったんですけれども、まとめに入ります。シナリオライターにとって大切なことというのを、いくつか話したんですけれども、じゃあどういう風にしたらいいものが書けるんですかとか、シナリオ講座でも聞かれて、答えに困るんですよね。どうやら大切なのは、果てしなく続く連想ゲームをやることだという風に思っています。

 どういうことかというと、ちょっと実例を挙げて話しますけれども、『眠れる森』というテレビドラマは、タイトルの連想から出てきたストーリーなんですね。当時まだ子供が小さくて、夜遅くに帰ってきて、子供の本棚を見たわけです。何かいいタイトルはないかなと思って。当時既に、木村くんと中山美穂っていう2トップは決まっていて、それで何かを作らなきゃいけないと。フジテレビのプロデューサーは、乱歩賞を獲った後だったから、ミステリーをやってほしいという、そういう枠組みだけしかなかったんですね。で、家へ帰って、子供の本棚を見たと。その前の年に『青い鳥』というテレビドラマをやっていたんで、児童文学でいいタイトルはないかなあと見ていたわけです。すると「眠れる森の美女」というのが目に止まって、これはいいかも知れないけれども、「美女」とつくのはいかにもだなあ、と。確かに中山美穂は美しいけれども、そこまでタイトルで謳う必要はないんじゃないかと思って。だったら『眠れる森』と縮めてみたらいいんじゃないかと。

 要するにここから連想ゲームが始まるんですけれども、じゃあ、『眠れる森』というタイトルのつくドラマはどういうドラマなんだろうか。「森」というところからまず連想するんですね。森にはやっぱり癒しのイメージがある。当時「バスクリン」のコマーシャルで、森林の中にバスタブがあって、そこに浸かっているものもあったし。すると「癒し」のイメージから「脳」に行くわけです。「眠れる脳」というものは何だろうか。そうすると、それは記憶なんじゃないかと。すると主人公には過去にトラウマがある。ところがその眠れる記憶が、蘇ってくるんじゃないかと。過去が忍び寄ってくるとすれば、どのような過去なんだろう。殺人事件があって、自分の一家が殺されて、幼い主人公がそれを全部見ているんだけれども、そのショックで全部忘れてしまっている。それで十五年くらい経って、何かの拍子で記憶が蘇って、殺人事件の時効を迎えるその日がクライマックスというのを何となく思いつくんだけれども、十五年目に記憶が蘇ってきて、殺人事件の犯人が現れるんじゃないか、そういうストーリーなんじゃないか、と。それが『眠れる森』のストーリーの骨格なんですけれども、それがタイトルを見た後、一時間くらいでできたと思うんですけれども、そういうことを果てしなくやっていくことがまず大事なんですよね。映画でもニュースでも何でもいいですけど、とにかく引っかかったものから、連想ゲームをしていく。それがストーリーを生み出す一番大切なプロセスだという風に思います。

野沢尚氏の講演記録(11)

僕は若い人の脚本を読む機会が結構あって、コンクールで読んでいるんですけれども、いまふたつのコンクールの審査員をやってて、ひとつが城戸賞で、卒業生ということで、今年で審査員をやって二年目になるんですけれども、もうひとつがテレビ朝日の賞金八百万円という破格の賞で、ちょっとやりすぎだと思いますけれども、その審査を二年やりました。

 

特に今年の城戸賞の脚本は皆さん読まれたほうがいいと思いますけれども、僕は本当にこのコンクールで裏切られつづけてきて、要するにいいものなんてもう生まれっこないと。もう若い人間には何ひとつ期待なんかしないと。彼らが書けないんだったら、俺が書くからいいっていう思いで、いつも審査を終えるみたいなところがあって、あんまり期待していないんですけれども、今回の城戸賞で巡り会った『お母さんの思い出』という脚本は、大げさに言うと、これまで審査員をやってきたのは、この脚本と巡り会うためにやってきたのかなと。それくらいいい脚本だと思いました。

 ある少年が主人公なんですけれども、お母さんが自殺していて、そのトラウマを引きずっていて、それを解消したくて、少年は漫画家志望なんですけれども、絵コンテをいつも描いているんですね。漫画にはヒーローが出てきて、そのヒーローが悪人を倒すみたいなものなんですけれども、そういう絵コンテの世界と、彼の現実の世界が常にカットバックしていくようなストーリー展開なんですけれども、そのスタイルよりも何よりもこの作者が、生きることに悩んでいる。どうやって生きるか、生きるってどういうことなんだろうとか、勉強って何なんだろうとか、そういう疑問に対して、たくさん喋っているんですね。問いを投げかけられた人が。それに対する答えが、その審査会の中では、これは作者の言葉だろうと。小学校五年生の喋る言葉じゃないと、そういうセリフになってないじゃないかという人もいたんですけれども。でも僕は違うんじゃないかと。確かにそういう部分もあるだろうけど、映像化になるときに直せばいい話で、少なくともこの作者は自分の言いたいことをたくさん持っていて、それが原稿用紙に溢れていると。それを大事にしなければいけないということを力説したんですけれども、そういういい脚本です。本当に四年か五年に一本という感じがするんですけれども。非常にシンプルな世界で、面白いストーリーを思いつけば、世に出られる世界なんですね。

 僕にしてみると、僕のいま抱えているテレビ番組というのは、非常に層が薄いと思っています。確かに番組枠は十五本、十六本連続ドラマがあって、若い人がどんどん入ってくるんだけれども、作家の顔が見えない。この女流作家がこの女流作家の脚本を書いていたって、あんまり変わらないんじゃないかっていうようなものにしか僕には見えない。あんまりこういうことは業界の中では言えないことですけれども(笑)。新人は本当に入ってこられる世界だと思うんですね。ただ実は言うほど簡単ではなくて、僕の感覚で言うと、千人の志望者がいたら、たぶん一人だと思います。デビューできるのは。デビューしても二本目、三本目が書ける人は、たぶん東大に入るよりも遙かに難しいと思います。一握りの人間しか入れないんだけれども、それでも層が薄いということになるんですね。実際に中にいる人間としては。
 ですから僕がみなさんに望むのは、ある意味でアメリカンドリームみたいなものが築ける世界なんで、面白いものを一本書けば目に止まって賞を獲れる世界なんで、作家になり方として、誰かの弟子になるとか、脚本を読んでくださいってよく来ますけれども、そんなことよりもコンクールの期日までに原稿を書き上げてそれを出すというのをひたすら続けることが、そういう形で出てくる人の方が強いんじゃないかと思うんですね。ライター志望の人にはとにかく頑張って、とにかく面白いストーリーを考えて、思いを溢れんばかりに原稿用紙にぶつけてほしいと思っています。

野沢尚氏の講演記録(12)

野沢:というようなことで、とりあえず言いたいことは言いましたんで、あと残り十数分ありますんで、質問があれば聞いてください。

学生:映画学科の脚本コースの者なんですけれども、先ほどの話にもちょっと出たんですけれども、自分自信の視点というものとキャラクターの距離感というのを野沢先生はどうお考えになりますか。

野沢:新藤兼人さんが「人は誰でも一本のシナリオを書ける」というように、自分自身のことを書けば、誰でも一本は書けて、誰でもデビューできるみたいなことを言っていて、ある時期僕はそうかも知れないと思っていたんですけれども、案外そんな簡単な世界でもないなと僕は思っているんですね。やっぱりストーリーによっては、殺人犯の気持ちを書かなければならないし、刑事の気持ちも考えなければならない。よく先輩のライターの人たちは「色んな世界を経験しろ」って言いますよね。色んな人と会って、色んな人たちになりきるみたいな作業をやってこい、って言うけれど、結構それって無茶な話で、そんなことあまりできないんですよね。

 

殺人者の気持ちを理解するには人を殺さなければならないのか、って、究極的にはそういう話になっちゃうし、刑事になるには警察の試験受けなきゃならないのかってことになるし。結論としていえば、一番大事なのは、経験値…どんな人生を作家が経験してるかっていうよりも、最終的には想像力なんですね。想像力を発揮するしかなくて、たとえば小学校五年生のセリフを考えるときには、自分の親戚の五年生の子と遊べばいいんですよね。喋り言葉を聞けばいいし、その子に自分を投影するみたいな、どこか乗り移るみたいな、そういう作業をやって自分と登場人物の距離感というのを、縮めていくしかないですね。

 ただ僕らプロは、あんまりそんなことは考えないんですよね。つまりこれから小学校五年生のセリフを書くために、五年生の子をどこかから見つけてきて遊ぼうとか、まあそういう人もいますけれども、必ずしもそういうことは必要ないような気がしていて。

 たとえば満員電車に乗って、OLの人を見かける。で、その人が何か変だと。たくさん荷物を持っているとか、ウォークマンを聞きながら何かブツブツ喋っているのが変だなあとか思うと、多分そういう姿ってインプットされている気がするんですよね。頭の中の引き出しの中に仕舞われて、「変わったOL」というカテゴリーに分けられているような気がします。で、似たような人を考えるときに、その引き出しから引っ張ってきているという、そんな気がします。それはあまり特別なことではないと思うんですけれども、要するに観察力…ではないですね。興味ですね。「この人は何をやっているんだろう」とか、「どういう独身生活を送っているんだろう」とか。例えば家に帰って、物干しにはどういう洗濯物がぶら下がっていて、窓からどういう景色が見えるんだろうとか、そういう興味とか想像力というものが最終的には必要だと思うんですよね。どれだけ色んなアルバイトをして、どれだけ汚いことをしているかとか、そういう経験が生きることもあるんだろうけど、最終的に必要なのは想像力だと思います。

学生:今まで出会った役者さんの中で、「この人はすごいな」とか、「まだ仕事をしたことはないけれども、この人と一緒にやってみたいな」と思える役者さんは誰ですか。

野沢: 『眠れる森』のときに、僕は最初にストーリーを作ったときに、主人公の生い立ちを作ったんですよね。何月に生まれて、その日には何が起こったかということを克明に書いた、主人公の生い立ち書というか。そういうものを作るんですよね。

 あのドラマでいうと、金大中氏が拉致された日に主人公の木村くんが生まれたということになったのかな。仲村トオルくんは、ケネディの弟だか兄だかの上院議員が日本にやってきて、早稲田講堂で講演をやった日だったかな。ちょっと違うかも知れないけど。要するに木村くんで言うと、金大中氏が拉致された日というのは、昭和のミステリーにおける非常にエポックメイキング的な日であると。現実ではそんなことはあり得ないんだけど、主人公はどこかミステリー的なものを背負っているというか。そういう人物の運命の線路を作るんですよね、僕は。

 そういう生い立ち書を木村くんが見たときに、やっぱりその時代のことを勉強するんですよね。金大中氏がどういう風に拉致されたのか、当時の日本の情勢はどうだったのかとか。そういう勉強をする役者はあまりいないけれども、そういう提示書を出す作家というのもなかなかいないから、彼は僕の期待に応えて、勉強してくれたというのがね。

 で、彼なりにキャラクターを作り上げてきて、その中で僕が「助かった」と思える点がいくつかあって、具体的に言うと、さっき言ったように『眠れる森』では主人公は脳挫傷で死んじゃうんだけれども、その二回前くらいに仲村トオル演じるサンタクロースにぶん殴られて、命がどんどん細っていくみたいなね。そういうことになっているんだけど、その死ぬラストシーンの前に、中山美穂に渡す花束を買いにいこうとして歩いている木村くんの後ろ姿が、突然ことっと転ぶんですよね。脳挫傷の前兆が現れているというシーンなんだけれども、それは僕の脚本にはなかったもので、多分彼が監督と相談して、そういうシーンを入れたらどうかと、伏線としてのそういうものを入れたらどうかと言ったんじゃないかと思うんですよね。そういう掘り下げ方をしてくれて、非常にありがたいと思うんだけれども、つまり脚本家・監督・役者のコラボレーションがうまくいったときに、非常にいい作品ができる。『眠れる森』が嫌いだという人もたくさんいるとは思うんですけれども、まあ、そういう作品でしたね。

 で、これからやってみたい役者というと…。女優さんでは二年半前に仕事をしたことがあるんだけれども、天海祐希さんですかね。何が魅力的かというと、やっぱり宝塚の男役をやって、非常に男みたいなサバサバしている人なんですけれども、女性の持つ切なさとか悲しみとか、そういうものをうまく表現できる人なんですよね。そういう人というのはあまりいなくて、ああいう大柄で足音の聞こえるような女優さんが、女性の持つ切なさとかをあれだけ表現できるというのは、なかなかいない。僕はやっぱり彼女のためなら書きたいと思っていますけれども、まあそういうチャンスはなかなかないんですけど、女優でいえば彼女ですかね。

野沢尚氏の講演記録(13)

学生:野沢さんはテレビの脚本も映画の脚本も両方書いていると思うんですけれども、テレビと映画との脚本の作り方の最大の違いは何ですか。

野沢:最大の違いは作り方というよりも、まず映画というのはやっぱり監督のものですよね。なぜかというと、現実問題として映画というのは、非常に時間がかかるわけですよね。ですから監督が非常に時間をかけるわけ。準備期間に。それで希望を出す時間もたくさんあって、監督の希望が押し寄せてきて、それを何とか処理しなくちゃいけないという。でも、テレビドラマだとそんなに余裕がないから、後はプロデューサーに任せるという、テレビは割と作家を立ててくれるというか、作家の自由に任せる部分があるんですよね。時間がないっていうこともあるんだけど。

 

それからもうひとつの大きな違いは、映画というのはやっぱり映像で見せるものなんですよね。例えば映画の仕事でたくさんセリフを書くと、うるさいって言われるわけ。打ち合わせで。何でこんなに喋るんだと。映画っていうのは観るものなんだから、無言でいいじゃないかと。つまり映画というのはロングショットで見せるもので、テレビというのはクローズアップで見せるもの。クローズアップで主人公の喋っている顔をアップで見せるというのが、ドラマの仕事と言ってもいいと思うんですね。ドラマではセリフの力が要求されるから、作家がたくさん書かなければならない。だから作家の力が非常に重要視される。映画の場合は、空間づくりみたいなもの、ロングショットの作り方というのは、やはり監督の領域だから。僕にとっての作業工程みたいなものは、あまりどちらも関係ないし、小説もそういう風に作っているんだけれども、現実問題で言うと、ロングショットとクローズアップの違いとか、セリフが長いとか短いとか、まあそういう違いかな。一番簡単に言えば。

学生:僕は舞台をやっていて、脚本を自分で書いているんですけれども、何本か脚本を書いていると、全部同じ文章みたいになってしまうような気分になることがあるんですけれども、野沢さんはそういう風な気分になることはありますか。

野沢:色んな人のセリフを書いていて、同じになっちゃうっていうことだよね。それは第一稿を書き上げて打ち合わせをするときに、セリフの喋り方が違うとか、そういう指摘をよく受けるんですよね。

 それを何とかするには、最初からきちんとキャラクターを立てるにはどうしたらいいかというと、さっきもちょっと言ったけど、連続ドラマみたいな仕事になると、登場人物の生い立ちを作るわけね。生年月日もそうだし、どこで生まれたか、何歳が初恋だったのか、それがどういう風に終わったのか、最初の男性体験はいつだったのか、どういうところに就職して、どういう傷つき方をしたのか、どういう恋人ができて、どういう状況なのか。アパートはどういう間取りで、洗濯物はどこに干してあるのか、窓からはどういう景色が見えて、その景色を見たときどんな気分になるのか、何が不満なのかというようなことを、優秀な監督がいると一緒に雑談をして、キャラクターを作り上げていくんだけれども、そういうのをやればやるほど、主人公の喋り方が分かるんだよね。どういうセリフを喋るのか言葉使いをするのか、方言というのもそうだし、こういう環境に育ったから、こういう言葉を使うというのが、言葉の吟味をしていくうちに分かってくるわけ。

 だからちょっと迷ったときには、自分の最初に書いた生い立ち表というかプロットを読み返すという作業をやるよね。だからその前段階として、熱く主人公のキャラクターを作っているかどうかが勝負なんじゃないかなと思います。

学生:先ほどト書きが削られてしまうという話をされたんですけれども、やっぱり特にご自身が書かれたものをシナリオにする際に、特に小説だと、これだけ小説に書いて削りたくないと思っても、映像化にする際にいろんな制約があって削らなければいけないということもあると思うんですけれども、その辺でご自分とどう折り合いをつけていらっしゃるのかお聞きしたいんですが。

野沢:ええっとですね…これはちょっと話すと長くなってしまうと思うんですけれども、僕は自分の小説は絶対に他のライターには任せないんだよね。

 なぜかというと、誰一人として他の脚本家を信用してないから。自分以外に自分の小説をうまくできる人はいないと思ってる。だから自分一人でやるんだけれども、これまで僕は多分六十本くらい映画やドラマの脚本をやっていて、その三分の一くらいが他人の小説の脚色だったんだよね。中にはすごくうるさい原作者がいて、何でこういう表現をするのかとか、僕の書いたコピー台本に、作文みたいに添削を入れてきたりとか、それは森瑤子さんだったんだけれども、こんな表現をする脚色をされたらかなわないみたいに言われて傷ついたりとか、そういう時に思ったんだけど、原作を料理するときによくやるのは、否定してかかるんだよね。原作者に対して失礼なんだけれども、普通にはやっぱり何か削っていかなければいけないし、脚色の仕事っていうのはひとことで言うと、肉を削って骨を剥きだしにする作業なんだよね。いかに贅肉を切り落としていって、真っ白い骨っていう確信部分を伝えていくのが脚色っていう仕事で、ズバズバ容赦なく切っていくのが脚本家の本質なんだけれども。自分の原作小説をするときも、実はあんまり変わらないんだよね。非常に否定してかかるときがあって、それは書き上げてからだいぶ時間が経ってるってこともあるんだけど、映像化するために何を削らなければいけないか。

 今ちょうど『深紅』っていう、二年前に書いた小説を映画化しようとしてるんで、その構成を立てようとしているところなんだけど、それも二年経っているからかも知れないんだけど、かなり大胆な脚色の仕方ができるよね。脚色の仕方が、やっぱり二重人格になっているよね。原作者としては守りたい部分確かにはあるけれども、これはできないと。何でこんなセリフなんだと。これは小説の中の読み言葉じゃないかと。お前、声に出して喋ってみろと。脚本家は原作者に言うわけね。自分の中で。で、やっぱり読んでみると、それはやっぱり小説の喋り言葉で、映画の中で俳優が喋る言葉ではない。例えば「いわゆる」とかって、喋り言葉ではあまり言わないじゃない。

 原作者をどこかの時点で切り離して、脚本家という非常にわがままな存在になるんだよね。それは結構器用にやっているのかも知れないけれども、それは自分の小説をやるにしてもスタンスはあまり変わらなくて、とにかく穴を見つけるというか、隙間を見つけるというか、それをやっていますね。

学生:文芸学科の大原と申します。テレビドラマの視聴率が取れなくなったり、視聴者が離れているということに対して、野沢さんの危機感とか、打開案とか問題意識とか、そういうものがあったらお聞きしたいんですが。

野沢:最初にちょっと質問するけど、例えばあなたは自分が気に入ったドラマを観たときに、新聞やテレビジョンとかに視聴率が出ていますよね。そういうのを気にして観る人ですか? 気にしない方ですか?
例えば自分の目で選んで、そういうものを気にしないで観るタイプですか? 

 そういう人が多くなってほしいと思うですけれども、まあ確かに去年一年そうだったし、今もあんまり良くないかな。まあ僕の数字も悪かったですけれども、二年前は9.11があったんで、あのテロがあったんで、そっちの事件性に引っ張られたっていうこともあるし、もう十時になったらニュースステーションに行くみたいな、そういう現象なんだという風にテレビ関係者は言ってますが、僕は本数が多いと思います。どう考えても。ワンクール十六本、年にしたら六十本以上の新作が出るわけで、六十本がみんなこれまで見たことのないようなテレビドラマなんてできるわけはなくて、やっぱり六十本作るだけの役者がいないし、「お前、まだ主人公をやるには五年早いだろう」という俳優が主役をやってるし、やっぱり作家がいないよね。さっき「層が薄い」と言ったのもあるけれども。

 今の若い作家のデビューの仕方って、フジのコンクールである程度引っかかって、ファームがあるわけね。まあ、ちゃんとあるわけではないんだけれども。ファームクラスの作家予備軍がたくさんいて、ある日、連続ドラマを書いてる作家が途中でこけるわけね。僕も『おいしい関係』っていうテレビドラマをやったときに、途中で色々あって降りたんだけど、そこで何をしたかというと、若い作家に次の第六回か七回の脚本を、三人か四人に書かせるわけ。コンペなんだけど。要するにその中で面白いものを書いてきた人間をピックアップして書かせるみたいな、そういう予備軍がたくさんいて、ある日誰かが降りたとか病気になったとか、それをきっかけにして出てくるみたいな。それはよくプロ野球とか、サッカーの世界でもあるんだけれども、そういう形で出てくる予備軍はたくさんいるんだけれども、やっぱり顔が一緒だから、どうしてこの人がこれを書いてるのかなとか、何が言いたいのかなとか、スタイルは分かるんだけれども、何と抵抗してるのかなとか…。例えば松嶋菜々子と福山雅治がいると。視聴率取れると、テレビ局の話で、松嶋菜々子と喧嘩しながら恋愛になっていくと。そういう線があったとしても、第一回でそのキャラクターを全部出さなきゃいけないとか、登場人物の紹介を全部やらなきゃいけないとか、面白いエンディングをつけなきゃいけないとか、色んな制約を満たした上で、なにか一言、その作家らしいセリフがあればいいと思うんですよね。「これが書きたい」みたいなセリフがひとつあればいいんだけれども、例えばそういうものがなかったりするわけですよ。いま言った『美女か野獣』は、劣った作品だということはないんだけれども。あれはあれで面白い話だと思うし。話はちょっとずれたけれども、やっぱり人間が足りないよね。本数が多いし、でも作り続けなきゃいけないみたいなところで、首を絞めてると思ってます。

学生:文芸学科の生徒としてお聞きしたいんですけれども、野沢さんがものを作っていく上で、影響を受けた文学者は誰ですか。

野沢:僕は世界文学に非常に疎い作家で、小さなころからミステリーとかエンターテイメント系ばかり読んでいたんですけれども、例えばスティーブン・キングですね。何が好きかというと、最近の作品は一切読んでいないんですけれども、病的なほどの描写力ですね。人間のキャラクターをここまで描かなくても、というくらい書いてしまわないと気が済まないみたいな、やっぱりちょっとパラノイア的な傾向のある作家だと思うんだけれども、描写の厚みみたいなものにすごく影響を受けています。

 それと似た意味であれば三島由紀夫ですね。美文調というか、ひとつひとつの文章が芸術品になっているというところに。ただこれを真似しても、全く現代では通用しないということがある時期分かりましたけど。そのふたりがパッと出てきます。

 あと、恋愛小説を書こうとするときに目標とするものは、宮本輝さんの『錦繍』は、男と女が手紙を出し合うっていう書簡集文体の非常に短い恋愛小説ですけれども、非常に感銘を受けて、「これを越えるものを書きたい」といつも思っていますね。そんな感じですね。

清水:それでは残念ですけれども時間が来ましたので。それでは最後に拍手で。

野沢:またこういうチャンスがあれば。こういう風に喋ると自分も元気になるみたいな。要するにいつも密室の中にこもって、考えながら書いてる人間なんで、たまにこういう場に出てくるとね。今日はたくさん質問してもらったんで、嬉しかったです。

清水:どうもありがとうございました。

アンモナイトは何故丸いか?

(大森政秀「ギリギリス」)

【栗原隆浩】
2004年7月2日、「日本文学特論」(清水正教授担当)の課外授業において、私は初めて、舞踏の世界を実体験した。舞踏鑑賞は、私にとって長年来の念願であり、これまで漠然としたイメージのみで捉えてきた舞踏というものの実際を、今回肌で感じたことになる。

 私がかつて思い浮かべてきた、舞踏とは何であったのか。そして舞踏の実際と照らし合わせた場合、そのイメージと何が共通し、何が掛け離れていたのか、舞踏についての専門的知識のない人間として、今回、私個人に由来する、自己と舞踏との関わりという観点から、舞踏を掘り下げていきたい。 
 
 

私が舞踏というものの存在を知ったのは、高校時代に遡る。当時、アングラな臭いを漂わせる表現作品に関心を抱いていた私は、偶然書店で手にした映画の本の中に、「土方巽と暗黒舞踏団」と題された古いスチール写真を発見する。そこには、映画中のワンシーンとおぼしき場面で、人とも獣ともつかぬ、佇むひとりの男と、彼をとりまく異様な井出達の男女が、陰鬱な雰囲気を醸し出し、映し出されていた。

 悪夢の一場面を切り出したようなそのスチール写真は“土方巽・暗黒舞踏団”という物々しい響きとともに、私に憧憬とも畏怖ともつかぬ感情を呼び覚ました。それは誇張を伴ったまま、私の内部に沈殿していった。
 
 高校時代までの私を支配していたものは、実に「空想」に他ならなかった。自分が理性の上で納得できない物事は一切やらない(厳密には“やれない”)子供であった私は、自身が取り組むべき価値を見出せない行為に労を費やすはずもなく、結果として、同年代の子供が何の疑問も挟まずに行えた事柄の多くをすることが出来なかった。むしろ、常識的観点からすれば、疑問を挟むことがナンセンスだとされる価値をどこかで小馬鹿にし、解釈が幾通りにもなる、死や神と言った抽象的なものに関する思索や、自身も見たことがないアングラ作品の内容の思案に、進んで時間を割いた。
 
 私が現在研究している幻想漫画家、日野日出志に関しても、初めて目を通した小学生当時、私はそれらの作品に、周囲の友人達が欲していたような、スリルや恐怖を求めていた訳ではなかった。私は「悲劇」を捜していた。それも、悲劇が不条理で、悲劇の形が不可解であればあるほど、私の胸を打った。

「舞踏」「日野日出志」「見世物小屋」奇しくも幼いころ無意識に惹かれ、現在私の研究テーマとなっているこれら対象には、ある共通項がある。それは、役者と観客、事実と虚構、彼岸と此岸・・。相反するものを隔てる、現代においては、人々の認識の上では自明とされる価値基準として機能する、「境界」が曖昧で、それゆえに見る者に、神人混合・人獣混合を感じさせる点である。
 
 幼いころ私は、学校生活に付随する常識に照らし合わせれば意味不明で、それゆえに往々にして忌諱されるが、価値判断を鑑賞者に委ね、想像する余地を残した形式の表現作品だけが、私という存在を許容してくれるのだと、自覚ではなく、直感として知り得ていた。現実の上では、単なる木偶の坊に過ぎなかった私は、「土方巽と暗黒舞踏団」という、異様な姿をした者たちが映し出された一枚のスチール写真の中に、親近感と安息とを見出していた。それが、現在において、私が芸術に対して投げかける視線の、礎となったことは明白だ。
 
 公演終了後、今回同席された窪田尚先生に、私は以下の質問を投げかけてみた。

「先生は、舞踏に関する予備知識に照らし合わせてご覧になったんですか」窪田先生は首を横に振られた。

「そんな見方をしたらちっとも楽しくないよ。舞踏は、役者と客が、時間と空間を共有して楽しむものだよ」
 
 顔をドーランで白塗りにし、虚ろな目をした大森政秀氏が、客席をまたぎ、鼻息もかからんばかりに私の目前に接近してきた時、息苦しさと眩暈に襲われた感覚が甦る。氏が、巨大なアンモナイトの模型に頬擦りし、舌を這わせるシーンを分析して、私なりの解釈を当てはめることも可能だろう。だが、私の内部には、目の前で行われていることに対する言い知れぬ不安感と、「舞い、踏む」とも呼べぬこの一連の「出来事」に立ち合ったことへの疲労感が残ったのが事実である。

 しかし、時間が経つにつれ、私は、誰もが何気なく口にする“芸術鑑賞”という行為の、不確かさと拠り所のなさを考えるに及んだ。芸術作品を鑑賞する際、近年の私は、作品と、時間・空間を共有するというよりも、むしろその作品が一体何であるか、何と呼ばれるものであるかを把握し、征服しようと躍起になっていたことに思い至る。この場合、鑑賞者が最終的に帰結しようとしている到達点は、類推や分類に近い。それら行為は無論、全否定されるべき要素ではない。だが、そのアプローチでは、美術館や舞台といった、ライブで芸術表現を鑑賞する意義は、限りなく希薄にならざるを得ない。
 
 舞踏とは何であるのか。舞踏だけが、鑑賞者に問い掛け得るものがあるとすれば、それは決してビデオや本のみでは伝わりきらない。そして舞踏の鑑賞は、本来、舞踏関係者やマニアだけでなく、仕事帰りのサラリーマンや主婦、学生が見ても何ら遜色のないもののはずである。アンモナイトは何故丸い、という命題に思いを馳せ、結論を出すことは、我々ひとりひとりに課せられた義務であり特権だということ、そして舞踏の世界を構成する重要な要素、緻密な舞台装置と演出によって、我々は舞踏家と、時間と空間を共有できるのであった。

アンモナイトは何故丸いか?

(大森政秀「ギリギリス」)

【栗原隆浩】
2004年7月2日、「日本文学特論」(清水正教授担当)の課外授業において、私は初めて、舞踏の世界を実体験した。舞踏鑑賞は、私にとって長年来の念願であり、これまで漠然としたイメージのみで捉えてきた舞踏というものの実際を、今回肌で感じたことになる。

 私がかつて思い浮かべてきた、舞踏とは何であったのか。そして舞踏の実際と照らし合わせた場合、そのイメージと何が共通し、何が掛け離れていたのか、舞踏についての専門的知識のない人間として、今回、私個人に由来する、自己と舞踏との関わりという観点から、舞踏を掘り下げていきたい。 
 
 

私が舞踏というものの存在を知ったのは、高校時代に遡る。当時、アングラな臭いを漂わせる表現作品に関心を抱いていた私は、偶然書店で手にした映画の本の中に、「土方巽と暗黒舞踏団」と題された古いスチール写真を発見する。そこには、映画中のワンシーンとおぼしき場面で、人とも獣ともつかぬ、佇むひとりの男と、彼をとりまく異様な井出達の男女が、陰鬱な雰囲気を醸し出し、映し出されていた。

 悪夢の一場面を切り出したようなそのスチール写真は“土方巽・暗黒舞踏団”という物々しい響きとともに、私に憧憬とも畏怖ともつかぬ感情を呼び覚ました。それは誇張を伴ったまま、私の内部に沈殿していった。
 
 高校時代までの私を支配していたものは、実に「空想」に他ならなかった。自分が理性の上で納得できない物事は一切やらない(厳密には“やれない”)子供であった私は、自身が取り組むべき価値を見出せない行為に労を費やすはずもなく、結果として、同年代の子供が何の疑問も挟まずに行えた事柄の多くをすることが出来なかった。むしろ、常識的観点からすれば、疑問を挟むことがナンセンスだとされる価値をどこかで小馬鹿にし、解釈が幾通りにもなる、死や神と言った抽象的なものに関する思索や、自身も見たことがないアングラ作品の内容の思案に、進んで時間を割いた。
 
 私が現在研究している幻想漫画家、日野日出志に関しても、初めて目を通した小学生当時、私はそれらの作品に、周囲の友人達が欲していたような、スリルや恐怖を求めていた訳ではなかった。私は「悲劇」を捜していた。それも、悲劇が不条理で、悲劇の形が不可解であればあるほど、私の胸を打った。

「舞踏」「日野日出志」「見世物小屋」奇しくも幼いころ無意識に惹かれ、現在私の研究テーマとなっているこれら対象には、ある共通項がある。それは、役者と観客、事実と虚構、彼岸と此岸・・。相反するものを隔てる、現代においては、人々の認識の上では自明とされる価値基準として機能する、「境界」が曖昧で、それゆえに見る者に、神人混合・人獣混合を感じさせる点である。
 
 幼いころ私は、学校生活に付随する常識に照らし合わせれば意味不明で、それゆえに往々にして忌諱されるが、価値判断を鑑賞者に委ね、想像する余地を残した形式の表現作品だけが、私という存在を許容してくれるのだと、自覚ではなく、直感として知り得ていた。現実の上では、単なる木偶の坊に過ぎなかった私は、「土方巽と暗黒舞踏団」という、異様な姿をした者たちが映し出された一枚のスチール写真の中に、親近感と安息とを見出していた。それが、現在において、私が芸術に対して投げかける視線の、礎となったことは明白だ。
 
 公演終了後、今回同席された窪田尚先生に、私は以下の質問を投げかけてみた。

「先生は、舞踏に関する予備知識に照らし合わせてご覧になったんですか」窪田先生は首を横に振られた。

「そんな見方をしたらちっとも楽しくないよ。舞踏は、役者と客が、時間と空間を共有して楽しむものだよ」
 
 顔をドーランで白塗りにし、虚ろな目をした大森政秀氏が、客席をまたぎ、鼻息もかからんばかりに私の目前に接近してきた時、息苦しさと眩暈に襲われた感覚が甦る。氏が、巨大なアンモナイトの模型に頬擦りし、舌を這わせるシーンを分析して、私なりの解釈を当てはめることも可能だろう。だが、私の内部には、目の前で行われていることに対する言い知れぬ不安感と、「舞い、踏む」とも呼べぬこの一連の「出来事」に立ち合ったことへの疲労感が残ったのが事実である。

 しかし、時間が経つにつれ、私は、誰もが何気なく口にする“芸術鑑賞”という行為の、不確かさと拠り所のなさを考えるに及んだ。芸術作品を鑑賞する際、近年の私は、作品と、時間・空間を共有するというよりも、むしろその作品が一体何であるか、何と呼ばれるものであるかを把握し、征服しようと躍起になっていたことに思い至る。この場合、鑑賞者が最終的に帰結しようとしている到達点は、類推や分類に近い。それら行為は無論、全否定されるべき要素ではない。だが、そのアプローチでは、美術館や舞台といった、ライブで芸術表現を鑑賞する意義は、限りなく希薄にならざるを得ない。
 
 舞踏とは何であるのか。舞踏だけが、鑑賞者に問い掛け得るものがあるとすれば、それは決してビデオや本のみでは伝わりきらない。そして舞踏の鑑賞は、本来、舞踏関係者やマニアだけでなく、仕事帰りのサラリーマンや主婦、学生が見ても何ら遜色のないもののはずである。アンモナイトは何故丸い、という命題に思いを馳せ、結論を出すことは、我々ひとりひとりに課せられた義務であり特権だということ、そして舞踏の世界を構成する重要な要素、緻密な舞台装置と演出によって、我々は舞踏家と、時間と空間を共有できるのであった。

『城の崎にて』を読む(2)

ところで主語がないのはどういうことを意味しているのだろうか。一人称主体は英語ではアイ、フランス語ではジュ、ドイツ語ではイッヒ、ロシア語ではヤーである。要するに一人称主体はただ一つの言葉で表現される。ところが日本語においては〈わたくし〉〈わたし〉〈あたい〉〈おれ〉〈おいら〉〈わがはい〉〈ぼく〉〈じぶん〉〈われ〉などと発音し、それは漢字、平仮名、片仮名で表記される。なぜ日本語は複数の一人称表記があるのか。唯一神を信仰する者たちにとって、一人称主体はまずは〈神〉に対してある。ところが日本人の大半は八百万の神々を信仰する民族であり、一人称主体は絶対的な〈唯一神〉に向かってはいない。日本人は要するに自分が関わる他人との関係において一人称の表現を変える。女性は〈わたし〉および〈あたし〉など限定された主体表現にとどまるが、男性の場合は〈わたくし〉〈ぼく〉〈おれ〉など、関わる他者との関係や場所によって変える。取引先の相手や上梓に対しては〈わたくし〉〈わたし〉、友人や同僚や対しては〈ぼく〉〈おれ〉、くだけた宴会の席などにおいては〈ぼく〉〈おれ〉というように、日本人の男性が一人称表現をただ一つに限定していることは極めて稀である。西洋が〈罪〉の文化、日本が〈恥〉の文化と言われるのも、前者が〈唯一神〉を、後者が〈他人〉を意識していることによる。日本においてテレビが急速に普及したのはプロレスラー力道山の活躍と、テレビにアンテナがついていたことにあると言われている。シャープ兄弟という白人の大男二人を最後の最後に空手チョップで叩きのめす力道山の雄姿は、アメリカに戦争で負けた日本人の大いなる憂さ晴らしになった。敗戦後、テレビの前でプロレス観戦していたすべての日本人が力道山の空手チョップに熱狂的な喝采を送ったし、その空手チョップを観たいがためにテレビを購入したのである。テレビを購入した家の屋根には誇らしげにアンテナが立てられ、それを見た近所の人々は購買欲を刺激されたのである。かくのごとく、日本人は不断に近所の人や世間の目を意識しながら、なるべく恥をかかないようにと生きている。

 

ここに引用した志賀直哉の文章に主語がないということは、彼が〈唯一神〉も〈他存在〉も一向に気にしていなかったことを示している。このことを念頭に起きながら次の叙述を見てみよう。

  一人きりで誰も話相手はない。読むか書くか、ぼんやりと部屋の前の椅子に腰かけて山だの往来だのを見ているか、それでなければ散歩で暮していた。散歩する所は町から小さい流れについて少しずつ登りになった路にいい所があった。山の裾を廻っているあたりの小さな潭になった所に山女が沢山集っている。そして尚よく見ると、足に毛の生えた大きな川蟹が石のように凝然としているのを見つける事がある。夕方の食事前にはよくこの路を歩いて来た。冷々とした夕方、淋しい秋の山峡を小さい清い流れについて行く時考える事はやはり沈んだ事が多かった。淋しい考だった。然しそれには静かないい気持がある。(24)

 ここで初めて一人称主体〈自分は〉が現れる。志賀直哉が一人称主体を〈私〉とか〈僕〉〈俺〉ではなく〈自分〉と表記していることに注意したい。先ほど指摘したように、日本人男性の多くは一人称主体を相手や場所によって使い分ける。ここで手記の主体が一人称主体を〈自分〉と表記しているのは、彼が世間や場所を配慮していないことを示している。志賀直哉も、志賀直哉の描く主人公も、元来きわめて我儘な性格でひとのことなどはじめから配慮しない傾向があるが、この作品の〈主人公=手記の主体〉もまたその例外ではない。彼が興味を持っているのは〈自分〉のことであり、〈自分〉を他者がどう思っているかなどということには全く関心がない。

 彼は後養生のため但馬の温泉宿でただ一人、本を読んだり書いたりしているのであるから、とうぜん他人のことなど気にする必要はない。なにしろ彼は、経済的に恵まれた家のお坊ちゃんであるから、宿賃の心配などしなくていいし、他人の心を詮索する必要もない。ただただ自分自身と向き合って、贅沢過ぎる孤独を味わっていればいいのである。人との関係を絶ってしまえば、他人との関係において決定される一人称主体(〈私〉や〈僕〉や〈俺〉など)も必要がない。彼は自分自身と向き合う生活をしているのであるから、そこで自然に一人称主体は〈自分〉となったのである。

2004年7月 3日

『城の崎にて』を読む(3)

自分〉という一人称主体が消失している場面においては、彼は自然の事物そのものと溶化していると言ってもよい。小さな潭にたくさん集まっている〈山女〉、石のように凝っとしている〈川蟹〉・・と〈自分〉は別ものではない。〈自分〉が〈山女〉や〈沢蟹〉を見つめているのではない。〈自分〉は〈山女〉や〈沢蟹〉と同じ地平にある。「小さい流れについて少しずつ登りになった路」を散歩する〈自分〉と「山の裾を廻っているあたりの小さな潭になったなった所」に集まっている〈山女〉は、大きな自然の中に生息する生き物として同等である。「石のように凝然としている」〈川蟹〉も、「一人きりで誰も話相手はない」〈自分〉と同じような存在としてとらえられている。換言すれば、〈山女〉も〈川蟹〉も他者としてではなく、〈自分〉の一部としてとらえられている。〈山女〉は〈山女〉、〈川蟹〉は〈川蟹〉であるが、同時にそれらは〈自分〉なのである。

 

静かだ。彼は「冷々とした夕方、淋しい秋の山峡を小さい清い流れについて行く」。冷々とした夕方〉〈淋しい秋の山峡〉〈小さい清い流れ〉・・文章を分解してみると、彼が今、どのような心境にあるのかがよりはっきりとする。人生の黄昏時・・山手線の電車に跳飛ばされ九死に一生を得た彼は、未だ年齢的には三十歳前半の若さにもかかわらず、実に死と親和性を持った晩年の心境を生きている。〈小さい清い流れ〉は彼が一途に求めた人生の真実の隠喩となっている。この清い流れを遡って〈小さい潭〉に集まった〈山女〉は〈自分〉であり、そしてその場に〈石〉のように凝っとしている〈川蟹〉も〈自分〉である。〈石〉とは〈死〉、および〈死〉に限りなく近づいたものの隠喩である。が、〈足に毛の生えた大きな川蟹〉には旺盛な生命力を感じる。この〈川蟹〉は〈石〉のように凝っとしているが、その内に限りない生命力を湛えている。大いなる生命力の保持がそのまま〈死〉の静かさを獲得している。女性的存在である〈山女〉が集まった〈小さな潭〉の底に、この父性的な〈足に毛の生えた大きな川蟹〉が〈石〉のように凝っとしているという、その構図がまことに暗示的で面白い。「足に毛の生えた」という形容に性的なイメージを抱くのはわたしだけではなかろう。この〈川蟹〉には大いなる父性的エロスを感じる。〈小さな潭〉の底にこの〈大きな川蟹〉を発見する彼は、〈冷々とした夕方〉(比喩的には人生の黄昏時)にあっても、実は旺盛な生命力を潜めている。

 彼が散歩していたのは、象徴的な文脈で解すれば〈膣〉(小さい流れ)を通って〈母胎〉(小さな潭)へと到るコースである。人が母胎回帰の願望に捕らわれるのは精神的にも身体的にも追い詰められた時である。窮地に追い込まれた人間は、苦しい現実を回避して至福の時空(母胎)へと回帰しようと図る。しかし母胎回帰の願望はそう簡単には進まない。母胎回帰を実現するためには、母の伴侶である〈父〉を始末しなければならない。〈父〉との戦いに勝利しなければ母胎回帰は挫折するのである。先にわたしは、〈川蟹〉は彼を意味する〈自分〉でもあると指摘したが、さらにこの〈川蟹〉は彼が戦い勝利を収めなければならない〈父性的存在〉の隠喩ともとれる。つまり〈川蟹〉は〈自分〉でもあり
〈父〉でもある。

2004年7月 4日

『城の崎にて』を読む(4)

自分はよく怪我の事を考えた。一つ間違えば、今頃は青山の土の下に仰向けになって寝ているところだったなど思う。青い冷たい堅い顔をして、顔の傷も背中の傷もそのままで。祖父や母の死骸が傍にある。それももうお互に何の交渉もなく、・・こんな事が想い浮ぶ。それは淋しいが、それ程に自分を恐怖させない考だった。何時かはそうなる。それが何時か?・・今まではそんな事を思って、その「何時か」を知らず知らず遠い先の事にしていた。然し今は、それが本統に何時か知れないような気がして来た。自分は死ぬ筈だったのを助かった、何かが自分を殺さなかった、自分には仕なければならぬ仕事があるのだ、・・中学で習ったロード・クライヴという本に、クライヴがそう思う事によって激励される事が書いてあった。実は自分もそういう風に危うかった出来事を感じたかった。そんな気もした。然し妙に自分の心は静まって了った。自分の心には、何かしら死に対する親しみが起っていた。(24~25)

 

彼が〈考える事〉は〈沈んだ事〉〈淋しい考〉〈怪我の事〉である。しかし彼はここで〈沈んだ事〉〈淋しい考〉について具体的に記すことはない。九死に一生を得た〈怪我の事〉が同時に〈沈んだ事〉〈淋しい考〉に繋がっているとも考えられるが、しかしそれだけではないようにも思える。彼は〈沈んだ事〉〈淋しい考〉について完璧に省略してしまったようにも思える。志賀直哉の読者は『濁った頭』『大津順吉』『和解』『或る男、其姉の死』『暗夜行路』などの作品において、父と息子の確執のドラマを知っている。父と息子はお互いの死さえ願っている者として描かれる。そういった確執に纏わることを、彼は〈沈んだ事〉〈淋しい考〉という言葉の内に封じ込んでいたかもしれない。

 彼がここで問題にしているのは〈怪我〉のことであり、自分の死に関してである。彼は書く「一つ間違えば、今頃は青山の土の下に仰向けになって寝ているところだったなどと思う。青い冷たい堅い顔をして、顔の傷も背中の傷もそのままで」と。ここに書かれている〈青い冷たい堅い顔〉とは、父との確執を残したままの〈顔〉という風に解せる。「顔の傷も背中の傷もそのままで」とは、彼にとって〈死〉は死であって、キリスト教で言う〈復活〉とは無縁の単なる死を意味している。そこにはいかなる救いの概念も、祈りの感情もない。死は単なる生の終わりに過ぎない。生のドラマが終われば、生きた者との交渉はすべて終わる。死者は死者の傍らに葬られるだけである。しかも彼は、死者は死者と交わるという考えもない。「祖父や母の死骸が傍にある。それももうお互に何の交渉もなく」と彼は書いている。志賀直哉は十七歳から七年間も内村鑑三に師事してキリスト教の教えに接していた。が、彼の生死観にキリスト教の影響は微塵もない。死ねば死んだ死体があるのみ。肉体は滅びても魂は存在するという考えすらない。彼が生前愛していた実母、生前尊敬していた祖父も、死んだからといって魂の交流ができるわけではない。彼は死にいかなる希望も寄せていない。換言すれば、彼にとって生こそが唯一の舞台であり、来世を信ずる心は全くない。こういった信心のない男は、いざ自らの死に直面したときには大きな恐怖にとらわれるであろう。

 彼はまだ若い。彼を『城の崎にて』執筆時の志賀直哉と重ね合わせるなら、まだ三十歳半ばであり、電車に跳飛ばされ〈怪我〉を負ったとは言え、死を免れた存在である。彼は「自分の心には、何かしら死に対する親しみが起っていた」と書いているが、それは死の恐怖から遠ざかった者の言葉であり、心境の吐露である。

 

『城の崎にて』を読む(4)

自分はよく怪我の事を考えた。一つ間違えば、今頃は青山の土の下に仰向けになって寝ているところだったなど思う。青い冷たい堅い顔をして、顔の傷も背中の傷もそのままで。祖父や母の死骸が傍にある。それももうお互に何の交渉もなく、・・こんな事が想い浮ぶ。それは淋しいが、それ程に自分を恐怖させない考だった。何時かはそうなる。それが何時か?・・今まではそんな事を思って、その「何時か」を知らず知らず遠い先の事にしていた。然し今は、それが本統に何時か知れないような気がして来た。自分は死ぬ筈だったのを助かった、何かが自分を殺さなかった、自分には仕なければならぬ仕事があるのだ、・・中学で習ったロード・クライヴという本に、クライヴがそう思う事によって激励される事が書いてあった。実は自分もそういう風に危うかった出来事を感じたかった。そんな気もした。然し妙に自分の心は静まって了った。自分の心には、何かしら死に対する親しみが起っていた。(24~25)

 

彼が〈考える事〉は〈沈んだ事〉〈淋しい考〉〈怪我の事〉である。しかし彼はここで〈沈んだ事〉〈淋しい考〉について具体的に記すことはない。九死に一生を得た〈怪我の事〉が同時に〈沈んだ事〉〈淋しい考〉に繋がっているとも考えられるが、しかしそれだけではないようにも思える。彼は〈沈んだ事〉〈淋しい考〉について完璧に省略してしまったようにも思える。志賀直哉の読者は『濁った頭』『大津順吉』『和解』『或る男、其姉の死』『暗夜行路』などの作品において、父と息子の確執のドラマを知っている。父と息子はお互いの死さえ願っている者として描かれる。そういった確執に纏わることを、彼は〈沈んだ事〉〈淋しい考〉という言葉の内に封じ込んでいたかもしれない。

 彼がここで問題にしているのは〈怪我〉のことであり、自分の死に関してである。彼は書く「一つ間違えば、今頃は青山の土の下に仰向けになって寝ているところだったなどと思う。青い冷たい堅い顔をして、顔の傷も背中の傷もそのままで」と。ここに書かれている〈青い冷たい堅い顔〉とは、父との確執を残したままの〈顔〉という風に解せる。「顔の傷も背中の傷もそのままで」とは、彼にとって〈死〉は死であって、キリスト教で言う〈復活〉とは無縁の単なる死を意味している。そこにはいかなる救いの概念も、祈りの感情もない。死は単なる生の終わりに過ぎない。生のドラマが終われば、生きた者との交渉はすべて終わる。死者は死者の傍らに葬られるだけである。しかも彼は、死者は死者と交わるという考えもない。「祖父や母の死骸が傍にある。それももうお互に何の交渉もなく」と彼は書いている。志賀直哉は十七歳から七年間も内村鑑三に師事してキリスト教の教えに接していた。が、彼の生死観にキリスト教の影響は微塵もない。死ねば死んだ死体があるのみ。肉体は滅びても魂は存在するという考えすらない。彼が生前愛していた実母、生前尊敬していた祖父も、死んだからといって魂の交流ができるわけではない。彼は死にいかなる希望も寄せていない。換言すれば、彼にとって生こそが唯一の舞台であり、来世を信ずる心は全くない。こういった信心のない男は、いざ自らの死に直面したときには大きな恐怖にとらわれるであろう。

 彼はまだ若い。彼を『城の崎にて』執筆時の志賀直哉と重ね合わせるなら、まだ三十歳半ばであり、電車に跳飛ばされ〈怪我〉を負ったとは言え、死を免れた存在である。彼は「自分の心には、何かしら死に対する親しみが起っていた」と書いているが、それは死の恐怖から遠ざかった者の言葉であり、心境の吐露である。

2004年7月 5日

『城の崎にて』を読む(5)

『城の崎にて』を読む(5)
彼は死後の世界に魂の存在を認めず、人間の死に復活の可能性を認めなかった。にもかかわらず彼は「何かが自分を殺さなかった」と書いている。〈何か〉とはなんなのだ。彼を電車に跳飛ばさせながら、なお生かさせている〈何か〉とは。彼は人知では計り知れない〈何か〉を感じながら、死後の世界も復活も信じない人知に従っている。それでいながら彼はそのことの矛盾には気づかない。彼は、自分の存在を大きなものとして認めたがっている。しかし彼はその保証をいかなる他人にも求めない。彼は「自分には仕なければならぬ仕事がある」と思っている。その仕事は、ここでははっきりと書かれていないが、おそらく人類の歴史に残るような大きな仕事として考えられている。自分がこの世でなし遂げなければならない使命、それを感じているのは自分であり、自分が思えばそれでよいのである。彼が「何かが自分を殺さなかった」と言う時、その〈何か〉とは自分の存在を超越した存在というより、それもまた自分の中に潜んだ〈何か〉としてとらえられていたような感じがする。彼は世界の事象に眼に見えぬ神秘を感じて畏怖を覚えるような男ではなく、あくまでも自分の力を頼む自惚れ屋である。

 

否、彼は自分自身が「何かが自分を殺さなかった」と感じたわけではない。この言葉は彼が中学の時に習ったロード・クライヴの本の中に書いてあったことだ。彼はこのクライヴの言葉を思い出し「実は自分もそういう風に危うかった出来事を感じたかった。そんな気もした」と書くに止まっている。彼は神秘家ではない。彼は言わば一人の常識人であり、分別や理性的判断を越えた神秘をそのまま認めるようはことはしない。ただ「そんな気もした」だけである。しかし彼が「自分には仕なければならぬ仕事があるのだ」と思っていたことに間違いはない。彼は怪我の後養生にのみ但馬温泉に逗留していたわけではないだろう。〈読むか書くか〉これが彼の仕事である。彼は小説家としての仕事をしなければならない。自分が一命をとどめたのは或る〈何か〉の働きではなく、単なる偶然であったとしても、彼が〈仕なければならぬ仕事〉を深く自覚していたことは言うまでもない。

 「然し妙に自分の心は静まって了った」と彼は続ける。彼は、自分を殺さなかった〈何か〉、人知では量り知れぬ神秘、人間を超越した或る何かを感じて現実から遊離することはない。彼は瞑想に耽るような宗教家のタイプではない。彼は人間は誰もが死んでしまうというその事実を冷徹に認めるだけである。その冷徹に見据えられた〈死〉に彼は〈親しみ〉を感じている。「祖父や母の死骸が傍にある」・・つまり彼にとって〈死〉は〈死骸〉という純粋な〈もの〉であって、それは永遠に滅びることのない魂とか、復活を約束するものではない。死に対して潔い態度と言えるかもしれない。生きてこの世にある者は、死後の世界を知らず、死んで蘇ってきた者を知らない。キリスト教に関心のある者で、イエスが起こした前後未曾有の一大奇跡、死後四日もたって死臭を放っていたラザロの復活を知らない者はいない。しかし、その復活したラザロも今日の世に生き続けているわけではない。イエスによって蘇生して来たラザロもまた再び死の淵へと呑み込まれて行ったのだ。元内村鑑三の弟子(なまぬるい基督信徒)であった志賀直哉は、小説の中で〈罪〉を〈罰〉を〈復活〉を真っ正面から取り上げることはなかった。イエスの言葉「わたしは命であり、復活である。生きて私を信ずる者は永遠に死ぬことはない」を文字通り信ずるキリスト者にとって、死はもちろん単なる死ではない。〈姦淫の罪〉に躓いて内村鑑三の元を離れた志賀直哉は、以後〈罪〉や〈魂の永世〉について掘り下げることはなかった。彼は死は死でしかないという考え、先に死んだ者の死骸の傍に自分の死骸が置かれるだけだという考えを〈淋しい〉と感じるが、しかし同時に「それ程に自分を恐怖させない考えだった」とも書いている。

2004年7月 6日

『城の崎にて』を読む(6)

志賀直哉は『大津順吉』の中で順吉が石膏の女にたびたび接吻していたことを記しているが、直哉は生身の女以上に〈もの〉に感応する傾向があった。石膏の女は美しい〈もの〉である。それは生身の女よりはるかに美しい、理想美の典型である。志賀直哉は美しい〈もの〉に憧れ、それを自分のものにしたいという切ない願望にとらわれる。石膏の女が生身の女(貴族主義の混血娘お絹)の代用であった可能性もあるが、しかし同時にこの美しい〈もの〉が生身の女をはるかに超えた存在であったことも確かなのである。

 

死に対して何の幻想も抱かないこと、これはこれで一つの潔い生のあり方である。しかし生が謎に満ちており、生の神秘を解きあかすことのできない人間が、来世や復活を信ぜず、単に死を〈死骸〉の次元で把握して充足することができるのだろうか。志賀直哉は最初の本『留女』を祖母に捧げ、『大津順吉』を故母に捧げている。死んで墓場に葬られている母に著書を捧げるその心境を探ってみれば、畢竟直哉もまた死者の霊の存在を信じていたということになるのではないか。もしそうでないというのであれば、故母に捧げる好意は自己満足に堕する。死んでも生きている或る〈何か〉を感じるからこそ、志賀直哉は自らの著作を故母に捧げたのではないか。何も質面倒な理屈はいらない。先日、高田馬場の古本屋街を歩いたおり、近代文学研究書の専門店「平野書店」に立ち寄り志賀直哉関係の本を探した。棚から手にした『   』(     )に「   母に捧げる」という文字を見たとき、素朴に胸が熱くなった。志賀直哉は祖母留女に育てられ、彼女に対する愛は疑いようもないが、しかし生みの母銀をそれ以上に愛していたことも確かであろう。

十三歳で母を亡くした直哉の悲しみは想像を絶するものがある。直哉は祖母や義母の手前、母銀に対するその悲しみを深く押さえ込んでしまったのではないかとさえ思う。小説家にとって最も大事なのは自分の作品である。その最初の作品集を祖母に捧げ、二番目の作品集を母銀に捧げているのも、直哉の律儀と誠実を感じる。

  自分の部屋は二階で、隣のない、割に静かな座敷だった。読み書きに疲れるとよく縁の椅子に出た。脇が玄関の屋根で、それが家へ接続する所が羽目になっている。その羽目の中に蜂の巣があるらしい。虎斑の大きな肥った蜂が天気さえよければ、朝から暮近くまで毎日忙しそうに働いていた。蜂は羽目のあわいから摩抜けて出ると、一ト先ず玄関の屋根に下りた。其処で羽根や触覚を前足や後足で叮嚀に調えると、少し歩きまわる奴もあるが、直ぐ細長い羽根を両方へしっかりと張ってぶーんと飛び立つ。飛立つと急に早くなって飛んで行く。植込みの八つ手の花が丁度咲きかけで蜂はそれに群っていた。自分は退屈すると、よく欄干から蜂の出入りを眺めていた。(25)

 彼は隣のない静かな座敷で、読み書きだけの静かな時を送っている。大袈裟な言い方をすれば、彼は時と一体化した時を過ごしている。こういった静謐な時間のただ中に居て、彼の眼差しは〈時〉(時の諸相)を見る。〈玄関の屋根〉〈羽目〉〈蜂の巣〉〈虎斑の大きな肥った蜂〉〈蜂の出入り〉・・すべては時のただ中の事象であり出来事である。彼は眼差し(カメラ)と化して時の諸相を写し取っている。彼はここで生物の〈蜂〉だけをとらえているのではない。〈縁の椅子〉や〈玄関の屋根〉といったものも、〈蜂〉や〈八つ手の花〉と共に、優劣なくとらえられている。彼の眼差しは物質も生物も等価なものとして写し取っている。あたかも彼は白い無垢なキャンバスにでもなったかのようである。

2004年7月 7日

『城の崎にて』を読む(7)

〈死に対する親しみ〉を持った眼差しでなければ、静謐な時の諸相を写し取ることはできない。蜂が「細長い羽根を両方へしっかりと張ってぶーんと飛び立つ」その〈ぶーん〉という羽音は、〈音〉ではなく静謐な時の効果音なのである。彼は〈死〉に匹敵するこの世の〈無音〉の事象を写し取っている。

  或朝の事、自分は一疋の蜂が玄関の屋根で死んでいるのを見つけた。足を腹の下にぴったりとつけ、触角はだらしなく顔へたれ下がっていた。他の蜂は一向に冷淡だった。巣の出入りに忙しくその傍を這いまわるが全く拘泥する様子はなかった。忙しく立働いている蜂は如何にも生きている物という感じを与えた。その傍に一疋、朝も昼も夕も、見る度に一つ所に全く動かずに俯向きに転っているのを見ると、それが又如何にも死んだものという感じを与えるのだ。それは三日程そのままになっていた。それは見ていて、如何にも静かな感じを与えた。淋しかった。他の蜂が皆巣へ入ってしまった日暮、冷たい瓦の上に一つ残った死骸を見る事は淋しかった。然し、それは如何にも静かだった。(25~26)

 彼は或る朝、一疋の蜂が死んでいるのを見つける。彼の眼差しは蜂の死(死骸)のあるがままを姿を映し出す。彼は〈死〉に対する一言のコメントも発しない。この蜂はどうして死んだのか、争いがあったのか、事故なのか、寿命なのか、それにしてもなぜこの世に生まれたものは死ななければならないのか、死んだらどうなるのか、この死んでしまった蜂の仲間たちはこの死をどのように見ているのか……彼は何一つコメントしない。読者は彼の眼差し(カメラ)がとらえた蜂の死の現実を見せられるだけである。換言すれば、読者もまた彼の眼差しと一体化して〈蜂の死〉の現実を見据えることになる。
 「他の蜂は一向に冷淡だった。巣の出入りに忙しくその傍を這いまわるが全く拘泥する様子はなかった」・・蜂は仲間の死に対して冷淡なのであろうか。それとも彼の眼差しに冷淡と写っただけなのであろうか。生きている蜂の、死んだ蜂に対する〈冷淡〉を彼は責めているのではない。そこに〈悲しみ〉はなく、〈祈り〉はない。ましてや生きている蜂たちが死んだ蜂の復活など信じている様子は全く見えない。もしかしたら彼は蜂の〈冷淡〉に自分自身の〈冷淡〉を重ねていたのかもしれない。〈冷淡〉は愛憎を超えている。〈冷淡〉は自然そのものであり、〈自然の摂理〉に合致した感情とも言える。大袈裟に換言すれば、彼の眼差しは終始、どのような事があろうとも沈黙し続ける神の眼差しに重なっているということである。

 

2004年7月 8日

大森政秀の「ぎりぎりす」(アンモナイト)を観る

2004年7月3日(土曜)


舞踏の神にすべてを捧げ尽くした大森政秀

【清水正】
大森政秀の公演タイトル「ぎりぎりす」に何かただならぬものを感じて、七月二日、中野テルプシコールへと足を運んだ。公演前にこんなに緊張したことはない。やたらに喉が渇き、水を飲んだ。一番前の席につき、大森政秀の出番を待った。わたしの正面の壁には一本の立ち箒が置かれていた。壁の六箇所にビニール袋がとめられ、室内のかすかな風に揺れていた。舞台の右端に大きな手作りのアンモナイトが置かれていた。舞踏手が現れるまでの十数分、わたしはこれらわずかなモノを通して想像力の限りをつくすことになる。立てかけられた箒、風にかすかに揺らぐビニール袋、舞台の隅にうちすてられたアンモナイト……大森政秀はこれらとどのように絡み合うのか。


 思えば、大森政秀の公演を一番前の席で観たことはない。しかしこの日は眼前に舞踏手の姿を見たかった。午後七時十五分、大森政秀は入口のドアからその姿を現した。わたしは首を極端に左に傾け、その姿を凝視した。黒いズボンをはき、白いワイシャツを着込んで、舞踏手は入口から徐々に舞台へと進み出る。白塗りされた顔、手と足。一点を凝視して動かぬ目、その目は何かにとり憑かれたもののようである。足の指、一本一本に緊張が漲り、まるでその一本一本が独立した生き物のように動いている。黒いズボンに白い粉がつき、足や腕に茶色の線が塗られ、右手首に赤いゴム紐が結ばれている。眼前に見なければ見落としてしまう細かい演出である。とつぜん舞踏手は体から力を抜いて舞台を何周かする。緊張の極からの弛緩……しかし観客であるわたしに弛緩はない。舞踏手の弛緩においてすら、観客の緊張が崩れることはなかった。この日の大森政秀の舞踏に微塵の無駄は
なく、終始一貫した緊張の持続があった。

 第二場は幅広の黄色の帽子を被り、黒いドレスに身を包んだ大森政秀が左手の暗幕から現れる。ドレスを着た大森政秀の体全体に異様な緊張感が漲っている。男が女装するとはどういうことか。内なる女性と一体化しようとする衝動に身をまかせることか。源初の混沌から立ち上がったモノが舞台に現れたといった感じである。大野一雄の女装の姿には罪深い人間の深淵と同時に底知れぬ抱擁力を感じるが、大森政秀のそれは破壊的なエネルギーを内包した挑発的、挑戦的なものを感じる。女装の舞踏手は宇宙の核心の〈玉〉を蹴り上げ遊ぶ両性具有の道化とも見えるが、この何ものかにとり憑かれた道化こそは自らの出生を求めて彷徨う者でもある。

 アンモナイトは世界そのもの、宇宙の核心であり、命そのもの、女装の道化を産み落とした母なるものである。舞踏手はアンモナイトを愛撫し、その根源にもぐり込もうと頭を入れる。宇宙の命、根源的なる一者との合一、母胎回帰の試み、それは成功したかに見えるが、徹底して挫折したかにも見える。が、その試みに焦りは見られない。一種の深い断念を感じる。断念を内に潜め、宇宙の根源に合一化しようとする舞踏手の試みは、道化の仕種を限りなく逸脱して幼児の無垢を獲得し始める。アンモナイトの傍らに横になった舞踏手の寝姿には束の間の至福の時空が訪れる。しかし、そのまま永遠の眠りに落ちることはできない。舞踏手は再び立ち上がり、世界の中で狂おしく舞うて見せなければならない。額に浮かぶ汗に赤い涙が混じっているようにも見える。

 女装の舞踏手は宇宙のはぐれ者であるかのように舞い、蹴り、駆け、横たわり、抱きしめ、慟哭する。それら一連の舞いを通して舞踏手は自らの命の根源を問う。この世に誕生したすべての者がどこから来てどこへ行くのかを知らない。ただ漠然と、生の終わりは命の根源(カオス)へと戻るだけだという思いにかられることがある。しかし、アンモナイトの渦巻きを指でなぞって遡ってみても宇宙の根源に合体できるわけではない。アンモナイトを丸ごと抱えてだきしめてみても、母胎回帰がかなうわけでもない。母胎の宇宙で胎児の真似事を演じてみても所詮は徒労の行為に終わる。とり憑かれた舞踏手の姿に深い断念があり自意識の渦がある。

 大森政秀の舞踏に大野一雄に見られる歓喜はなく地獄はない。どろどろの底無しの沼から立ち上がってくる天使の姿もかいま見えない。しかし、今回の舞踏公演に大森政秀の〈祈り〉が見えた。自らの存在をキリストに擬して、あまたの人間を救いとろうとする、そんな人工的な祈りではない。自らの存在を救いとろうとする、まさにぎりぎりの祈りである。わたしはかつて大森政秀は自力志向の舞踏手だと指摘したことがある。彼の舞踏は計算されつくしており、一見、即興に見えるそれは実は予め緻密に計算された演出であったりする。もちろん今回の公演も基本的には同じであろう。しかし、何かが違う。緻密に計算された動きの微少な隙間を縫って立ち上がってくる何かがある。わたしはそれを〈祈り〉と感じた。もし大森政秀が〈祈り〉を予め計算の内に入れていたなら、わたしの心を動かすことはなかったろう。まさに祈りは計算の外からやってきた。その舞踏手の祈りにわたしの祈りが合致した瞬間、わたしの心が震えた。

 女装の舞踏手が舞台から姿を消し、しばし闇が覆った。闇こそ豊穣、光は闇の落ちこぼれと見るわたしの内で、今回の公演はこれで十分によかったと思った。第三場があることは容易に予想できたが、わたしは闇の中で心地よい沈黙の中に居た。

 かつて大森政秀の舞踏を観に来て、闇と音響を満喫したことがあった。極端なことを言えば、大森政秀の舞踏がいらないほど闇と音響が突出していた。が、今回、第一場において音響はなく、大森政秀の沈黙の舞踏のみで舞台に緊張を漲らせていた。舞踏に音響はつきものと思っていたが、今回、大森政秀は音響なしの舞踏において異様な〈沈黙〉の音を奏でていた。第二場、女装の大森政秀は言葉を発した。わたしは初めて公演中の大森政秀の声を耳にした。今まで舞踏において舞踏手の声を聞くことはなかっただけにある種の衝撃を覚えた。叫び、凝縮されたため息、詩の言葉のようにも聞こえたが、その声には何とも言えぬ憤怒と呪いと悲しみが込められていた。希望と無念と絶望が一本の鋭い槍となって中空に吐きだされた。この呪いと憤怒と悲しみの声に胸をえぐられる思いであった。

 闇の時空をこじ開けて第三場が始まった。全裸にエプロンだけを身につけて舞踏手は登場した。すこしコミカルな感じの衣装による舞踏であるが、緊張は持続している。第一場ですぐに感じたが、今回の大森政秀の体はしぼりにしぼった体とは言いがたかった。エロプン姿で観客に後ろを見せれば、舞踏手の体つきは一目瞭然である。が、多少肉のついたその体に、一部の隙も感じさせない精神の張りが漲っていた。弘田三枝子の「人形の家」が小屋全体に響きわたる。今、大森政秀は〈舞踏手〉という〈人形〉を舞いきって、そのすべてを〈あなた〉に捧げつくした。〈あなた〉とは〈暗黒舞踏〉であり〈舞姫〉の霊と感じた。白塗りの顔はまるで水を浴びたように汗と涙で濡れていた。

 土方巽、大野一雄、二人の巨大な暗黒舞踏家の後を継ぐ者はいないのか。土方巽は土方巽、大野一雄は大野一雄、彼らの舞踏は一代限りのものである。わたしは『土方巽を読む』の中でそのように書いた。わたしはすでに暗黒舞踏は終焉を迎えたのだとすら思った。

しかし、今回、大森政秀の舞踏にわたしは静かに感動していた。大森政秀は大森政秀の舞踏の形を完成したかに見える。この〈完成した形〉を深化させることが今後の大森政秀の課題となろうが、そんなことより何より、今、大森政秀が〈ぎりぎり〉の地点で自分の舞踏を徹底させたことに心動かされたのである。

【学生の声】 7月5日「マンガ論」

【今回のマンガ論には、特別講師として、漫画家の一峰大二(かずみねだいじ)先生と、その奥さんががいらっしゃった。「電人アロー」「黒い秘密兵器」「怪傑ライオン丸」「ウルトラマン(漫画版)」といった、一峰先生の代表作とそれにまつわるお話が、講義後半スライドによって紹介された。また、ジャンケンで勝ち残った受講生一名に、木箱入りの全集がプレゼントされた】

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7月5日の授業「マンガ論」(所沢キャンパスにて)に寄せられた学生からの声130件中から10件(原文のまま)を以下に紹介します。


“読者の何万秒もの時間をもらっている”という言葉が心に刻み込まれた。そのことを教えてくれた一峰大二先生に感謝(杉山泰朗・放送学科2年)

何十年も自分の仕事をしてきた男はかっこいいと思った。横で見守る奥さんとの信頼関係がすごいと思った。(田中大喜・文芸学科1年)


まさかこんなすごい先生のおはなしがきけるとは思いもしていなかったので、とても良い経験をさせてもらいました。(竹添麻衣子・文芸学科1年)

失礼ながらウルトラマンを知っていても一峰大二さんを知りませんでした。大学に入ってから色々なマンガ家さんのお話を聞く機会が多いのですが、十人十色の物語があってとても面白いです。ろうせきでの落書きは私も子供の頃よくやりました。でも最近は文章という分野にかたよりすぎて、「絵」というものから遠ざかっていた気がします。また描こうかなー。と思いました。(原彩子・文芸学科1年)

一峰先生がとてもいい人なので好感を持ちました。先生が描いたマンガを今度は自腹で買おうと思いました。一峰先生がけんそんして言う話しがとても楽しく、仕事をかっこよくしてる人だとすごく感じました。(榊祐人・文芸学科1年)

『その人のかけがえのない時間を、もらっている』という言葉がとても印象に残りました。私もサイト運営をしているのですが、時にむなしくなることもあります。でも、1秒でも見てくれる人がいることを幸せに思い頑張ろうと思いました。(柴田愛美・デザイン学科2年)

一峰先生はマンガを描く事に誇りを持っており、同時にとても楽しんでいるんだなと思いました。先生のマンガ家人生の話(大根役者の話)もそれを続けて努力していた先生は凄いと思いました。(渋谷由香利・文芸学科1年)

ある1つの事において、成功している人は、すごく壮絶な人生を送っているのだなと思い、がんばろうと思いました。(岩本真由子・演劇学科2年)

どのようにして漫画家になったか、漫画を描くとは一体どのような作業か。幼い頃の思い出話等、一峰先生の絵に対する想いを聞く事ができて、大変勉強になりました。「一秒でもあなた達の人生の一部をもらっている」という言葉がとても胸に響きました。今日はありがとうございました。(佐藤裕太・文芸学科1年)

とても素晴らしい方なのに、姿勢が謙虚で偉大さが感じられた。本当に貴重な体験ができたと思う。(平田実沙・文芸学科1年)


とても有意義な時間を過ごさせて頂きました。一峰先生は体が大きくなった子供という感じで、人が失ってしまいがちな純粋さと懸命さなどを失わずに持っている、とても素敵な方でした。普段自分がちょっと気恥ずかしくて口に出せないことを「いいんだよ」と背中を押して頂いた気がします。(蔵内彩季子・文芸学科1年)
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はじめて本物のマンガ家の方にお会いできてうれしかったです。読者がまんがをよむその時間が作者の方にとってとっても大切なのをはじめて気づかされました。今日はありがとうございました。(入谷有・放送学科1年)

『城の崎にて』を読む(8)

彼は見る眼差しと化して、蜂の生活に干渉しない。彼はひたすら見続ける。〈如何にも生きている物〉という感じを与える〈忙しく立働いている蜂〉、〈如何にも死んだもの〉という感じを与える〈一つ所に全く動かずに俯向きに転っている〉蜂、彼はその両者を見続ける。〈生きている物〉と〈死んだもの〉は〈物〉〈もの〉と表記分けはされているが、両者共に時のただ中の事象として等価である。〈生〉が〈死〉よりも素晴らしいわけではなく、〈死〉が〈生〉よりも際立って見すぼらしいわけでもない。ここでは〈生〉と〈死〉が見事に無関心である。〈生〉は〈生〉であるほかはなく、〈死〉は〈死〉であるほかはない。〈生〉の側に〈死〉に対する微塵の奢りがない。この場面を見ると、人間が愛する者の死に直面したときの〈悲しみ〉〈慟哭〉〈苦悩〉〈祈り〉すらもが奢りに思えてしまう。

 

「それは三日程そのままになっていた」・・元、基督者内村鑑三の弟子であった志賀直哉がこう書いている。死んで三日たったラザロはイエスの言葉に応じて蘇生した。彼は、朝も昼も夜も、三日間にわたってこの「全く動かずに俯向きに転がっている」蜂の死骸を見続けた。もしこの死体が蘇り、今再び仲間と共に八つ手の花に群がり飛ぶようなことがあれば、俺はすぐにキリストの門へと下るだろう、そんなことを彼が全く考えなかったとは言えまい。しかし彼はもはやそんなおとぎ話のような幻想に耽ることはできない。「冷たい瓦の上に一つ残った死骸を見る事は淋しかった。然し、それは如何にも静かだった」この言葉が彼の心境を率直に語っている。〈死〉は〈死〉でしかないという、その冷徹な現実をそのままに受け入れた心境であり、そこにはわめきも呻きもない。愛する者の死を受入れざるを得なかった者の淋しさ、静けさがそのままに伝わってくる。

  夜の間にひどい雨が降った。朝は晴れ、木の葉も地面も屋根も綺麗に洗われていた。蜂の死骸はもう其処になかった。今も巣の蜂共は元気に働いているが、死んだ蜂は雨樋を伝って地面へ流し出された事であろう。足は縮めたまま、触角は顔へこびりついたまま、多分泥にまみれて何処かで凝然としている事だろう。外界にそれを動かす次の変化が起るまでは死骸は凝然と其処にしているだろう。それとも蟻に曳かれて行くか。それにしろ、それは如何にも静かであった。忙しく忙しく働いてばかりいた蜂が全く動く事がなくなったのだから静かである。自分はその静かさに親しみを感じた。(26)

 彼が翌日の朝見たのは、復活の秘儀ではない。彼が見たのは夜の間の〈ひどい雨〉と朝の〈晴れ〉である。蜂の〈死骸〉は蘇生というキリスト教の復活劇の主役を張ることはできなかった。〈雨〉は〈木の葉〉も〈地面〉も〈屋根〉も綺麗に洗った。が、彼は夜の間の〈ひどい雨〉が蜂の死骸をも洗ったとは書いていない。彼は「蜂の死骸はもう其処になかった」と書くばかりである。〈其処〉にないということは、その蜂の死骸が「洗われ」たことを意味しない。彼は「死んだ蜂は雨樋を伝って地面へ流し出された事であろう。足は縮めたまま、触角は顔へこびりついたまま、多分泥にまみれて何処かで凝然としている事だろう」と書いた。この文章は面白い。何が面白いのか。先にわたしは彼は眼差し(カメラ)と化してあるがままの現実を映し出していると書いたばかりである。ところが、この文章は〈現実〉の描写ではない。「蜂の死骸はもう其処になかった」これは彼の眼差しがとらえた事実である。しかし次の文章は彼の推測であって事実ではない。現実を映し出す、そのリアリズムに徹していたかに見えた彼は、ここで現実から離れている。彼は「蜂の死骸はもう其処になかった」その事実から、蜂の復活を想像したりはしない。彼の想像は、雨に流され、泥にまみれて何処かで凝然としている蜂の死骸を思い描くだけである。

彼は死骸が蘇生するなどということははなから信じていない。「外界にそれを動かす次の変化が起るまでは死骸は凝然と其処にしているだろう」と彼は続ける。彼が言う〈外界にそれを動かす変化〉とは超越的な神的存在を意味しない。それはあくまでも自然の気象条件であったり、蜂の死骸を餌にする蟻の働きであったりする。彼は、時のただ中に起きるすべての事象を自然の摂理と見ており、そこに奇跡が介入することはない。〈死〉は〈死〉として自然の摂理の中に組み込まれた必然であり、〈死〉が再び〈生〉を獲得したりする奇跡は認められない。人間には復活を望む気持ちがある。しかし志賀直哉か苦しんだのは〈姦淫の罪〉であり、それは〈殺人の罪〉に値するというキリスト教の教えであった。

もし死後、人間が肉體を伴って復活するようなことがあれば、人間は再び〈姦淫の罪〉を犯さざるを得ないであろう。そんな復活は一向に救いにはならないと考えたのが志賀直哉である。彼は蜂の死骸が復活の曙光に輝くことなく、雨に流され、泥にまみれ、やがては蟻の餌になるか、朽ち果ててしまうであろう、そういった自然の流れの中で〈死〉を全うするしかないと考える。その考えを淋しく思うが、同時に彼はそれは如何にも静かであると感じている。〈静か〉とは、運命愛と言ってもよい。ニーチェの声高なそう病的な運命愛の宣言ではなく、志賀直哉は静かに、この世に誕生してきたもののすべてが等しく受け入れなければならない〈死〉を受け入れている。この心境は、運命と合致することを受け入れる心境であり、その静かさのうちに〈神〉に対する反逆の牙を潜めてはいない。志賀直哉は父との確執のただ中に生きながら、しかし自らの運命とはいち早く和解を達成したかのように見える。否、この『城の崎にて』(発表は大正六年五月)を書いていた頃にはすでに父との和解の境地に達していたのかもしれない。因みに『和解』の発表は大正六年の十月である。

「泥にまみれて何処かで凝然としている」蜂の〈死骸〉は、先に描かれた小さな潭になった所に「石のように凝然としている」〈足に毛の生えた大きな川蟹〉を想起させる。蜂の死骸も川蟹も〈凝然としている〉ことで同一のイメージを起こさせるわけだが、しかし前者はすでに死んでおり後者は未だ生きている、この点が両者の決定的な相違点である。

すでに指摘したように、彼は凝然としている蜂の〈死骸〉が、或る神秘的な働きによって蘇生するなどとは考えない。彼の推測はあくまでも物理的な考え方に則っている。「死んだ蜂は雨樋を伝って地面へ流し出された」のであって、それ以下でもそれ以上でもない。そこには〈死骸〉の復活を願う神秘的な思い入れもなければ、絶望もない。淡々として自然のあるがままの姿を受け入れている。

 しかし、にもかかわらずわたしの脳裏に、彼が心の奥底に押さえ込んだ何かが過る。その何かとは〈キリスト〉幻想である。わたしは志賀直哉が十七歳から七年もの間、内村鑑三の弟子であったことはかなり大きな拭いがたい影響を彼に刻印していると思う。多感な青春期を内村鑑三に師事したことの意味を軽んじることはできない。わたしは志賀直哉が「足は縮めたまま、触角は顔へこびりついたまま、多分泥にまみれて何処かで凝然としている事だろう」と書いた〈蜂の死骸〉が、まさに十字架から下ろされたばかりのキリストの死体に重なって見えるのである。

 ドストエフスキーは『白痴』の中でイッポリートという余命二週間を宣告された少年を登場させている。この少年はハンス・ホルバイン作『死せるキリスト』に関して「これは十字架にのぼるまでにも、限りない苦しみをなめ、傷や拷問や番人の鞭を受け、十字架を負って歩き、十字架にもとに倒れたときには愚民どもの笞を耐えしのんだあげく、最後には六時間におよぶ(少なくとも、ぼくの計算ではそれくらいになる)十字架の苦しみに耐えた、一個の人間の赤裸々な死体である。(略)その顔はすこしの容赦もなく描かれてある。そこにはただ自然があるばかりである。(略)この絵の顔は笞の打擲でおそろしく打ちくだかれ、ものすごい血みどろな青痣でふくれあがり、眼を見開いたままで、瞳はやぶにらみになっている。その大きく開かれた白眼はなんだか死人らしい、ガラス玉のような光を放っていた」と書いている。イッポリートは「こんな死体を眼の前にしながら、どうしてこの受難者が復活するなどと、信じることができたろうか?」という疑問にとらわれる。イッポリートはこの絵を見ながら〈自然〉が〈何かじつに巨大な、情け容赦もないもの言わぬ獣〉の如くに感じられる。イエスの弟子たちですら、この〈死体〉を前にしては彼の復活を信じることはできなかっただろう、というこの思いのリアリティは動かしがたい。ドストエフスキー自身はデカブリストの妻フォンヴィージナ宛の書簡で「かりにだれかが、キリストは真理の外にあることをわたしに証明し、またキリストが真理の外にあることが実際であったとしても、わたしとしては真理とともにあるよりもキリストとともにとどまるほうが望ましいでしょう」と書いている。この言葉をそのまま読めばドストエフスキーは熱狂的なキリスト者と言える。が、この書簡でこの言葉によって完結してはいない。ドストエフスキーは「しかし同時にわたしは不信と懐疑の時代の子です」と続ける。ドストエフスキーの懐疑は深く、単純にキリストを信じきれない。ここにドストエフスキーの慟哭があり、解決を求めながらより深く懐疑の坩堝へのめり込んでいかざるを得なかった魂の悲劇的ディオニュソス性がある。
 志賀直哉は「私の空想美術館」(「文藝春秋」昭和三十三年四月号)の中で次のように書いている。

  ミラノのブレラ美術館にある、アンドレーア・マンテニヤ(一四三一~一五0六)の「キリストの納棺」の繪は複製版畫では青年の頃からよく知つてゐたが、何んだかグロテスクで、キリストの顔にも崇高な所がなく厭やな繪だと思つてゐた。

  七八年前、歐羅巴に行く時、誰れであつたか、ミラノでは忘れず、この繪を見るやうにと云はれ、新しい好奇心を持つて見に行つたが、實にいい繪で、非常に感動した。私が歐羅巴で見た最もいい繪の五指を屈する中に入れるべき繪だと思つた。

  この死體は明らかに大工出身のイエス・キリストの遺骸である。畫面の隅で泣いてゐる年寄つた母マリヤは、これまた大工ヨセフのおかみさんだ。死骸の顎の骨が張って、喉佛の出た顔は通俗な意味では決して上品な顔ではない。何年かの苦難に滿ちた生涯をそのまま、こけた頬や眉間の皺に現はしてゐるが、それも過ぎ去つた事で、今は只の死骸として横たはつてゐる前へ投げ出された無骨な足は明らかに勞働者の足である。大釘を抜かれた兩手兩足の傷跡はさういふ傷が或る時日を經て、血も出なくなつた状態を不思議な迫眞力を以つて描いている。

  縦、二尺二寸五分、横、二尺六寸七分の小さな畫面に殆ど等身大の死體を少しも缺ける所なく、足を手前に、向うに眞直ぐに寝てゐるところが描いてある。この大膽な構圖は非常に冒險的な且つ野心的なものと云つていい。この不恰好な大きな足は、厭やでも見ないわけにはゆかないやうに描いてある。そして左上隅の僅かな場所に母マリヤともう一人の人物が描いてある。このマリヤは和解時は美しかつたかも知れないと思はれるやうな五十餘りの女で、息子の非業の死を悲しんでゐる表情は自然に見る者の涙を誘ふ。私はもう少しで貰ひ泣きをしさうになつた。ハンケチで涙を拭ふマリヤの手は矢張り田舎女の男のやうな大きな手である。

  マンテニヤはどういふ氣持でかういふ繪を描いたか。寫實に徹したといふ事までは分るが、それ以上の事は分らない。然し、兎に角、偶像破壊の意圖を以つて、かういふキリストを描いたのでない事は確かである。上眼使ひをして、兩手の指先を輕く合はせた美男のキリストを澤山見て來た私はこの繪を見て、かういふイエス・キリストならば嘗つて此世に實際にゐただらうと思つた。神に憑かれ、常態を逸脱し、自ら神の一人子と信じ、何年か非常の熱情をもつて眞理を説き、遂に殺されたイエス・キリストといふのは正に此人だと思つた。

  複製版畫では本統の色は分らない。
  複製では眞黒に見えるバックも緑がかつた淡い色で、見てゐて何か静かな氣持に誘ひ込まれる。色からいつても、これは實に美しい繪として頭に殘つてゐる。
  この文章を書く為に此の繪の複版畫を手元に置いて見てゐるうちに私はキリストの顔を段々立派な顔だと思ふやうになつた。(91~93)

 これを書いた昭和三十三年に志賀直哉は七十五歳である。内村鑑三の元を離れて実に五十年の歳月が流れている。志賀直哉はこのマンテーニャの「キリストの納棺」を「青年の頃からよく知つてゐた」と書いている。しかしその頃彼はまだ、この絵にグロテスクしか感じなかった。それは逆に言えば、青年期の彼がキリストに対して崇高な思いを抱いていたことの証でもある。ところが七十五歳になった志賀直哉は「この死體は明らかに大工出身のイエス・キリストの遺骸である」「イエス・キリストといふのは正に此人だと思つた」と書き、かつてグロテスクに感じて厭たと思っていたマンテーニャ描く所のキリストの顔を立派な顔だと思うようになる。

 ドストエフスキーはハンス・ホルバインの「死せるキリスト」を前にして異様に興奮する。傍らにいた妻のアンナは夫がてんかん発作を起こすのではないかと心配したほどである。ドストエフスキーがどのように「死せるキリスト」を見たか。それは先に引用したようにイッポリートの弁明の中で披露された。十字架から下ろされたばかりの生々しいキリストの死体、この死体の復活を信じられる者はいるのか。弟子も、使徒たちも、そして後に深くキリストを愛し信じた者たちも、もしこの死体を眼前にしたら、誰一人としてキリストの復活を信じることはできなかったであろう。これが余命二週間の少年が抱いた率直な感想である。この感想がそのままドストエフスキーの感想でなかったことは明白であるとしても、しかしこういった思いが拭いがたく存在したことも確かである。

 ドストエフスキーの信仰が一筋縄でいかないのは、彼の場合、神に対する〈不信と懐疑〉が大いなる信仰の前提になっていることである。『悪霊』のフェージカは二重スパイのピョートル・ヴェルホヴェーンスキーに金で雇われた殺人者であるが、この殺人者の中にも信仰心は熱く息づいている。ソーニャは淫売婦であってキリスト者、マルメラードフはわが子ソーニャを閣下イヴァンに売り渡すようなロクデナシのアル中だが、この彼が誰よりも深く切なくキリストを求めている。イッポリートもまた「死せるキリスト」の復活を誰よりも願っていた存在と言っていい。イッポリートがムイシュキンに求めていたのは、イエス・キリストの言葉「わたしが命であり、復活である」という、その言葉であったはずである。しかし、ドストエフスキーは〈真実美しい人間の具現化〉であったはずのムイシュキンを、白痴へと追いやってしまった。ドストエフスキーの信仰は深く懐疑的である。彼の信仰は不信と懐疑の坩堝のただ中に生きている。

 ドストエフスキーの文学はポリフォニック的でありディオニュソス的である。志賀直哉の文学はモノローグ的でありアポロン的である。志賀直哉の小説を読んでカオスの沼に落ち込んだような感覚を抱くことはない。たとえカオスを感じてもドストエフスキーのそれとは比べものにならない。〈イエス・キリストの遺骸〉を見て、イッポリートが覚えたような悩ましい不信と懐疑に落ち込むことはない。志賀直哉の反応は素朴である。〈グロテスク〉で〈厭やな繪〉。これでマンテーニャの〈キリスト〉は容赦無く拒まれてしまう。なんでグロテスクに感じるのか、なんで厭やと感じるのか、崇高とは何か、このキリストの遺骸は本当に復活するのか、・・志賀直哉はドストエフスキーの人物であれば執拗に問い詰めていったであろうことを、何一つ自らに問おうとはしない。志賀直哉は〈姦淫の罪〉に対しては立ち止まって懐疑したが、その他多くのキリスト教の教義に関しては無関心を装っている。彼は〈姦淫〉を〈罪〉と思わず、キリストの復活を信じていなかったことはほぼ間違いないであろう。もし彼が罪を罪と思い、キリストの復活を信じていたなら内村鑑三の元を離れることはなかったであろうし、離れたとしてもキリスト者であることを止めはしなかったであろう。

 ところで、わたしは志賀直哉のこの文章をすべて写し取って、静かな感動を覚えている。〈罪〉とか〈復活〉とか、そんなことではない。うるさい神学上の議論などどうでもいい。志賀直哉はマンテーニャの「キリストの納棺」を見て、そこに描かれたキリスト、「今は只の死骸として横たはつてゐる」キリストに魅せられる。「不思議な迫眞力を以つて描いてゐる」とは、この絵が志賀直哉の魂を鷲掴みにしたということである。キリストの顔は、顎の骨が張って喉佛が出ている、決して上品ではない。前へ投げ出された無骨な足は労働者の不恰好な大きな足で、お世辞にも美しいとは言えない。しかし、志賀直哉はかつて若い頃にグロテスクと感じたものに、今は何よりも美しいものを感じている。〈上品な顔ではない〉マンテーニャのキリストの顔が、〈美男のキリスト〉をはるかに超えて〈立派な顔〉に見えてくる。

 志賀直哉にイッポリートの不信と懐疑はない。マンテーニャの描くキリストの遺骸が復活するだろうか、などという疑問にとらわれることがない。志賀直哉は「神に憑かれ、常態を逸脱し、自ら神の一人子と信じ、何年か非常の熱情をもつて眞理を説き、遂に殺されたイエス・キリスト」という〈人〉の〈遺骸〉をただ見つめ、深い感動を味わっている。

換言するなら、志賀直哉はイッポリートなどよりはるかに信仰の実質に触れている。彼は信仰上の七面倒な論議に加わろうとしない。マンテーニャはどういう気持ちでこのキリストを描いたのか、彼は素朴な疑問の前に佇むだけである。彼はマンテーニャが「寫實に徹した」と考えるが、しかしそこに「偶像破壊の意圖」がなかったことを確信している。この〈寫實〉のキリストの遺骸に感動し、そのキリストの顔が立派に見える志賀直哉は、キリスト者以上のキリスト者と言えなくもない。これは逆説的に言っているのではない。志賀直哉は内村鑑三のキリスト教に納得がいかずに彼の元を離れたが、キリスト教に対する直哉自身の思いは持続していたと見た方がいいように思う。

 信仰と美は一致するのか、美は信仰を内包するのか。それとも信仰が美を内包するのか。たとえ志賀直哉がキリストの〈復活〉を信じず、キリスト教的に〈罪〉と〈罰〉を信じなくても、今、マンテーニャのキリストに感動しているその事実に変わりはない。マンテーニャの〈寫實〉のキリストを立派に感じる志賀直哉は、キリストを神の一人子として認め、キリストの永遠の命であることを認めたのであろうか。それとも志賀直哉は人間キリストに〈美〉を感じて感動した、その地点にあくまでもとどまっていたのであろうか。ドストエフスキーは不信と懐疑の坩堝に身を投じ、信仰のディオニュソス性を作品に投影させた。が、志賀直哉においては不信も懐疑もアポロン的である。マンテーニャのキリストもまた志賀直哉の内でアポロン的な整合性のある美へと昇華される。志賀直哉がキリストの〈美〉を受け入れたことは確かだ、しかしその〈美〉のうちに〈信仰〉(キリストを神と認めること)が含まれていたかどうかが問題である。

2004年7月 9日

『城の崎にて』を読む(9)

彼は死骸が蘇生するなどということははなから信じていない。「外界にそれを動かす次の変化が起るまでは死骸は凝然と其処にしているだろう」と彼は続ける。彼が言う〈外界にそれを動かす変化〉とは超越的な神的存在を意味しない。それはあくまでも自然の気象条件であったり、蜂の死骸を餌にする蟻の働きであったりする。彼は、時のただ中に起きるすべての事象を自然の摂理と見ており、そこに奇跡が介入することはない。〈死〉は〈死〉として自然の摂理の中に組み込まれた必然であり、〈死〉が再び〈生〉を獲得したりする奇跡は認められない。人間には復活を望む気持ちがある。しかし志賀直哉か苦しんだのは〈姦淫の罪〉であり、それは〈殺人の罪〉に値するというキリスト教の教えであった。
もし死後、人間が肉體を伴って復活するようなことがあれば、人間は再び〈姦淫の罪〉を犯さざるを得ないであろう。そんな復活は一向に救いにはならないと考えたのが志賀直哉である。彼は蜂の死骸が復活の曙光に輝くことなく、雨に流され、泥にまみれ、やがては蟻の餌になるか、朽ち果ててしまうであろう、そういった自然の流れの中で〈死〉を全うするしかないと考える。その考えを淋しく思うが、同時に彼はそれは如何にも静かであると感じている。〈静か〉とは、運命愛と言ってもよい。ニーチェの声高なそう病的な運命愛の宣言ではなく、志賀直哉は静かに、この世に誕生してきたもののすべてが等しく受け入れなければならない〈死〉を受け入れている。この心境は、運命と合致することを受け入れる心境であり、その静かさのうちに〈神〉に対する反逆の牙を潜めてはいない。志賀直哉は父との確執のただ中に生きながら、しかし自らの運命とはいち早く和解を達成したかのように見える。否、この『城の崎にて』(発表は大正六年五月)を書いていた頃にはすでに父との和解の境地に達していたのかもしれない。因みに『和解』の発表は大正六年の十月である。

「泥にまみれて何処かで凝然としている」蜂の〈死骸〉は、先に描かれた小さな潭になった所に「石のように凝然としている」〈足に毛の生えた大きな川蟹〉を想起させる。蜂の死骸も川蟹も〈凝然としている〉ことで同一のイメージを起こさせるわけだが、しかし前者はすでに死んでおり後者は未だ生きている、この点が両者の決定的な相違点である。

すでに指摘したように、彼は凝然としている蜂の〈死骸〉が、或る神秘的な働きによって蘇生するなどとは考えない。彼の推測はあくまでも物理的な考え方に則っている。「死んだ蜂は雨樋を伝って地面へ流し出された」のであって、それ以下でもそれ以上でもない。そこには〈死骸〉の復活を願う神秘的な思い入れもなければ、絶望もない。淡々として自然のあるがままの姿を受け入れている。

 しかし、にもかかわらずわたしの脳裏に、彼が心の奥底に押さえ込んだ何かが過る。その何かとは〈キリスト〉幻想である。わたしは志賀直哉が十七歳から七年もの間、内村鑑三の弟子であったことはかなり大きな拭いがたい影響を彼に刻印していると思う。多感な青春期を内村鑑三に師事したことの意味を軽んじることはできない。わたしは志賀直哉が
「足は縮めたまま、触角は顔へこびりついたまま、多分泥にまみれて何処かで凝然としている事だろう」と書いた〈蜂の死骸〉が、まさに十字架から下ろされたばかりのキリストの死体に重なって見えるのである。

 ドストエフスキーは『白痴』の中でイッポリートという余命二週間を宣告された少年を登場させている。この少年はハンス・ホルバイン作『死せるキリスト』に関して「これは十字架にのぼるまでにも、限りない苦しみをなめ、傷や拷問や番人の鞭を受け、十字架を負って歩き、十字架にもとに倒れたときには愚民どもの笞を耐えしのんだあげく、最後には六時間におよぶ(少なくとも、ぼくの計算ではそれくらいになる)十字架の苦しみに耐えた、一個の人間の赤裸々な死体である。(略)その顔はすこしの容赦もなく描かれてある。そこにはただ自然があるばかりである。(略)この絵の顔は笞の打擲でおそろしく打ちくだかれ、ものすごい血みどろな青痣でふくれあがり、眼を見開いたままで、瞳はやぶにらみになっている。その大きく開かれた白眼はなんだか死人らしい、ガラス玉のような光を放っていた」と書いている。イッポリートは「こんな死体を眼の前にしながら、どうしてこの受難者が復活するなどと、信じることができたろうか?」という疑問にとらわれる。イッポリートはこの絵を見ながら〈自然〉が〈何かじつに巨大な、情け容赦もないもの言わぬ獣〉の如くに感じられる。イエスの弟子たちですら、この〈死体〉を前にしては彼の復活を信じることはできなかっただろう、というこの思いのリアリティは動かしがたい。ドストエフスキー自身はデカブリストの妻フォンヴィージナ宛の書簡で「かりにだれかが、キリストは真理の外にあることをわたしに証明し、またキリストが真理の外にあることが実際であったとしても、わたしとしては真理とともにあるよりもキリストとともにとどまるほうが望ましいでしょう」と書いている。この言葉をそのまま読めばドストエフスキーは熱狂的なキリスト者と言える。が、この書簡でこの言葉によって完結してはいない。ドストエフスキーは「しかし同時にわたしは不信と懐疑の時代の子です」と続ける。ドストエフスキーの懐疑は深く、単純にキリストを信じきれない。ここにドストエフスキーの慟哭があり、解決を求めながらより深く懐疑の坩堝へのめり込んでいかざるを得なかった魂の悲劇的ディオニュソス性がある。

2004年7月10日

『城の崎にて』を読む(10)

志賀直哉は「私の空想美術館」(「文藝春秋」昭和三十三年四月号)の中で次のように書いている。

  

ミラノのブレラ美術館にある、アンドレーア・マンテニヤ(一四三一~一五0六)の「キリストの納棺」の繪は複製版畫では青年の頃からよく知つてゐたが、何んだかグロテスクで、キリストの顔にも崇高な所がなく厭やな繪だと思つてゐた。
  七八年前、歐羅巴に行く時、誰れであつたか、ミラノでは忘れず、この繪を見るやうにと云はれ、新しい好奇心を持つて見に行つたが、實にいい繪で、非常に感動した。私が歐羅巴で見た最もいい繪の五指を屈する中に入れるべき繪だと思つた。
  この死體は明らかに大工出身のイエス・キリストの遺骸である。畫面の隅で泣いてゐる年寄つた母マリヤは、これまた大工ヨセフのおかみさんだ。死骸の顎の骨が張って、喉佛の出た顔は通俗な意味では決して上品な顔ではない。何年かの苦難に滿ちた生涯をそのまま、こけた頬や眉間の皺に現はしてゐるが、それも過ぎ去つた事で、今は只の死骸として横たはつてゐる前へ投げ出された無骨な足は明らかに勞働者の足である。大釘を抜かれた兩手兩足の傷跡はさういふ傷が或る時日を經て、血も出なくなつた状態を不思議な迫眞力を以つて描いている。
  縦、二尺二寸五分、横、二尺六寸七分の小さな畫面に殆ど等身大の死體を少しも缺ける所なく、足を手前に、向うに眞直ぐに寝てゐるところが描いてある。この大膽な構圖は非常に冒險的な且つ野心的なものと云つていい。この不恰好な大きな足は、厭やでも見ないわけにはゆかないやうに描いてある。そして左上隅の僅かな場所に母マリヤともう一人の人物が描いてある。このマリヤは和解時は美しかつたかも知れないと思はれるやうな五十餘りの女で、息子の非業の死を悲しんでゐる表情は自然に見る者の涙を誘ふ。私はもう少しで貰ひ泣きをしさうになつた。ハンケチで涙を拭ふマリヤの手は矢張り田舎女の男のやうな大きな手である。
  マンテニヤはどういふ氣持でかういふ繪を描いたか。寫實に徹したといふ事までは分るが、それ以上の事は分らない。然し、兎に角、偶像破壊の意圖を以つて、かういふキリストを描いたのでない事は確かである。上眼使ひをして、兩手の指先を輕く合はせた美男のキリストを澤山見て來た私はこの繪を見て、かういふイエス・キリストならば嘗つて此世に實際にゐただらうと思つた。神に憑かれ、常態を逸脱し、自ら神の一人子と信じ、何年か非常の熱情をもつて眞理を説き、遂に殺されたイエス・キリストといふのは正に此人だと思つた。

  複製版畫では本統の色は分らない。
  複製では眞黒に見えるバックも緑がかつた淡い色で、見てゐて何か静かな氣持に誘ひ込まれる。色からいつても、これは實に美しい繪として頭に殘つてゐる。
  この文章を書く為に此の繪の複版畫を手元に置いて見てゐるうちに私はキリストの顔を段々立派な顔だと思ふやうになつた。(91~93)

 これを書いた昭和三十三年に志賀直哉は七十五歳である。内村鑑三の元を離れて実に五十年の歳月が流れている。志賀直哉はこのマンテーニャの「キリストの納棺」を「青年の頃からよく知つてゐた」と書いている。しかしその頃彼はまだ、この絵にグロテスクしか感じなかった。それは逆に言えば、青年期の彼がキリストに対して崇高な思いを抱いていたことの証でもある。ところが七十五歳になった志賀直哉は「この死體は明らかに大工出身のイエス・キリストの遺骸である」「イエス・キリストといふのは正に此人だと思つた」と書き、かつてグロテスクに感じて厭たと思っていたマンテーニャ描く所のキリストの顔を立派な顔だと思うようになる。

 ドストエフスキーはハンス・ホルバインの「死せるキリスト」を前にして異様に興奮する。傍らにいた妻のアンナは夫がてんかん発作を起こすのではないかと心配したほどである。ドストエフスキーがどのように「死せるキリスト」を見たか。それは先に引用したようにイッポリートの弁明の中で披露された。十字架から下ろされたばかりの生々しいキリストの死体、この死体の復活を信じられる者はいるのか。弟子も、使徒たちも、そして後に深くキリストを愛し信じた者たちも、もしこの死体を眼前にしたら、誰一人としてキリストの復活を信じることはできなかったであろう。これが余命二週間の少年が抱いた率直な感想である。この感想がそのままドストエフスキーの感想でなかったことは明白であるとしても、しかしこういった思いが拭いがたく存在したことも確かである。

 ドストエフスキーの信仰が一筋縄でいかないのは、彼の場合、神に対する〈不信と懐疑〉が大いなる信仰の前提になっていることである。『悪霊』のフェージカは二重スパイのピョートル・ヴェルホヴェーンスキーに金で雇われた殺人者であるが、この殺人者の中にも信仰心は熱く息づいている。ソーニャは淫売婦であってキリスト者、マルメラードフはわが子ソーニャを閣下イヴァンに売り渡すようなロクデナシのアル中だが、この彼が誰よりも深く切なくキリストを求めている。イッポリートもまた「死せるキリスト」の復活を誰よりも願っていた存在と言っていい。イッポリートがムイシュキンに求めていたのは、イエス・キリストの言葉「わたしが命であり、復活である」という、その言葉であったはずである。しかし、ドストエフスキーは〈真実美しい人間の具現化〉であったはずのムイシュキンを、白痴へと追いやってしまった。ドストエフスキーの信仰は深く懐疑的である。彼の信仰は不信と懐疑の坩堝のただ中に生きている。

 ドストエフスキーの文学はポリフォニック的でありディオニュソス的である。志賀直哉の文学はモノローグ的でありアポロン的である。志賀直哉の小説を読んでカオスの沼に落ち込んだような感覚を抱くことはない。たとえカオスを感じてもドストエフスキーのそれとは比べものにならない。〈イエス・キリストの遺骸〉を見て、イッポリートが覚えたような悩ましい不信と懐疑に落ち込むことはない。志賀直哉の反応は素朴である。〈グロテスク〉で〈厭やな繪〉。これでマンテーニャの〈キリスト〉は容赦無く拒まれてしまう。なんでグロテスクに感じるのか、なんで厭やと感じるのか、崇高とは何か、このキリストの遺骸は本当に復活するのか、・・志賀直哉はドストエフスキーの人物であれば執拗に問い詰めていったであろうことを、何一つ自らに問おうとはしない。志賀直哉は〈姦淫の罪〉に対しては立ち止まって懐疑したが、その他多くのキリスト教の教義に関しては無関心を装っている。彼は〈姦淫〉を〈罪〉と思わず、キリストの復活を信じていなかったことはほぼ間違いないであろう。もし彼が罪を罪と思い、キリストの復活を信じていたなら内村鑑三の元を離れることはなかったであろうし、離れたとしてもキリスト者であることを止めはしなかったであろう。

 ところで、わたしは志賀直哉のこの文章をすべて写し取って、静かな感動を覚えている。〈罪〉とか〈復活〉とか、そんなことではない。うるさい神学上の議論などどうでもいい。志賀直哉はマンテーニャの「キリストの納棺」を見て、そこに描かれたキリスト、「今は只の死骸として横たはつてゐる」キリストに魅せられる。「不思議な迫眞力を以つて描いてゐる」とは、この絵が志賀直哉の魂を鷲掴みにしたということである。キリストの顔は、顎の骨が張って喉佛が出ている、決して上品ではない。前へ投げ出された無骨な足は労働者の不恰好な大きな足で、お世辞にも美しいとは言えない。しかし、志賀直哉はかつて若い頃にグロテスクと感じたものに、今は何よりも美しいものを感じている。〈上品な顔ではない〉マンテーニャのキリストの顔が、〈美男のキリスト〉をはるかに超えて〈立派な顔〉に見えてくる。

 志賀直哉にイッポリートの不信と懐疑はない。マンテーニャの描くキリストの遺骸が復活するだろうか、などという疑問にとらわれることがない。志賀直哉は「神に憑かれ、常態を逸脱し、自ら神の一人子と信じ、何年か非常の熱情をもつて眞理を説き、遂に殺されたイエス・キリスト」という〈人〉の〈遺骸〉をただ見つめ、深い感動を味わっている。

換言するなら、志賀直哉はイッポリートなどよりはるかに信仰の実質に触れている。彼は信仰上の七面倒な論議に加わろうとしない。マンテーニャはどういう気持ちでこのキリストを描いたのか、彼は素朴な疑問の前に佇むだけである。彼はマンテーニャが「寫實に徹した」と考えるが、しかしそこに「偶像破壊の意圖」がなかったことを確信している。この〈寫實〉のキリストの遺骸に感動し、そのキリストの顔が立派に見える志賀直哉は、キリスト者以上のキリスト者と言えなくもない。これは逆説的に言っているのではない。志賀直哉は内村鑑三のキリスト教に納得がいかずに彼の元を離れたが、キリスト教に対する直哉自身の思いは持続していたと見た方がいいように思う。

 信仰と美は一致するのか、美は信仰を内包するのか。それとも信仰が美を内包するのか。たとえ志賀直哉がキリストの〈復活〉を信じず、キリスト教的に〈罪〉と〈罰〉を信じなくても、今、マンテーニャのキリストに感動しているその事実に変わりはない。マンテーニャの〈寫實〉のキリストを立派に感じる志賀直哉は、キリストを神の一人子として認め、キリストの永遠の命であることを認めたのであろうか。それとも志賀直哉は人間キリストに〈美〉を感じて感動した、その地点にあくまでもとどまっていたのであろうか。ドストエフスキーは不信と懐疑の坩堝に身を投じ、信仰のディオニュソス性を作品に投影させた。が、志賀直哉においては不信も懐疑もアポロン的である。マンテーニャのキリストもまた志賀直哉の内でアポロン的な整合性のある美へと昇華される。志賀直哉がキリストの〈美〉を受け入れたことは確かだ、しかしその〈美〉のうちに〈信仰〉(キリストを神と認めること)が含まれていたかどうかが問題である。

2004年7月11日

『城の崎にて』を読む(11)

ドストエフスキーはハンス・ホルバインの「死せるキリスト」を前にして異様に興奮する。傍らにいた妻のアンナは夫がてんかん発作を起こすのではないかと心配したほどである。ドストエフスキーがどのように「死せるキリスト」を見たか。それは先に引用したようにイッポリートの弁明の中で披露された。十字架から下ろされたばかりの生々しいキリストの死体、この死体の復活を信じられる者はいるのか。弟子も、使徒たちも、そして後に深くキリストを愛し信じた者たちも、もしこの死体を眼前にしたら、誰一人としてキリストの復活を信じることはできなかったであろう。これが余命二週間の少年が抱いた率直な感想である。この感想がそのままドストエフスキーの感想でなかったことは明白であるとしても、しかしこういった思いが拭いがたく存在したことも確かである。

 

ドストエフスキーの信仰が一筋縄でいかないのは、彼の場合、神に対する〈不信と懐疑〉が大いなる信仰の前提になっていることである。『悪霊』のフェージカは二重スパイのピョートル・ヴェルホヴェーンスキーに金で雇われた殺人者であるが、この殺人者の中にも信仰心は熱く息づいている。ソーニャは淫売婦であってキリスト者、マルメラードフはわが子ソーニャを閣下イヴァンに売り渡すようなロクデナシのアル中だが、この彼が誰よりも深く切なくキリストを求めている。イッポリートもまた「死せるキリスト」の復活を誰よりも願っていた存在と言っていい。イッポリートがムイシュキンに求めていたのは、イエス・キリストの言葉「わたしが命であり、復活である」という、その言葉であったはずである。しかし、ドストエフスキーは〈真実美しい人間の具現化〉であったはずのムイシュキンを、白痴へと追いやってしまった。ドストエフスキーの信仰は深く懐疑的である。彼の信仰は不信と懐疑の坩堝のただ中に生きている。

 ドストエフスキーの文学はポリフォニック的でありディオニュソス的である。志賀直哉の文学はモノローグ的でありアポロン的である。志賀直哉の小説を読んでカオスの沼に落ち込んだような感覚を抱くことはない。たとえカオスを感じてもドストエフスキーのそれとは比べものにならない。〈イエス・キリストの遺骸〉を見て、イッポリートが覚えたような悩ましい不信と懐疑に落ち込むことはない。志賀直哉の反応は素朴である。〈グロテスク〉で〈厭やな繪〉。これでマンテーニャの〈キリスト〉は容赦無く拒まれてしまう。なんでグロテスクに感じるのか、なんで厭やと感じるのか、崇高とは何か、このキリストの遺骸は本当に復活するのか、・・志賀直哉はドストエフスキーの人物であれば執拗に問い詰めていったであろうことを、何一つ自らに問おうとはしない。志賀直哉は〈姦淫の罪〉に対しては立ち止まって懐疑したが、その他多くのキリスト教の教義に関しては無関心を装っている。彼は〈姦淫〉を〈罪〉と思わず、キリストの復活を信じていなかったことはほぼ間違いないであろう。もし彼が罪を罪と思い、キリストの復活を信じていたなら内村鑑三の元を離れることはなかったであろうし、離れたとしてもキリスト者であることを止めはしなかったであろう。

2004年7月12日

李良枝(イヤンジ)の「由熙(ユヒ)」

韓国(語)と日本(語)を超えて〈ことば〉の本源へ迫っていた

今回は約束通り、第百回芥川賞受賞者で三十七歳で夭折した李良枝(イヤンジ)の「由熙(ユヒ)」(「群像」一九八八年十一月号)をとりあげる。主人公の由熙は在日韓国人、ソウルのS大学に留学して言語学を専攻している。由熙は日本でウリマル(母国語)を独習しただけであり、韓国語を流暢に話すことはできない。由熙は韓国人の生活に慣れようと下宿を転々と変える。由熙は同じ血の、同じ民族の、自分のありかを求め、韓国人になろうとあがく。が同時に由熙は、現在の韓国人にどうしようもない違和感を覚えていらつく。由熙はその違和感を韓国語をさらに勉強することによって乗り越えようとはせず、それとは逆に日本語の方に戻ろうとした。この小説の語り手である〈私〉は、こんな由熙を「日本語を書くことで自分を晒し、自分を安心させ、慰めもし、そして何よりも、自分の思いや昂ぶりを日本語で考えようとしていたのだった」と分析している。

 由熙は現代の横書きのハングルを母国語と認めることができない。由熙は〈私〉に向かって言う「学校でも、町でも、みんなが話している韓国語が、私には催涙弾と同じように聞こえてならない。からくて、苦くて、昂ぶっていて、聞いているだけで息苦しい」と。由熙はウリナラ(母国)と書くことができない。にもかかわらず試験に通るために、「誰かに媚びているような感じを覚えながら」韓国語でウリナラと書いてしまう。由熙はハングル文字の創始者世宗大王を信じ、尊敬している。しかし「この今の、この韓国で使われているハングル」には嫌悪感を抱いている。由熙は韓国人になろうとして〈母国〉にやっ
てきたのに、韓国を〈母国〉と思うことができない。由熙はジレンマに陥り、結局、大学を中退して日本に帰ってしまう。

 由熙が帰ってしまった後、〈私〉は叔母(由熙をわが子のように可愛がっていた下宿先の女性)に由熙の思い出を語る「笛は一番素朴で、正直な楽器だと思うって、由熙は言った。口を閉ざすからだって、口を閉ざすから声が音として現われる、とも言っていたわ。こういう音を持って、こういう音に現われた声を、言葉にしてきたのがウリキョレ(我が民族)だと、ウリマルの響きはこの音の響きなんだと、由熙は言ったわ」と。

 さらに〈私〉は由熙と一緒にソウルの岩山に行ったとき、彼女の口から出た〈ことばの杖〉を想い出す「・・ことばの杖を、目醒めた瞬間に掴めるかどうか、試されているような気がする。・・○なのか、それとも、あ、なのか。○であれば、ア・ヤ・オ・ヨ、と続いていく杖を掴むの。でも、あ、であれば、あ、い、う、え、お、と続いていく杖。けれども、○、なのか、あ、なのか、すっきりとわかった日がない。ずっとそう。ますますわからなくなっていく。杖が、掴めない」。在日韓国人である由熙は韓国に来て、〈韓国語〉と〈日本語〉のどちらを〈ことばの杖〉にするのかわからなくなってしまった。〈私〉もまた由熙の苦悩が分かるにつれ、〈ことばの杖〉が掴めなくなる。

 在日韓国人の由熙が韓国語の〈○〉か、日本語の〈あ〉かでジレンマに陥るのは分かる。しかし韓国人の〈私〉までもが、〈○〉に続く音が出てこない。〈音〉を捜し、〈音〉を〈声〉にしようとしている喉が、うごめく針の束に突つかれて燃え上がってしまう。〈私〉は由熙が苦しんでいたように、とつぜん〈ことばの杖〉を奪われてしまう。ことばの秘密に迫ろうとする者は、ことばを狂わせられてしまう。

 深い淵の上にかけられた薄い板の上を軽やかに渡っていた者たちは知っていたのだ、立ち止まると自分の重みでたちまちのうちに板が割れ、谷底に落ちてしまうということを。確かヴァレリーは『テスト氏』のなかで〈思考の空間を軽々と渡っている者たち〉に関してこのようなことを記していたはずだ。由熙が〈ことばの杖〉を掴めないのは、彼女が在日韓国人であったからというよりも、彼女が自らの存在根拠をどこまでも追い求め、自分が自分であることの究極のアイディンティティを得ようとしたことにある。韓国語であれ日本語であれ、ことばの秘密に肉薄しようと思う者は、かならずことばの側からの手痛い
しっぺ返しを受けることになる。

 日本人でもない、韓国人でもない、由熙は日本語を話す在日韓国人として成長してきた。由熙は韓国語をひとりで学び、韓国のS大学国文科に留学し、言語学を専攻した。しかし、韓国語の学習に必死で取り組むことはなかった。由熙はハングルに嫌悪すら覚え、迷えば迷うほど日本語の方へと帰っていった。が、由熙は韓国語を〈母語〉と言えなかったように、日本語をも素直に〈母語〉として受け入れることはできなかった。由熙は日本語と韓国語の〈深い淵〉にかけられた薄い板の上に立ち止まってしまったと言えようか。

 〈私〉も〈由熙〉も、おそらく作者李良枝の分身的存在であったろう。李良枝は日本語で小説を書いている。にもかかわらず李良枝が、たとえば梁石日が『終りなき始まり』(朝日新聞社)で描いた淳花(李良枝がモデル)のように、母国韓国に自らのアイディンティティを求めていたとするなら、彼女の〈韓国〉と〈日本〉への分裂は由熙以上のものであったと言えよう。

 いずれにせよ『由熙』において李良枝は、〈ことばの杖〉を掴めないという、韓国(語)、日本(語)の分裂を超えて〈ことば〉の本源へと迫っていったことに間違いはない。その意味でこの小説は時代を超えて問題作であり続ける。

(「図書新聞」2002年10月5日)

2004年7月16日

【学生の声】 7月12日「マンガ論」

【日本大学芸術学部所沢校舎にて開講中のマンガ論。本年度前期の最終授業では、現在「週刊少年ジャンプ」誌上にて連載中の漫画作品 『デスノート』 (原作・大場つぐみ 漫画・小畑健)が取り上げられる。清水教授によって、本作品の、文芸作品「罪と罰」(ドストエフスキー著)との関連性が指摘された】

7月12日の授業「マンガ論」(所沢キャンパスにて)に寄せられた学生からの声147件中から12件(原文のまま)を以下に紹介します。
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デスノートをご存知とはっ!!嬉しいです。先生の目にかなうマンガは、僕のすすめる中じゃデスノートだけです。いずれ、デスノートについて先生とはじっくり語りあいたいですね。しかし、この作品にドストエフスキーの要素が含まれているとなると、僕がドストエフスキー作品を読んでも同様にハマれるかもしれません。先生のすすめている作品は、夏休み中に一通り手を出してみるつもりです。(村瀬一路・放送学科1年)


課題がたくさんあって・・なかなか充実した夏休みになりそうです。20世紀少年、とか(浦沢さんの)おもしろいと思いますよ。(塚本直毅・文芸学科1年)

先生のマンガに対するメスの入れ方には自分のマンガ論をゆるがすものがありました。とても勉強になりました。 「ろくでなしBLUSE」「特攻の拓」(森上舞子・文芸学科1年)

DEATH NOTE、大好きです。月(ライト)くんがかなり格好いい・・。第2のキラ、ミサ、何かイヤな感じですよね。DEATH NOTEは私が今一番はまっているまんがです。(椎名絵里子・演劇学科2年)

「デスノート」はジャンプで連載しているため、読んでいます。先の読めないおもしろさと、頭の良い主人公の夜神月ことキラと敵対する竜崎ことLの頭脳戦が見ていてどこか興奮します。今、ジャンプでは新しいキャラで第2の死神とミサが登場して、さらに話が深みを増してきています。(渋谷由香利・文芸学科1年)

マンガも芸術だ?(宋祉勲・文芸学科1年)

デスノート面白いですよね。僕は本格ミステリとして楽しんでいます。死神の殺し方に期待。(高井雄一・文芸学科1年)

デスノートは、最初からかなり読んでいて夏あけの授業が楽しみです。 ZETMAN (細野晃太朗・文芸学科1年)

初めて、日芸の授業らしい授業だなぁと実感しました。後期もよろしくおねがいします。(岩本真由子・演劇学科2年)

おすすめのマンガ 藤田和日郎「からくりサーカス」・・人を笑わせないと発作が止まらない病気、「ゾナハ病」、永遠の命をあたえられ死を許されない人形破壊者「しろがね」人間になりたかった人形と、人形となった人間達の戦い。最初読んだ時は、こんな壮大な物語になるとは思わなかった。是非読んで下さい。(武田英樹・映画学科1年)


今日の授業は短くてとてもよかったです。夏課題は厳しいけど、先生はいい先生です。私のオススメマンガは「天才ファミリーカンパニー」です。笑えるけれど考えさせられる部分もあるものです。二ノ宮知子さんという方が描かれています。同じ作者の作品で「のだめカンタービレ」もいいと思います。(原田麻貴・文芸学科1年)

ぜひ授業でやってみたいマンガ 西岸良平の「夕やけの詩」「ミステリアン」などなど(全部面白いです)何千回読んでも心に残るマンガだと思います。(進川桜子・美術学科1年)

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