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【余命半年の老教授】...チェーホフ『退屈な話』を読む(8)


不幸にしてわが輩は哲学者でも神学者でもない。わが輩は自分があと半年たらずしか生きられないのをはっきりと知っている。それゆえ今こそ、何はさておいても、あの世の闇やわが輩の死後の夢を訪れる亡霊などの問題と、取り組むべきかもしれない。ところが理性はその重要さを認めていながら、わが輩の心はそうした問題を知りたがらないのである。二十年・・三十年前と同様に、死を目前にひかえた今も、わが輩の興味の対象はただ一つ科学である。最後の息を引き取る瞬間も、やはりわが輩は、科学こそ人間生活の最も重要な、最もうるわしく必要なものであり、今までもこれからも科学こそ最も高度な愛のあらわれであり、人類はただ科学によってのみ自然と自分じしんに打ち勝つと信じるであろう。こうした信念はあるいは素朴に過ぎ、その根底において誤謬を宿しているかも知れぬ。しかしそうしか信じられないにせよ、それはわが輩の罪ではない。心の奥でこの信念に打ち勝つことは、わが輩にはできない。

しかし目下の問題はこうしたことではない。わが輩はただわが輩の弱さに寛容の二字を乞い、次の比喩を理解してもらいたいだけである。宇宙の究極の目的よりも骨髄の運命に興味を抱いている人間を教壇や学生たちからもぎはなすのは、彼が死ぬのを待たずにひっ捕えて、棺桶の中へぶち込むのと同じである。

ここで読者は老教授ニコライ・ステパーノヴィチが余命半年であることを知る。ということは、彼は自分の死を目前にして自らの人生を振り返るためにこの手記を書きはじめたということになるのであろうか。彼は〈あの世の闇〉や〈わが輩の死後の夢を訪れる亡霊〉などの問題と取り組むべきかもしれないが、心はそうした問題を知りたがらないと書いている。

ところで〈あの世の闇〉という言葉で彼は何を言っているのだろうか。〈あの世〉は〈闇〉ということは、いちおう彼は〈あの世〉の存在は認めているのだろうか。〈あの世〉は存在するが、その世界は〈闇〉であるとすれば、彼は死後の世界に何の希望も救いも求めていないことになる。彼は医学者(科学者)として死後の魂の存在を認めることができなかったのであろうか。〈あの世の闇〉という言葉には、死ねば死にっきりという虚無の思想がこめられているように感じる。よく分からないのは次の〈わが輩の死後の夢を訪れる亡霊〉という言葉である。まず〈死後の夢〉が分からない。従ってその夢に訪れる〈亡霊〉(видение)も分からない。

人間は死んだらどうなるのか。肉体の破滅は即、魂の死を意味するのか。それとも死んでも魂は生き続けるのか。こういった問題に関して、ニコライ・ステパーノヴィチはその重要性を認めるのは〈理性〉であると断言している。彼の〈心〉はそういった問題を知りたがらないとも書いている。不思議なことだ。魂の永世を願うのは〈心〉であって、ふつう〈理性〉はそういった問題に関して無力を自覚し、自分の立ち入れない領域と認識しているのではなかろうか。

余命半年のニコライ・ステパーノヴィチが、最大の興味の対象は〈科学〉だと言っている。しかしこの〈科学〉は誕生と死の神秘に関して何の解明も与えることができない。「科学こそ最も高度な愛のあらわれ」などと言われると、鉄腕アトムの生みの親よりも能天気な楽観主義者に見えてしまう。今日、科学の発展が人類の未来の幸福を約束しているなどと考える者はほとんどいないだろう。十九世紀という時代の制約はあるにせよ、それにしてもニコライ・ステパーノヴィチの科学信奉は彼の言うように「素朴に過ぎ」るし、「その根底において誤謬を宿して」いるのである。科学の発展は人類の寿命を延ばし、生活をたいそう便利にした。しかし同時に地球自体を破滅しかねない核兵器をも作りだした。幸福だけを約束する科学などはないのである。

余命二週間のイッポリート少年が問題にしたのはキリストの〈永遠の命〉であり、〈奇跡〉である。なぜ老教授ニコライ・ステパーノヴィチは〈信仰〉ではなく〈科学〉にこだわるのか。彼は自分を〈宇宙の究極の目的〉よりも〈骨髄の運命〉に興味を抱いている人間と規定している。が、しかし結局、人間には〈宇宙の究極の目的〉も〈骨髄の運命〉も知ることはできないのではないか。〈哲学者〉も〈神学者〉も、そして〈科学者〉も、結局はこの世界の様々な事象の〈神秘〉の前に自らの無力をさらけ出すよりほかはないのではないか。

2004年06月08日

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