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【老教授と老妻の日常】...チェーホフ『退屈な話』を読む(6)


チェーホフ『退屈な話』を読む(6)

チェーホフの時間意識

老教授がこの手記で書いているのは、主に彼の日常である。ドストエフスキーの文学世界は、その日常にある日突然、予期せぬ出来事が勃発し、登場人物たち全員が大騒ぎをするという運びになるが、チェーホフの場合、日常はあくまでも日常であり、そこにどんな突拍子もない事件が起きようと、それは日常の一こまとして処理される。どちらが日常の孕む非日常を浮き彫りにしているかは意見の別れるところだろうが、いずれにしても五十年以上もこの地上の世界で呼吸してくれば、〈日常〉の重さはひしひしと感じる。平凡な日々の体積がもつうざったさや、やりきれなさがあり、そこからの逃亡願望があり、あきらめがある。喜怒哀楽の積み重ねの上に、さらなる喜怒哀楽が積もっていく。どんなに平凡に見える人生でも、それを真っ二つに断ち割ってみれば、どんなに奇妙でグロテスクなものが滲み出てくるかわかりゃあしない。六十二年の生を生きて老教授になったニコライ・ステパーノヴィチが描く〈日常〉とはどんなものなのか、次にその一こまをのぞいてみることにしよう。


わが輩の一日はまず老妻の訪れをもってはじまる。妻はスカートをはき、寝みだれ髪でわが
輩の部屋へ現われるがねはやばやと洗面をすませていて、花の香のオデコロンを匂わせながら、
さも何気なく入って来たようなしなを作り、毎朝ひとつことをくり返す。・・「すみません、あ
たしちょっと……またお休みになりませんのね?」
それから妻はランプを吹き消し、机のそばに腰をすえて話しはじめる。わが輩は、予言者な
らずとも、何の話かあらかじめ承知している。それは毎朝おなじ話で、ふつうまずわが輩の健康
について不安げな訊問を幾つか放ったのち、やぶから棒にワルシャワで将校になっているわが家
の令息のことを思いだす。毎月二十日すぎに五十ルーブリあて仕送りしているのだが、それがも
っぱら朝あけの会話のテエマである。

わが輩は耳を傾け、機械的にあいづちを打ちながら、おそらくゆうべ寝なかったせいであろ
う、珍無類な、およそ場ちがいな考えに捕らえられる。わが老妻を見つめて幼な児のように驚く
のである。はてなとばかりわが輩は心に問いただす。・・この老け込んでぶてぶてと太った醜い
女が、ひと切れのパンを前につまらぬ気苦労や恐怖の鈍い表情を浮かべ、たえず借金や貧乏のこ
とを考えて今は眼の輝きさえ鈍ったこの女が、今はもう物入りのことしか話さず値下りの時だけ
ほほ笑むこの老婆が、・・はたしてこの女が、かつては世にも細っそりとしたあのワーリャだっ
たのか。その優れた明晰な知性、その清らかな心、美しさのゆえに、オセロがデズデモーナを愛
したごとく、わが輩の学問に対する《同情》のゆえに、このわが輩が熱烈に恋したあのワーリャ
だったのか。はたしてこれがその昔、わが輩に息子を生んでくれたわが愛しの妻ワーリャなのか。
わが輩はこのぶよぶよした醜い老婆の顔を眺め、いとしいワーリャの面影を探すが、昔のま
まに残っているのは、わが輩の健康を気づかうあまりの恐怖と、も一つ、わが輩の俸給を私たち
の俸給と呼び、わが輩の帽子を私たちの帽子と呼ぶ話しぶりだけである。わが輩は妻を見るのが
痛々しくて、せめて多少とも慰めたいとしゃべるにまかせ、妻がひとのことで間違った判断を下
したり、わが輩が開業もせず教科書も出さぬと責めたてたりしても、黙して語らぬことにしてい
る。

チェーホフにあっては老教授と老妻との相も変わらぬ日常の会話が小説(手記)の題材となる。
こういった夫婦のやりとりは多少中身がちがってもどこの家庭でも見られる。しかし日常を生き
ることと、日常を表現することはまったく違うことである。誰もが経験している日常を、読者の
欲求を満たすかたちで提供するということはたいへん技術のいることである。それを二十九歳の
チェーホフが六十二歳の老教授に仮託して表現しているのだから、その技量たるやただ事ではな
いということになる。
日常の世界を創造したのは〈神〉である。人間は小説家になることはできるが世界の創造主に
なることはできない。人間は被造物の一種でしかない。小説家が神の創造した日常の世界を的確
に写せば、それがリアリティを獲得できるのは当然である。わたしは畢竟、芸術家ができうるの
は〈写生〉のほかはないと考えている。〈写生〉行為に想像力や創造力が限りなく発揮されなけ
ればならないが、所詮、人間には無からの創造は不可能と思っている。シェストフはチェーホフ
の文学を〈虚無からの創造〉と名付けたが、それはわたしの言う〈無からの創造〉でないことは
断るまでもなかろう。
チェーホフの描く〈日常〉が説得力があるのは、彼が日常のこまごましたことを端的にスケッ
チしているからではない。もちろん日常の光景を的確に描写するデッサン力がなければお話にな
らないが、その的確なデッサンを支えているのは彼の冷徹なまでの時間意識である。老教授ニコ
ライ・ステパーノヴィチが見ているのは眼前の〈老け込んででぶでぶと太った醜い女〉だけでは
ない。彼は同時に老妻ワーリャの若かりし頃の美しい姿をも重ねて見ている。つまり老教授が見
聞きしているのは現象としての妻の身体や言葉ではなく、それらをすべて乗せて走る〈時間〉と
いう得体の知れない〈船〉なのである。彼の意識はこの〈船〉に乗って或る時点の過去に遡った
り、また反対に或る時点の〈未来〉へと行き着くのである。
時のたつのは恐ろしいもので、熱烈に恋した若き乙女も眼前の醜い老婆へと変貌する。ニコラ
イ・ステパーノヴィチは別にだからと言って、昔に戻りたいなどと思っているわけではない。彼
は素直に時の経過を受けいれている。彼は時間という〈船〉から逃れられないことをよく自覚し
ており、時そのものに不満を持つことはない。人間はわけも分からずこの世に誕生し、そして必
ず死ななければならない。自分の意志によって生まれたわけでもなく、また自分の意志にかかわ
らず死ななければならない・・これは不条理である。しかもいくら不条理とは思っても何ら解決
するすべはない。神を信仰して〈永遠の命〉を獲得できる者は別として、たいていのひとは与え
られた己の運命を甘受するほかはない。多くのことを断念し、諦めるよりほかはないのだ。美し
かったワーリャが醜い老婆になることを誰も阻止することはできない。老妻ワーリャが毎日同じ
ことを繰り返し話すことも受け入れなければならない。今更、それをうるさがっていらいらして
も自分の健康を損なうばかりである。運命に逆らってどうにかなるものではない。老教授ニコラ
イ・ステパーノヴィチの諦念は深く、それだけにその深さが見事に隠されている。

2004年06月06日

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