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チェーホフ『退屈な話』を読む(5)...【「どうでもいい」(Всё равно)と執筆行為】
チェーホフ『退屈な話』を読む(5)
『六号室』のラーギン医師は「どうでもいい」が口癖の男であったが、わたしの根源的な気分もまた「とうでもいい」(Всё равно)である。この言葉は人生経験を長く積み上げた者のそれではない。わたしは二十歳前からよくこの言葉を発していた。絶対不動、唯一絶対の真理を求めていた少年に襲いかかった〈時間は繰り返す〉の観念は、今まで培ってきた多くのものを微塵に打ち砕いてしまった。それからわたしの心に「どうでもいい」が住みついた。こういった少年にたとえば太宰治の『トカトントン』はよく響く。が、わたしは「どうでもいい」で怠惰な生活に落ちることはなかった。「どうでもいい」「どうでもいい」と思い、感じながら、せっせせっせとものを書くことだけはやめなかった。
太宰は〈トカトントン〉の虚無の音に悩まされはしたろうが、しかし決して書くことをやめはしなかった。ドストエフスキーの『地下生活者の手記』の男は、自分のやることなすことすべてが演技であり軽業でしかないと思いながら、しかし手記を書くことをやめはしなかった。書くことは虚無をも超えて、何か仕事らしい仕事をしているかのような気分にさせてくれるのだ。老教授ニコライ・ステパーノヴィチにしても、知的活動力が弱ったのだの、記憶力が減退しただの、文章を書くことが苦手だなどと言いながらも、やはりせっせせっせと手記だけは書き続けている。やはりものを書くということは健康にいいし、気晴らしになるのだ。
「どうでもいい」・・書いてもいいし、書かなくてももちろんいい。書かなければいけない理由はないし、書いてはいけない理由もない。「どうでもいい」が鬱病的な様相を呈して生きる気力が失せるというのでは困るが、そうでなければ要するに「どうでもいい」のである。ニコライ・ステパーノヴィチは謙遜して文章が苦手だなどと書いているが、この手記を読むかぎりなかなか達者な文章家である。彼は別に文学上の野心があってこの手記をしたためていたわけではなかろうが、作者の野心は十分に伝わってくる。
2004年6月 5日
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