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【空虚な実存】...チェーホフ『退屈な話』を読む(17)
〈共通な理念〉の不在
ニコライ・ステパーノヴィチはハリコフに着く。老妻が望んだことだ。彼はホテルでハリコフ生まれのドア・ボーイにグネッケルについて訊くが、ボーイはグネッケルという名の家についても、その領地に関しても何も知らなかった。
この情報でチェーホフは何を言いたいのだろうか。老妻の話によればグネッケルは〈立派なお家の方〉で〈お金持〉で〈ハリコフに大きなお屋敷〉を持ち、ハリコフの近くに〈領地〉もあるということであった。老妻が夫に「あなたはどうしても一度ハリコフへお出かけにならなくてはなりませんわ」と促したのは、娘が結婚を望んでいる相手の身元をきちんと把握し、一刻も早く安心したかったからである。
グネッケルはリーザやワーリャに嘘をついていたのだろうか。例によってチェーホフは断定的な言い方を避け、読者の判断に任せる。まあ、チェーホフはそういう書き方をする小説家であるから、グネッケルがリーザやワーリャに嘘八百を並べて、或る目的を実現するために接近してきた可能性は高いだろう。それにしてもグネッケルが名うてのペテン師で、リーザ相手に結婚詐欺を企てていたのか、それとも財産も社会的地位も持たない虚栄心の強い青年でははあるが熱烈にリーザを愛していたのか・・まではなかなか判断がつかない。
夜中の一時、突然ノックの音が響く。ボーイが電報を持ってくる。
電報の封を切って、まず発信人の名前を見る。妻からだ。何の用だろう?
『キノウグネッケルリーザヒミツニキョシキ キタクマツ』
わが輩はこの電文を読んで、しばらく愕然とする。わが輩が愕然としたのは、リーザとグネッケルの行為のためではなく、ふたりの結婚の知らせを受け取った時の、わが輩じしんの無関心さのためである。哲学者や真の賢人は何事につけ無関心だという。それは嘘だ。無関心というのは、精神の麻痺であり、時ならぬ死である。
わが輩は再び寝床に横たわり、何か夢中になれる考えはないものかと考えはじめる。何について考えたらいいのか。もう何もかも考えつくして、今さらわが輩の考えをよびさますようなものはなさそうに思われる。
グネッケルが結婚詐欺師かどうかという真実の探究の代わりに、グネッケルとリーザの秘密の結婚が告げられる。この〈ヒミツニキョシキ〉は何を意味するのか。しかし余命三、四ヵ月の老教授は娘の〈キョシキ〉より自分の〈無関心〉に愕然とする。〈無関心〉は〈精神の死〉であり〈時ならぬ死〉である。彼は〈肉体の死〉の前に精神上の死を現出させてしまったのか。それにしても彼の書き方は自分の〈死〉に関しても無関心のように見える。彼はもう「何もかも考えつくして」しまい、あらたに興味を抱くようなものはなくなってしまったのか。死を間近に控えて、今さら哲学者の真似事をしてもはじまらない。彼はすでに自分が何も分からないこと、人に言うべきことなど何もないことをよく知っている。
ニコライ・ステパーノヴィチは自分が今、何を欲しているかを考える。彼は自分を〈普通の人間〉として愛して欲しい、よい助手と後継者が欲しい、百年後の科学がどうなっているかを見たい、あと十年ばかり生き延びたいと思う。その外には? と思って長いこと考えをめぐらし、そして次のように書く。
が、何ひとつ考えつかない。いくら考えても、どう思いめぐらしても、それ以上わが輩の欲望には何ひとつ重要なものも大切なものもないのが、明らかになるばかりである。科学へのひたむきな愛にも、生きたいと思う意欲にも、こうして他人の寝台に坐っていることにも、自分じしんを知ろうという努力にも、あらゆる事柄についてわが輩の組み立てた一切の思想や感情や観念にも、それらすべてを一つの完全なものに結びあわせる共通なものが何ひとつないのである。一つ一つの感情、一つ一つの思想がわが輩の内部でばらばらに生きていて、科学や演劇や文学や学生についての一切のわが輩の批判、わが輩の想像が描きだす一切の画面の中には、いかなる巧妙な分析家といえども、およそ共通の理念とか生ける人間の神とか呼べるようなものを見出せないであろう。
もしそれがないとなると、つまりは何もないわけである。
ニコライ・ステパーノヴィチの欲望は慎ましやかである。彼は永遠に生きたいとか、科学の発展を限りなく見届けたいとかいう欲望に支配されることはない。死を間近に控えて、後十年も生き延びられればいいと願うのは余りにも慎ましやかである。ましてや〈普通の人間〉として愛して欲しいとか、よい助手と後継者が欲しいなどというのは……。問題は彼が自分の中に〈共通の理念〉とか〈生ける人間の神〉などを見いだせないことである。彼はその心的状態を「何もない」と言った。彼がどんなに大学の講義で熱弁を振るい若い学生たちを感動の渦に巻き込もうと、あるいは娘の恋人を嫌って不機嫌になり辛辣な皮肉を飛ばそうと、やはり彼の心的状態は〈空虚〉なのである。
この〈空虚〉は、『悪霊』のピョートル・ステパーノヴィチ・ヴェルホヴェーンスキーを想起させる。ピョートルは空虚な饒舌家、空虚な革命運動の首魁、空虚な二重スパイである。彼の情熱は内的空っぽの中心から渦巻いて生ずる虚妄の情熱である。ピョートルはわたしの見るところニコライ・スタヴローギンの虚無などよりはるかに軽い虚無の直中に存在している。ピョートルはニヒリストではない。そんなレッテルの衣裳が重すぎるほどに彼の内的世界は空っぽである。
チェーホフの作りだしたニコライ・ステパーノヴィチは、ドストエフスキーの人物たちに比べはるかに〈普通の人〉であり、虚無の情熱家というほどの存在ではないが、しかし彼の内部が空っぽであり、いくら情熱的に熱弁を振るっても、その空っぽを埋めることはできない。〈共通の理念〉と〈生ける人間の神〉とを自己の内部に発見できないニコライ・ステパーノヴィチは日常的に孤独であり、この孤独と共にあるよりほかはない。彼の空虚は、ピョートル・ステパーノヴィチ・ヴェルホヴェーンスキーのような政治的野心を持つこともなかったし、おしなべてドストエフスキーの自意識過剰な人物(特に『地下生活社の手記』の地下男)に見られる道化的軽業をなそうとするグロテスクな欲望に駆られることもなかった。
ドストエフスキーの描いた地下男はまさに地下の住人であったが、ニコライ・ステパーノヴィチは紛れもない地上生活者であり、のみならずその成功者である。彼は言わば地上の世界で功名を遂げた空虚な人である。地下男は自意識過剰の地下男であることに、自分の卑小卑劣な生存に、あらゆる価値が相対化されてしまったことに、あらゆることが必然の網の目のなかに組み込まれていることに……納得している存在ではない。彼は不満家であり、あらゆることに唾をはきつける毒舌家である。なぜなら地下男こそ〈共通の理念〉とか〈生ける人間の神〉を求めているからである。何か或る絶対的なものを求めていながら、それが叶わない、だから不満家になるのであって、はじめから何も求めていない者、たとえば〈無関心〉になりきれれば「すべてはどうでもいい」(Всё равно)のである。老教授ニコライ・ステパーノヴィチは読者の批評力や分析力を少しも信じていないから、・・「つまりは何もないわけである」という結論を自分で説明することになる。
人間の内部に、一切の外的な影響を上回るより高度なもの、より強力なものがなくなると、ただ鼻風邪ひとつひいても心の平衡を失って、あらゆる鳥をふくろうと見やまり、あらゆる物音を犬の遠吠えと聞きあやまる。そうなると、彼のペシミズムなりオプティミズムなりは、彼の大小さまざまの思想と共に、たんなる病気の徴候になりさがるのである。
老教授の説明に何も付け加えることはない。〈共通の理念〉と〈生ける人間の神〉を求めない彼は、自らの空虚に誠実に対応するほかはない。老教授には、それらを烈しく求めて嘆き、怒る、虚無の情熱的なドラマを演ずる過剰な道化(演戯)意識が不足している。〈無関心〉という虚無の壺の底に落ちてしまった老教授は、そこで静かに人生ドラマの終焉を迎えようとする・・「わが輩は敗軍の将である。とすると、これ以上考えつづけることもなく、語ることもないわけだ。いっそここに坐り込んで、黙ったまま来るべきものを待ち受けよう」と。ここで、この『退屈な話』と名付けられたニコライ・ステパーノヴィチの手記は終わっていてもよかっただろう。
が、どういうことか、老教授が滞在するハリコフのホテルにカーチャが訪ねてくる。
2004年06月17日
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