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【〈死の意識〉にとらわれる老教授と〈いけない女〉カーチャ】...チェーホフ『退屈な話』を読む(16)
カーチャと馬車で散歩に出掛けたときのことを、ニコライ・ステパーノヴィチは次のように書いている。
はじめわれわれは野原を走り、ついでわが輩の窓から見える針葉樹林を進む。自然はあい変らず美しくみえるが、悪魔がそっとわが輩の耳に、これらの松ももみの木も、小鳥も空に浮ぶ白い雲も、三、四ヵ月たってわが輩が死んだ時、わが輩のいなくなったことに気づいちゃくれまいとささやく。カーチャは馬を走らせるのが好きで、おまけに天気はいいしわが輩が横に坐っているから、嬉しくてたまらない。彼女は上機嫌で、毒舌を弄するのを忘れている。
「おじさまはほんとうにいい方ね、ニコライ・ステパーヌィチ。」と彼女が言う。「ほんとうに珍しい方ですもの、おじさまの役のできそうな俳優はいませんわ。あたしだとか、例えばミハイル・フョードルイチあたりですと、下手な俳優でも演れるけれど、おじさまになると、どんな俳優でもだめ。あたしおじさまが羨ましい、とても羨ましいわ! ねえ、あたしはどんな女に見えるかしら? どんな女に?」
彼女は一瞬、考えてから、わが輩にたずねる。・・
「ニコライ・ステパーヌィチ、あたしはいけない女ですわね? そうでしょう?」
「そうだよ」とわが輩。
「そう……どうすればいいの?」
何と答えたものか。《働け》だの、《貧者に財産を分配せよ》だの、あるいは《汝じしんを知れ》だのと言うのは容易である。そう言うのが容易なだけ、わが輩は何と答えるべきかわからない。
わたしはこの叙述場面を引用しながらつくづく思う。チェーホフが描く人物たちは本当に分かり合えることはなく、ニコライ・ステパーノヴィチとカーチャの間においてすら、彼らは全く別々の人生を生きているのだ、と。老教授が自分が死んだ後の、自然の無関心を思っているその時に、カーチャは彼が横に坐っているというだけで嬉しくてたまらないのだ。お互いの身体が触れ合うぐらい近くにいながら、彼ら二人は各々の内的世界を生きている。近くにいながらこんなに遠いところにいる二人も珍しい。
カーチャは自分が「どんな女に見えるか?」に興味があり、老教授に迫っている〈死〉を予感することもできない。これはどういうことだろうか。カーチャは無神経で鈍感な、感性の鈍い女なのであろうか。それとも老教授の辛い気持を察して、意図的に慎重に〈死〉の問題を回避していたのだろうか。こういった点に関して、チェーホフの文章は読者の詮索を許さない、というか巧妙にはぐらかす性格を持っている。
〈死〉に関して、〈神〉に関して、〈魂の永生〉に関して、〈演劇〉に関して……どんな問題に関してもニコライ・ステパーノヴィチ(およびチェーホフ)は徹底して掘り下げることはしない。彼の根本的な気分はラーギン医師の「どうでもいい」(Всё равно)なのである。確かに三、四ヵ月後に迫った自分自身の〈死〉が深刻な問題でないわけはない。彼は胸を両拳で叩き、大声で叫びたかったに違いない。にもかかわらず、その〈叫び〉は、たちまち「どうでもいい」という根本的な気分に呑まれてしまう。「どうでもいい」(Всё равно)気分にあって、そのことを決して口に出さなければ、彼はある種の女や男の眼差しにかなりダンディな男に映るかもしれない。もしかしたらカーチャは、父親代わりのニコライ・ステパーノヴィチをステキな男と見ていた可能性もある。社会的名声を博しているダンディな大学教授が、女優志望の情熱的な娘カーチャの憧れのひとであったとしても別に驚くべきことではないだろう。描かれた限りで見ても、ニコライ・ステパーノヴィチはどこかしら煮え切らぬ、曖昧な部分を抱えた男であるが、こういった性格の男を好きになる女はあんがい多いものである。
さて、カーチャはニコライ・ステパーノヴィチを〈いい方〉だの〈ほんとうに珍しい方〉だのと言っているが、読者にはさっぱりその良さも珍しさも分からない。ましてやなぜカーチャが彼を羨ましがるのかさっぱり分からない。勝手に尊敬し、珍しがり、羨ましがっていればいいだろう、そんな気がするほど、カーチャの言葉に関して手記の主体である老教授は説明を加えない。心理の奥底に照明をあてることを自ら禁じ手にしているかのような書き方を貫いている。曖昧なことは曖昧なままに、後は読者にまかせるといった、自分の文章理解を読者の読解力に委ねてしまったような、いさぎよいと言えばいさぎよい文章である。
カーチャは自分がどんな女に見られているかをニコライ・ステパーノヴィチに訊いている。女がこんなことを訊くのは、当の相手の気持が知りたいからにほかならない。「あたしはどんな女に見えるか?」とは、「あなたにとってわたしはどんな女なのか?」という問いにほかならず、ここでカーチャは相手の自分に対する真意を問うていると見てまちがいはない。が、そのカーチャの真意を知ってか知らずか、ニコライ・ステパーノヴィチの対応はどこかしら他人事であり、そっけない。
カーチャは「あたしはいけない女ですわね?」とも訊いている。が、この言葉も何を意味しているのかはっきりしない。父親の遺産を豪勢に消費していることを指しているのか、それともニコライ・ステパーノヴィチの同僚で文献学者のミハイル・フョードルヴィチを好きでもないのにそれとなく誘惑したようなことを指しているのか、とにかく〈いけない女〉の内実がさっぱりつかめない。
表層的なレベルではカーチャと五十年輩のミハイルは毒舌家として共通の話題にはことかかないし、一緒にいて退屈することはないだろう。かつて演劇に夢中になっていたカーチャの半生は結婚、離婚(正確に言えばカーチャが結婚したかどうかについては書かれていないので、同棲と別離ということもありえる)、自殺未遂、子供の死……など決して平凡ではないが、現在は独身の身であり、言わば誰とどのような関係を結ぼうと人からとやかく言われる筋合いはないだろう。老教授の妻や娘がカーチャの恩知らずや傲慢や風変わりを嫌ったからといって、そんなことを気にするカーチャとは思えない。
それではカーチャは何をもって自分を〈いけない女〉と見なしたのか。かつては芝居や劇場経営に情熱を傾けていたが、今の彼女は確固たる人生の目的を失い、親が残した財産を食いつぶすだけの無為の生活を送っている。だから彼女は〈いけない女〉なのか。しかしこういったこともカーチャの言う〈いけない女〉という言葉にしっくりとこない。
〈いけない女〉という言葉に関して、それをはっきりさせられるのはニコライ・ステパーノヴィチである。「きみはいったい何をもって自分をいけない女などと言うのかね」・・このように直に問いただせるのはカーチャの話相手だけである。が、この場面で唯一の話相手であるニコライ・ステパーノヴィチは「そうだよ」と同意するだけである。しかも彼はカーチャに「どうすればいいの?」と訊かれて、内心「何と答えるべきかわからない」のである。問題の焦点を曖昧にしたままで、とにかく「わからない」とくる。これが彼のやり口である。
もちろんわたしは、そのことを責めているのではない。ニコライ・ステパーノヴィチは言わば誠実である。必要以上に、過度に誠実である。何のたしにもならない誠実である。カーチャの「どうすればいいの?」に答えようとすれば何とでも答えることはできたろう。現に彼はそう書いている「《働け》だの、《貧者に財産を分配せよ》だの、あるいは《汝じしんを知れ》だのと言うのは容易である」と。つまり彼は〈容易〉な次元での対応をしたくないのである。が、ここにすでに彼のくせが出ている。わたしは敢えてくせと言おう。なぜなら彼は「何と答えるべきかわからない」と考えながら、にもかかわらず〈容易〉な途を選択することになるのであるから。ここに彼の〈誠実〉の性格がある。彼は〈誠実〉を貫き通す男ではなく、「わからない」という〈誠実〉を見据えながら、その〈誠実〉を裏切り続ける男なのである。彼は、カーチャの「あた
しはどんな女に見えるかしら?」という問いに答えず、カーチャの〈いけない女〉の内実にいっさい触れず、カーチャが今後どうすればいいのか何もわからないのに、しかし「何とか答えねばならない」と思って次のような会話を交わすことになるのだ・・。
「お前には、カーチャ、自由な時間がありすぎるのさ。何かに打ち込む必要があるんだよ。実
際、なぜお前はもう一度、女優として出直さないんだね、もしそれが天職だと言うのなら?」
「だめなの。」
「お前の口調や態度は、まるで犠牲者きどりだよ。私はそれが気に入らないのさ。悪いのはお前じしんだ。思い出してごらん、お前はまず最初に他人や秩序に腹を立てたが、さればと言って、そうしたものをよりよくするためには何一つやらなかった。悪と戦いもしないで疲れてしまった。それじゃお前は闘争の犠牲じゃなくて、お前じしんの無力の犠牲でしかない。そりゃ勿論、あの頃のお前は若くて世間知らずだったが、今なら別な道を取れるはずだ。そうとも、新規まき直しだ! 働いて、神聖な芸術のために奉仕をするのさ。……」
「何と答えるべきかわからない」男が、これだけのことを言うことができる。まさに三十年にわたって情熱的な、臨機応変の名講義を続けてきた大学教授にとってこんなことは容易であったろう。問題はしかし、彼がどのように饒舌に語っても、本当は「何と答えるべきかわからない」ままであるということである。なぜ「わからない」のか。人間の生をこの世のみに限定しているからであろうか。何もわからずこの地上の世界に産み落とされ、何もわからないままに死んでいかなければならない人間に、世界や人生の秘密がわかるはずもない。理性や知性は、人間はなぜ生きているのかという究極の問いについに十全な答えを用意することができない。ニコライ・ステパーノヴィチはそのことだけは明確に知っている。にもかかわらず、彼は理性と科学を信奉する立場から離れることができず、神や信仰の問題をかたくなに拒み続ける。わたしは、ドストエフスキーやトルストイが真剣に、饒舌に問題にした〈神〉に関して、チェーホフは意地でも触れないと決意したのではないかと思ったほどである。
2004年06月16日
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