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【〈学者づらしたとんま〉な助手ピートルに対する憤懣】...チェーホフ『退屈な話』を読む(13)


余命半年に迫った男が、現世にのみこだわれば「つねに悪は善よりも多い」ことを自らの生において実証することになろう。彼は妻や娘に不満であり、娘の恋人グネッケルに対してはそれに倍して我慢がならない。同僚に対しても、助手に対しても、要するに彼は自分を取り巻くすべてのものに対して我慢がならない。ここでは休日ごとに老教授を訪ねてくる彼の助手、先に〈学者づらしたとんま〉と紹介されたピョートル・イグナーチェヴィチに関する叙述を見ておこう。


彼はたいていわが輩の机のそばに腰をおろすが、控え目な、きちんとした、考え深そうな態度を守って、足を組んだり机に肘をついたりそんな真似はそぶりにも見せない。そしてたえず静かな、平板な声で、雑誌や書物で読んださまざまな、彼の思うに興味しんしんたる、刺激的なニュースを滑らかに、本を読むように物語る。(略)わが輩を笑わせようと思う場合でさえ、こまごまと出典をあげ、日付や雑誌の号数や人名を間違えまいと努めながら、長々と、まるで学位論文の説明のように物語る。従って、ただプティですむところを必ずジャン=ジャック・プティと言うのである。たまたま食事に残るようなことがあると、食事の間じゅう同じ刺激的な話を語りつづけて一同をうんざりさせる。グネッケルとリーザが居合わせて、フーガだの体位法だの、ブラームスだのバッハだのについて話しはじめると、彼はつつましく眼を伏せて当惑する。わが輩と彼のような真面目な人間の面前でこんな低俗な話が出たのが、恥かしくてならないのである。

現在のわが輩の気分では、ものの五分もたつかたたぬかに、もう永遠の昔から彼の姿を見、彼の話を聞いているようにげんなりする。わが輩は哀れむべきこの男を憎んでいる。彼の物静かな平板な声と朗読調の言葉のために、わが輩はやつれはて、その物語のためにぼけてしまう。……彼じしんはわが輩に心から好意を寄せ、ひたすらわが輩を喜ばせんがために話すのだが、わが輩はその返礼に、あいてを催眠術にかけようとするようにはたと睨みすえ、『帰れ、帰れ、帰れ……』と考えている。しかし彼は、そうした心ひそかな暗示にかからばこそ、坐って、坐って、坐り通すのである。……

彼が坐っているあいだ、わが輩は、『自分の死んだあときっとこの男があとがまに坐るのだ』という考えからどうしても離れることができない。すると、わが輩の可哀そうな講堂が小川の涸れあがったオアシスのように思われ、そうした考えの浮ぶのがわが輩じしんの責任ではなく彼の責任ででもあるかのように、わが輩はピョートル・イグナーチェヴィチに対して無愛想になり、口数も少く、陰鬱になるのである。
老教授ニコライ・ステパーノヴィチの助手ピョートル・イグナーチェヴィチに対する眼差しは王さまの寛容と慈悲からほど遠い。すでに彼は邪悪な感情に取りつかれており、助手の言動のすべてがいまいましくてならない。が、彼はこの助手に対して自分の思っていることを何一つ口にだして言う事ができない。こういった内攻した憤懣は、時にひとを病気にする。『弱い心』のワーシャ・シュムコフがアルカージイに抱いた烈しい憎悪はワーシャを発狂へと追いやったし、ラーギン医師が郵便局長ミハイルに抱いた憤懣はついに〈感情の爆発〉を起こさざるを得なかった。ワーシャは憎悪と憤懣を相手に爆発させることができずに自分自身を爆破してしまったわけだが、老教授の助手に対する憤懣と憎悪は、一歩出口を間違えればワーシャと同じ結果を導くことになっただろう。

ワーシャの〈弱い心〉はアルカージイに過度の感謝の気持を表出することはできたが、同じように憎悪や憤怒を表出することはできなかった。ここにワーシャの最大の不幸があった。なぜワーシャは自分の狂気を代償にしてまでアルカージイの友情に応えようとしたのか。それは彼が、人間は人間と愛によって結びつくことができるという一種のユートピア思想を信奉していたからである。ワーシャは結婚したら、アルカージイも含めた三人で幸福な共同生活をしようと考えていた。ワーシャは、人間の中には嫉妬や憎悪がどうしようもなく潜んでいるのだという現実を見る眼差しがなかった。それはアルカージイもまた同様である。アルカージイはワーシャの発狂に立ち会ってはじめて、人間の心に潜む深奥の闇に気づいたのだ。陽気で元気であったアルカージイは、ワーシャが精神病院に送られてから陰鬱な青年へと変貌する。

老教授ニコライ・ステパーノヴィチは功名を遂げた学者であるが、しかし彼は孤独である。彼の手記を読む限り、彼はただ一人の他者とも真に結びつくことはできていない。彼は現世において、かつて烈しく愛し合った妻、一人娘、娘の恋人グネッケル、養女カーチャ、同僚たち、そして助手のピョートル・イグナーチェヴィチ……らの誰とも心の底から結びつくことはできない。彼は誰に対しても不満であり、いつもいらいらしている。彼が助手に対して抱いた『帰れ、帰れ、帰れ……』は、さらに極端に言いなおせば『おまえなんぞ死んでしまえ!』ということになろう。素晴らしい感動的な講義のできる、天才的な学者は余命半年でこの世から消えなければならない。その後釜を継ぐのが〈学者づらしたとんま〉なおまえなのだ。そんなバカなことがあっていいものだろうか。老教授の内心をさらに露骨に晒せばこのようになるのだ。

ニコライ・ステパーノヴィチは始めから負け勝負に出ている。彼が本来、戦うべき相手は姿を見せない〈時間〉である。しかし、彼はこの〈敵〉を正面に据えて戦おうとはしていない。〈時間〉と戦って勝利を収めた者はいない。少なくとも現世の時間しか認めない者にとって、〈死〉に勝利することはできない。彼は〈死の勝利〉を認めざるを得ない。彼は〈死への勝利〉を約束したキリストを回避し、理性と科学の側に立とうとする。健康で精力的に仕事ができる日々において、理性と科学は彼の人生を不断に励ましてやまなかったことであろう。彼のその日々の努力が、彼を一流の学者として世間に認知させたのであるから、今さら〈科学〉から〈信仰〉へと鞍替えするわけにもいかないだろう。

2004年06月13日

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